前のエントリ
東京新聞の記事

古典や漢文の暗唱を小学生に指導する場合、どういう点に留意したらよいだろうか。

もちろん、人口に膾炙した名文を選ぶのは当然だが、僕は次のように考えている。

1.日本の古典の場合は散文を優先する。
暗唱というとつい『百人一首』のような韻文を連想してしまう。
しかし、日本の韻文は基本的に5・7・5・7・7の短歌か5・7・5の俳句しかない。すべて同じリズムになってしまうので、これを覚えるのは難しいと思う。したがって、散文を優先するべきである。具体的には、『土佐日記』『竹取物語』『源氏物語』『古今和歌集仮名序』『方丈記』『平家物語』『徒然草』あたりがいいと思う。
個人的には、『方丈記』か『平家物語』がオススメ。

前のエントリで書いた、中国語による漢詩の暗唱の場合、中国語には一つ一つの音節に四声という厳密なイントネーションがある。つまり漢詩を中国語で読む場合、五言・七言というようにリズムは同じで単調だが、メロディーに違いがでるので、和歌と比べるとはるかに覚えやすい。
これを書き下しにした場合は、当然音節の数は変化するので、漢詩を日本語で暗唱するのは問題がない。

2.少々の間違いにこだわらない。
僕が『平家物語』の冒頭を暗唱したら、生徒から間違っているといわれたことがある。調べてみると、底本の違いによるものだった。
古典の場合、一字一句間違えないようにするのはあまり意味がない。特に漢文なら、訓読はする人によって違う。
とはいえ、文法や単語としておかしい場合は訂正しなければいけないから、指導する先生にもある程度のスキルが求められるだろう。

3.テキストはオーソドックスなものを選ぶ。
暗唱の元になるテキストはできる限りオーソドックスな物を選ぶべきだ。これは特に漢文の訓読にいえる。
最近の注釈書の中には、訓読としては伝統的ではないものが多い。
これは、暗唱に限ったことではない。学問というのは常に新しい物を求めるものだが、教育は違う。いかに新しい読み方が魅力的なものであったとしても、初等・中等教育では評価の定まったものを使うべきである。

4.何が書いてあるか、教師はある程度把握しておく。
暗唱だからといって、教師としては、なんだかさっぱり分かりませんというわけにはいかない。何が書いてあるかぐらいは理解しておかなければならない。
ただし、ひとつひとつの単語の解釈までは必要ないと思う。

一見難しそうに見えるが、古典のような文語文を覚えることは、口語文を覚えるよりもはるかに容易である。文語文にはリズムがあるからである。

次に一例として聖書の訳を挙げてみた。音読して比較してみるといかに文語文が覚えやすいか理解できるだろう。

『新約聖書』マタイ伝第五章より
文語訳
この故に、我汝らに告ぐ。何を食ひ、何を飲まんと、生命のことを思ひ煩ひ、何を着んと体のことを思ひ煩(わずら)ふな。生命は糧(かて)にまさり、体は衣に勝るならずや。
空の鳥を見よ。播(ま)かず、刈らず、倉に収めず。然(しか)るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之(これ)よりも遥(はるか)に優るる者ならずや。

口語訳 (c)日本聖書協会
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。