『今昔物語集』に、曹娥という女の子が父親に殉じて川に投身したという説話がある。

『今昔物語集』巻9第7話 会稽州曹娥恋父入江死自亦身投江語 第七:やたナビTEXT

この説話は、『後漢書』列女伝が元ネタで、それによると次のような話になっている。
昔、会稽州に曹娥という十四歳の少女がいた。曹娥の父、盱(く)は歌や舞いを川の神様に献ずる人だったが、漢安二年(一四三)五月五日、神様に召されて川に落ちた。神様に召されたため遺体は上がらなかった。曹娥は父との別れを悲しみ、川ばたで七日七晩、昼夜を問わず声を上げて泣き、ついにみずから川に身を投げてしまった。地域の人たちは曹娥を孝女として讃え、県の長官は石碑を建てた。
現在この川は曹娥江という名前になっていて、紹興酒でおなじみ浙江省紹興市の北東にある。一度行きたいとは思っているのだが、紹興には三回も行っているものの、ちょっと離れている上にただの川なので、まだ行っていない。それはともかく、この説話、いろいろヘンな方向に広がりがあって面白い。

県の長官が建てたという石碑は現存しないが、碑文はかの書聖王羲之が書いたとされる『孝女曹娥碑』で伝わっている。ただし王羲之の時代には見られない筆法があるので、もっと後の時代のものとみられている。

これよると、曹娥ちゃんは身を投げて五日後、父親の屍を抱いて川から出てきたとある。本来、溺死した父に殉死したというだけの話が、すでに尾ひれが付いている。

そして『孝女曹娥碑』には、碑文の後にちょっと面白い文が書き加えられている。
孝女曹娥碑
漢の議郎の蔡邕(さいよう・碑文では蔡雍)は曹娥碑の話を聞いてこれを見に来たが、闇夜で見えなかったので、手さぐりでその文を読んだ。そして碑に「黄絹幼婦外孫韲臼」と書き込んだ。

蔡邕は『熹平石経』を書いたことで知られる後漢の学者である。見に来るんなら昼間に来いよとか、なに落書きしてるんだよとかツッコミどころはあるが、それにしても「黄絹幼婦外孫韲臼」の意味がまったく分からない。

ところが、これを読み解いた人がいる。三国志でおなじみ曹操と臣下の楊修である。
曹操が江南に行った時に『孝女曹娥碑』を見た。曹操は碑文の最後にある「黄絹幼婦…」の文言を見付けたが、いくら考えても意味をとることができない。同行の楊修に「お前、この意味分かるか?」と聞くと、楊修は「分かります」と言う。曹操は「ちょっと待て、ワシが解くまで答えを言うな」と言って、帰りの道中、必死に答えを考えた。三十里ほど行ったところでピンと来た曹操が楊修に答えを求めると、楊修は次のように答えた。

「黄絹は糸の色だから糸+色で【絶】、幼婦は少女だから女+少で【妙】、外孫は女(むすめ)の子どもだから女+子で【好】、韲臼(スリバチみたいなものか?)は受辛(辛いものを受ける)だから受+辛で【辤】(辞の異体字)。通して読むと『絶妙好辞(絶妙に良い言葉)』という意味です」

これを聞いた曹操は「私の考えた通りだ。しかし私の才は楊修には遠く及ばない。その差は距離にして三十里もあることを悟った」と言った。(『世説新語』捷悟)
楊修は曹操に仕えた優秀な役人である。この説話は、楊修の優秀さと、自分の能力の限界を理解しそれを補う優秀な人を積極的に登用した曹操の性格をよく表している。ナゾナゾを解読して優秀さを表現するという点では、『宇治拾遺物語』に出てくる小野篁の説話(第49話小野篁広才の事)を思い出す。

ついでにいうと、曹操は建安十年(二〇五年)、豪華な葬礼を戒めるため石碑の建立を禁止(禁碑令)している。もし曹娥の殉死が禁碑令の後だったら、これらの話は一つも生まれていなかったことになるのも面白い。

それにしても、王羲之が碑文を書いたとか、蔡邕がナゾナゾみたいな文句を書いたとか、それを楊修が読めたとか、よく出来た話ばかりで胡散臭い。なお、中国では現在も「黄絹幼婦」は「絶妙」を意味する故事成語として使われているらしい。

黄绢幼妇:百度百科