僕は旅行をする前に現地のことをあまり調べない。別にそういうポリシーがあるわけではない。以前は調べるといってもガイドブックぐらいしかなく、そういう本に僕の見たいものは載っていないので、自然と調べない習慣が付いてしまったのだ。

だから、すぐ近くまで行ったのに、たどり着けなかったこともある(洛陽橋(万安橋)に行ってきた参照)し、後からあそこへ行っておけばよかったということもある。

逆に、行ってから偶然発見することもある。例えば、折口信夫の墓山田方谷・三島中洲が仕官した備中松山城伊豆の走り湯なんかはそれで、こういうのを見つけるととても嬉しい。

さて、5月に行った近江八幡では、そんな感じで伴蒿蹊の家を見付けた。もちろん近世文学が専門の人には当たり前のことだろうが、『近世畸人伝』も読んでいたのに、伴蒿蹊が近江商人だということを知らなかったのだ。

近江八幡では、駅前でレンタサイクルを借りて、八幡堀の方へ向かった。まず最初に市立資料館で通しチケットを購入し、資料館を見ていると、伴蒿蹊の八幡山十景なる書があって、文人商人として紹介されていた。ここで初めて伴蒿蹊が近江商人だということを知ったのだ。
八幡山十景

伴蒿蹊の家は「旧伴家住宅」といい、資料館の向かいにある。残念ながら資料館の通しチケットでは入れないが、知ってしまったからには入らないわけにはいかない。
伴家住宅
この伴家、扇屋といい麻布・畳表・蚊帳を商っていた。商品からするとショボそうな感じがするが、そうとうごつい商売だったらしく、その繁盛ぶりは井原西鶴『西鶴織留』巻一「四 所は近江蚊屋女才覚」に出てくる。
そもそも近江蚊屋の出所は、八幡の町より仕出して、是諸国に広まれり。中にも扇子屋(あふぎや)といふ人、むかしはすこしの酒、片見世に米商売しけるが、内義才覚にて、(中略)毎日蚊屋縫女八十人余、乳
縁付る女五十人。大広敷にならびたるは、さながら是女護の島のごとし。(角川文庫『西鶴織留』による。)
これを読んでも当時の盛況ぶりがうかがえるのだが、西鶴、続けていらんことを書いている。
されども是程の中に、都めきたる娘はひとりもなかりき。
西鶴、失礼だな。

一階の土間から階段を上がっていくと、中二階にかなり広い広間がある。
伴家住宅中2階
ここで作業したのかなと思いつつ、中二階から二階に上がる階段を上っていく。
伴家住宅階段
すると、二階はさっきよりさらに巨大な広間になっている。
伴家住宅2階
とにかくやたらと広い。ここに百人以上の女性が働いていたとすると、まさに西鶴のいうように女護島のごとしだろう。

それにしても、どことなく学校っぽい感じがするなと思ったら、明治以降は小学校や女学校として使われ、戦後は図書館として使われたそうだ。壁のない作りが学校にはちょうどよかったのだろう。

二階の窓から見た私立資料館。5月にも関わらずやたらと暑い日だったが、これだけ広いと風が抜けて心地よい。あまり人もいないので、一時間ぐらい昼寝したい気分だった。
伴家住宅の窓からみた市立資料館