例の烏丸光広本『徒然草』の・暮春問題、(春秋か暮秋か:2018年05月25日続・春秋か暮秋か(春秋でOK):2018年06月12日参照)これ以上引っ張るつもりもなかったのだけれども、「暮」の例が出てきたので、比べてみる。

まず、春。前に出した画像を再掲載する。

春秋・春めきて・春日
古活字本なので、全く同じ形をしている。なお、春はすべてこの形なのではなく、一般的な字形をしているものもある。

さて、次に「暮」。第50段の「暮るまでかくたちさはぎて」の「暮るまで」である。
暮るまで(50段)
ご覧の通り、よく似ている。これを見れば、最初に僕が「春秋」を「暮秋」と読んだのも無理からぬことだと理解してもらえるだろう。

それでは、昔の人々は、この微妙な字形の違いを読み取っていたのだろうか。そうではない。やたらと字形にこだわるのは現代人の悪い癖だ。

上の例でいえば、「春秋」を「暮秋」に読み誤ることはあっても、「春めく」を「暮めく」とか、「春日(大社)」を「暮日(大社)」と読むことは解釈上ありえない。最初に問題にした「春秋」と「暮秋」の読み誤りにしても、解釈にかなり無理があることは、春秋か暮秋かのコメント欄でホシナさんが指摘している通りである。

現代の文字は、字形のはっきりした楷書と、一音に対し一字だけの単体仮名で構成されている。だから、意味は分からなくても、文字の読み方さえ知っていれば、音読だけはできる。現代では解釈できなくても、文字を読むことはできる。

写本や版本の時代、文字と解釈は車の両輪だった。だから、文字が読めなければ解釈出来ないのと同じく、解釈できなければ文字を読むことはできなかった。逆にいえば、このころの文字を読むのに、字形にこだわりすぎるのはあまり意味がないということになる。