反ワクチンにハマる人のことを頭が悪いとか、さらには学歴がどうのとかいうツィートを見かけて、それはちょっと違うだろうと思った。

反ワクチンとコロナがただの風邪だというのはセットになっている。反ワクチンで、コロナを恐れて引きこもる人というのは聞いたことがない。

こういう、陰謀論みたいなのは、ある種の「願望」が元になっている。願望は誰でも持っている。コロナに関して言えば、「早く収束して欲しい」というのがほとんどの人の願望だろう。だから、息苦しくてもマスクをするし、副反応があってもワクチンを打つ。

しかし、反ワクチンの人の願望はそうではない。彼らは「コロナウィルスは恐れるものではない。ワクチンも有害なだけで意味がない」という。つまり、コロナ禍自体を存在しないものとしようとしているのである。

コロナ禍はいずれ収束するだろうが、その時僕たちの生活は元に戻るだろうか。たぶん、マスクはしなくてもよくなるだろう。ワクチンも必要なくなるだろう。しかし、リモートワークはどうか、ソーシャルディスタンスは、遠隔授業は・・・と考えると、コロナ以前と全く同じようになるとは到底思えない。

時が経ってコロナ禍が収束しても元の生活には戻らないが、最初からコロナウィルスなど無ければ戻れる。新型コロナウィルスを否定することは、コロナ以前の生活に戻したい願望のあらわれなのだ。

げに恐ろしきは願望かな。願望は強ければ強いほど、自分の願望に都合のいい言説を信じてしまう。同じような願望を持つ人が増え、都合のいい言説を信じる人が増えれば、どんなに荒唐無稽な妄説であっても、「これだけ仲間がいるのだから真実に違いない」と確信してしまう。

『宇治拾遺物語』に、いたずらで「◯月◯日、猿沢の池から竜が昇る」という立て札を立てたら、たくさんの見物客が来て、立てた人まで信じて竜が昇るのを待ったという話がある(第130話蔵人得業、猿沢池の竜の事)。この場合、竜が昇るところを見たいという願望が得体のしれない立て札を信じさせ、人を集め、ついにはデマを作った人まで信じてしまったのである。

これは頭のいい悪いの問題ではない。人の業とでもいうべきものである。思えば、オウムの幹部も頭のいい高学歴者ばかりではなかったか。

大事なことは、自分に都合のいい言説を聞いたとき、それを批判的に受け止められるかどうかということである。