内藤湖南の『北派の書論』を読んでいたら、面白い記述があった。

況や近頃のやうに、俳句などをヒネくるものが、文盲の癖に、北派にも何にもならないエタイの知れない字を書いたり、看板やコマを書く一種の俗筆を北派だとして居るに至つては、殆んど採るに足らないものである。(内藤湖南『北派の書論』:青空文庫

「俳句などをヒネくるもの」というのは、河東碧梧桐のことである。

碧梧桐は当時、洋画家中村不折ともに龍眠会という書道団体を主宰しており、六朝の楷書に範を取っていた。それが「エタイの知れない字」である。
なお「エタイの知れない字」はこちら↓。

河東碧梧桐+書:Google画像検索

それにしても「文盲の癖に」というのはひどい言い方である。もちろん、碧梧桐が文盲なわけはないので、「漢文も読めないくせに」ぐらいの意味だろう。では、一体何が気に障ったのだろう。

中国の書は1800年ごろまで王羲之の書を基準に発達してきた。しかし、阮元(1764‐1849)の『北碑南帖論』『南北書派論』に至り、「書は北朝の碑に範を取るべき」という考え方が隆盛したきた。これを「北派(碑学派)」という。なお、彼らはそれ以前の法帖によって書を学ぶ方法を「南派(帖学派)」と呼んだ。

「北派」が北朝の書を正統とする理由は、簡単に言うと、彼らが漢代の隷書の直系が北朝の書にあったと考えたことと、王羲之の書風がそのまま伝えられていないと考えたからである。

王羲之の書や、その影響下にある唐代の書の現物は残っておらず、法帖という形でしか残っていない。これは一種の印刷物だから、何度も翻刻を繰り返すうちに本来の姿を失っている。北朝の碑は彫られた時代のものだからいい、というわけだ。

この考え方は、それまで全く価値を認められていなかった北魏の碑に価値を見出した、画期的なものだった。遅れて明治日本の書道界は、この時代最新だった北派(碑学派)の理論の影響を強く受けた。もし、阮元の書論が無かったら、今も書道の教科書に牛橛造像記や鄭羲下碑は載っていなかったかもしれない。

しかし、内藤湖南はそれに異を唱える。

阮元の書論が書かれた時代は、南朝の碑や真蹟もほとんど出土していなかったし、日本にある唐代の書の真蹟も紹介されていなかった。楊守敬(1839-1915)はもともと北派で、北派の書を日本に伝えたが、逆に日本にある唐代の真蹟に学んで書風が変わった。もともと真蹟を持っていた日本人がいつまで稚拙な北派の書をマネしているのか、というのである。

上に引用した碧梧桐批判は、この文脈にある。北派なんて時代遅れで、それだけでダサいのに、それを模倣しただけのおかしな書を書いているやつが北派を名乗っている、不愉快千万・・・というわけだ。

批判の矛先が不折でなく、碧梧桐に向かっているのは、不折が大量に資料を所蔵していて(現在の台東区書道博物館)古典を学んでいてそれなりに理論武装されていたからだろう。

それでは、内藤湖南の攻撃に碧梧桐はダメージを受けたか。碧梧桐の書いたものを読んでいないので分からないが、たぶん受けなかっただろう。

碧梧桐の俳句はよく知られるように自由律俳句である。これは単に斬新さを狙ったのではない。素朴で自由な表現を求めたら、季語だの定型だのがブッ飛んじゃったのである。これがたまたま六朝の書と合ったのだろう。求める本質が違う以上、内藤湖南の攻撃は何とも思わなかったんじゃないだろうか。

さて、ここまで書いて、もう一つ思い当たることがあった。碧梧桐のライバル高浜虚子である。碧梧桐と虚子は同級生で同じ正岡子規の弟子だが、自由律の碧梧桐に対し、虚子は定形・季語といった俳句のルールを守った。この二者の対立は、内藤湖南と碧梧桐の関係に非常によく似ていると思うのである。