2025年02月

ついこの間2月になったと思ったらもう終わり。毎年のことだが、2月、ちょっと短すぎやしないか。

最近、「壁紙道」に入門した。いわゆるクロス屋さんの真似事のことを僕が勝手にそう呼んでいるだけである。ようは部屋の壁紙を張ることだ。

と言っても、まだ壁紙と糊、その他材料、工具を買っただけである。張る部屋の古い壁紙はすべて剥がしたが、まだそれだけだから、入門したというよりは門を叩いた段階である。

幸いなことに、今はたくさんのプロのクロス屋さんたちがYouTubeで技術を見せてくれている。今はそれらを見てひたすらイメージトレーニングしている。

最初からプロがやっているようにきれいにできることはないだろうが、やっていることは書道の表具とよく似ている。使う道具もカッターとかハケとかよく似ている。表具は簡易的なのしかやったことがないが、それでも多少のアドバンテージがあるだろうと思っている。

電気工事士の資格を取って「電気道」に入門したときもそうだったが、「壁紙道」もちょっと入門してみただけで、いろいろ世の中の見え方が変わってくる。今までは壁紙なんか気にしたこともなかったが、どこで繋いでいるかとか、どんな壁紙を使っているかとか、見えにくいところをどう処理しているかとかが気になってくる。世の中の見え方が変わってくるのは楽しいことだ。

壁紙は寒すぎると固くなって貼りにくくなるらしい。糊も5℃以下では施工するなと書いてある。3月は仕事が減るし、だんだん暖かくなる。来月は頃合いを見計らって壁紙道デビューしようと思う。
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『伊曾保物語(いそほものがたり)』の電子テキスト化を始めた。



『伊曾保物語』は江戸時代初期に成立した仮名草子で、いわゆる『イソップ物語』の翻訳である。同時に本邦最初のヨーロッパ文学の翻訳でもある。底本は国会図書館蔵の慶長元和頃と考えられている無刊記古活字本。

伊曾保物語のテキストは、すでにいくつかネット上にある。

「イソップ」の世界 別館

伊曾保物語:ウィキソース

特に、『「イソップ」の世界 別館』は古活字本と万治二年刊本の翻刻と、『エソポのハブラス』(通称『天草版伊曾保物語』)のテキストがあり、充実した資料になっている。ちなみに『伊曾保物語』と『エソポのハブラス』は同じイソップ物語がもとではあるが、親子・兄弟関係にはない。

そんなわけだから、今さら僕がやることもないかとも思ったが、どちらも資料としては素晴らしいものの、いかんせん読みにくいし検索の便もよくない。読みやすくすれば、あらためて本文を作成する意味もあるんじゃないだろうか。

とはいえ、ただ本文を載せるだけでは面白くない。底本は古活字本だが、万治二年刊本には挿絵がある。古代ギリシヤなのに、イソップはボーサン風に、その他の人々は江戸時代風チョンマゲ野郎になっている。しかしこのチョンマゲ野郎、ヒゲが跳ね上がっていたりしてどこかヘンだ。たぶんあのヒゲが古代ギリシヤなのだろう。もちろん、『イソップ物語』だから動物もたくさん出てくる。

そんなわけで、伊勢物語のときにもやったように、万治二年刊本の挿絵も載せようと思う。

乞うご期待。
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というわけで(『三宝絵(三宝絵詞)』の電子テキストを公開しました:2025年02月12日参照)『三宝絵(三宝絵詞)』の電子テキスト化を終えたわけだが、はるか昔に買った『諸本対照三宝絵集成』(小泉弘 高橋信幸・笠間書院・昭和55年6月)がとても役に立った。

この本、20代のころに神保町の古書店で買った。値段は5000円。もちろん値段なんか忘れていたが、鉛筆で本にそう書いてあるから間違いない。

30年も前なので細かいところは記憶が曖昧だが、買った時のことはよく覚えている。古書店の本棚からこの本を見つけ、値段を見てびっくりした。高いのではない、安いのだ。

当時、『諸本対照三宝絵集成』は数万円が相場だった。専門は説話だからほしいことはほしいが、『三宝絵』は現代思潮社の注釈書をすでに持っていたから、ないと困るというようなものでもなかった。しかし、数万円が5000円なら話は別だ。金に困ったら売っちまえばいい。そのころは本さえ買えば賢くなると思っていたから迷わず買った。

買った後、中身を読むことはほとんどなかった。「諸本対照」だから中身は諸本を対照しているに決まっている。こういう本は必要になったら開けるもので読むものではない。それ以来30年余り、この本は僕の書架で眠り続けていた。

今回、『三宝絵』の電子テキストを作るにあたって必要になったので、『諸本対照三宝絵集成』を引っ張り出してきて、ようやくこの本の偉大さに気づいた。これはとんでもない労作である。

諸本対照の「諸本」とは、前田家本・東寺観智院本・東大寺切(関戸本)の三つを指す。これが『三宝絵』の主要な伝本なのだが、それぞれ全く違う特徴を持っている。

前田家本は全巻揃っているが、漢字のみで書かれている。まともな漢文ではないから、それだけで読むのは困難…というよりほぼ不可能だ。あくまで他の本と対照して読める本で、底本にはならない。

東寺観智院本は漢字片仮名交じりで書かれていて読みやすく全巻揃っているが、前田家本や東大寺切と比べると誤脱が散見される。とはいえ、まともに読めて全巻揃っているのはこれだけだから、底本にするにはこれしかない。今まで活字になった本も、やたナビTEXTも底本はこれ。

問題は東大寺切である。これは雲母摺りの美しい料紙に、これまた美しい仮名で書かれている。尊子内親王に献上された本もかくやと思われる美麗なもので、本文もよさげだ。
東大寺切
東大寺切(東京国立博物館蔵):ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

しかし、いかんせん東大寺切は古筆切(こひつぎれ)である。古筆切とは冊子や巻物などの形をしていたものを、観賞用にぶった切ったもののことをいう。切り出された元の関戸本(名古屋市博物館蔵)というのも残っているが、三分の一ぐらいしかない。それ以外はその美しさゆえにバラバラに切られてしまったのだ。

切られた無数の古筆切は、あるものは博物館や美術館、あるものはコレクターの家、あるものは古書店、あるものはオークションと様々な場所にあり、目録や図録、書道の手本など様々な形で世に現れる。それも単独で軸にでもなっていればまだいいが、手鑑(てかがみ・様々な古筆切を集めて冊子にしたアルバム)に貼られていると、古書店やオークションに出ても、開けてみないことには分からない。

『諸本対照三宝絵集成』の東大寺切はそれらを博捜し集めて翻刻したものである。それでも全文にはほど遠いが、とんでもない労力がかかっている。買ったときはなんでこんなに高いのか分からなかったが、なるほどこれはそれだけの価値がある。

探してもいない数万円の本を5000円で買ったのは偶然である。もし、もともと数千円の本だったら、買っていたとしても買った事を忘れていたかもしれない。30年以上前に買った本が、今になって役に立ち、その価値が分かったのも偶然である。こういう偶然の積み重ねが、本を買う醍醐味かもしれない。
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東寺観智院本『三宝絵(三宝絵詞)』の電子テキストを公開しました。


東寺観智院本『三宝絵詞』:やたナビTEXT

底本は東寺観智院本(東京国立博物館・国宝)です。いつもどおり、翻刻部分はパブリックドメインで、校訂本文部分はクリエイティブ・コモンズライセンス 表示 - 継承(CC BY-SA 4.0)で公開します。

『三宝絵』は平安時代中期に成立した仏教説話集です。作者は文人貴族として知られる源為憲。仏宝・法宝・僧宝の三巻からなり、それぞれの内容は次のようになっています。

上巻 仏宝…釈迦の本生譚。
中巻 法宝…日本への仏教の伝来と高僧の略伝。
下巻 僧宝…年間の法会の次第や由来。

僕は説話集の多くは教科書として書かれたんじゃないかと思っているのですが、『三宝絵』はまさしく仏教の初心者向け教科書として書かれました。ですから、仏教説話に詳しい人にとってはあまり新味はありません。特に中巻はほとんど『日本霊異記』の焼き直しの上、霊異記独特のオドロオドロしい説話は一つも入っていないので、なんだか気が抜けた炭酸飲料みたいな感じがします。

しかし、ちょっと読み方を変えると、とたんに味わい深い作品になります。それは、読者を想定することです。実は『三宝絵』はたった一人の読者のために書かれた作品なのです。

たった一人の読者とは、冷泉天皇第二皇女尊子内親王です。何しろ皇女ですから究極のお姫様です。しかし、幸せな生涯を送ったとはいえません。
尊子内親王は『栄花物語』によれば「いみじう美しげに光るやう」な姫宮であったといい、摂関家嫡流を外戚に何不自由ない将来を約束されていたが、外祖父・藤原伊尹や母・懐子、そして叔父たちまでも次々と早世したために有力な後見を失ってしまう。また円融天皇の妃となった際も、入内直後に大火があったため世間から「火の宮」(内親王の皇妃を「妃の宮」と呼ぶのに掛けたあだ名)と呼ばれるなど、高貴な生まれにもかかわらず不運の連続だった。それでも円融天皇は尊子内親王を可愛らしく思い寵愛したというが、唯一の頼りであった叔父・光昭の死を期に、内親王は自ら髪を切り落として世を捨ててしまう。(尊子内親王:Wikipedia
『大鏡』伊尹伝
また花山院の御いもうとの女一の宮は亡せたまひにき。女二の宮は、冷泉院の御時の斎宮に立たせたまひて、円融院の御時の女御に参りたまへりし、ほどもなく、内裏の焼けにしかば『火の宮』と世の人付け奉りき。さて、二三度参りたまひて後、ほどもなく亡せたまひにき。この宮にご覧ぜさせむとて『三宝絵』は作れるなり。
『栄花物語』花山尋ぬる中納言
堀河の大臣(兼通)おはせし時、今の東宮(師貞)の御妹の女二の宮(尊子)参らせ給へりしかば、いみじううつくしうとてもて興じ給ひしを、参らせ給ひて程もなく、内など焼けにしかば、火の宮と世の人申し思ひたりし程に、いとはかなううせ給ひにしになん。
尊子内親王は天元5年(982年)に出家した後、永観3年(985年)に二十歳の若さで亡くなっています。『三宝絵』は序によると永観2年11月に書かれています。尊子内親王が亡くなったのはその半年後です。為憲が書き終えたとき、すでにかなり弱っていたのでしょう。

『三宝絵』はタイトル通りもともと絵があったものが、現在は伝わっていないといわれています。しかし、私は最初からなかったんじゃないかと思っています。絵の場所は「有絵」と書かれていますが、上巻の最初のほうにしかありません。本当は絢爛豪華な本にするつもりが、尊子内親王の具合がだんだん悪くなり、急いで奉るために絵の場所の指定だけして入れなかったか、そこだけ入れて奉ったのだと思います。

為憲はでこのように書いています。
我が宮、深窓に養はれて未だ外(ほか)の事を知らず。他家の遠き事を心中に思ひ遣りて、我が国の近き事をば眼の前に知見し、公私の仏事、和漢の法会、種々これを写して、各々これを書く。戸を出でずして天下の貴き事を知るにこの巻にしかず。
「深窓に養はれて未だ外の事を知らず」という書き方がいかにも尊子内親王の身分の高さを表しているようですが、いかに皇族とはいえ、「深窓に養はれて」とか「戸を出でずして天下の貴き事を知る」というのはどうにも不自然に感じます。幼いころから体が弱かったのではないでしょうか。

その深窓のお姫様に捧げたのがこの作品です。姫様が直接登場するのはこの賛だけですが、説話のチョイスや書きぶりに、為憲の姫様に向けた愛情が伝わってきます。『日本霊異記』を源泉とする説話にしても、マイルドな話しか入っていないのもその現れでしょう。

為憲はこの薄幸のお姫様にそうとうな思い入れがあったのだと思います。それを感じながら読むのが、この作品の味わい方です。
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