城前寺(宗我神社と城前寺参照)を出ると、妻が「こっちの方に・・・」といって、来た方と逆の方角へ行こうとする。ついていってみると、なにやら殺風景な空き地があった。
大雄山荘跡
大雄山荘跡の前の道
「何ここ?」
「太田静子さんが住んでた所だよ」

太田静子は太宰治の愛人で、作家太田治子の母親である。このあたり、昔は別荘地で、大雄山荘という印刷会社社長の別荘があり、そこに太田静子と母親が疎開してきた。『斜陽』のかず子と母親の住んでいたのは、ここがモデルになっている。

『斜陽』では次のように書かれている。
私たちが、東京の西片町のお家を捨て、伊豆のこの、ちょっと支那ふうの山荘に引越して来たのは、日本が無条件降伏をしたとしの、十二月のはじめであった。

設定は伊豆に変えられているが、実際「支那ふうの山荘」だったらしい。ここには2009年3月まで空き家として存在したが、放火とみられる火事で焼失してしまった。

太宰は、斜陽の元ネタになった静子の日記(いわゆる斜陽日記)を借りるため、1947年2月21日から24日まで来訪したという。僕が行ったのが22日だから、やはり梅の盛りだったはずだ。あらためて『斜陽』を読んでみると、たしかに梅がよく出てくる。
二月には梅が咲き、この部落全体が梅の花で埋まった。そうして三月になっても、風のないおだやかな日が多かったので、満開の梅は少しも衰えず、三月の末まで美しく咲きつづけた。朝も昼も、夕方も、夜も、梅の花は、溜息ためいきの出るほど美しかった。そうしてお縁側の硝子戸をあけると、いつでも花の匂においがお部屋にすっと流れて来た。三月の終りには、夕方になると、きっと風が出て、私が夕暮の食堂でお茶碗を並べていると、窓から梅の花びらが吹き込んで来て、お茶碗の中にはいって濡ぬれた。

そんな話をしていたら、地域住民のおばちゃん登場。

「ここ、知ってる?昔、太宰治の愛人が・・・」

知らなきゃ写真なんか撮っていないが、分かっていて話しかけてきたのだろう。いろいろ話を聞いて、おばちゃんは去っていったが、その直後、今度は地域住民のオッサン登場。

「ここ、知ってる?昔、太宰治のいい人が・・・」

「愛人」が「いい人」に変わっただけで、登場のしかたが全く同じである。

オッサンの話によると、ここが焼けたのはクリスマスの夜だったそうだ。何しろ、道が狭いので大騒ぎになったらしい。2009年は旧吉田茂邸(大磯)・旧住友家別邸(横浜市戸塚区)など歴史的建造物が焼失したので、これも同じ放火犯ではないかと噂されたそうだ。あとは、子供の頃、勝手に忍び込んで池の金魚を釣ったとか、どうでもいい話を聞いた。

下曽我には太宰と交流のあった尾崎一雄が住んでいた。尾崎家は宗我神社の神官の家柄だったので、大鳥居のわきに文学碑が建っている。
尾崎一雄碑

最後は何の意味もなく僕が流鏑馬場でたそがれている写真でおしまい。
流鏑馬場