僕は著作権問題にそれほど詳しいわけではないので、このネタを書くのを控えていたのだが、最近Wikibunkoを立ち上げた斎藤さんが悩んでいたようなので、この機会に私見を述べたい。

古典文学の著作者は、『源氏物語』なら紫式部だし、『徒然草』なら兼好法師である。現行の著作権法では死後50年まで著作権が認められることになっている。当然、彼らははるか昔亡くなっているのだから、彼らの著作権は消滅している。

だから、単純に注釈書などから本文をコピーし放題かというと、実はこれには問題がある。その本文を作った校訂者がいるからである。

日本の古典文学は、ほとんどの場合、原作者の書いたものが存在しない。コピーにコピーを重ねた写本や版本という形で伝わるのだ。コピーといっても、手書きで写すわけだから、写し間違いや、意識的な改変が加わり、原典と同じということはまずない。

そこで、活字にする場合、もっとも原典に近いものを探して(必ずしも古いものが近いとは限らない)それと、別の本を比べて、足りないところや不審なところを補い、原典に近いものを再生しようとする。これを校訂という。この作業を行う人によって、本文に差異がでてくるわけである。

では、原典が存在する場合や、一つしかない場合(孤本という)はどうだろうか。それなら問題なし・・・ではない。

昔は濁点や半濁点、句読点、カギカッコなどは存在しなかった。拗音・促音を小さく書く習慣もなかった。また、仮名で書かれたものの多くは、現在ほどは漢字を混ぜていない。

現在、刊行されているほとんどの注釈書は、その状態では読みにくいため、それらを校訂者が補っているのである。中世以降は文法の誤りも多くなるので、それを正しい歴史的仮名遣いに直してある場合もある。

たとえば、底本に「はは」と書かれていたとして、それが「母」なのか、「婆」なのか、「馬場」なのか、「幅」なのか、「〜は、は○○」なのか、あるいは「は」を間違えて連続して書いてしまったのか(衍字という)は、文脈や解釈、文法にしたがって校訂者が判断するのである。

実はこの違いが大きい。日本語は同音異義語が多い上に、英語のように単語ごとの分かち書きをしないからである。したがって古典の本文は同じ作品でも、10人校訂者がいれば10人違うといってよい。これを独創性とみれば著作権を認めることになるだろう。

ただし、実際に裁判が行われたら、どう判断されるかは分からない。案外、認められない可能性も高いように思う。では学界ではどうかというと、そういう議論はほとんどなされていないようだ。

それでは、私たちが電子テキストを作る場合、どうすればいいか。それは次回の講釈で。