東寺観智院本『三宝絵(三宝絵詞)』の電子テキストを公開しました。


東寺観智院本『三宝絵詞』:やたナビTEXT

底本は東寺観智院本(東京国立博物館・国宝)です。いつもどおり、翻刻部分はパブリックドメインで、校訂本文部分はクリエイティブ・コモンズライセンス 表示 - 継承(CC BY-SA 4.0)で公開します。

『三宝絵』は平安時代中期に成立した仏教説話集です。作者は文人貴族として知られる源為憲。仏宝・法宝・僧宝の三巻からなり、それぞれの内容は次のようになっています。

上巻 仏宝…釈迦の本生譚。
中巻 法宝…日本への仏教の伝来と高僧の略伝。
下巻 僧宝…年間の法会の次第や由来。

僕は説話集の多くは教科書として書かれたんじゃないかと思っているのですが、『三宝絵』はまさしく仏教の初心者向け教科書として書かれました。ですから、仏教説話に詳しい人にとってはあまり新味はありません。特に中巻はほとんど『日本霊異記』の焼き直しの上、霊異記独特のオドロオドロしい説話は一つも入っていないので、なんだか気が抜けた炭酸飲料みたいな感じがします。

しかし、ちょっと読み方を変えると、とたんに味わい深い作品になります。それは、読者を想定することです。実は『三宝絵』はたった一人の読者のために書かれた作品なのです。

たった一人の読者とは、冷泉天皇第二皇女尊子内親王です。何しろ皇女ですから究極のお姫様です。しかし、幸せな生涯を送ったとはいえません。
尊子内親王は『栄花物語』によれば「いみじう美しげに光るやう」な姫宮であったといい、摂関家嫡流を外戚に何不自由ない将来を約束されていたが、外祖父・藤原伊尹や母・懐子、そして叔父たちまでも次々と早世したために有力な後見を失ってしまう。また円融天皇の妃となった際も、入内直後に大火があったため世間から「火の宮」(内親王の皇妃を「妃の宮」と呼ぶのに掛けたあだ名)と呼ばれるなど、高貴な生まれにもかかわらず不運の連続だった。それでも円融天皇は尊子内親王を可愛らしく思い寵愛したというが、唯一の頼りであった叔父・光昭の死を期に、内親王は自ら髪を切り落として世を捨ててしまう。(尊子内親王:Wikipedia
『大鏡』伊尹伝
また花山院の御いもうとの女一の宮は亡せたまひにき。女二の宮は、冷泉院の御時の斎宮に立たせたまひて、円融院の御時の女御に参りたまへりし、ほどもなく、内裏の焼けにしかば『火の宮』と世の人付け奉りき。さて、二三度参りたまひて後、ほどもなく亡せたまひにき。この宮にご覧ぜさせむとて『三宝絵』は作れるなり。
『栄花物語』花山尋ぬる中納言
堀河の大臣(兼通)おはせし時、今の東宮(師貞)の御妹の女二の宮(尊子)参らせ給へりしかば、いみじううつくしうとてもて興じ給ひしを、参らせ給ひて程もなく、内など焼けにしかば、火の宮と世の人申し思ひたりし程に、いとはかなううせ給ひにしになん。
尊子内親王は天元5年(982年)に出家した後、永観3年(985年)に二十歳の若さで亡くなっています。『三宝絵』は序によると永観2年11月に書かれています。尊子内親王が亡くなったのはその半年後です。為憲が書き終えたとき、すでにかなり弱っていたのでしょう。

『三宝絵』はタイトル通りもともと絵があったものが、現在は伝わっていないといわれています。しかし、私は最初からなかったんじゃないかと思っています。絵の場所は「有絵」と書かれていますが、上巻の最初のほうにしかありません。本当は絢爛豪華な本にするつもりが、尊子内親王の具合がだんだん悪くなり、急いで奉るために絵の場所の指定だけして入れなかったか、そこだけ入れて奉ったのだと思います。

為憲はでこのように書いています。
我が宮、深窓に養はれて未だ外(ほか)の事を知らず。他家の遠き事を心中に思ひ遣りて、我が国の近き事をば眼の前に知見し、公私の仏事、和漢の法会、種々これを写して、各々これを書く。戸を出でずして天下の貴き事を知るにこの巻にしかず。
「深窓に養はれて未だ外の事を知らず」という書き方がいかにも尊子内親王の身分の高さを表しているようですが、いかに皇族とはいえ、「深窓に養はれて」とか「戸を出でずして天下の貴き事を知る」というのはどうにも不自然に感じます。幼いころから体が弱かったのではないでしょうか。

その深窓のお姫様に捧げたのがこの作品です。姫様が直接登場するのはこの賛だけですが、説話のチョイスや書きぶりに、為憲の姫様に向けた愛情が伝わってきます。『日本霊異記』を源泉とする説話にしても、マイルドな話しか入っていないのもその現れでしょう。

為憲はこの薄幸のお姫様にそうとうな思い入れがあったのだと思います。それを感じながら読むのが、この作品の味わい方です。