しばらく『沙石集』を更新できなかったが、やっと更新できた。長いし難しいので読まなくていいから、見るだけ見てほしい。

『沙石集』巻4第1話無言上人の事:やたナビTEXT

ご覧の通り、ものすごく長い。そして言葉がやたらと難しい。底本の古活字本は各巻が上下に分かれているのだが、ここでは巻4の上がまるまる一つの話になっている。最初、この巻だけ目録がないのでヘンだなと思ったのだが、一つしかないから目録が必要なかったのだ。

難解な仏教語が多いので、僕も正直言って3分の1ぐらいしか理解できないのだが、無住の言いたいことはとてもシンプルだ。「仏教にはいくつもの宗派があるが、互いに自分意外の宗派を誹謗してはいけない」ということである。これほど長くなってしまった理由は、作者である無住に熱い思いがあったからだろう。

キリスト教やイスラム教の宗派は、経典の解釈だったり、歴史的な経緯によって宗派が別れることが多い。それに対し、仏教では、最終的に解脱して仏となるための方法論が宗派の違いになる。特に、無住の時代は鎌倉新仏教が続々と登場し、方法論が細分化され、広い階層へ浸透していく時期だったから、宗派間の宗旨争いが激しかったのだろう。

方法論とは、登山に喩えると、どの道を通れば頂上に確実行けるかということだ。ある道は急坂が多いが距離は近い、ある道は遠いけど坂は緩やか、ある道は近くても岐路が多く間違えやすい。道はいろいろある。しかし、どっちにしても頂上に行くのだから、「こっちの道が頂上に近い、だから他の道はダメだ」というのは意味がないことだと、無住は言っているのである。

考えてみると、自分の採用した方法論以外を誹謗するというのは、いろいろな分野でよくある話だ。学習法・教育法・健康法・蓄財法から学問の方法にいたるまで、およそ方法と名づくものにはすべて見られる。そして、若い人ほど他の方法を誹謗しやすい。

若い時は少しでも早く目標に着きたくなるものだ。だから、自分の方法論こそが正しいと思いたがる。これの裏返しが他の方法への誹謗につながる。貶したって何も変わることはないはずだが、そうやって自分の方法論だけが正しいと信ようとするのだ。

無住が『沙石集』を書いたのは54歳から80歳までの間である。しかも、八宗兼学で仏教のあらゆる思想に通じている。そんな無住にとって、若い人が他の宗派を誹謗することが我慢ならなかったのはよく理解できる。