「こてほん」とは「古典は本当に必要か」の略である。2019年にはこのテーマでシンポジウムが開かれ、すでに一冊の本にまとめられている。

議論に水をさすのはいかがなものかと思っていたのでいままで黙っていたのだが、どうやら一段落したようなので言わせてもらう。はっきりいって僕はこの議論に全く興味がない。

そう思う理由の一つは、この議論が「古典は(学校教育に)必要である」派の仕掛けたものだからである。

「古典」を「原発」に入れ替えれば分かりやすい。「原発は本当に必要か」という議論を原発推進派が仕掛けるだろうか。原発はすでにあるのだから、その議論は原発不要派が企画するものだ。

もし原発推進派が仕掛けるなら、最初から「原発は必要である」という結論になる。そんな最初から結論が決まっているようなものは議論ではない。仮にやったとしても、端から見れば「なんだプロパガンダか」としか思われないだろう。

もう一つは、不要派の主張が「古典をやっている時間に違うことをやるべきだ」という、稚拙としかいいようがない理由だからである。

もう一度原発の例を出すと、原発反対派は「原発は危険だから不要」という。それなら本当にそれが危険なのかどうか、安全にするにはどうすればいいか、反対派を説得はできなくても議論を深めることができる。

だから、古典不要派が「古典は現代人にとって害悪でしかない」という紅衛兵みたいな主張をするのならまだ分かる。しかし、彼らの主張は「もっと他にやるべきことがあって、いろいろある教科の中で一番いらなさそうなのが古典」というものだ。

「コンピューター教育を充実させよ」とか「英語をもっとやるべきだ」のような、「◯◯をもっとやるべきだ」という主張は検討に値する。しかし、同じ人間が「◯◯のやる代わりに古典はいらん」の「古典はいらん」ということを主張する必要は全くない。

もちろん学校で教える時間は有限だから、何か新しいことを教えるなら何かを削らなければならないのは仕方がない。しかし、「◯◯が必要」を主張する人と「◯◯はいらない」を主張する人が同じである必要はない。

というよりも、それは同じ人であってはならない。それができるのは、今の学校教育がどうなっているか、全ての教科が何をどう教えているか、詳細に把握している人だけである。僕は高校で教える立場(古典ではない)にいるが、その僕でさえ「◯◯はいらない」を語る資格はないと思っている。

「このままでは学校教育から古典が消滅してしまうのではないか」という、関係者(多くは教育関係者)の焦燥があるのは理解できる。だが、それを解決するのに、不要派と議論するのは悪手である。学校教育に古典が必要だと思うなら、ほかにもっとやるべきことがあるんじゃないだろうか。