今時、日常生活で左利きを右利きに矯正すべきだという人はほとんどいないだろうが、書道となると話は違うようだ。普段は左利きでもいいから、書道のときだけは右で書けと指導する先生が結構いるらしい。

漢字や仮名が右利き用にできているというのはたぶん本当だろう。実際に書いてみると、右手で書いた場合、書いた直後の線を見ることができるが、左で書くと自分の手で隠れてしまう。試しに左手で鏡文字を書いてみると、右で書いた時と同じように書いた線を見ることができる。ただしこれは横画と右払いに限られ、縦画や左払いは感覚が違うだけで関係ない。

しかし、見えなければ書けないというものでもあるまい。目隠ししている訳ではないから、多少手で隠れても全く見えないものでもないし、そもそも見えないのは右へ書いていく画だけである。

右利きなら自動的に右上がりになるかというとそうではない。特に最近は横書きの影響が強いためか、右利きでも右下がりの字を書く人がいる。楷書独特の右払いなんかはいくら教えてもできない人も多い。結局右利きの人にだって書き方を矯正しているのである。

こうなってくると、利き手を矯正する意味が怪しくなってくる。

そこで、試みに右手と左手、両方で書いてみた。僕は右利きである。なお、公平を期すためどちらも一枚ずつしか書いていない。また、僕が得意な字を書いていると思われるのは心外なので、今をときめくあのお方の名前にした。

まず右手で書いたものをご覧いただこう。書道の先生としてはあまり上手くないのは認めるが、一発勝負なのでそのへんはご容赦願う。
佐村河内(右)


そして左手で書いたのがこれ。自分でいうのもナンだが、字形はそれほど悪くないと思う。書く時間は倍以上かかる。線が濁っているところがあるし、起筆(画の書き出し)の入り方がおかしいところがいくつかあるので、見る人が見ればおかしいのはわかると思う。
佐村河内(左)


毛筆で字を書く場合、基本的に筆は垂直に立てて使う。垂直だから右手だろうと左手だろうと条件は同じなのである。だから、ゆっくり考えて書けば、左利きでなくても書くことができる。逆に鉛筆のような傾けて書く筆記用具では上手く書くことができない。

ただし、起筆、収筆、ハネなどの複雑な筆使いは利き手でないので難しい。しかし、これは利き手でないからであって左で書いているためではない。左利きの人は、僕よりも左手のコントロールは上手いはずなので、利き手を変えさせる必要はないと言えるだろう。そもそも、左利きの書が右利きと違っても、それはそれでいいじゃないか。

利き手が違う人には指導が難しいのは事実である。腕の動かし方が違うため、ここはこう動かすと説明できなくなる。しかし、結局のところ筆の動かし方は自分で感得するしかないし、指導する側の都合で利き手を変えさせるというのは本末転倒である。