カテゴリ: お作法

Twitterで「ピアノのレッスン代を財布から渡すのはマナーがなっていない」とかいうピアノの先生のTweetを見て、「ハア?そうかぁ?」と思った。

僕も、教材費や書写検定の受験料などで、生徒からお金を預かることがある。誰に仕込まれたのか、ほとんどの生徒が封筒に入れてくる。件の先生からすれば、うちの生徒は「マナーができている」ということだろう。

丁寧なのはいいが、僕としては封筒なんか入っていないほうがいい。たまに「先生、封筒がないんですけど」なんて言ってくる生徒もいるが、「いや、そんなのむしろいらん」なんて答えている。

お金を預かったら、払った人の目の前で金額を確認する。それこそがお金をやり取りするときのマナーだと思うのだが、封筒に入れられていたら、わざわざそこから出さなければならない。それに、どういうわけか封筒に入れてくる生徒ほど、お金を渡したらさっさと帰ろうとする。

僕としては、目の前で封筒を開けるのは、なんだか相手を疑っているようで悪い気がするし、それ以前に手間がかかる。一人二人ならいいが、こういうときは10人20人といっぺんに持ってくるので、本当に面倒くさい。ついでに、封筒には名前が書いてあって、再利用もできないから余計なゴミが増える。いいことは一つもない。

たぶん、祝儀や香典・お年玉あたりからの連想なのだろうが、あれは金額が支払う人に任されていて、金額が間違っているということがありえないから確認する必要がないのだ。支払う額がもらう人と払う人の合意に基づいている場合、確認しにくい封筒に入れるのは、かえって失礼なのではないか。

とはいえ、誰かがマナーとして仕込んだことだろうから、大々的に「教材費・検定料金は裸で持って来い」とも言えず、毎回悶々としている。
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だんだん卒論・修論の締め切りが近づいてきて、やたがらすナビのPVが増えだした。古典文学電子テキスト検索でテキストを探したり、Googleあたりで検索したら、やたナビTEXTの電子テキストがヒットしたということが多いようだ。

卒論の締め切りまでは十分時間があるので、今の時点で、やたナビTEXTの本文をそのまま論文に引用するということはないだろう。名の知れた、紙の注釈書などに当たって、それを引用するのではないだろうか。

だが、切羽詰まってくると、そうもいかなくなる。時間の関係で他の本に当たれず、やたナビTEXTの本文を直接引用しなければならないことも出てくるだろう。そのような場合、どうすればいいか。

どんな場合でも、引用で重要なことは、テキストの出元を明確にすることである。紙の本であれば、書籍の名前、校訂・注釈した人の名前、発行元、発行年月日を明らかにする。

『宇治拾遺物語』本文は、新日本古典文学大系『宇治拾遺物語』(三木紀人他校注・岩波書店・1990年11月)による。
おおむねこんな感じである。細かい書き方は人によっていろいろあるので、指導教授の書き方を参考にしてほしい。

Web上のテキストを引用する場合であっても、同様の要素さえあればよいということになる。

やたナビTEXTでは、校訂者の名前は、各テキストのトップページにある。いまのところすべて僕なので、「中川聡」としておけば問題ない。書籍の刊行日にあたる、最終更新日は各本文ページの一番下にある。Web上のテキストは、URLが所在になるので、それも書いておくべきだろう。
最終更新日
宮内庁書陵部本『今物語』第52話を例にとると、
『今物語』第52話本文は、宮内庁書陵部本『今物語』第52話(やたナビTEXT・中川聡校訂・2015年1月5日・http://yatanavi.org/text/ima/s_ima052)による。
こんな感じでいいのではないだろうか。

しかし、残念ながら「中川なんていう得体の知れない奴の作った電子テキストなど引用してはいかん」という先生がいるのも事実だ。僕としては、十分研究用に使えるものを作っているつもりだが、なんの実績もないのだから、そう言われても返す言葉がない。

その場合、『今昔物語集』と『宇治拾遺物語』以外のテキストには全て付いている「翻刻」を使えばよい。この翻刻は底本の改行や改丁もそのままにしてあるが、そのへんは適当につなげること。
翻刻
翻刻は底本をそのままテキストにしたものである。ゆえに、著作権は存在しないというのが僕の考え方(翻刻に著作権はない:2012年03月17日参照)だから、翻刻を引用する場合、
『今物語』本文は宮内庁書陵部本による。

だけでよい。簡単に言っちゃえば、自分で翻刻したことにすればよいのである。

翻刻を引用する場合、僕の名前を書く必要もない(書いてもいいけど)。自分が翻刻したことにするのを気がとがめるなら、底本の影印(各テキストのトップページに書いてあり、ほとんどWeb上で見られる)にあたって、翻刻が正しいかどうか確認すればよい。もし間違っていたら、その場所をメールでもTwitter(@yatanavi)でも何でもいいので、僕に教えてくれるとありがたい。

『今昔物語集』と『宇治拾遺物語』は・・・なんとか工夫して乗り切ってくれたまえ。

それでは、成功を祈る。
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2016年9月の総括で書いたように、やっとマンションの改修工事が終わった。これでベランダを使えるようになったのだが、ここで一つやっておかなければならないことがある。ハト対策である。

工事期間中は、なんやかんやと人が出入りしていたので、ハトが来ることはほとんど無かったが、それでもすでに糞が落ちている。今、何もしなければ、ベランダはすぐに鳩の巣になってしまうだろう。

思えば、ハト対策をやったのは2010年である。あれから6年以上経っている。ハト対策も、よりバージョンアップしなければならない。6年前の対策は、次のようなものだ。
ハト避けの作法:2010年02月22日
BlogPaint
この写真のうち、ハトよけグッズは全く役に立たなかった。これは不要。手すり上部のテグスはそれなりに効果があったようだが、張っていないところから侵入する鳩がいた。金網は効果絶大だったが、手すりのベランダ側に付けてしまったので、金網の外側が鳩の糞だらけになってしまった。

一番の問題は、対策をかいくぐってきたチャレンジャーくんの糞の掃除できなかったことだ。ハトは糞があるとそこに入っていいものと思うらしい。そこで、手まめに掃除できるようにしなければならないのだが、ハトの糞は意外に落ちにくい。

以上の留意点から、ハト対策Ver2.0をほどこしてみた。まず、ハトの侵入経路を確認してみよう。
侵入経路
ダイレクトにベランダに入るAコースは対策が難しいが、このコースを取ることは、鳩の習性上ほとんどない。対策すべきは、一旦手すり上部にとまってから入るBコースと、手すり下部から潜り込むCコースである。

まず、Cコースから対策する。Ver.1では金網を張っていたところである。
手すり下部
ここには、ダイソーで売っていた鳥よけネットを敷き詰めてみた。手すり下部の空間にぴったりあっている。11枚購入したので合計1188円。ここから入ってくることはまずないだろう。ぎりぎりに設置したので、外側もとまりにくいはずだ。

これだけだと、すぐ上の部分から入られてしまう。写真をよく見るとわかるが、ここにはテグスが一本張ってある。これで大丈夫だと思うが、まだ入ってくるようなら、もう一本か二本テグスを増やす。それでもダメならネットを張ることにする。

次はBコース対策だ。ここは従来と同じ方法で、テグスを一本張る。テグスは鳩の目には見えないので、とまった瞬間足を取られてビビるという寸法である。これが意外と効果がある。
クランプ
張る位置は前回よりもちょっと外側にしてみた。これは吉と出るか凶と出るか分からない。ダメなら元の位置(手すりの真上)にもどす。クランプもダイソーで2枚216円だが、ダイソーにはこのサイズしかないので、手すりの中央に張り替えるときは、大きいのを別の店で買ってこなければならない。

これで入ってくるのはAコースだけとなった。ダイレクトに入ってくるのは少数派だが、確実に糞を落としていく。糞があると、そこは安全な場所ということになり、Aコースを取るチャレンジャーくんが増える。これはこまめに掃除するしかない。

掃除用具はナイロン製の庭箒しかなかった。ホウキでは、ゴシゴシと力を入れて洗えないため、べっとりと着いて固まっているとうまく落ちない。そこで、デッキブラシを買った。近所のホームセンターで780円。
デッキブラシ
もっと小型のものや、オシャレなものもあったのだが、ここは学校のトイレにあるような、ガチのデッキブラシにした。何事も意気込みである。

というわけで、合計2184円。100均をつかったので、かなり安く上がった。ヘイ!バッチコーイ!
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15年前、初めて中国に行った時、レストランがあまりに汚いのでびっくりした。

これは不衛生だという意味ではない。魚や肉の骨だとか、野菜や果物の皮、その他のゴミが、テーブルの上となく下となく、山積みになっているのである。客が去ると店の人がきれいに片付けるのだが、その席に客が来ると、また山積みになる。4・5人の会食だと、それは見事な生ごみの山ができあがる。

田舎の露店でも状況は同じだが、普通のレストランと比べると少しきれいになっている。足元を野良犬が徘徊して、捨てたゴミをたちどころに食べてしまうからである。なかなか良く出来たエコシステムである。

日本だと、とてもお行儀の悪いことになるが、これは習慣である。郷に入らば郷に従えで、僕も真似してみた。しかし、いくら頑張っても、とてもかなわない。同じ人数でも、山の大きさが違うのだ。よく考えたら、そもそも頑張ることじゃない。これは地域差や時代の違いもあるだろう。その後は、そこまですごいのを見ることはなかった。

こんなことを思い出したのは、『閑居友』に、鎌倉時代の日本と中国(当時は宋)のマナーを比較した文章を見つけたからである。

『閑居友』上巻第13話 高野の聖の、山がらに依りて心を発す事
されば、唐土(もろこし)には、いかなる者の姫君も、食ひ物などしどけなげに食ひ散らしなどは、ゆめゆめせず。世にうたてきことになん、申し侍りしなり。この国は、いかに習はしたりけることやらん、はや癖になりにたれば、改めがたかるべし。ただ、かなひぬべからんほどを、御慎みもあれかし。

だから、唐土には、どんな者の姫君も、食べ物などだらしなく食い散らかすことなどは、まったくしない。(食い散らかすのは)世の中でも嘆かわしいことと、申しておりました。この国(日本)は、どのような習わしだったのだろうか、もう癖になっているので、改めにくいことだろう。ただ、できるだけ、お慎みいただきたいものです。
姫君限定ではあるが、鎌倉時代は日本の方がだらしなく食べていたらしい。『閑居友』の作者慶政は入宋経験があるから、あながちデタラメではあるまい。

マナーは時代・場所によって変わる。ただそれだけのこと。
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来年は四年に一回の教育指導要領の改訂に当たるので、各社から教科書の見本が来ている。書道の教科書は、前々回ぐらいの改訂からフルカラーになり、前回から判型が大きくなり、書道の参考書としてはこれ以上のものはない。

今回の改訂では、なんとなく各社大人っぽくなったように思える。今までは、マンガのような説明や、ゆるキャラのような挿絵が入っているものが多かった。おそらく不評だったのだろう。僕自身も、教科書セールスマンに文句を言ったことがある。

僕には教科書にポンチ絵を入れる意味がわからない。分かりやすさを狙ったつもりらしいが、見たところ全然分かりやすくない。教科書は授業に使うものだが、全く使いやすくない。ただ幼稚に見えるだけで、相手が高校生ともなれば、バカにされているようにも思えるのではないか。

どうも、分かりやすさと幼稚を取り違えている節がある。これは決して教科書に限ったことではない。例えば、家電の説明書も、イラストが豊富に入っていて一見親しみやすいものの、実際は非常に分かりにくいものが多い。

さまざまな分野の入門書や参考書とされるものも、初心者用とされるものには、幼稚なものが多い。本当によく書かれた入門書は、初心者でなくても有益だが、幼稚なもので有益だと思ったためしがない。分かりやすさを幼稚さでごまかしているのである。

最近は老人福祉施設に行くことも多くなったが、老人に対して、赤ちゃんにでも話しかけるような、幼稚な言葉で語りかける人がいる。しかし、よく聞いてみると、全然分かりやすくなはい。スプーンを持って「お口あーんして」なんて言っているが、「口を大きく開けてください」の方がよほど分かりやすいのではないか。

言葉で分かりやすく表現することは、実はとても難しいことだ。伝えるべきことを自分がすべて理解した上で、それを整理し、相手の理解できる言葉にしなければならない。相手に伝える前に、よく考えなければできないことだ。よく考えずに分かりやすく伝えようとするから、幼稚にしてごまかすのである。
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ビジネスマナーなどというものは大概非効率でくだらないものだ。このハンコの捺し方なんかは最たるもの。

書類に上司と並んでハンコを押すときは、上司より下に斜めに傾けてつく。:電通マン「鬼の気くばり36」を厳選公開!-現代ビジネス
ビジネス界には、自分が賛成しかねる稟議書類にハンコをつくとき、わざと上下を間違えて押し、反対の意思表示をするお偉方が大勢いる。ハンコのつき方一つにも、メッセージを込めることができるものだ。下っ端のキミが上司と並んでハンコを押すときは、上司の並びより、必ず一段下げて押そう。名刺交換と原理は同じだ。
しかも、できれば上司の側に少し傾けて押す。こうすると、キミのハンコがへりくだって上司のハンコにお辞儀をしているように見え、感じがいい。え、何? いくら何でもそれは冗談だろう、だって? とんでもない。大マジである。
まあ、勝手にやっていてもらえばいいが、これを「儒教的」だと思われるのは心外である。

まず、ビジネスマナー(笑)的に正しい印鑑の捺し方を見てみよう。
印鑑0
これは基本的に右から順番に押されるものだろう。こんなものは全く儒教的ではない。ただ、部下が媚びへつらい、社長がそれをノーテンキに喜んでいるだけに見える。部下も社長もバカ丸出しである。

社長の印は少し右に傾いているものの、これでは儒教的に不十分である。儒教的というのは、目上の者が偉そうにしていればいいというのではなく、目下に徳を示さなければならない。

だから、正しくはこうなる。
印鑑1
麗しい光景だ。部下は皆社長に頭を下げ、社長は部下よりもさらに低く徳を示しているのが分かる。まるで賢帝に仕える臣民のようではないか。

しかし、これでは終わらない。次に捺す機会があれば、部下は前回よりもさらに頭を下げ恭順の意を示さなければならない。社長は部下の信頼に答えるように、さらに頭を下げる。
印鑑2
そして、最終的にはこうなる。これがビジネスにおける正しい印鑑の捺し方である。
印鑑3
頓首頓首死罪死罪。
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基軸通貨だというのに、米ドルはとにかく使いにくい。

紙幣は似たようなデザインで、おまけに何故か臭い。それでも紙幣は数字が書いてあるからまだいいが、コインになると数字が書いていないから、どれが何やらさっぱり分からない。分からないからとりあえず紙幣で払って、コインがたまってしまう。

なんだかんだ言って、アメリカも三回目になったので、だいぶ分かるようになった。そこで、今回はコインの使い方を伝授しよう。いや、実は次の時の覚えのために書くだけなんだけど。

次の写真は、普通使われるコインを、価値の高い順(左から、25セント、10セント、5セント、1セント)に並べたもの。ご覧のように、大きさが価値に比例しておらず、数字が書いていない。唯一分かりやすいのは色の違う1セントだが、大きさは10セントとほぼ同じなので、やっぱり分かりにくい。
米ドルのコイン

まず、左の2つ、25セント(クオーターダラー)と、10セント(ダイム)をセットにして考える。この2つの硬貨には、日本の100円玉のようなギザギザがついている。ギザ付きの大きい方が25セントで、小さい方が10セントである。大きさが極端に違うので、間違えることはない。

25という数字の硬貨がない日本人にとって、クオーターダラーは少々使いにくいが、使う時はこれを中心に考える。キザ付き大1枚25セント、2枚50セント、3枚75セントと覚えればよい。4枚は1ドルなので覚える必要はない。ギザ付き小は10セントなので、計算は簡単である。

このギザ付き硬貨2つで、だいたいの数を作り、あとはギザ無し大(5セント)やギザ無し小・銅色(1セント)を加えて、ドル未満の数字を作ればよい。

簡単、簡単・・・でもないか。
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ちょっと前に、「取引先で出されたお茶は飲まないのがビジネスマナー」というのがあった。

出されたお茶を飲むのは失礼です:togetter

これを読んだ時はくだらないなと思ったけど、よくよく考えれば深い問題である。

大前提に、休む理由を言わないのがマナー:2015年08月20日同様、マナーは「相手に対する気遣い」であるとしよう。では、お茶を飲まないのはどういう気遣いか。

これは逆に飲んだ場合を考えれば分かりやすい。お茶を飲めば、いずれは湯のみは空になる。空になったら、相手はまたお茶を入れなければならない。逆にいうと、お茶を飲まないことは、相手にお茶のおかわりを入れさせるという労を取らせない気遣いであると言える。

ならば、飲まないのが絶対的な正解なのだろうか。

お茶を飲まないということは、短時間でその場を立つ意思の表明という解釈もできる。お互いに商談を短く済ませたいならそれでいいが、相手が必ずしもそれを望んでいるとは限らない。相手がじっくり商談をしたい時に、お茶に全く手を付けなければ、それは相手に対する気遣いをしているとはいえなくなる。

また、別の解釈をすると、お茶を出すのは接待の一つである。ということは、出されたお茶を飲まないことは、「私はあなたの接待を一切受け付けません」という意味になる。

これは「私は接待を受けないのだから、あなた(貴社)を特別扱いしません」ということになる。実際、介護保険関連の人は出されたお茶を一切飲まない。いずれお茶が菓子になり、物になり、現金になって、特別扱いを要求するのを防ぐために、お茶すら飲まないのである。

しかし、実際の商談では、必ずしも相手を特別扱いしないのがいい意味を持つとは限らない。大きな利益をもたらす顧客であれば、他の顧客とは違う扱いをしなければならないはずだ。そうなってくると、必ずしも相手の出したお茶を飲まないのが良い結果を生むとは限らない。

このように、お茶を飲むか飲まざるべきかという問題は、その状況によって判断するべきことである。いちいち考えるのは面倒くさいことだが、面倒くさいことを考えるのが、気遣いというものではないか。

マナーにはすべて意味がある。意味を考えないで、「このときはこうする」というのは、相手に対する気遣いではなく、単なる手抜きである。理由も言わずに「このときはこうする」というマナーのセンセーを信用してはいけない。
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ビジネスマナーというのは実に下らないものだとは思っていたが、これほど酷いとは思わなかったのが次の記事。

会社を休む理由、これってセーフorアウト!? マナーの専門家に聞きました:キャリアコンパス

西出ひろ子なるマナーコンサルタント・美道家の回答をまとめると次のようになる。

〈セーフ〉
友人の結婚式・身内の結婚式・子どもの病気・身内の病気の看病・通院付き添い・飼っているペットの病気

〈アウト〉
田舎の親や親戚の来訪・町内会の集まり・自転車や自動車のパンク・気分が乗らないから

〈ケース・バイ・ケース〉
マンションの立ち会い工事・人間ドック

そもそも、有給休暇は権利なので、理由なんかいらない。法律的にはどれを取ってもセーフである。

だが、西出氏は「マナーコンサルタント」である。彼女によると、「相手を思いやる心を重視する」のがマナーであるらしい。たしかに、仕事の忙しい時に「気分が乗らないから明日休みますね〜」とか言われたら、いくら権利とはいえムッとくる。これでは相手を思いやっているとは言えない。

とはいえ、権利は権利である。相手を思いやるのも大事だが、権利はそれ以上に大事である。マナーのために権利を放棄するのは本末転倒。両立する方法はないだろうか。

実はこれは簡単な話で、ここでの正しいマナーは、

休む理由を言わない

である。理由を言えば、相手に無駄に気を遣わせることになる。「子供の病気」などといえば、お見舞いを請求しているようなものだし、「気が乗らない」なら不愉快な気分にさせる。言わなければ何の問題もないのである。

同様に、有給を受け付ける方は、

休む理由を聞かない

というのもマナーである。聞いたって、権利なのだから休ませないわけにいかないのである。どうせ休むのだから、理由なんか聞いたって意味がない。

もちろん、緊急の場合は別である。朝になって突然休むのなら、それなりの理由がないと、返って相手に気を遣わせることになる。「相手を思いやる」のなら、理由を言わないのはマナー違反と言っていいだろう。

こういうときはセーフ、こういうときはアウト、そうすれば分かりやすい。しかし、「相手を思いやる」のがマナーであるならば、そんな類型的にまとめたのは本当のマナーとは言えない。

それにしても、美道家って何よ。また、新手のイロモノ書道家が現れたのかと思った。
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これから、夏休みに入り、海外旅行をする人も増えてくるだろう。また、留学で9月から海外に行く人も多いことと思う。そういう人が一番心配なのは、コミュニケーションの問題である。実は、これは語学の出来不出来にはあまり関係がない。

日本人は「間違えたら恥ずかしい」とか、「笑われたくない」とか思って、ついコミュニケーションに消極的になりがちだ。そうなってくると、語学力はあって、ちゃんと喋れるのに声が小さくて伝わらなかったり、間違えるはずのないところで間違えたりする。

だからよく「恥ずかしいと思ってはいけない」とか、「恥をかくつもりで喋れ」とか、「間違ってもいいんだ」などというアドバイスを見るが、「恥ずかしい」というのは心理の問題なので、そんなことを言っても意味がない。

そこで、逆に「笑われたくない」という心理を逆手に取るのである。かのマリーアントワネットも「笑われたくなければ、笑わせればいいじゃない」と言った。積極的に笑いを取りに行けば、笑われても勝ったという気持ちこそすれ、恥ずかしさはない。

では、どうやって笑わせればいいか。僕の研究によると、笑いとは意外性に於いて発生し、意外性のトリガーとなるものは二種類しかない。一つは言葉遊びで、もう一つはボケである。

言葉遊びとは、例えば駄洒落のようなものを言う。しかし、外国語で駄洒落を言うのは相当な語学力が必要だし、よほど現地の文化に精通していないと、駄洒落であることにすら気づいてもらえないかもしれない。また言い古された駄洒落だと、意外性がなく全く面白くない。これは高等テクニックなので諦めよう。

その点、ボケは簡単だ。言葉も必要ない。相手の予想しないことをすればいいのだ。

それもそんなに難しいことをやる必要はない。例えば、レストランで注文するとき、メニューの料理名が書いてある場所でないところを指差して「これをください」という。その程度で十分。突然メニューを頭に載せて皿回しよろしくくるくる回すとか、パラパラ開いてお経を唱えるとか、そんなシュールなことをしても、ちょっと頭のおかしい人だと思われるだけだ。簡単なことで十分笑ってくれる。

ボケが優れている点は、もう一つある。それは、失敗はすべてボケのせいにできるということだ。仮に何か意図しない失敗して、「笑われた」としても、それはボケたのだから「笑わせた」のである。過程はどうあれ、相手を笑わせたら、こっちの勝ちである。

どこの国であっても、笑いは平和をもたらす。笑いながら怒る人は世界広しといえども竹中直人だけだ。笑わせて以後のコミュニケーションは円滑になるだろう。海外では笑わせたら勝ちと心得よ。

そういえば、以前、国連で笑われたのを理由に「シャラップ!」と言った人がいたが、せっかくの勝ちを彼は台無しにしたのである。もったいないことだ。
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