カテゴリ: 本1

古典の入力ばかりしている反動か、最近は漫画ばかり読んでいる。特にkindleで1巻だけ無料だったりすると、ついダウンロードしてしまい、続きまで買って思う壺にハマる。

先月、以前から読みたかった諸星大二郎氏『西遊妖猿伝』の1巻が無料になっていた(今はKindle版648円・紙版1028円)ので、早速ダウンロードしてみた。諸星大二郎だからつまらないわけがないのだが、気がついたら6巻まで読んでしまった。

『西遊妖猿伝』は題名で分かる通り、『西遊記』を元ネタにしている。このような作品は数多くあるが、個人的に原作より面白いと思った試しがない。

『西遊記』は、もともと奇想天外なファンタジーだから、これを題材にしようとすると、どうしてもファンタジー色を増幅する方向に行ってしまう。SF仕立てにするのは、その最たるものだ。しかし、原作があまりに奇想天外で、完成されているので、比べるとどうしても見劣りしてしまう。

しかし、『西遊妖猿伝』は原作に全く見劣りしない。それは、全く違ったアプローチで『西遊記』を改作しているからだろう。

『西遊妖猿伝』は、原作の持つファンタジーの部分を、リアルな人間に戻している。最初から実在の人物がモチーフになっている玄奘三蔵は当然のこと、孫悟空も、猪八戒も(たぶん)沙悟浄も、その他の神仏・妖怪変化も、すべて人間である。孫悟空が大暴れするのは、天宮ではなく長安の宮殿で、悟空の嫌う「弼馬温」という位も太宗皇帝から授かることになっている。玄奘が天竺に行くのも、史実通り国禁を犯している。

つまり、『西遊記』を現実の側に引き戻しているのだが、これは諸星大二郎の作品である。ただ、史実に基づいているだけではない。

諸星大二郎の作品は、歴史や民俗・宗教をうまく組み合わせ、そこにクトゥルー神話的な、禍々しい化け物を、違和感なく登場させて盛り上げるのが特徴である。そう考えると、原作の『西遊記』そのものがそんな感じだが、『西遊妖猿伝』では、あえて『西遊記』の妖怪変化を人間にし、史実を織り交ぜながらも、原作には全く登場しない禍々しい怪物を登場させている。そのため、原作の持つ摩訶不思議な魅力が、全く別の方向で発揮されているのである。

非常に長い作品なので、まだまだ序盤しか読んでいないが、ここからつまらなくなることは考えにくいので、ストロングバイ。


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何かと話題のイスラム教だが、最近イスラム教の経典『コーラン(クルアーン)』を読んでいる。テキストは岩波文庫『コーラン』(井筒俊彦訳)。



その宗教について全く知識がない場合、経典だけを読んでも、さっぱり理解できないのが普通である。例えば、仏教の経典は種類が多すぎるし、抽象的なものが多いから、どれを読んでもそれだけでは理解できない。聖書は仏教の経典よりははるかに分かりやすいと思うが、だからといって読んでもユダヤ教やキリスト教を理解することは難しい。

同様に『コーラン』を読んでも分からないだろうと思って読み始めたのだが、意外にも非常に分かりやすい。

もちろん、信仰している人からは「『コーラン』(それもまだ一部分)を読んだだけで分かった気になるな」と言われるかもしれないが、何も知識がない状態で、小難しい解説書を読むよりも、『コーラン』そのものを読んだほうが、はるかに分かりやすい。

これは仏典や聖書と比べると、具体的に書かれているからである。仏典のように抽象的(具体的な仏典もあるが)ではなく、旧約・新約聖書のように物語的でもなく、あれをしろ・これはするな・神とはこういうものだ、ということが、預言者ムハンマドを通して具体的に語られる。だから、物語的な面白さはないが、非常に分かりやすい。これは成立の新しさ(7世紀)に起因するものだろう。

『コーラン』を読む上で、必要な知識が二つある。

まず、イスラム教はアッラーだけが唯一の神であるとする一神教であり、預言者ムハンマドはアッラーからの啓示を受け、それをまとめたものが『コーラン』であること。

アッラーはユダヤ教・キリスト教のヤハウェ(エホバ)と同じ神で、アブラハム・ノア・モーセ・キリスト・ムハンマドはそれぞれアッラー(=ヤハウェ)の言葉を伝える預言者(人間)であるということ。

簡単に言ってしまえば、神はアッラーのみであり、『旧約聖書』のアブラハム・ノア・モーセ、『新約聖書』のキリストは、アッラーの言葉を伝える人間としてムハンマドの先輩に当たる。

したがって、イスラム教徒にとっては、『旧約聖書』も『新約聖書』も『コーラン』も、すべて同じ神の言葉を記した書物であり、同じように尊ぶべきものである。だが、もっとも大事なのは、最新の神の言葉を記した『コーラン』で、ユダヤ教徒とキリスト教徒は神の言葉を信じないバカヤローということになる。

逆に、ユダヤ教徒からすると、『新約聖書』と『コーラン』は所詮インチキヤローが騙った新興宗教であり、キリスト教徒からすると、『コーラン』はインチキということになる。

いうまでもなくこの対立は現在まで続いているのだが、同じ神を崇拝する宗教の苦悩を、すでに『コーラン』に読むことができるのである。
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灰原薬『応天の門』(新潮社)を読んだ。

灰原薬『応天の門』:Web@バンチ

『応天の門』は平安時代の都を舞台にしたサスペンス漫画である。平安時代のサスペンスなんて、思いもよらなかったが、よくよく考えてみると、キャラクターは最初から出来上がっているし、政治的な背景やら、説話やら、材料はたくさんある。上手く組み合わせれば面白くなるだろうことは想像に難くない。

主人公は在原業平と菅原道真。業平は左近衛権少将、業平より20歳程度若い道真は文章生、こう書くと、なんとなく二人の役割が分かる。少々ゆるいベテランの警察官と頭脳明晰な若い素人、ミステリーにはお約束のふたり組である。あんまりミステリーを読まないので、いい例が思い浮かばないけど。

この二人が、平安京で起きた事件を解決していくのだが、そこは平安時代、しかも初期、事件には藤原氏の権力闘争や、当時の風俗・習慣などが複雑に絡み合っていく。そこを二人の人間性で乗り越えていくのが面白い。

事件そのものは史実ではないが、東京大学史料編纂所の本郷和人氏が監修していて、平安時代の制度、習慣が(たぶん)正しく描かれているので、この手の歴史物にありがちな違和感がない。

紙の本は2巻まで出ているが、僕はKindle版で読んだので、まだ1巻しか読んでいないのだが、なんだか面白くなりそうなのでご紹介する。

Kindle版はこちら。


紙版はこちら。

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出版業界がお寒い中、これはいいニュース。

「新潮日本古典集成」新装版でお安く:朝日新聞デジタル
1976年の刊行以来、原文で古典が読めると支持されてきた『新潮日本古典集成』が、新装版として価格を下げて刊行を始めた。全57作品(94冊)で、累計385万部のロングセラーを誇り、学校教材などで活用されている。旧版は3千円台が中心だが、箱入りをやめ、各巻とも千円ほど安くなるという。

新潮日本古典集成は、創立80年を記念して企画されたシリーズで、それだけに気合が入っている。平成元年には毎日出版文化賞も受賞した。新潮社と古典という、イマイチ食いあわせの悪そうな組み合わせながら、古典文学全集の中では独特の位置づけだった。

古典を読む場合、本文だけでは理解に不足がでてくるため、注釈や通釈(現代語訳)があった方がいい。しかし、それらを増やせば増やすほど、レイアウトが複雑になり読みにくくなる。それを読みやすくすると、今度は判型が大きくなり、やたらと大きく重い本になってしまう。

文学全集は本棚の肥やしでもあるので、大きいのはいいことだが、これではちょっと通勤時間に電車で読むとか、寝転んで読むとかは難しくなる。難しいが出来ないことはない。古典文学研究者の腕が例外なく太いのはそのためである。

新潮日本古典集成は、とにかく読みやすさを前提に作られている印象を受ける。判型は日本古典文学大系などがA5であるのに対し、やや小さい四六版で、かばんに入れて持ち歩きしやすい。小学館の日本古典文学全集のような通釈はないが、読みにくい場所だけ赤字で本文わきに補っている。これが本文を読むときの邪魔にならず、画期的な工夫だった。読むという用途では、数ある古典文学叢書の中でもピカイチだと思う。

値段も安く・・・と思ってamazonを確認してみたら、ずいぶん値段が上がっていた。例えば、手元にある平成元年に購入した『古事記』は2270円だが、現在は3672円。これでは一般の人はおいそれと買えない。

これが新装版だと、2592円。平成元年とほぼ同じ値段である。箱がなくなるそうだが、もとより邪魔なだけだし、今どき本棚の肥やしのために買う人なんかいないだろうから、あんなものはいらない。


新潮日本古典集成は売れたので、古書も多く出回っている。これなら数百円で買えることもあるが、古典の注釈書は、重版時に人知れず改訂されていることがあるので、なるべく新しいものを買ったほうがよい。
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臼井 隆一郎氏『コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液』(中公新書)を読んだ。

僕はドトール派なので、スターバックス(以下スタバ)を滅多に使わないのだが、海外旅行に行くとスタバに行くことがある。思えば、初めて入ったスタバも、出来たばかりの北京の西単店だった。

今や、スタバは世界中どこにでもある。僕はスタバのコーヒーが特別美味いとは思わない。値段も高くはないが、激安というほどでもない。それでも入ってしまうのは、安心感があるからだ。

スタバのコーヒーは、世界中どこで飲んでも、同じようなメニューで、同じような値段である。コーヒーは国によって違っていて、アメリカならいわゆるアメリカンの薄いコーヒーが主流だし、フランスやイタリアならエスプレッソ、ベトナムはぬるくて濃いベトナムコーヒー、トルコならどろどろのトルココーヒーである。コーヒーの普及が遅かった中国にいたっては、コーヒー自体を喫茶店で飲むことが難しかったりする。それが、スタバにいけば、言葉が通じなくても、日本で飲むのとほぼ同じコーヒーが飲めるのである。

それだけではない。スタバに行けばエアコンが効いている。Wi-fiが使える。当たり前だがトイレもある。ニューヨークのガイドさんは、トイレに行きたくなったら、買わなくてもいいからスタバに行けと言っていた。スタバは今や旅行者のインフラになっているのである。

スタバがインフラとなりうるのは、商品がコーヒーだからである。料理なら、食い終わったら出ていかなければならない。酒では酔っ払ってしまい、仕事や読書、真面目な話は出来ない。ジュースではガキんちょのたまり場になってしまう。そう考えると、コーヒー以外の飲み物はちょっと思いつかない。

『コーヒーが廻り世界史が廻る』は、そんなコーヒーがいつ、どこで飲まれるようになり世界中に広まっていったか、また、それが世界史にどんな役割を果たしたかについて書かれた本である。



コーヒーはイスラム神秘主義(スーフィー)の僧侶により飲まれたのが起源であるという。彼らは、修行の際、眠気を払い、食欲をなくすためにコーヒーを飲んだという。やがて、スーフィーだけでなく戒律で酒が飲めない他のイスラム教徒にも受け入れられ、キリスト教徒にもひろまっていく。仕事とコーヒーというストイックな組み合わせは、その始まりから運命づけられていたのである。

以前、イギリスの世界最大の保険会社ロイズ(Lloyd's)の発祥はコーヒーハウスだと聞いたことがあった。これを聞いた時、なんだか不思議に思った。イギリスの飲み物といえば、紅茶だし、どこかへ飲みに行くといえば、パブでビールである。どうもコーヒーというイメージがない。

しかし、17世紀から18世紀にかけて、イギリスはコーヒーハウスの全盛期で、単にコーヒーを飲む場所としてだけでなく、郵便局や証券取引所、保険会社、そして学校の役割まで果たしたという。そこに共通するのは最先端の情報が集まる場所である。

これがなぜ、紅茶とビールに変わったかは、本書を読んでもらうとして、スタバの持つインフラとしての側面は、この次代に確立されていたのである。

もちろん、飲む人がいれば、作る人もいる。コーヒーは地球上をぐるっと一周するコーヒーベルトという地帯でしか採れない。その多くは、ヨーロッパ列強の植民地である。コーヒーを生産する植民地と本国との関係も興味深い。

臼井氏はドイツ文学が専門である。そのためか、文章が文学的で、読んでいて飽きさせない。amazonの批評を読むと、そこが学問的でないという人がいるが、そもそも、この本はコーヒーの歴史を描くものでも、歴史に与えたコーヒーの影響を読み解くものでもない。

この本の題名はあくまで『コーヒーが廻り世界史が廻る』である。コーヒーと世界は一緒に回るのであり、コーヒーが世界を廻したとはどこにも書いていないのである。
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僕の大学院生時代の先輩(博士前期1年)であり、同級生(博士前期2年)であり、やっぱり先輩(博士後期課程)でもある玉川満さんが、名状しがたい出版社のようなものを作ったそうだ。

玉川企画

アマゾンで検索すると出てくるというから、電子書籍かと思ったら、立派な紙の本だった。



というわけで、今後の玉川企画のためにも、是非お買い求めください。

内容は・・・すみません、まだ買っていません。
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馬上駿兵氏『文豪たちの「?」な言葉』(新典社新書)を読んだ。

本書は、否定をともなわない「全然」や、「役不足」の用法(役不足の誤用に見える表現については、僕も太宰治の「役不足」:2013年9月26日で書いたことがある)、「女に別れる(女と別れる)」など、現代の用法としては誤りか、おかしいと見られる表現を、近代文学作品の中から博捜し、それらの言葉がどのように使われてきたかを探求している。

それぞれに用例が挙げてあり、古語との関係や、用法の変遷をたどっている。これを読むと、正しい表現、間違った表現という考え方がいかに安直で浅薄なものかが分かるだろう。

言葉を語る上で重要なポイントは、言葉はあくまで単独ではなく、文や文章の中で使われるということだ。その言葉の前後だけを切り出しても、言葉の使い方は分からない。その点、本書ではその言葉が使われている、作品のコンテクスト(文脈)をしっかり追うことによって、作品の中での言葉の使い方を説明している。

最近、テレビ番組などで、誤った言葉の使い方なるものが、クイズ形式で取り上げられているのをよく見る。なぜそうなるか、番組中で説明されることも多いが、クイズ形式では結局のところ、正しいか正しくないかに帰結してしまう。これでは薀蓄止まりで〈教養〉にはならない。

言葉は誰かが「こう使え」と、決めるものではない。長い年月を経て、習慣の上に成り立つものである。かつて正しかった用法が、現在は間違ったものとなることもある。用法が正しいか、間違っているかよりも、そのプロセスが面白いのである。

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『無人島に生きる十六人』は、作者の須川邦彦が龍睡丸船長の中川倉吉から聞いた話をまとめたものである。聞いた話といっても執筆から46年前の話である。昭和16年から17年にかけて、少年雑誌「少年倶楽部」(講談社)に連載された作品で、子供向きに書かれているらしく大変読みやすい。

明治32年、北西ハワイ諸島のパールアンドハーミーズ環礁で日本の帆船龍睡丸が座礁した。乗組員16名は、命からがら無人島に上陸し、ウミガメや鳥の卵などを食べて三ヶ月間を生き延び、全員無事帰還した。

大概の人は、船に長期間乗った経験も無人島に漂着した経験もない。だから、よほどうまく描写しないと、何かこの世のものでないようなファンタジーのような文章になるか、さっぱり情景がわかない文章になってしまう。ところが、この作品は船の状態、船員の様子、美しい海と無人島の情景が、まるで映画を見るように描写されている。

作者の須川邦彦は船長の経験があり、商船学校教授でもあったという(須川邦彦:新潮社)。その経験がこれだけ分かりやすい文章につながっているのだろう。しかしこの作品のすごいのは、それだけではなく、人物描写、とりわけ中川船長の人柄がよく書けていていることだ。「少年倶楽部」編集者の力もあるだろうが、もともと文章のうまい人だったのだろう。

この作品は、青空文庫に入っているので、下記のリンクから読める。

須川邦彦『無人島に生きる十六人』:青空文庫

紙の本で読みたい方は新潮文庫のこちらをどうぞ。kindleでは青空文庫版(無料)が読める。


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川島幸希『国語教科書の闇』(新潮新書)を読んだ。

教科書批判というものは、センセーショナルに書かれる割には、全くの的外れでどうしようもない駄文が多い。書いている人が、中学・高校教員としての経験に乏しく、教科書の特性をほとんど理解していないからである。

この本も、なにしろ「国語教科書の闇」などという刺激的なタイトルだし、帯の煽り文句も挑戦的なので、「よし、ならば返り討ちにしてくれよう」とクソミソに批判するつもりで買ったのだが、意外にも(というと失礼だが)まともな本だった。

国語教科書の闇(帯)


本書は、芥川龍之介『羅生門』、夏目漱石『こころ』、森鴎外『舞姫』という現代文のいわゆる定番教材をめぐって、それらがなぜ、どのように国語教科書に採用されたか、いつからどのように定番化していったかを、綿密な取材と考察をもとに書いている。また、問題の前提となる、どのように教科書として出版されるかとか、教科書が各学校でどのように採択されるかなども丁寧に書かれている。

もちろん、「闇」というからには、それらの定番教材に対する批判が結論にはなっているが、それよりも、穿った説に対して、しっかりとした根拠を持って反論していて、良心的に書かれている。

たとえば、石原千秋氏は『国語教科書の思想』(ちくま新書)で「『羅生門』も『山月記』も『こころ』も『舞姫』も、「エゴイズム」はいけません」といういかにも道徳的なメッセージを教えることができる教材」だから「国語教材にうってつけ」で、どこかに「道徳的な教訓が含まれていることが「定番教材」の条件」だと言っているという(引用部分は本書から孫引き)。それに対し、本書では教員、編集者双方からインタビューをとり、これを否定している。実は石原氏のような妄言が出てくることを期待してこの本を読み始めたのだが、代わりに論破されてしまった。

僕は、教材が定番化することは悪いことではないと考えている。それが教材として使われ続けたのにはいくつもの理由があることで、それを明らかに超えるものがなければ、わざわざ変える必要はないと思っている。しかし、それ以前に世代を超えて、日本の教育を受けた人なら誰でも読んだことのある作品があってもいいじゃないか。もちろん、その作品がそれにふさわしいかは常に検討されなければならないが。

それにしても、やっぱり紙の本は文章が書きやすいね。

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僕が最初にkindleでお金を出して購入したのは、創元推理文庫のラヴクラフト全集である。電子書籍自体を初めて買ったのがBookLiveの『這いよれニャル子さん』だった(逢空万太『這いよれ! ニャル子さん』を読んだ:2012年07月25日)ので、記念すべきkindle最初の買い物をラヴクラフトにしたのである。この時はまだ2巻までしか出ていなかった。



このラヴクラフト全集、最近、3巻4巻が出たので読んでみた。2巻まで読んだ時にはよくわからなかったのだが、3巻以降でやっとラヴクラフトが描く「恐怖」の正体が分かった。

ラブクラフト(Howard Phillips Lovecraft)はアメリカのホラー小説作家である。1890年生まれで、日本の作家だと芥川龍之介(1892年生まれ)などの大正文学作家と同世代になる。ただし、ラヴクラフトの場合は、生前はそれほど評価されなかったようだ。

作品の多くは、人類が誕生するはるか以前に、宇宙からやってきた知的生命体が繁栄しており、ほとんどは絶滅、もしくは異星に去ったが、その名残や生き残りが遺跡や伝説、宗教として残っており、現代人に何らかの悪影響を及ぼすという筋になっている。ここで我々日本人は生命体の姿や、「悪影響を及ぼす」に恐怖を感じるが、ラヴクラフトの描こうとした恐怖の本質はそこではない。

ラブクラフトの作品は「クトゥルフ神話」などといわれるが、この「神話」がミソである。

「宇宙からやってきた生命体」は現在の人間とはかけ離れた、「名状しがたい」姿をしている。キリスト教の観念では、人間は神によって、神に似せて作られたということになっている。神によって作られた人類以前に、人類と同等の文明なんかあってはいけないのである。それが存在し学問的に証明されるというのが、ラヴクラフトの描く恐怖の根本になっている。

生命体が人間とよく似た姿をしていれば何も問題はない。それは神が神自身に似せて作りたもうたものであると解釈できるからである。ところが、彼らは明らかに神の作ったものではない、人間とはかけ離れた〈名状しがたい〉姿をしているから恐怖となる。

「冒涜的な」という言葉がやたらと出てくるのも最初はよく意味がわからなかったが、これはキリスト教の神を冒涜しているという意味である。人類誕生以前に、人類と同等かそれ以上の文明をもった生命体がいたというのは、キリスト教の観念からすると「冒涜的」以外の何者でもないのだ。

この宇宙の神秘を垣間見るのは、学者だというのも象徴的だ。西洋の学問はキリスト教の観念との戦いで発展していった。アメリカではいまだに進化論だけでなく創造論を教えるべきだという保守派がいるというのはよく知られている。

チャールズ・ダーウィンが『種の起源』を刊行したのが1859年、ラヴクラフトの生まれる30年前である。ダーウィンの提唱する進化論は、神が人間を作ったというキリスト教的な世界観を打ち壊す、まさに〈冒涜的な〉ものだった。この、科学によって自らが信じる〈真理〉が打ち破られる恐怖は、いまだに続いているのである。

キリスト教は聖書を解釈する宗教である。聖書は絶対的に正しいことが書かれており、それを正しく解釈することこそがキリスト教のテーマになる。西洋で文献学が確立されたのも、聖書の正しい本文を得るためである。

しかし、もとにするのが数千年前に書かれたものだから、科学の進歩とともにどうして解釈だけでは解決できない問題がでてくる。そういった矛盾がラヴクラフトの宇宙的恐怖であり、学校で創造論を教えるべきと主張する人たちである。

一方、仏教は理屈をこね回して論理を構築する宗教である。時代に合わなくなって、問題が出てくれば、そこは理屈で回避する。もちろん、経典の解釈もないわけではないが、論理の構築によって新たに経典を作ることも厭わない。その結果、たくさんの経典ができた。それが仏教的な観念と論理的に整合していれば、たとえ偽作でもかまわないのである。

仮にクトゥルフ神話のように、人類誕生以前に異星からきた文明があったとしても、仏教的な考え方では、前世の前世のそのまた前世の・・・・で済まされてしまう。自称無宗教でも、無意識のうちに生まれ変わりを信じる日本人には、ラヴクラフト作品の本当の怖さは理解できないのである。
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