10月は、5月に脳梗塞で倒れた祖母を、二回散歩に連れて行った。散歩と言っても、もう自分では歩けない。車いすで押していったのである。

正直、倒れた時はもうだめだと思った。なにしろ96歳である。なにがどうなっても不思議ではない。今はかなり回復した。寝たきりで、言語不明瞭だが、車いすに乗れるほど回復しただけでも大したものだ。これはみな胃ろうのおかげである。

胃ろうとは、腹に穴を開けて、そこから流動食を流し込むという方法である。入れているのは口から入れる流動食と全く同じものだ。右半身が麻痺しているので、口からの食事は不可能だろうという判断でこうなった。

胃ろうをしてまで生きたくないという人がいる。どう考えようとそれは自由だし、その気持ちも分らなくもない。なるほどそういう考え方もあるかと思っていたが、祖母の胃ろうを見ていて、僕はだいぶ考えが変わった。

「胃ろうをしてまで生きたくない」というのは、食べる楽しみが無いぐらいなら死んだほうがマシだという考えに立っている。しかし、生きる楽しみはそれだけではない。むしろ、食うことなんか、生きる楽しみとしては大したものではないのではないか。

例えば、僕は喫煙者だが、タバコの旨さが分からない人は、気の毒だと思う。もし、今タバコを取りあえげられたら、死んだほうがマシ・・・とまでは言わないが、ちょっときつい。

だが、最初から吸わない人にとっては、タバコの旨さなんかどうでもいいことである。かつてタバコを吸っていて、すでに長らく止めた人も、そんなのはどうでもいいことだろう。

同様に、今、突然口から食事できなくなったら、その時はそりゃ辛いだろうが、そのうち自分が口から食事をしていたことさえ忘れてしまうのではないか。その人に、「食べる楽しみがないなんて気の毒だ」と言っても、それは「タバコの旨さが分からない人は、気の毒だ」というぐらい意味がない。

大事なことは、その他の生きる楽しみをどう作ってあげられるかだろう。寝たきりにはなってしまったが、祖母は明らかに元気になっている。顔色もいい。自分で食事をしていたときよりも、栄養バランスが良くなっているのだ。

人は生きるためだけに食事をするのではないが、生きるためには食事をしなければならない。それが舌の上を通るか、直接胃に入るかだけの違いだ。胃ろうだけを切り離して、人間の尊厳を考えることはナンセンスだと僕は思う。