『沙石集』の電子テキストを公開しました。

元和二年刊古活字本『沙石集』:やたナビTEXT

底本は、元和二年刊古活字本(京都大学蔵)です。いつもどおり、翻刻部分はパブリックドメインで、校訂本文部分はクリエイティブ・コモンズライセンス 表示 - 継承(CC BY-SA 4.0)で公開します。

『沙石集』は、鎌倉時代中期に無住によって書かれた仏教説話集・・・ということになっていますが、そう言うと無住に怒られるでしょう。

無住は執筆の意図を、と最後の述懐に書いています。それによると、一般人のために、興味深い説話をネタにして、仏法を勧めるために書いたと言っています。

読んでみると、説話よりも無住の言葉の方がずっと多く書かれています。この無住の言葉はかなり難解で、とても本人がいうように一般人のために書いたようには思えません。仏典や漢籍の引用も多く、よほど仏教と仏教語の知識がなければすべてを理解することは難しいと思います。

時間をかけて読んでみて、これは現代の論文の書き方に似ていることに気付きました。「こういう話がある、これは仏教的にはこう考えられる、その証拠に、この仏典にはこうあって、仏典のこの言葉はこういう意味で・・・」という感じで、きわめて理路整然と文章が進んでいきます。ですから、論文を読むときと同じように、仏典や漢籍の引用が難しそうなときは、飛ばして読んでも無住の言いたいことは分かります。

仏教語が多いのも読みにくい理由の一つです。これも、論文でテクニカルタームが出てくると、一般人には読みにくくなるのと同じことです。専門家にとっては最大限分かりやすく書いたつもりでも、素人が読むと、回りくどくて言葉も難しくさっぱりわからない、そんな感じだと思います。

『沙石集』で書かれていることはとても幅が広いのですが、僕は「自分の宗派を贔屓するあまり、他の宗派を批判してはいけない」というのが印象に残りました。無住の時代は鎌倉新仏教の時代です。自分の宗派の優位性を説くあまり、他の宗派を誹謗することがよくあったようです。

八宗兼学と言われ、あらゆる仏教思想に精通した無住には、宗派の対立が我慢ならなかったのでしょう。よほど気になっていたことらしく、『沙石集』を通して何度も出てきます。例によって、優劣はないということを理路整然と説明します。説得力があるのですが、これでは一般人には通じません。一般人には「念仏が優れている、あとはゴミ」とか「座禅が(以下同じ)」の方が通じやすいのです。なんだかどっかで見た感じがします。

さて、今回の底本は古活字本です。『沙石集』は異本が多く、大きく分量の少ない略本系と多い広本系に分けられます。古活字本は略本系で、比較的入手の容易な日本古典文学大系(梵舜本)や、新編日本文学全集(米沢本)は広本系になります。無住は50歳代で書き始めてから、80歳代で死ぬまで手を加え続けて、これらの異本ができました。

略本なので説話の数はやや少ないのですが、古活字本には大きな意味があります。『沙石集』は後世に多大な影響を与えた作品です。それらが参照したものの多くは、古活字本の流れにあります。また、略本系は無住の最終稿に近いという説もあります。

翻刻自体は妙な異体字もなく、読みやすいので簡単でした。しかし、何しろタームが難解なので、校訂本文をつくるのには苦戦しました。こういうものを読むと、字が読めることとテキストが読めることは別物だと痛感します。

そんなわけで、まだまだ間違いも多いと思いますが、死ぬまで手を加え続けたという無住にならって、少しづつ訂正していきたいと思いますので、ご批正よろしくお願いします。