現在、『沙石集』の電子テキストを作っている。漢字片仮名交じりの古活字本だから、文字を読むのはたやすい。字がでかいぶん、今の本よりもよほど読みやすい。

しかし、説話以外の部分の文章が難しい。特に巻一は本地垂迹がテーマだから、難解な言葉がたくさん出てくる。無住も最初の方だから気合が入っているのか、一話がやたらと長い。そんなわけで、一ヶ月かけて巻一がやっと終わった。

沙石集:やたナビTEXT

巻一の最後は、これがまた長いのだが、後半で鎌倉時代後期の浄土信仰の様子を描いていて面白い。

『沙石集』巻1第10話 浄土門の人、神明を軽んじて罰を蒙る事:やたナビTEXT

タイトルの話は最初だけで、後半はほとんど、当時の浄土教(阿弥陀信仰)がいかに隆盛し、狂信的な信者によって猛威を振るったかが描かれている。

浄土教とは、阿弥陀如来の名前を唱えれば(念仏という)、どんな人でも極楽往生できるという教えである。無住の時代には現在でいう浄土宗や浄土真宗・時宗が勢力を伸ばした。

仏教は理屈の宗教である。理屈は面倒くさいものだから、容易に理解できない。だから、鎌倉時代以降、念仏を唱えれば救われるというような、シンプルな浄土信仰はまたたく間に広まったらしい。

しかし、阿弥陀如来だけを頼りにするということから、他は全部ダメというような、一神教的な勘違いが生まれる。当時は法華経信仰や地蔵信仰も流行っていたから、それがターゲットとなる。
中ごろ、念仏門の弘通(ぐづう)さかりなりける時は、「余仏余経、みないたづらものなり」とて、あるいは法華経を河に流し、あるいは地蔵の頭にて蓼(たで)すりなんどしけり。ある里には、隣家のことを下女の中に語りて、「隣の家の地蔵は、すでに目のもとまですり潰したるぞや」と言ひけり。あさましかりけるしわざにこそ。
法華経を川に流したり、お地蔵さんの頭をおろし金代わりにつかって、「隣のうちのお地蔵さんは、すでに目のところまですり潰したぞ」なんて競ったりしていたという。

法華経信仰から念仏へ宗旨替えする人も出てくるが、これもなんだかおかしな方向へ。
また、この国に二千部の法華経読みたる持経者ありけり。ある念仏者、勧めて念仏門に入れて、「法華経読むものは、必ず地獄に入るなり。あさましき罪障なり。雑行の者とて、つたなきことぞ」と言ひけるを信じて、さらば一向に念仏をも申さずして、「年ごろ経読みけんことの悔(くや)しさ、口惜しさ」とのみ、起居に言ふほどに、口のいとまもなく、心のひまもなし。かかる邪見の因縁にや、悪(わろ)き病つきて、物狂はしくして、「経読みたる、悔しや、悔しや」とのみ口ずさみて、果ては、わが舌も唇もみな食ひ切りて、血みどろになりて、狂ひ死ににけり。勧めたる僧の言ひけるは、「この人は、法華経読みたる罪は懺悔して、その報ひに舌・唇も食ひ切りて、罪消えて、決定往生しつらん」とぞ言ひける。
念仏僧に「法華経を読むのは罪を作る」と言われ、宗旨替えした法華経持経者が、まったく念仏はしないで、「今まで法華経なんか読んでた。悔しい悔しい」とばかり言って、舌を食い切って狂い死にしてしまった。勧めた念仏僧は、「これで罪は消えました。間違いなく極楽往生したでしょう」なんて涼しい顔をしている。

もうなんか新興宗教にありがちなアレというほかない。

浄土教といえば、親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや(歎異抄)」という悪人正機説だが、当然「そうか、悪人の方がいいのか」と思う連中も出てくる。
また、中ごろ、都に念仏門流布して、悪人の往生すべきよしを言ひ立てて、戒をも持(たも)ち、経をも読む人は、雑行にて、往生すまじきやうを曼荼羅に図して、尊げなる僧の、経読みて居たるには光明ささずして、殺生する者に摂取の光明さし給へる様を描きて、世間にもてあそびけるころ、南都より、公家へ奏状を奉ることありけり。その状の中にいはく、「かの地獄絵を見る者は、悪を作りしことを悔い、この曼荼羅を拝する者は、善を修せしことを悲しむ」と書けり。
経を読む高僧と殺生する者(猟師?)を描いて、高僧には光がささず、猟師には光がさしているという曼荼羅を作って、悪人正機を唱えるものもいた。見かねた南都から公家への奏状には「地獄絵を見る者は悪いことをしたことを悔やむが、この曼荼羅を見る者は良いことをしたことを悲しんでいる」と書いたという。

無住は八宗兼学の博覧強記なので、様々な経典や事例をあげて、このようなファナティックな信仰が間違っていることを説くが、いかんせん難しすぎる。これではアホの耳は届かないだろう。

いくら正しくても面倒くさい論理は耳に入らず、シンプルな話を曲解するというのは、いつの世も同じなのである。