定時制高校の授業を終えて一息ついていると、Twitterのタイムラインでこんなのが流れてきた。
漢文なので解釈がおぼつかないが、石川忠久先生が亡くなられたということらしい。きわめて近い関係の人らしいので間違いはないだろう。まずはご冥福をお祈りします。
僕は国文学が専門なので、実は忠久先生(「チュウキュウせんせい」と読んでください)の授業を一度も受けたことがない。しかし、いささかのご縁がある。いやいささかなんて言ったら逆に失礼かもしれない。なにしろ「君とは腐れ縁だな」と言われたほどなのだ。あの忠久先生からこんなことを言われるやつはそうはいないだろう。
その腐れ縁、話は今をさかのぼること33年前である。当時僕は湯島聖堂に住みはじめたばかりだった。警備員兼職員兼お茶くみみたいな仕事で、たいしたことをしていたわけではない。そのころちょうど湯島聖堂の運営団体である斯文会の理事長が、宇野精一先生から忠久先生に変わった。
このころの思い出はたくさんあるが、よく覚えているのが、忠久先生が自動車に乗って現れた時のことである。斯文会の駐車場に見慣れない車が止まって、中から髭をはやした漢学者が出てきてびっくりした。しかも重々しいクラウンとかセドリックではなく、当時デートカーなどといわれたカリーナEDである。ニコニコして「この車買ったんだ」とおっしゃるので、「カッコイイですねー!」と答えた。後にも先にもこのときぐらい「カッコイイ」という言葉が自然に出たことはない。
その後、僕は学部を卒業し大学院に入り湯島聖堂を出た。するとなんと忠久先生も桜美林大学から二松学舎に移籍してきた。一瞬、オレのことが好きなのかと思った。しかもその数年後には学長になられた。
そのあとなんやかんやあって、僕が学位論文を提出したときのことである。学位論文の審査は国文学から五人と中国学から一人が審査員になるのだが、中国学は忠久先生が審査員になってくれた。師匠の話によると、教授会で僕の名前が出たとたん「私がやりましょう」と引き受けてくれたそうだ。あとから聞いて知ったことだが、これは本当に嬉しかった。
その面接のときのことも忘れられない。「面白かった。だけど、喩えが俗っぽいな。これは直したほうがいい」。僕は忠久先生の良さは俗っぽさにあると思っているので、これは讃め言葉だなと思ったが、よく考えてみるといきすぎた俗っぽさに対して警告してくれたのかもしれない。調子に乗ってはいけない。
僕は忠久先生の授業を取ったことがないし、用事で会いに行ったこともない。専門が違うので学会で会うこともない。しかしどういうわけか、いろいろな所でたまたまお会いすることが多かった。誰かの展覧会でお会いし挨拶に行ったときに、「君とは腐れ縁だな。ハハハハハ」という言葉をいただいたのである。
忠久先生からしたら、僕なんかモブキャラ以外の何者でもない。だが、なぜかいつも画面の隅いる謎のモブキャラだったようだ。もうそんなモブキャラを勤められないと思うとたまらなく寂しい。
それにしても第一報をTwitterで見つけるとは思わなかった。しかも漢文である。それがいかにも忠久先生らしいと思う。重ねてご冥福をお祈りします。
というか、ブログ強化月間だからって、こんなネタ提供はもういらないよ。
令和四年七月十二日曉,東都文廟前祭酒、二松學舍大學前校長、文學博士,石川岳堂,終於正寢,壽九十歲。嗚呼哀哉!太基年十五,訪 夫子於文廟,親受詩學。微 夫子,吾其岳麓野人矣。嗚呼哀哉! pic.twitter.com/3D5zKKPWr5
— 蓉堂居士 (@rongtangjushi) July 12, 2022
漢文なので解釈がおぼつかないが、石川忠久先生が亡くなられたということらしい。きわめて近い関係の人らしいので間違いはないだろう。まずはご冥福をお祈りします。
僕は国文学が専門なので、実は忠久先生(「チュウキュウせんせい」と読んでください)の授業を一度も受けたことがない。しかし、いささかのご縁がある。いやいささかなんて言ったら逆に失礼かもしれない。なにしろ「君とは腐れ縁だな」と言われたほどなのだ。あの忠久先生からこんなことを言われるやつはそうはいないだろう。
その腐れ縁、話は今をさかのぼること33年前である。当時僕は湯島聖堂に住みはじめたばかりだった。警備員兼職員兼お茶くみみたいな仕事で、たいしたことをしていたわけではない。そのころちょうど湯島聖堂の運営団体である斯文会の理事長が、宇野精一先生から忠久先生に変わった。
このころの思い出はたくさんあるが、よく覚えているのが、忠久先生が自動車に乗って現れた時のことである。斯文会の駐車場に見慣れない車が止まって、中から髭をはやした漢学者が出てきてびっくりした。しかも重々しいクラウンとかセドリックではなく、当時デートカーなどといわれたカリーナEDである。ニコニコして「この車買ったんだ」とおっしゃるので、「カッコイイですねー!」と答えた。後にも先にもこのときぐらい「カッコイイ」という言葉が自然に出たことはない。
その後、僕は学部を卒業し大学院に入り湯島聖堂を出た。するとなんと忠久先生も桜美林大学から二松学舎に移籍してきた。一瞬、オレのことが好きなのかと思った。しかもその数年後には学長になられた。
そのあとなんやかんやあって、僕が学位論文を提出したときのことである。学位論文の審査は国文学から五人と中国学から一人が審査員になるのだが、中国学は忠久先生が審査員になってくれた。師匠の話によると、教授会で僕の名前が出たとたん「私がやりましょう」と引き受けてくれたそうだ。あとから聞いて知ったことだが、これは本当に嬉しかった。
その面接のときのことも忘れられない。「面白かった。だけど、喩えが俗っぽいな。これは直したほうがいい」。僕は忠久先生の良さは俗っぽさにあると思っているので、これは讃め言葉だなと思ったが、よく考えてみるといきすぎた俗っぽさに対して警告してくれたのかもしれない。調子に乗ってはいけない。
僕は忠久先生の授業を取ったことがないし、用事で会いに行ったこともない。専門が違うので学会で会うこともない。しかしどういうわけか、いろいろな所でたまたまお会いすることが多かった。誰かの展覧会でお会いし挨拶に行ったときに、「君とは腐れ縁だな。ハハハハハ」という言葉をいただいたのである。
忠久先生からしたら、僕なんかモブキャラ以外の何者でもない。だが、なぜかいつも画面の隅いる謎のモブキャラだったようだ。もうそんなモブキャラを勤められないと思うとたまらなく寂しい。
それにしても第一報をTwitterで見つけるとは思わなかった。しかも漢文である。それがいかにも忠久先生らしいと思う。重ねてご冥福をお祈りします。
というか、ブログ強化月間だからって、こんなネタ提供はもういらないよ。