以前、浦木裕さんが『前賢故実』という版本の翻刻をしていたときに、和歌の翻刻を頼まれたことがある。

先賢故実

前賢故実は小伝と人物画からなる。小伝は基本的に漢文(楷書)で書かれているので問題ないが、人物画には和歌が付け加えられているものが多い。この時代(近世後期)、仮名の種類はかなり絞られてきているはずだが、絵に添える和歌なので、変体仮名・草仮名を交えて流麗に書かれている。これが恐ろしく読みにくかった。

僕は一応書道の先生なので、草仮名・変体仮名は一通り読めるつもりだ。その上相手は和歌だから、散文とは違い五・七・五・七・七という韻律があって読みやすいはず。それなのに、どこからどこまでが一文字なのか分かりにくいのである。

幸いなことに、和歌だからある程度読めれば検索すればたいがいのものは出てくる。情けないことだが検索してみて「ああ、なるほど、そう読むのか」と分かることが何度もあった。

なぜ、『前賢故実』の和歌は読みにくいのか。

浦木さんが持ってきたのは、版本(板本)の影印だった。版本とは江戸時代に印刷された本で、美術の時間にやった木版画と同じように、木の板に彫って、バレンで摺って印刷する。

こういう印刷の仕方だから、線の太い・細いは表現できるが、濃淡は表現できない。ここが写本(筆で書きうつされた本)との違いだ。

筆で書かれたものは筆圧や書くスピードの変化、墨の涸れ具合などで線に濃淡ができる。線の太い・細いは版本でも表現できるが、実際に書かれたものと比べるとどうしても不自然なものになるし、版がつぶれてくれば不明瞭になる。その結果、字の形は分かっても、筆がどのように進んで文字となったかが分かりにくくなる。

この「筆がどのように進んだか」を表すものを、書道のタームで筆脈とか気脈という。

少(筆脈)六(筆脈)


上の「少」「六」の赤い線で示したものが筆脈である。赤い線の部分は実際には書かれていないが、見えない線でつながっている。一画目を指でつまんで引っ張ったら、全部つながってくる感じといえばいいだろうか。

筆脈が通っていると、どういう筆順で書いたかが分かる。上の例は行書だが、草書や仮名の場合はより明確で、楷書は不明確だがないわけではない。

本来、漢字にしろ仮名にしろ、文字は筆脈で読むものだったのだろう。「うちにある軸にこう書いてあったんだが、何と読むのか」と、鉛筆なんかで写したものを持ってこられても読めないことが多い。形だけ写しても、筆脈を写していないからである。逆に言うと、筆脈さえ通っていれば、形が少々おかしくても読むことができる。

現代人は手書きの文字よりも、印刷された文字やスクリーン上のフォントを読む方がはるかに多い。これらの文字には読みやすいように工夫されているが、筆脈がほとんどない。僕たちは文字を形で読んでいるのである。

だから、授業で文字を教えていても、生徒たちの多くは細かい形ばかりにこだわり、筆脈に気が回らない。考えてみると、僕たちが子供の頃の大人は、筆脈の通った字を書く人が多かった。英語の筆記体にも筆脈があった。知らず知らずのうちに筆脈という概念を身に着けていたのだろう。今、そういう字に触れていないのだから、筆脈が理解できないのも無理はない。

写本や版本など、昔の字を読む第一歩は、字形ではなく筆脈を読むことである。また、字を美しく、読みやすく書く第一歩も、筆脈を意識することである。