コロナ禍も三年をこえ、今ではマスクをしない生活が基本になった。僕は満員電車と教室ではマスクをするつもりだったのだが、今年の夏はあまりに暑かったので、なし崩しに着用しなくなってしまった。

マスクを外したからすべてがコロナ前にすべて戻ったかというと、ぜんぜんそうではない。外食はあまりしなくなったし、運動もしなくなってしまった。地上波や衛星放送のテレビも見なくなったし、海外旅行にも行っていない。ほかにも、いろいろと変わってしまったことがある。これは個人的なことばかりではなく社会的なことも同じである。

コロナ禍が始まったころ、数年もすれば終わるだろうとは思っていたが、なんとなく政府から終結宣言でも出てスパッと終わり、元の生活に戻ると思っていた。しかし、今のところそうなってはいない。もうまともに数を数えてきないからはっきりとはわからないが、感染者は以前より増えているのは間違いない。僕の父はほとんど外出していないのに、今年二回もコロナにかかった。僕自身も去年までは一度も風邪をひかなかったのに、今年は三回もひいてしまった。たぶんコロナにもかかっているだろう。

コロナは終わっていないのに、社会がもとに戻りつつある。僕は、電車に乗るときには再びマスクをするようになった。どこを戻して、どこを戻しちゃいけないのか、試行錯誤の日々である。

これが時代の変わり目というものなのだろう。時代は急に変わるのではなく、いつの間にか変わって、あとで気づくものらしい。今回はコロナという分かりやすい契機があったが、それでも今が変化のとば口なのか、半ばなのか、終わりなのか、まだ誰にも分からない。

今年印象に残った事件というと、ジャニー喜多川の性加害と自民党清和会のパーティー券問題だが、どちらも時代の変わり目に対応できなかったからである。ジャニー喜多川の方は1988年の北公次の暴露本以来周知のことだったし、清和会のパー券も「まあそのぐらいしているだろうな」程度のことで、やっていること自体に驚きはない。最近報道されたダイハツの不正も、ダウンタウン松本も同様である。これまで社会や周囲が見てみぬふりをして許してきたことが、時代の変わり目とともに表に現れたというこだろう。

時代の変化に抗うことはできない。なんとか自分を変えて対応するか、さもなきゃ隠居するかしかない。