やたナビTEXTの『古今著聞集』のテキストを作っていたら、源顕基がでてきた(『古今著聞集』136)。この説話とは関係ないが、顕基といえば「罪無くして配所の月を見る」という言葉である。

そこで、なんの気なしに検索してみたら、辞書サイトのコトバンクに行き当たった。ところがこの「配所の月」の解釈、どれも僕の考えていたのと違うので驚いた。

罪無くして配所の月を見る:コトバンク

このページでは、『デジタル大辞泉』・『大辞林』第三版・『精選版 日本国語大辞典』の三つの解釈を読むことができる。一番詳しく書かれている、精選版 日本国語大辞典を引用してみよう。
罪を得て遠くわびしい土地に流されるのではなくて、罪のない身でそうした閑寂な片田舎へ行き、そこの月をながめる。すなわち、俗世をはなれて風雅な思いをするということ。わびしさの中にも風流な趣(おもむき)のあること。物のあわれに対する一つの理想を表明したことばであるが、無実の罪により流罪地に流され、そこで悲嘆にくれるとの意に誤って用いられている場合もある。
これによれば、単純に配所みたいな殺風景な場所の月をながめるのが風雅だというのだ。

『デジタル大辞泉』は「流罪の身としてではなく、罪のない身で、配所のような閑寂な土地の月を眺めれば、情趣も深いであろうということ。」、『大辞林』は「流刑地のような辺境の地で、罪人としてではなく普通の人として月を眺められたらさぞ情趣があることだろうの意。 」とあり、いずれも『精選版 日本国語大辞典』と同じく配流されずに配所に行くとしている。

一方、僕は「無実の罪で流されて配所の月を見たい」といっているのだと思っていた。そんなの林冲(水滸伝)や盧俊義(水滸伝)やカルロス・ゴーン(日産)に聞かせたら、「配所なめるな!」と怒るだろう。しかし、僕がそう思っていたのは、古典で読む限りそうとしか読めないからである。

鴨長明『発心集』5-8(55)「中納言顕基、出家籠居の事」
いといみじき数寄人にて、朝夕琵琶を弾きつつ、「罪なくして罪をかうぶりて、配所の月を見ばや」となむ願はれける。

『撰集抄』4-5(30) 顕基卿事
朝に仕へしそのかみより、ただ明け暮れは、「あはれ、罪無くして配所の月を見ばや」とて、涙を流し・・・

兼好法師『徒然草』第5段
不幸に愁へに沈める人の、頭おろしなど、ふつつかに思ひ取りたるにはあらで、あるかなきかに門さしこめて、待つこともなく明かし暮らしたる、さるかたに、あらまほし。顕基中納言の言ひけん、配所の月、罪なくて見んこと、さも思えぬべし。

『発心集』と『徒然草』を読めば、三つの辞書の解釈が本来のものではないことは明瞭である。

『発心集』では「罪をかうぶりて」とあるのだから、無実の罪で流されることだし、『徒然草』は「不幸に愁へに沈める人」に似た例として出しているのだから、これも無実の罪で流される意味として出しているのは間違いない。『撰集抄』の例は定かではないが、やはり同じとみるべきだろう。

そもそも、平安時代には配所じゃなくても配所みたいな殺風景な所はいくらでもあったはずだ。都からちょっと離れただけでもあるだろうし、なんなら旅に出て東下りでもすればいい。

わざわざ「配所の月」と言っているのだから、それは「俗世をはなれて風雅な思い」かもしれないが、『精選版 日本国語大辞典』では誤用とされる「無実の罪により流罪地に流され、そこで悲嘆にくれる」ような心情を加味しないと配所の意味がないのではないか。

さすがに三つの辞書が同じ解釈で、自分の解釈と違うと自信が無くなってくるが、どう考えてもそんな単純な意味だとは思えないのである。