2024年06月

引っ越ししてほぼ一か月経った。引っ越しといっても、大通りを挟んだ向かい、以前住んでいたところから徒歩数分の場所である。当然、通勤の最寄り駅も普段使っているスーパーも変わらない。

なにしろ16年も住んでいるから、家そのものはともかく、感覚的には何も変わらない…と思っていた。引っ越す前までは。

最寄り駅は全然遠くなっていない。それどころか、たぶんちょっと近くなっている。ところが、感覚的になんだか遠くなったように感じる。

大通りを渡らなければならなくなったのと、駅までの道が一直線になったからだろう。なんだか目的地がやたらと遠く見えるのだ。

この道は東西にまっすぐ伸びている道なので、朝日も夕日もやたらと眩しい。この通りってこんなに明るかったっけ。同じ通りを16年間歩いているが、ぜんぜん気が付かなかった。

スーパーはかなり近くなったように感じる。実際ほんの少し近くはなっているのだが、時間的にはさほど変わらないのに、気軽に行くようになった。

近所に引っ越すのも新しい発見があってなかなか面白いものだと、前住んでいたマンションを窓から見ながら思っている。

さて、明日からは7月。恒例、ブログ強化月間です。

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『隆房集』の電子テキストを公開しました。


宮内庁書陵部本『隆房集(艶詞)』:やたナビTEXT

底本は宮内庁書陵部本です。いつもどおり、翻刻部分はパブリックドメインで、校訂本文部分はクリエイティブ・コモンズライセンス 表示 - 継承(CC BY-SA 4.0)で公開します。

『隆房集』はその名の示す通り藤原隆房の私家集です。百首からなるので百首歌の一種でもあります。しかし、ただの歌集ではありません。

百首すべてが、ある特定の女性に対する思いを詠んだ恋の歌になっています。続けて読むと私小説のごとく一つのストーリーが浮かんできます。

『平家物語』巻6「小督」に、隆房と小督のいきさつが詳しく描かれています。これにより、歌の相手は小督だとされます。
主上(高倉天皇)恋慕の御おもひにしづませをはします。申しなぐさめまいらせんとて、中宮の御方より小督殿と申す女房をまいらせらる。この女房は桜町中納言成範の御むすめ、宮中一の美人、琴の上手にてをはしける。冷泉大納言隆房卿、いまだ少将なりし時、見そめたりし女房なり。少将はじめは歌をよみ、文をつくし、恋かなしみ給へ共、なびく気色もなかりしが、さすがに情けに弱る心にや、遂にはなびき給ひけり。されども、今は君に召されまいらせて、せんかたもなく悲しさに、あかぬ別れの涙には、袖しほたれて干しあへず。少将よそながらも小督殿見奉る事もやと、つねは参内せられけり。をはしける局のへん、御簾のあたりを、あなたこなたへ行き通り、たたずみありき給へども、小督殿「われ君に召されんうへは、少将いかにいふとも、言葉をもかはし、文を見るべきにもあらず」とて、つての情けをだにもかけられず・・・。
このあと高倉天皇の中宮(平徳子)、隆房の正妻ともに清盛の娘だったため、小督は清盛に恨まれ宮中から追い出されてしまいます。

「私小説のごとく」と書きましたが、私歌集ですから小説のように具体的には書かれていません。ですから、これを読んだ感想は人によって違うと思いますが、僕の場合、

こいつキモッ!

でした。隆房ファンのみなさん、すみません。いや、だってこれほとんどストーカーですよ。小督さんの態度も、立場上断っているというよりは、本気で嫌っているように僕には見えます。それに気づかない隆房くん、ヤバいです。

隆房くん、どんどんこじらせていくのですが、すっかりヤバくなってしまった90首めの歌をご紹介します。
あな恋し恋しや恋し恋しさをいかにやいかにいかにせんせん

こじらせすぎて『千載和歌集』や『新勅撰集』に入集するほどの歌人が、語彙力ゼロになってしまいます。

まあ、百歩ゆずって歌を詠むのはまだいいとして、こんな歌集を作っちゃうのもどうなんでしょ。当然、小督さんが詠むことも想定されているでしょうし・・・とまあ、こんなとこにしておきましょう。

さて、『隆房集』が終わりましたが、現在『三宝絵詞』の電子テキストを作成しています。これはちょっと時間がかかりそうですが、よろしくお願いします。

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昭和なマンションから、平成なマンションに引っ越しした。

これまで家というものにあまり興味がなく、そりゃ広いにこしたことはないけど、雨風がしのげればいいやぐらいに思っていたのだが、今回の引っ越しに際して内見を繰り返すうちに、昭和までと平成以降では、家の作りように大きな考え方の違いがあることに気づいた。なお、ここでいう昭和・平成というのはあくまで便宜的な区分である。

昭和までの家はとにかく風通しを重視する。夏に大きな窓を開け放つと、風が通り抜けて、畳の上で昼寝すると気持ちいい。窓を開け放たなくても、ドアやサッシには通風口があって、どの部屋にもある程度の風が入るようにできている。反面、冬はそこから風が入って寒い。暖房を入れるなり、温かい服を着るなりして対処することになる。

日本の家は長くこの考え方が主流だった。兼好法師もこんなふうに言っている。
家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑きころ悪(わろ)き住居(すまひ)は耐へがたきことなり。(『徒然草』55段


前近代の夏は、暑さと湿気を防ぐためには風通しを良くするしかなかった。空調が発明された近代以降も、部屋ごと冷やす今のような空調は高価だったから、その状況は大きく変わらなかった。昭和までの日本人は、そういう意味で前近代の人と感覚を共有している。僕も「家の作りやうは、夏をむねとすべし」という兼好の意見はとてもよく理解できる。

ところが、平成以降の家は高気密・高断熱を指向するようになった。これは機械による換気や空調が発達して、それらを日常的に利用することが前提になっているからである。空調を効率よく入れるためには、外からの熱を遮断し風が入るのを防ぐ必要がある。

空調によって部屋の熱を屋外に放出するから、外はますます暑くなる。外がますます暑くなるから、ますます高気密・高断熱が必要となる。都市部ではすでに窓を開け放って畳で昼寝するなどという快楽を味わうのは難しくなっている。

これでまた一つ、前近代の人との感覚の断絶が進むことになる。都市部に住む若い人は、すでに兼好の言葉を正確に理解することが難しくなっているのではないだろうか。
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