日本人にとって紹興といえば紹興酒だが、魯迅の故郷でもある。で、魯迅といえば、多くの人が中学生時代に国語の授業で読んだ「故郷」だろう。なにしろ、中学3年生用の教科書で「故郷」が入っていないものはない。紹興は「故郷」の舞台である。

魯迅『故郷』(井上紅梅訳):青空文庫

上のリンクは井上紅梅による青空文庫のものだが、以下の訳は、岩波文庫『阿Q正伝・狂人日記(吶喊)』(魯迅作 竹内好訳)によるもので、教科書に取り上げられたものと同じある。

物語は、主人公が船に乗って故郷に帰るシーンから始まる。

きびしい寒さのなかを、二千里のはてから、別れて二十年にもなる故郷へ、私は帰った。
もう真冬の候であった。そのうえ故郷に近づくにつれて、空模様はあやしくなり、冷い風がヒューヒュー音を立てて、船のなかまで吹きこんできた。苫のすき間から外をうかがうと、鉛色の空の下、わびしい村々が、いささかの活気もなく、あちこちに横たわっていた。
この船、どんな船だろうか。終わりの方では、こんな描写も出てくる。
母と宏児とは寝入った。私も横になって、船の底に水のぶつかる音をききながら、いま自分は、自分の道を歩いているとわかった。
僕が初めてこれを読んだ時には、小型漁船ぐらいの大きさだと思っていた。なにしろ大人二人と子供一人が寝られる大きさである。ところが、現物はこんな感じ。
船
僕のカヤックよりちょっと大きい程度のボートである。よく見ると、カマボコ型の部分が竹か何かで編まれたカゴのようになっていて、現物を見ると「苫のすき間から外をうかがう(从蓬隙向外一望)」や「船の底に水のぶつかる音をききながら(听船底潺潺的水声)」という意味がよく分かる。

上の写真は、泊まったホテルの中庭にあった一種の置物だが、一歩外へ出ると、観光用として今でも乗ることができる。乗ったことはないが、これなら苫のすき間から外をうかがうことも、寝転がって水のぶつかる音を聞くこともできそうだ。
観光船

主人公の故郷の家の入口は、こう描写されている。
明くる日の朝はやく、私はわが家の表門に立った。屋根には一面に枯草のやれ茎が、折からの風になびいて、この古い家が持ち主を変えるよりほかなかった理由を説きあかし顔である。

魯迅故居表門
ここから家の屋根は見えないので、この「屋根」とは家の屋根ではなく、門の屋根である。原文では「瓦楞」となっていて、これは瓦が並んでいる部分のことらしい。

主人公と閏土が初めて会うのは、台所である。
ある日のこと、母が私に、閏土が来たと知らせてくれた。飛んでいってみると、かれは台所にいた。
別れるのも台所。
閏土も台所の隅にかくれて、いやがって泣いていたが、とうとう父親に連れてゆかれた。
で、その台所がこれ。
台所
たしかに隠れたくなる感じがする。

閏土の田舎での生活の話を聞いて、驚嘆する都会っ子の主人公。
閏土が海辺にいるとき、かれらは私と同様、高い屏に囲まれた中庭から四角な空を眺めているだけなのだ。(闰土在海边时,他们都和我一样只看见院子里高墙上的四角的天空。)

印象的なシーンだが、これも日本人にはちょっとピンと来ない。日本の家のほとんどは屏に囲まれていないし、囲まれているほどの家は、大邸宅だから空は四角くない。

しかし、ほとんどの中国の家は高い屏で囲まれている。その上、魯迅の家は幅が狭く奥行きのある敷地に、中庭を挟んで、家がいくつも並んでいる形式なので、中庭の空はたしかに四角く見える。
屏 

この物語には、二回帽子が出てくる。
つやのいい丸顔で、小さな毛織りの帽子をかぶり、キラキラ光る銀の首輪をはめていた。
頭には古ぼけた毛織りの帽子、身には薄手の綿入れ一枚、全身ぶるぶるふるえている。

前者は子供のころの閏土、後者は大人になって再会したときの閏土である。この対比によって、閏土の変わりようがわかるのだが、この「毛織りの帽子」は原文では「毡帽」となっている。黒い厚手のフエルトでできた、この地方独特の帽子である。
烏毡帽をかぶったオッサン
僕もかぶってみた。
かぶってみた