自分は誰それに教わったという先生自慢はダサい。折口信夫が柳田国男を自慢するレベルならいいが、たいしたことない人が先生自慢するのは、本人にそのつもりがなくても、先生を笠に着ているようで、とてもダサいと思う。

そんなことは分かっているけど、それがあまりにもスゴイときは自慢してもいいんじゃないだろうか。いや、したい。させてくれ。ここから先を読んでもらえれば、分かる人には分かってもらえると思う。

僕の専門は中世文学である。「中世文学を代表する作品を一つ挙げてください」と言われたら、どう答えるだろうか。たぶん、『平家物語』80%、『徒然草』10%、その他10%ぐらいじゃないだろうか。つまり、中世といえば軍記、軍記といえば中世といっても過言ではあるまい。

そういう理由だか何だか知らないが、僕の出身大学では、必ず軍記の講座がなくてはならないという、よくわからん暗黙のルールがあったらしい。中世の散文は専任の先生が二人いたから、軍記は他大学から非常勤で来ていただいていた。

僕が最初に軍記を習ったのは、駒沢大学の水原一先生である。学部4年から博士前期課程の2年まで講義を受けた。学部4年が『平家物語』、大学院で慈光寺本『承久記』を読んだ。水原先生は新潮古典集成の『平家物語』を担当され、学部のときはそれが教科書だった。



水原先生には黒板画というものすごい特技があった。例えば、兜のパーツを説明するときに、黒板にさらっと兜の絵を描く。馬の説明をするときは馬の絵を描く。これがむちゃくちゃうまい。今だったら、絶対にスマホで写真を撮って、TwitterにUpしていただろう。

授業中の水原先生には、ものすごい威圧感を感じた。いきなり怒ったりすることはないが、僕がアホな発言をすると、う〜んとうつむいて黙っちゃうのが怖かった。学部生のときは数十人の中の一人だったからよかったが、院生になると受講者が数人になってしまったので、それがけっこうきつかった。さすがは軍記の専門家、モノノフだと思った。

一浪して博士過程後期に入ったとき、水原先生はすでに辞められていて、軍記の担当は早稲田大学の梶原正昭先生になった。梶原先生は、岩波新日本古典文学大系『平家物語』(=岩波文庫)の他、新編日本古典文学全集『義経記』、『曾我物語』など、たくさんの注釈書を書いている。



梶原先生に教わったのは、たしか二年ぐらいだったと記憶している。『真名本曽我物語』を読んだ。老大家でありながら気さくな先生で、ときどき一緒に神保町へ行ったりもした。水原先生とはあまりに対照的だったので、軍記の先生はみんなモノノフというわけではないのだなと思った。

梶原先生が体調をくずされて代打でいらしたのが、これまた早稲田大学の日下力先生だった。日下先生といえば、角川ソフィア文庫の『保元物語』・『平治物語』だが、そのころは新日本古典文学大系の『保元物語 平治物語 承久記』(平治物語担当)だった。



日下先生は、水原先生や梶原先生よりはずっと若かったので、親近感がもてた。しかし、教わった期間が短かったので(たしか年度の途中で梶原先生と交代されたと記憶している)、何をやったのかよく覚えていない。なんだか僕の振ったくだらない質問に、呆れながらも丁寧に答えていただいた記憶ばかりが残っている。

偶然とはいえ、これだけの先生方に教わる機会はなかなかない。当時の僕があまりにもボンクラだったことが悔やまれてならない。今だったらもうちょっとマシな・・・とも思うが、「その時悔ゆとも、かひあらんや」(徒然草49段)である。