今の子どもたちはデジタルネイティブというそうだ。生まれたときからパソコン・スマホなどのデジタル機器に囲まれていて、それらに何の抵抗もない世代という意味である。

同じような世代間ギャップとして、僕は手書きネイティブと活字ネイティブがあると考えている。

ここ10年ぐらいで、書道の授業をやっていて、行書を「雑な字」とか「下手な字」という生徒がだんだん増えてきた。彼らは活字ネイティブだから、一点一画はっきりと書かれた文字以外は雑に見えるらしい。楷書は文句なく美しい字に見えるが、行書もなぐり書きも同じように汚く見えてしまうのだ。

手書きネイティブから活字ネイティブへの移行は、ワープロの普及と深い関係がある思っている。ワープロの普及は、手書きの文字を劇的に減らした。ワープロが普及しだすのは、ちょうど昭和から平成に変わる時ぐらいが境目だろう。それ以来、手書きの文字を読む機会はどんどん減り、スマホが普及した今では、私的なメモぐらいでしか手書きの字を見ない。

それでも、高校生ぐらいなら黒板に書かれた手書きの字を読んでいるはずだが、書いている教員の多くが活字ネイティブになってしまっているから、板書を行書で書く人が少なくなっている。これでは行書が汚く見えても仕方がない。活字ネイティブに行書を教えるのは至難の業だ。

Twitterを見ていると、漢字のやたらと小さな違いにこだわる人がいるが、あれも活字ネイティブだからだろう。行書は点画がくっついたり、向きが変わったり、省略されたりするから、手書きネイティブではそんな細かいところはさほど気にならないのだ。

しかし、よくよく考えてみると、手書きネイティブも、決して奈良時代あたりからずっと同じように続いてきたものではない。同じ手書きネイティブでも、僕らの使う筆記用具は万年筆・ボールペン・シャープペンで、明治ぐらいまでは毛筆である。つまり手書きネイティブの中にも、硬筆ネイティブと毛筆ネイティブがあるのだ。

活字ネイティブにとって行書がすべてヘタクソに見えるのと同じように、硬筆ネイティブと毛筆ネイティブでは文字の見え方が違う。僕はもちろん硬筆ネイティブだが、長年書道の先生をやっているので、その見え方の違いは分かる。言葉で説明するのは難しいが、硬筆ネイティブは文字を形で見るが、毛筆ネイティブは文字を筆脈や線質で見る。

これはただ文字の美醜だけではなく、読むことにも関わってくる。筆で書かれた文字を読むことは、活字を読むのとは違うのはもちろんのこと、ペンで書かれた文字を読むのともまた違うのである。