では、電子テキストを作るさいに、著作権問題をどう回避すればいいのだろうか。

1.校訂者に許諾を取る。
ケースバイケースだが、理由を説明すれば、案外取れそうな気がする。
特に、絶版になっていて再刊されそうもないものなら、許可を得るのはそれほど難しくないのではないだろうか。
ただし、注釈書を書いているような人は、いわゆる御大が多いので、説明するのが難しいかもしれない。

2.回避しない。
校訂ごときに著作権は存在しない!という立場。
個人的な見解だが、商用で出版するのでないかぎり、裁判を起こされる可能性はかなり低いと思う。
もし、裁判を起こされた場合、著作権者が勝つ可能性は五分五分だろう。万一、裁判を起こして著作権者側が負けてしまえば、それが判例となって、自由なコピーが許されることになる。したがって、著作者が裁判を起こす可能性は低いと思われる。

3.底本を明記せず、適当に漢字とか句読点の位置を変える。
この手が通用するのかどうか、僕にはわからないが、少なくとも何を底本にしたかは分からないようにできる。底本が分からなければ、裁判の起こしようがない。
ただし、底本が明確にできないので、学術資料にはならない。

4.著作権が切れた本を底本にする。
J-TEXTなどが採用している方法である。
もっとも無難な選択だが、研究が進んでいるのに、古い本文を採用しなくてはならない場合があるという難点がある。
たとえば、『方丈記』の底本は、現在の注釈書では大福光寺本が主流だが、著作権が切れたものは、大福光寺本発見前の流布本を底本にしたものしかない。大福光寺本と流布本では表現に違いがある。

4.翻刻を利用する。
翻刻とは、底本をそのまま活字にしたものである。これは誰がやっても同じ結果になるはずだから、法律上、著作権を認めることはできないだろう。
ただし、翻刻は入手しずらいのと、学術資料にはなるが、読みにくい。

5.自分で翻刻・校訂する。
影印本や複製を自分で翻刻、校訂をする。校訂はともかく翻刻なら大学の国文学科で古典を学んできたものならできるだろうし、4の翻刻を利用する手もある。
なお、自分で翻刻する場合、原典の所蔵者に許可をとらなければいけないという主張をする人(または団体)もいるが、法律上は必要ない。
特に影印本や複製などの形で出版されているのなら、すでに公開しているのだから、道義的にもなんの問題もないはずである。
もっとも理想的な方法だが、スキルが必要なのがネック。

日本の古典文学の電子テキストは、個人の努力によってかなり増えてきたが、それでも中国や台湾には比べるべくもない。その理由のひとつに著作権の問題がある。漢文の場合は、日本ほど表記の揺らぎがなく、せいぜい句読点を追加する程度しかできないからである。それでも、句読点に著作権を認めようという動きがあるようだ。

僕は、最新の注釈書であっても、本文に限って、自由に電子テキスト化できるようにコンセンサスを作るべきだと思う。たとえば、注釈や解説を除いた校訂本文を校訂者と底本を明記した上で、改変しないのを条件に自由に使えるという宣言を入れるのはどうだろう。

それでは商業的にどうかという意見もあるかもしれない。しかし、電子テキストで読んだ人の多くは注釈書で読んでみたくなるのではないだろうか。推測に過ぎないが商業的にマイナスにはならないと思う。

国際化社会といわれて久しく、インターネットという便利な道具があるにもかかわらず、日本の古典文学が紙メディア・電子メディア問わず、これほど入手しにくい現状は望ましいものではない。

例えば、中国へ旅行する人の多くは、文学から興味を持った人だと思う。ベイカーストリートを見たいためにイギリスへ行く人だって少なくないはずだ。現状は、「国益に反している」と言っても言い過ぎではない。