前に嵯峨本『伊勢物語』に不可解な挿絵があるという話を書いた。



その挿絵がこれ。男(在原業平?)が何やら書いているのだが、なぜか女装している。紙も白紙ではなく、わざわざ界線のようなものが書かれている。
isepic43
嵯峨本『伊勢物語』の挿絵は章段の最後か中に挿入されるので、場所からすると93段の挿絵なのだが、どう見ても内容にあっていない。そもそも、この章段は挿絵になりそうな話ではない。

とすると、章段の最初に入れるのは異例だが、次の94段はどうかということになる。


絵の箇所と思われるのは次の部分である。
 女がたに、絵描く人なりければ、描きにやれりけるを、今の男のものすとて、一日二日(ひとひふつか)おこせざりけり。かの男、「いとつらく、おのが聞こゆることをば、今まで給はねば、ことわりと思へど、なほ人をば恨みつべきものになむありける」とて、弄(ろう)じて詠みてやれりける。時は秋になんありける。(以下略)
挿絵のポイントは次の3点である。

  1. 前栽に萩やすすきらしきものが植わっており、屏風にも同じような絵が描いてあること。
  2. 男が女装していること。
  3. 男が書いている紙に界線のようなものがあること。
まず、1の萩やすすきは季節が秋であることを表しているのは明白である。引用文の最後に「時は秋になんありける。」ととって付けたように書かれているので季節はあっている。ちなみに前段は季節が明らかでない。

問題は2のなぜ女装をしているかである。ここで、「女がたに、絵描く人なりければ・・・」という文に注目したい。この文、通常は次のように解釈される。
(男は)女の方に、(その女は)絵を描く人だったので、(絵)描き(を依頼する手紙を女)に送ったのだが、今の男がいるというので、(女は)一日二日(返事を)送らなかった。
「女がたに」は「描きにやれりけるを」に続くというわけである。おそらくこの解釈でいいのだろうが、主語の省略が多くなってしまうので、初見でこう解釈することは難しい。

ところが、「女がた」を「女形」つまり「女の姿」と解釈すると内容はヘンだが比較的解釈しやすくなる。
(男は)女装して絵を描く人だったので、男は描くために女に(手紙を)送ったのだが、今の男がいるというので、(女は)一日二日(返事を)送らなかった。
女装して絵を描くというちょっとした変態行為の意味はさっぱり分からないが、文意としては通じやすいのではないだろうか。

ということは挿絵の男は手紙や歌などの文字を書いているのではなく、絵を描いているということになる。だとすれば、3の界線のある紙は絵を描くための紙を表現していると考えられるし、1の萩・すすきも、それをモデルにして描いていると考えられる。あるいは後ろの屏風も男が描いたと考えてもいいかもしれない。

「女形」という言葉は、江戸時代初期の寛永6年(1629)に女歌舞伎が禁止されてから出来た言葉らしい。嵯峨本伊勢物語の刊行は慶長13年(1608年)なので少々時代が早いが、「をんな」と「かた」の複合語だから、意味として理解できなくはないだろう。