カテゴリ: 漢文

書道Iの授業で、比較的最初の方で扱う作品に褚遂良の『雁塔聖教序』がある。『雁塔聖教序』は唐の二代皇帝、太宗が玄奘の功績をたたえて書いた文を石碑にしたものである。玄奘とは『西遊記』でおなじみ三蔵法師のことだから、内容も説明しやすい・・・と思っていたのだが・・・。

いつのころからか、様子が変わってきた。聞いてみると『西遊記』を全く知らないらしい。そういう生徒はだんだん増えてきて、今ではほとんどの生徒が知らない。登場人物の名前だけ借りたドラゴンボールですら通じなくなっている。

日本で『西遊記』がドラマ化されたのは、2006年の香取慎吾さんが孫悟空をやったフジテレビ版が最後らしい。なんともう18年も前の話だ。もちろん、チャウ・シンチーの映画や諸星大二郎の漫画など、マニアックなものはなくはないが、誰でも見ている・読んでいるというものではない。そりゃ知らないのも道理である。

ここでちょっと話は変わるが、先日amazonプライムでドリフの『飛べ孫悟空』を見ていたら、堺正章が孫悟空を演じた日本テレビ版『西遊記』を指して「類似品にご注意ください」と言っているのを聞いてびっくりした。てっきり『飛べ孫悟空』よりずっと後だと思っていたのである。何と言っていたか忘れてしまったが『SF西遊記スタージンガー』までセリフに出てきた。記憶では『飛べ孫悟空』と日本テレビ版『西遊記』の間ぐらいだと思っていた。

そこで、これらの作品がいつ放映されたのかWikipediaで調べてみた。

  • 『飛べ孫悟空』  1977年10月11日〜1979年3月27日
  • 『スタージンガー』 1978年4月2日〜1979年6月24日
  • 日本テレビ『西遊記』 1978年10月1日〜1979年4月8日
  • 西遊記II(堺正章) 1979年11月11日 〜1980年5月4日
『飛べ孫悟空』が最初なのは合っていたが、これほど時期が重なっていたとは思わなかった。また、『飛べ孫悟空』がこんなに長くやっていたのも意外だった。たぶん、『飛べ孫悟空』に飽きたころ日本テレビ版が始まったので、見なくなってしまったのだろう。

どうやら1977年から80年までは西遊記ブームだったらしい。『西遊記』と称するものに触れまくっていた僕たちの世代が特殊だったのだ。これでは『西遊記』を知らない今の高校生をどうこういうことはできない。

でも、大まかな内容ぐらいは知っていてほしいよな〜。
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『唐鏡』が、後漢末から西晋まで終わった。だいたいの歴史の流れが分かったので(今までよく分からなかった)、今更ながら『三国志演義』を読んでいる。もちろん翻訳である。

今まで読まなかったのは、実は軍記的な作品が苦手だからである。『平家物語』までは何とかなるが、『太平記』になるとなにがなにやら、誰と誰がどっち方だったか、わけがわからなくなってしまう。『太平記』ですらそれだから、『三国志』になるともう昨日の敵は今日の友、昨日まで殺し合ってた人たちが同盟を結んだり、結んだ瞬間に裏切ったりと、本当にわけがわからなくなる。おまけに出てくる人の数がやたらと多い。名前似てるし。

実はすでに一度通読したのだが、あまりに分からないから、もう一度読み直している。二周目、まだ董卓がブチ殺され、書道的には熹平石経でおなじみの蔡邕がついでにブチ殺されたところまでだが、最初に読んだ時よりは分かるようになった。

一回目に読んでいる途中、ワグネル・グループの反乱があった。なんだか『三国志』みたいだなと思っていたら、やはりそう思った人は多かったらしく、「三国志 プリゴジン」でTwitter検索してみたら沢山ヒットした。

プリゴジンを誰に当てるかが、人によって違う。呂布だったり魏延だったり劉備だったり、理解の度合いやどの場面を当てるかの違いがわかって、なかなか面白い。ついでに「プリゴジンの乱」などと時代がかった名前で呼ばれるようになった。

しかし、よく考えてみると、戦争なんてそんなものだ。表向き忠誠を誓っても、我が身が大事である。勝てっこない戦で死ぬぐらいだったら、忠誠なんかかなぐり捨てて敵方に寝返った方がいい。戦闘に参加しない民草の方にしても、ダメな支配者についていくぐらいなら逃げるか投降した方がずっといい。

僕たちには太平洋戦争のイメージが強すぎる。あれは戦争としては特殊で、太平天国の乱に似ている。狂信者の戦争だったのだ。日本人が戦争を回避するのにもっとも必要なことは、二度と狂信者にならないことだろう。
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定時制高校の授業を終えて一息ついていると、Twitterのタイムラインでこんなのが流れてきた。

漢文なので解釈がおぼつかないが、石川忠久先生が亡くなられたということらしい。きわめて近い関係の人らしいので間違いはないだろう。まずはご冥福をお祈りします。

僕は国文学が専門なので、実は忠久先生(「チュウキュウせんせい」と読んでください)の授業を一度も受けたことがない。しかし、いささかのご縁がある。いやいささかなんて言ったら逆に失礼かもしれない。なにしろ「君とは腐れ縁だな」と言われたほどなのだ。あの忠久先生からこんなことを言われるやつはそうはいないだろう。

その腐れ縁、話は今をさかのぼること33年前である。当時僕は湯島聖堂に住みはじめたばかりだった。警備員兼職員兼お茶くみみたいな仕事で、たいしたことをしていたわけではない。そのころちょうど湯島聖堂の運営団体である斯文会の理事長が、宇野精一先生から忠久先生に変わった。

このころの思い出はたくさんあるが、よく覚えているのが、忠久先生が自動車に乗って現れた時のことである。斯文会の駐車場に見慣れない車が止まって、中から髭をはやした漢学者が出てきてびっくりした。しかも重々しいクラウンとかセドリックではなく、当時デートカーなどといわれたカリーナEDである。ニコニコして「この車買ったんだ」とおっしゃるので、「カッコイイですねー!」と答えた。後にも先にもこのときぐらい「カッコイイ」という言葉が自然に出たことはない。

その後、僕は学部を卒業し大学院に入り湯島聖堂を出た。するとなんと忠久先生も桜美林大学から二松学舎に移籍してきた。一瞬、オレのことが好きなのかと思った。しかもその数年後には学長になられた。

そのあとなんやかんやあって、僕が学位論文を提出したときのことである。学位論文の審査は国文学から五人と中国学から一人が審査員になるのだが、中国学は忠久先生が審査員になってくれた。師匠の話によると、教授会で僕の名前が出たとたん「私がやりましょう」と引き受けてくれたそうだ。あとから聞いて知ったことだが、これは本当に嬉しかった。

その面接のときのことも忘れられない。「面白かった。だけど、喩えが俗っぽいな。これは直したほうがいい」。僕は忠久先生の良さは俗っぽさにあると思っているので、これは讃め言葉だなと思ったが、よく考えてみるといきすぎた俗っぽさに対して警告してくれたのかもしれない。調子に乗ってはいけない。

僕は忠久先生の授業を取ったことがないし、用事で会いに行ったこともない。専門が違うので学会で会うこともない。しかしどういうわけか、いろいろな所でたまたまお会いすることが多かった。誰かの展覧会でお会いし挨拶に行ったときに、「君とは腐れ縁だな。ハハハハハ」という言葉をいただいたのである。

忠久先生からしたら、僕なんかモブキャラ以外の何者でもない。だが、なぜかいつも画面の隅いる謎のモブキャラだったようだ。もうそんなモブキャラを勤められないと思うとたまらなく寂しい。

それにしても第一報をTwitterで見つけるとは思わなかった。しかも漢文である。それがいかにも忠久先生らしいと思う。重ねてご冥福をお祈りします。

というか、ブログ強化月間だからって、こんなネタ提供はもういらないよ。

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昨日のKDDIの通信障害は交換機の故障による輻輳(ふくそう)が原因だという。

au通信障害、原因は通信設備の故障による輻輳 通信規制で対処中:ITmediaNEWS
一部のVoLTE交換機の故障により、トラフィックが一部に集中(輻輳)した結果として、通信がつながりにくい状況が起きているという。同社は輻輳の軽減のため、各ユーザーの通信を規制するといった対応を取っているとしている。ただし、復旧自体のめどはいまだ立っていない。
交換機というのは電話をかけた相手に繋ぐ装置のことだから、一部のこれが故障して、故障していない交換機に集中した結果、繋がりにくくなったということだろう。「輻輳」という言葉はあまり聞き慣れない言葉だが、個人的には東日本大震災のとき知った言葉である。あのときも電話が集中して繋がりにくくなった。

気になるのは「輻輳」という言葉である。どちらも常用漢字に入っていないどころか、これ以外に見た覚えがない。読みは声符(音符)で推測できるとおりだが、本来の意味はさっぱりわからない。というわけで調べてみた。

辞書などに書かれていたことをまとめると、「輻」は車輪から車軸に伸びるもので、自転車のホイールでいえばスポークのこと。「輳」は「一点に集まる」という意味で「凑(湊)」の異体字。「凑(湊)」の方が古く、本来は川が集まる場所という意味に由来するらしい。したがって「輻凑」や「輻湊」とも書く。

そこから、スポークがハブの一点に集中するように、人や物が一ヶ所に集中することを「輻輳」というようになった。用例も古くからあり、例えば『管子』任法に見られる。ここでは、聖君を中心にスポークがハブに集中するように群臣が集まって仕えるという意味だろう。
聖君亦明其法而固守之,群臣脩通輻湊以事其主,百姓輯睦聽令道法以從其事。
そう考えると、「トラフィックが一部に集中」には適切に思えるが、気になるのは中国語でそのような意味として使われているのかである。

いくつか辞書を当たってみたがそのような意味は書いていない。baiduなどで検索してもそのような使い方は見られない。今回の障害も報道されているが、「輻輳」という言葉を使っているものはない。どうも「トラフィックが一部に集中」する意味としては中国語では使わないらしい。

ただし、医学用語の輻輳反射(近くを見ると寄り目になること)としては使われていて、これは日本でも使われるので、もともとは医学用語が通信用語に転用されたものだろう。しかし、目玉は2つしかないのでイマイチ輻輳感がない。「トラフィックが一部に集中」意味に使い始めた人は、かなり教養のある人だったのだろう。

それにしても、まだ通じてないよ。休日で暑い中復旧作業をしている人は大変だと思うけど、大丈夫かねコレ。
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『今昔物語集』に、曹娥という女の子が父親に殉じて川に投身したという説話がある。

『今昔物語集』巻9第7話 会稽州曹娥恋父入江死自亦身投江語 第七:やたナビTEXT

この説話は、『後漢書』列女伝が元ネタで、それによると次のような話になっている。
昔、会稽州に曹娥という十四歳の少女がいた。曹娥の父、盱(く)は歌や舞いを川の神様に献ずる人だったが、漢安二年(一四三)五月五日、神様に召されて川に落ちた。神様に召されたため遺体は上がらなかった。曹娥は父との別れを悲しみ、川ばたで七日七晩、昼夜を問わず声を上げて泣き、ついにみずから川に身を投げてしまった。地域の人たちは曹娥を孝女として讃え、県の長官は石碑を建てた。
現在この川は曹娥江という名前になっていて、紹興酒でおなじみ浙江省紹興市の北東にある。一度行きたいとは思っているのだが、紹興には三回も行っているものの、ちょっと離れている上にただの川なので、まだ行っていない。それはともかく、この説話、いろいろヘンな方向に広がりがあって面白い。

県の長官が建てたという石碑は現存しないが、碑文はかの書聖王羲之が書いたとされる『孝女曹娥碑』で伝わっている。ただし王羲之の時代には見られない筆法があるので、もっと後の時代のものとみられている。

これよると、曹娥ちゃんは身を投げて五日後、父親の屍を抱いて川から出てきたとある。本来、溺死した父に殉死したというだけの話が、すでに尾ひれが付いている。

そして『孝女曹娥碑』には、碑文の後にちょっと面白い文が書き加えられている。
孝女曹娥碑
漢の議郎の蔡邕(さいよう・碑文では蔡雍)は曹娥碑の話を聞いてこれを見に来たが、闇夜で見えなかったので、手さぐりでその文を読んだ。そして碑に「黄絹幼婦外孫韲臼」と書き込んだ。

蔡邕は『熹平石経』を書いたことで知られる後漢の学者である。見に来るんなら昼間に来いよとか、なに落書きしてるんだよとかツッコミどころはあるが、それにしても「黄絹幼婦外孫韲臼」の意味がまったく分からない。

ところが、これを読み解いた人がいる。三国志でおなじみ曹操と臣下の楊修である。
曹操が江南に行った時に『孝女曹娥碑』を見た。曹操は碑文の最後にある「黄絹幼婦…」の文言を見付けたが、いくら考えても意味をとることができない。同行の楊修に「お前、この意味分かるか?」と聞くと、楊修は「分かります」と言う。曹操は「ちょっと待て、ワシが解くまで答えを言うな」と言って、帰りの道中、必死に答えを考えた。三十里ほど行ったところでピンと来た曹操が楊修に答えを求めると、楊修は次のように答えた。

「黄絹は糸の色だから糸+色で【絶】、幼婦は少女だから女+少で【妙】、外孫は女(むすめ)の子どもだから女+子で【好】、韲臼(スリバチみたいなものか?)は受辛(辛いものを受ける)だから受+辛で【辤】(辞の異体字)。通して読むと『絶妙好辞(絶妙に良い言葉)』という意味です」

これを聞いた曹操は「私の考えた通りだ。しかし私の才は楊修には遠く及ばない。その差は距離にして三十里もあることを悟った」と言った。(『世説新語』捷悟)
楊修は曹操に仕えた優秀な役人である。この説話は、楊修の優秀さと、自分の能力の限界を理解しそれを補う優秀な人を積極的に登用した曹操の性格をよく表している。ナゾナゾを解読して優秀さを表現するという点では、『宇治拾遺物語』に出てくる小野篁の説話(第49話小野篁広才の事)を思い出す。

ついでにいうと、曹操は建安十年(二〇五年)、豪華な葬礼を戒めるため石碑の建立を禁止(禁碑令)している。もし曹娥の殉死が禁碑令の後だったら、これらの話は一つも生まれていなかったことになるのも面白い。

それにしても、王羲之が碑文を書いたとか、蔡邕がナゾナゾみたいな文句を書いたとか、それを楊修が読めたとか、よく出来た話ばかりで胡散臭い。なお、中国では現在も「黄絹幼婦」は「絶妙」を意味する故事成語として使われているらしい。

黄绢幼妇:百度百科
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今まで京劇には全く興味がなかった。何しろ何を言っているのかわからないし、ある程度ストーリーを知っていても、うろ覚えだから演技だけで理解できる自信がない。

しかし、京劇には『水滸伝』を元ネタにするものがいくつかあるのを知って、Youtubeで見てみたらなかなか面白かった。ストーリーは知っているので、言葉は相変わらずよく分からないものの、誰が何をしているのかはよく分かる。

魯智深と林冲が暴れる『野猪林』、李逵が母親に会いに行き虎退治をする『李逵探母』、武松の虎退治『武松打虎』などを見たが、一番面白かったのが『時遷盗甲』。


時遷はこそ泥の達人である。宋江から、徐寧を仲間に引き入れるため家宝の鎧を盗めという命令が下り、夜中に徐寧の屋敷に忍び込み、天井の梁にぶら下げられている鎧の入った箱を盗み出す。単純明快なので、『水滸伝』を知らなくても楽しめるだろう。

登場人物はほぼ時遷一人だけ。これがまたヘンな格好をしている。表情も喋り方もしぐさも面白いし、パントマイムありアクロバットありコサックダンスもどきありで見ていて飽きない。京劇というと、やかましくドンドンシャンシャンやっているイメージだが、なにしろ鼓上蚤(太鼓の上ではねても蚤が飛ぶのと同じように音がしない)と渾名されるドロボーなので、ほとんど無音の場面も多い。

それにしても、箱が小さすぎる。書類箱みたいで、とても鎧一式が入っているようには見えないな。
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ことほどさように(昨日の記事参照)、トップにはゼネラリスト性が求められるのだが、最近水滸伝脳になっているので、林冲と王倫の場面を思い出した。

林冲は武術のスペシャリストである。彼は晁蓋らを受け入れなかった初代首領の王倫を殺してしまう。普通なら殺した林冲が首領になるが、自分は器でないと固辞し、首領の座を新参者の晁蓋に譲る。自分にゼネラリストとしての能力に欠けていることが分かっていたから晁蓋に譲ったと見ることができる。

さて、梁山泊の歴代首領は王倫・晁蓋・宋江の三人がいるのだが、この三人、全然違うタイプで、現代でも上司としていかにもいそうな感じでおもしろい。

1.王倫
王倫は科挙に落ちた落第書生である。落ちたとはいえ、科挙を受けるぐらいだから頭はいいのだろう。

しかし、彼は腕の立つ人物が来ると、自分の座が脅かされるのではないかと不安になり、仲間に入れることができない。自分以下のレベルの人しか扱えないのである。

こういう人はお山の大将で満足していて、組織を大きくすることはできないし、その気もない。いかにも中小企業の社長に多そうな人物である。

2.晁蓋
もともと田舎番長みたいな人で、宋江ほどではないが人望がある。番長だから腕に自信もある。しかし、下手に自信があるために、みんなが止めるのも聞かず、自分が戦場へ行ってしまったため戦死してしまった。

部下にとって必要なのは、トップの統率力であって、実力ではない。実際、『水滸伝』では、晁蓋が出陣しようとするのを、宋江たちが止める場面が度々出てくる。しかし、本人からするとそれでは我慢ができない。現場に出て腕をふるいたくてしかたがないのだ。

トップが現場を理解しているのは大事なことだが、みずから現場に出るのは困りものだ。だいたいロクな結果にならない。

3.宋江
宋江は番頭タイプの人である。文武両道のゼネラリストで、人望もあり統率力もあるのだが、トップに立つことを全く考えておらず、常に二番手以下を望んでいる。実際、そっちのほうが力を発揮するタイプだろう。

ところが、不幸にも晁蓋が死んでしまったために、周りから推されてトップにされてしまった。トップなんて思いもしないから、首領になった後もバカバカしいぐらいに首領の座を譲ろうとする。

ところが、人望で宋江に勝てる人はいないので、誰も引き受けない。ならば国のトップである皇帝をトップにするしかないということになる。だから宋江は招安(朝廷に帰順すること)にこだわる。宋江はもともと小役人だったが、いかにも役人的な考え方である。

どうにも三人とも帯に短し襷に長しで、なんともビミョーな気持ちになる。しかし、『水滸伝』はそこがいいのだ。どの〈好漢〉をとってもビミョーな気持ちになるのが、『水滸伝』の面白さである。
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連休二日目、天気がいいので湯島聖堂の孔子祭に行った。いわゆる釈奠である。会場は湯島聖堂の大成殿。
大成殿
湯島聖堂といえば日本を代表する孔子廟だが、釈奠は儒式ではなく、裏の神田明神の神官が執り行う。雅楽が流れる中、「お〜〜〜」という警蹕とともに厨子を開け、お供えを捧げる。この形式は江戸時代から続くものらしい。
孔子祭
昔、僕はここに二年ほど住んでいた。孔子祭の前になると供物の用意をしなければならない。供物のリストをもらって、それを御徒町の吉池というスーパーへ買い出しに行くのだが、コンプリートするのが難しいので苦労した覚えがある。
供物
リンゴなどが乗っている容器を「豆(トウ)」という。「豆」という字とよく似た形をしているが、形が似ているから「豆」というのではなく、本来「豆」という字はこの容器を意味していた。

数ある供物の中でも、一番大事なのが生贄である。本来は生きた羊などをお供えすべきものだが、湯島聖堂では鯉になっている。2つめの写真にある7つの黒い箱に入っているはずだが、なぜか生気が感じられない。昔は大暴れする鯉を捕まえて箱につめ、やっとおとなしくなったと思ったら、儀式の最中に突然暴れだしたりしたものだが・・・。

終わってから箱の中を見ると・・・。
生贄の鯉
暴れないのも道理、なんとぺちゃんこの写真になっていた。職員に聞くと、震災の時に生きた鯉が入手難になって、そのまま写真になってしまったという。なるほど無益な殺生はよくない。しかし、写真というのもいかがなものかと思うので、そのうち立体的なのを寄付してあげようと思った。

神官による儀式の後は、祭主や来賓の拝礼が続き、早稲田大学の土田健次郎氏による講経(こうけい)があった。講経とは簡単な講義で、今回は「孔子の師は誰か」というテーマである。孔子の師匠(の一人)が老子というのは、『今昔物語集』10-9にも出てくるので、なかなか興味深かった。

しかし、来月は改元である。本来ならそこにも触れてほしいところだが、「令和」は『万葉集』が出典のためか、まったく触れられなかった。宇野茂彦氏による主催者挨拶でも出なかったので、寂しいかぎりである。

大成殿での儀式の後には講演会があるのだが、一時間立ちっぱなしで、はなはだ疲れたので遠慮した。せっかくここまで来たので、神田明神にもお参りしてきたのだが・・・。
神田明神
僕の知ってる神田明神じゃなくなってボーゼンとした。
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男臭いバイオレンスでおなじみの『水滸伝』だが、意外にも書道も関係がある。

梁山泊一味の宿敵、奸臣の一人が蔡京である。梁山泊の宿敵になるぐらいだから、史実の蔡京もあまり評判がよろしくなく、『宋書』では列伝231奸臣2に入っている。正史で奸臣に入るのだから、相当なものだ。

その蔡京は、宋の四大家(蘇軾・黄庭堅・米芾・蔡襄)の一人、蔡襄(洛陽橋(万安橋)に行ってきた続 洛陽橋(万安橋)に行ってきた参照)の甥で、自身も能書家として知られている。

『水滸伝』には、蔡京が能書家であることをうまく利用したエピソードがある。

『水滸伝』第三十九回で、潯陽樓の壁に反乱の詩を書いた罪で囚われた宋江を梁山泊一味が救助するため、蔡京からの手紙を偽造する場面がある。作戦の発案者呉用の言葉に宋の四大家が出てくる。
如今天下盛行四家字体、是蘇東坡・黄魯直・米元章・蔡太師四家字体。蘇・黄・米・蔡宋朝四絶。

講談社文庫『水滸伝』(駒田信二訳)による和訳は次の通り。
いま天下にもてはやされているのは四家の書体、すなはち蘇東坡・黄魯直・米元章・蔡京の四家の書体で、蘇・黄・米・蔡といって宋朝の四絶と称されております。

呉用は書の達人蕭譲と彫刻の達人金大堅をむりくり仲間に引き入れて、蔡京の書と印を偽造させる。蔡京の書と印は、当時流行の書として、法帖(お手本)が出回っていたので、上手い人なら簡単に偽造することができたというわけだ。古い印をお手本にしたため、文書偽造がバレるという落ちがつくのだが、108人の好漢の中に書家と篆刻家(のようなもの)が入っているというのが面白い。

それにしても、呉用の言う宋朝四絶は現行の宋の四大家と違う。蘇東坡・黄魯直・米元章は、それぞれ蘇軾・黄庭堅・米芾だから問題ないが、蔡襄であるべきところが蔡京になっている。

『水滸伝』が書かれた明代では蔡京だったのか、あるいは、作品中で辻褄を合わせるために蔡京にしたのか。蔡京が奸臣だから蔡襄にしたというのは一応説得力はあるが、『水滸伝』の書かれた明代よりあとに、奸臣だからといって蔡襄にするのはちょっと遅すぎる気もする。
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最近、『水滸伝』にはまっている。

実は、登場人物がやたらと多い長編ドラマが苦手だ。読んでいるうちに誰がだれやら分からなくなってしまう。だから、中世文学が専門なのに、『平家物語』も『太平記』も苦手。『水滸伝』は108人の好漢が梁山泊に集結する物語というではないか。108人!聞いただけで興味が失せる。

というわけで、今まで、まったく興味がなかったのだが、妻が2011年に中国で制作されたテレビドラマ『水滸伝』を何話か見て面白いというから見てみた。たしかに面白い。テレビドラマだと顔が見えるので、文章を読むよりも登場人物が覚えやすくていい。それでも108人+諸々の人々は多すぎるけど。
水滸伝公式サイト

この機会に原作(の翻訳)も並行して読んでいる。

原作と比べてみると、後半になると冗長な合戦が省略されるようだが、話の流れはだいたい原作と同じ。

改変部分の傾向としては、

・残酷すぎる描写はカットかマイルドになっている(けど、血はドバドバ出る)。
・妖術などの神秘的な描写がない(ので、道士の公孫勝先生の存在感が薄い)。
・原作でキャラが崩れたとき、修正しようとする(特に宋江がらみ)。

バトルシーンはワイヤーアクションを多用して、最近のカンフーアクションっぽくなっている。特に前半は一対一のバトルが多いので、カンフー映画にしか見えない。舞台となる市街地や山寨がやたらとリアルだが、山東省に壮大な宋代のセットを組んで撮ったそうだ。そして、なんといっても俳優が個性的でいい。

はまったのにはもう一つ理由がある。さすがにこれだけ中国に行っているので、かなり土地勘があったことだ。よく出てくる、山東省・河北省は自転車旅行で二回縦断し、ツアーで一回行っているので、たいがいの場所は分かる。

中国自転車旅行記(北京〜上海):やたがらすナビ

梁山泊のある梁山県は18年前、初めての自転車旅行で行った。梁山県はカッサカサに埃っぽく乾いていたので、梁山泊はもっと外れにあるのだろうと思っていたのだが、実際には黄河の流れが変わったので、沼沢がなくなったらしい。街のど真ん中に小さな山があって、小汚い子供が登って遊んでいたのをよく覚えている。これが梁山泊の山寨だったらしい。

もちろん、内容が面白いのが一番の理由だったりするのだが、それはいずれ気が向いたときにでも。なにしろ、やたらと長い作品なので。
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