カテゴリ: イロモノ書道

河野太郎外務大臣の名状しがたい篆書のようなものが話題になっている。
河野太郎外相「一度見たら忘れない」書体 G20事務局発足で看板披露:産経ニュース
河野太郎の書

篆書の筆遣いをしておらず、字形も篆書らしさがない。一度もまともに篆書を書いたことのない人の字なのは間違いないのだが、それ以外にもいくつか気になる点がある。

1.片仮名
「サミット」は片仮名で書かれている。平仮名や片仮名は、漢字とは別の文字である。したがって平仮名や片仮名の篆書というのは存在しない。通常篆書と仮名を組み合わせることはないが、どうしても組み合わせなければならない場合、漢字と違和感がないように組み合わせなければならない。

河野大臣の片仮名を見ると、「サ」や「ツ」「ト」の最終画に、篆書に寄せようとする工夫が見られる。それが成功しているとは思えない(これならそのまま書いた方がいい)のは、河野氏が篆書を理解していないからだが、それならば、この工夫はどこから来るのか。

2.「事」の筆順
篆書にきまった筆順はない。だが、人間どうしても書き慣れた楷書の筆順に近いものなる。特に、「事」のような、楷書とほとんど同じ字形であれば、なおさらだ。

ところが、どうも縦画の直前のヨの筆順がおかしい(下図参照)。
比較
指導する人がいたり、手書きの文字をお手本にしたりしたのなら、こういうことは起きないだろう。

3.「務」の「力」
筆遣いはともかく、字形的にはほとんど合っている。しかし、「務」の力がなぜか楷書の字形になっている。本来の字形(『説文解字』の小篆)はこうなる。
務
4.「局」の「口」
篆書を勉強した人なら、いちばん違和感を持つのが、「局」の口だろう。篆書で口を書く場合、上に二本ツノが出るのが普通である。
局

河野大臣の書き方では、口がひっくり返っているように見える。書道の先生がお手本を書いた場合、このように書くことはまずありえない。

このような書き方は印相体という、開運印鑑屋がでっち上げた書体に見られるらしい。


以上をまとめると、この文字は書家が指導したものではなく、おそらくフォント等を参考にして書いたものだろう。フォントなら平仮名・片仮名も篆書的にデザインされているはずだ。片仮名最終画の妙なくねりはそれを感じさせる。

それでは、なぜ普段使っている楷書や行書で書かなかったのだろうか。インパクト重視なら、インパクトのある楷書なり行書なりを書けばよいだけだ。おそらく、楷書や行書によほど自信がないから、上手いのか下手なのか分からない(一般的には)奇妙な書体で書いたのだろう。ようするにハッタリである。

ハッタリ書道というと、小泉元総理を思い出す。小泉元総理は書くスピードが異常に早く、自分の字で書いていた。全く上手いとは思えないが、文句を言わせないハッタリ感があって、それがいかにも小泉氏らしさをだしていた。

河野氏の書は、向いている方向は小泉元首相と同じだが、結局何らかのお手本、それもフォントのような安直なものを見ていて、まともに勉強していない。まあ、そういう人間なのだろう。
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ここのところイロモノ書道に関して何も書いていない。イロモノシーンがつまらないからだ。

僕は、このブログで何度かイロモノ書道について書いてきた。これを読むと、イロモノ書道を批判しているように見えるかもしれない。たしかに批判はしているのだが、否定はしていない。

というのは、僕自身、イロモノを志向していたからである。公募展や社中は大嫌い。偉そうな書壇の連中にイヤがられような作品を書くのを至上の喜びとしていた。もっとも、そんな人たちの目に止まることはなかったが、代わりに大学の先生には嫌われた。いまだに自分がヘタなのは、そのころちゃんと条幅をやらなかったからだと思っている。

だから、イロモノ書家の皆さんについては、ある程度理解しているつもりだし、期待もしていた。今は俗っぽい作品を作っていても、そのうち本当に面白い、誰にも思いつかないような作品を作ってくれるのではないか。

だが・・・。期待はずれだった。

イロモノ書家の作品はどんどん俗っぽくなる一方で、若いころの作品のほうがまだ面白い。以前、イロモノ書家の行動が似ているのを元に、イロモノ書家度チェックを作ったが、最近は作風まで似たりよったりになってきて、どういうわけだか、側筆でふところ(文字の中の空間)の狭い字を書くのが流行りらしい。芸術なのに流行りって何よ。

これは、武田センセー、紫舟センセーの「イロの二大家」だけではない。あとから出てきたフォロアーらしき人たちも、みんな似ている。おもしろいことに、経歴だけみるとイロモノではないはずの人まで影響を受けているようだ。

そんな中、このブログのコメント欄から、ちょっとびっくりするタレコミがあった。なんと、奈良県立美術館であの榊莫山先生と紫舟センセーがコラボしているというのだ。停滞気味のイロモノ書道シーンに痛烈な一撃。あんまりびっくりしたから、魚拓までとっちゃったよ。

書の源流企画展榊莫山と紫舟のシンフォニー(交響):奈良県立美術館
Webアーカイブ

榊莫山と紫舟、芸術響き合う 奈良県立美術館15日から作品展:産経ニュース
Webアーカイブ
榊莫山(さかき・ばくざん)さん(1926〜2010年)と紫舟(ししゅう)さんという奈良ゆかりの著名書家2人の作品が同時に並ぶ書の源流企画展「榊莫山と紫舟のシンフォニー(交響)」が15日から、奈良市登大路町の県立美術館で開催される。同館では榊さん、紫舟さんともに初の作品展で、それぞれの芸術世界が響き合う展観を目指す。前期は6月4日まで、後期は同6日〜7月23日。
莫山先生、書壇とは距離を置いていたし、テレビでも有名だった。商品ロゴも多く手がけている。おまけに容貌怪異容貌魁偉かつフォトジェニック。たしかに現在のイロモノ書家に通じるものはある。

でもね〜、師弟関係でもないのに、いくらなんでもこれは恐れ多すぎる。仮にこういう企画が美術館側から来ても普通は断る。それぐらい恐れ多い。しかし、それができるのが紫舟センセーだ。みなぎる自信。イロモノはこうでなくっちゃ。

もっとも、当のバクザン先生は、草葉の陰から、ニコニコして「よかいち、よかいち」とか言っているはずだ。それがバクザン先生である。この突き抜けた個性がないんだよな、イロモノには。

「書の源流企画展榊莫山と紫舟のシンフォニー(交響)」は7月23日まで。僕は行く余裕がないけど、行ける人はこの公開処刑に震えてほしい。
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昨日、キューバのカストロ元議長が亡くなった。いろいろと思うところはあるが、それは置いておいて、安倍首相の「哀悼の意」が、日本語としてひどかった。
カストロ氏死去 安倍首相が哀悼の意 各国首脳も追悼:NHK NEWS WEB
安倍総理大臣は「キューバ革命後の卓越した指導者であるフィデル・カストロ前議長の逝去の報に接し、謹んで哀悼の意を表します。本年9月に、私がキューバを訪問しお会いした際には、世界情勢について情熱を込めて語られる姿が印象的でした。日本政府を代表して、キューバ共和国政府および同国国民、ならびに御遺族の皆様に対し、ご冥福をお祈りします」としています。
いやいやいや、キューバ政府と国民に対し「ご冥福」をお祈りしちゃいけないだろう。

ご冥福をお祈りするのは、亡くなったカストロ前議長に対してである。「冥福」は、読んで字のごとし、「冥土の福」で、死後の世界での幸福という意味である。コミュニストに死後の世界があるかどうか分からないが、少なくとも、生きているキューバ政府とキューバ国民に対して使う言葉ではない。それとも、キューバが冥土なのだろうか。

さて、言葉としてひどいといえば、最近、学校でこんなのを見かけた。
ナゾの書道半紙
巻かれた巨大な紙である。僕の大嫌いな書道パフォーマンスに使うものらしい。「なんじゃこれは」と思って近づいてみると、このラベルにこんなことが書いてある。
ナゾの書道半紙ラベル
「書道半紙」である。サイズは1000ミリ×30メートル。でかい。半紙じゃねぇ!

「半紙」とは、紙の種類ではなく、サイズのことなのである。日本人なら誰でも知っているあのサイズを「半紙」という。だから、「大きい半紙」などは存在しない。ちなみに、「日本人なら」と言ったが、半紙というサイズは日本独特のもので、中国産の唐紙は日本に輸出するため、わざわざ半紙サイズに切っている。

もちろん、言葉の意味を知らない人が、これを半紙というのは仕方がない。だが、商品にして売ろうというのに、これを書道半紙とネーミングするのは書道用具を売る業者としていかがなものか。まあ、書道パフォーマンスに群がる連中なんてその程度のものだということである。

僕は、言葉を知らないことを嘲笑する気はない。誰にでも知らない言葉はある。問題は言葉に対する態度である。

追悼の言葉でも、商品名でも、普段、会話で口にする言葉とは重みが違う。そういう言葉を世に出すときは、細心の注意を払うのが当然だ。すべての言葉を調べるぐらいの気遣いが必要である。

しかも、「冥福」も「半紙」も、それが「冥土の幸福」とか「半分の紙」とか、本来の意味が比較的類推しやすい言葉である。それなのに、だれからも「ちょっとおかしいな」という意見が出ず世に出てしまったのが、どうにも不思議でならない。
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これはまたすごいのが出てきましたなー。

ギャル書道家なちゅ-ボディ書道

この人がイロモノ書道家かどうかなんて誰だって分かる。イロモノチェックする必要がないほど、誰がどう見てもイロモノだ。この割り切りがいい。

プロフィールを見てみよう。
ギャル書道家なちゅ-ボディ書道 プロフィール
生年月日:1984年12月23日 (今年30歳 ギャルオバ)
出身地:大阪府 血液型:O型
特技・趣味:書道七段・ お琴・キャラ弁作り・eco活動
※ ワタナベコメディスクール 女性タレントコース1期生

まずこの人、雅号を名乗っていないのがいい。いや、「なちゅ」が雅号なのかもしれないが、「○雲」だの「紫○」だの、いかにも書家でそうろうでない、最初からイロモノを目指している(としか思えない)ところがいい。

「特技・趣味:書道七段・・・」ってのもすごいぞ。

書道の段位というのは、所属する社中の中でだけ通用するもので、「書道七段」と書いているのは、「私は素人です」と言っているのと同じことだ。それ以前に、書道家を名乗っているのに、「特技・趣味 書道」はないだろう。書道家ならそれが職業である。画家が「特技趣味 油絵」とプロフィールに書いていたらおかしいだろう。

作品はこちら。「書道家」を名乗って間がないのか、あまり多くはない。

ギャル書道家なちゅ-ボディ書道 制作実績

ボディ書道というのは、女性の体に書くことらしい。体に字を書くと、どう見ても耳なし芳一にしか見えないのが悲しいところだ。instagramの方にも半紙に書いた作品があるが、はっきり言って素人の字である。

nachudechutoshitewa:instagram

もともと「書道家」とか「書家」なんて肩書はダサいのである。自覚がない人もいるが、本物の書道家を名乗る人は、「文人」か「芸術家」、もしくは「教育者」「学者」などと呼んでほしいのに、やむなく「書道家」とか「書家」を名乗っているのである。

なちゅさんには「書道家」という言葉の持つダサさを極めて、この肩書を地面に叩き落とすことを期待している。
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前にも書いたが、僕は高校生の書道パフォーマンスが大嫌いだ。前っていつだと思って調べてみたら、2010年である。ちょっとびっくりした。4年も続いているのか。

高校生の書道パフォーマンスはよく分からない:2010年02月12日

僕がこれを嫌いな理由はいくつもあって、真面目に書けば、それだけでいくつものエントリが書ける。最初に断っておくが、やっている高校生に罪はない。指導者に罪がある。

はっきり言って、ほとんどの指導者は、書道パフォーマンスを書道のジャンルとして見ていない。彼らは、書道パフォーマンスが書道ではないと分かっていながら、やらせているのである。これが一番大きい罪だ。

それが証拠に、指導者の模範演技というのを見たことがない。書道パフォーマンスが書道だというなら、指導者自ら演じてみせるべきだ。小汚いオッサン、オバサンが、団体で「エイ!!」とか言って、音楽に合わせて踊りながら書を書く。是非とも見たいものだ。

どんな分野であれ、高校の部活でやるものは、たいがい大人もやるものだ。野球は高校生だけがやるものではなく、大学生も、社会人もプロも、ほとんど同じルールでやる。ところが書道パフォーマンスは大人がやらない。簡単に言えば、書道パフォーマンスなんて子供だましなのである。

僕はこのことを、指導者に聞いてみたことがある。彼は、これが書道に親しむきっかけになればいいと言った。しかし、本当にこれで書道に親しむことが出来るのだろうか。

書とは書く人、そのものに強く結び着く芸術だ。技術ももちろん大事だが、〈誰が書いたか〉がそれより優先される。仮に僕がいくら技術的に上手くても(あくまで仮にである)、僕の書よりも坂本竜馬の書の方が価値がある。書とはそういうものだ。つまり、書において(これは書に限ったことではないが)、団体というものはあり得ないのである。

書道パフォーマンスは、書の本質から遠く離れている。これに親しんだとしても、それは書に親しんだことにはならない。
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最近テレビなどに登場する「書家」とか「書道家」と名乗っている人は、書道界からはほとんど評価されていないイロモノ書家ばかりである。

イロモノ書家と書家の違いは、

イロモノ書家と書家の違い:2010年12月21日
イロモノ書家度チェック:2010年07月21日

を参照してほしい。

では、なぜイロモノ書家ばかりがテレビに出てくるのだろう。

書道界は、ヤクザの組織に似ている。大きな上部団体があり、そこに所属する下部団体があり、さらにその下まである。日展・毎日展・読売展といった公募展に出品された作品でも、作風を見るとどのグループに属しているかは一目瞭然である。

問題はここから先だ。権威のある日展・毎日展・読売展は公募展だから、誰でも出品できるが、誰もが入選できるわけではない。審査員のお眼鏡にかなわないと入選できないのである。

そして、入選を決める審査員もまたいずれかのグループに属している。当然、自分の団体のものを多く入選させようとすることになる。

こうなってくると、各グループは書壇内での力関係ばかり気にするようになる。グループに所属する若い作家も、自分の属するグループの偉い人に従うだけになる。

わかりやすく言うと師匠といかにそっくりな作品を作るかだけが彼らのテーマだ。こんなのは芸術ではないし、外に目が向かなくなるのも当然だ。こうして書道の世界は蛸壺化していったのである。

書壇の中だけで偉くなれば収入につながる。前にも書いたが、作品が売れたとか言っても、買うのはグループ内の人(基本的に弟子)だけで、全く無関係の人が買うなんてことはほとんどない。

おそらく、そこに目をつけた賢い人がいるのだろう。全然新しくもないものを新しいといい、まったく評価されていない人を天才といい、マスコミに売り込むという方法を取る人たちが出てきた。それがイロモノ書道である。それに反撃する力はもはや書壇にはない。

今の書道界は教室で成り立っている。下部団体の人が生徒からもらった金の一部を上部団体に、上部団体はさらにその上部団体に上納するというのが、現在の書道界のビジネスモデルだ。作品自体の売買はほとんどこの団体内だけで行われていて、○○先生の作品がいくらで売れたなんていうのは大抵弟子が買っている。

ビジネスという点でいえば、積極的に書壇の外に売り込むイロモノ書家の方が余程健全である。芸術というものは、作品をなんの関係もない一般人に売ってお金に代えるものだ。

問題は作品の評価である。イロモノ書家は芸術性が低く、書道界からは全く評価されていない。評価されていないのに「天才」とかいうわけにはいかないから、聞いたこともない展覧会の入賞を誇ったり、外国で活躍したりするのである。

一方、書壇は自分たちのグループ内でしか評価できない。自分のグループに属する人だけがいいというなら、彼らが審査する公募展はすでに評価する力を失っていると言っていいだろう。

今、なぜイロモノ書道なのか。つきつめると、書道を評価する人がいなくなったということに尽きるだろう。
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楽器演奏や絵画にテクニックがあるように、書道にもテクニック(技術)がある。

書道のテクニックというと、字形の整え方のような〈形〉に関するものだと思われるかもしれない。もちろんそれもあるが、それは最も重要なことではない。〈形〉に関することであれば、毛筆である必要はないからである。

書道のテクニックは毛筆を使うことにある。

書道用の筆を見たことがない人はまずいないと思われるが、テクニックにかかわる特徴は三つである。

1.獣毛でできていること。
動物の毛だから、動物の種類、毛の質、長さ、太さによって書ける線が変わる。表現にあった筆を使うことも一つのテクニックである。

2.断面が円形であること。
これが刷毛のような形だと、太いか細いか二種類しかできないが、毛筆は円形なので抑える力、傾き具合、書くスピードによって書いている線の太さを自在にコントロールできる。
これには熟練が必要で、ヘタな人の字は太さに変化がないか、逆に細くすべきところで太く、太くすべきところで細くなってしまう。

3.ある程度の長さをもっていること。
一本の筆の穂先は三つの働きがある。根本(軸に近い方)が墨を溜める部分、中間がバネ、先端が書く部分である。ただし、使い方によって、根本まで書くことに使う場合もある。

墨のつけ方・筆圧によって無限の表現ができる。基本は、最初は少しにじみ、書くにしたがって、自然にかすれていくようにする。

これらは、正しい墨の含ませ方、持ち方、動かし方をしないと自在に操ることはできない。「正しい」といっても、一つではないし、他の要素―紙・墨―によっても変わってくるので、これが正しいと簡単に説明できるものではない。

昨日のエントリで書いた少年のように、握りこんで、べったり墨をつけて書くというのは、少なくとも筆による多様な表現をスポイルしていることに他ならない。しかし、わざと筆によって可能な表現をスポイルして書くという方法も考えられる。かつてそういう書家がいた。井上有一である。
書「井上有一」:アート/ART

井上有一の作品を「書」とみるかどうかは議論があるだろう。しかし、間違いなく思想がある。何も考えない殴り書きとはわけが違うのである。

技術が未熟だから、井上有一のモノマネをして天才・・・そりゃ先駆者に失礼だろ。
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ワールドビジネスサテライトを見ていたら、「図研」という会社のコマーシャルに13歳の書道家という少年が出てた。高橋卓也というらしい。

HOME > 会社情報 > テレビコマーシャル:ZUKEN
高橋君は1歳にもならないうちにおばあちゃんの筆ペンをおもちゃ代わりに、何時間も字を書いていました。3歳の時に書いた「凧」の字でモントリオール国際芸術祭・書道の部で最年少グランプリを受賞。その後、自らも経験した大震災からの復興を祈り、今年開催された「東北六魂祭」の題字を書いたことに加え、先日開催された「国連持続可能な開発会議 リオ+20」のジャパンデーのイベントコンセプト「TOHOKU FORWARD」の文字も高橋君によって揮毫されたものです。

僕は「モントリオール国際芸術祭・書道の部」というのを聞いたことがない。しかも三歳でグランプリである。これが現代美術の部とかだったら面白いのだが、書道の部というのが奇怪だ。よほど出品者が少ないのだろう。

誤解のないように言っておくが、3歳の高橋君はたしかに天才である。ただし、それは高橋君に限ったことではない。どんな子供でも3歳で書いた書は天才的である。

天才というのは、天から与えられた才能という意味である。3歳ならまだ何物にも染まっていないし、上手く書こうとか、こう書いたらカッコイイとかいうものもない。3歳の字は大人は絶対に書けない。だから、子供に筆を持って書かせれば、誰でも天才なのである。

前に紹介した戸越ぼんぼん祭りの写真を貼る。何歳かは分からないが、こんな字は大人には書けない。この子もまぎれもなく天才である。
書部門(大戸めい)


それでは、13歳の高橋君はどうか。

上の図研のコマーシャルでは、筆を握りこんで「図研」という字をゴリゴリと書いている。筆脈も意識していないし、筆順もめちゃくちゃ。縦画を下から上に書いたりしている。書道の基本は完全に無視のようだ。

問題はここに思想があるかということである。これを大人がやるならいい。全てを理解した上で、新しい表現をするという思想があるからだ。もちろん、その思想自体は批判されるだろうが、それでもやるならばそれが芸術だ。

しかし、13歳の彼にそれがあるとは思えない。13歳でこれが正しい表現だという域にたどり着くとは到底思えないのである。

もし、3歳のままの書が13歳でも書ければ、それはたしかに天才かもしれない。40・50になっても書ければホンモノだ。逆に思想はないが、テクニック的に天才的な13歳というのがいてもいいだろう。

しかし、残念ながら図研のコマーシャルを見る限り、高橋君すでに「かっこよく書こう」という意識がすでに表れている。それは3歳の天才ではない。また、書道のテクニックは一切使っていない。

僕は、大して書を勉強していない大人が、書道家づらしてテレビにでること自体は批判しない。バカバカしく笑って見ている。だが、13歳の少年を天才と祭り上げて、こういうことをやらせるのは、はなはだしく不快に感じる。

イロモノ書道の道は、みずから選択して歩むもの。3歳からイロモノなんて早すぎる。

喩えるならば、アイドルと言われてビキニを着せられて、エロチックなポーズを取らされる、女子小学生。それに通じる気持ち悪さを感じるのだ。
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今度の大河ドラマの題字は青森県在住の書家、菊池錦子氏である。聞いたことのない名前だが、「篤姫」の題字もこの人だそうだ。「篤姫」にはあまりイロモノ感(そのころイロモノ書家なんて概念がなかったけど)を感じなかったが、ここの所ブラックイロモノ書家(イロモノ書家最上級)の起用が相次いでいる大河ドラマなので、どうだろう。

まず手始めに公式サイトを見てみよう。

書家・菊池錦子

非常にシンプルなデザインで、プロに制作させたものではないようだ(これでもしプロだったら、業者かえたほうがいいですよ)。素人くさくてなかなか好感がもてる。しかも、geocities。独自ドメインをとっていないのもいい。とっちゃいけないわけじゃないけどね。

それではイロモノ書家度チェック。基準はイロモノ書家度チェック:2010年07月21日にある。

では、手がかりになるプロフィールをみてみよう。

菊池 錦子 プロフィール
菊池 錦子 プロフィール
青森県弘前市出身・在住
書家 (無所属)
6歳から書を始める。
個展で作品を発表している他、大河ドラマ「篤姫」・「江 〜姫たちの戦国〜」などの映像・イベントなどのタイトルや社名、商品名など 多方面にわたって筆文字の素材を提供している。


なんともシンプルなプロフィールである。これを見ると、イロモノ書家たちのプロフィールがいかに汚いかわかるだろう。

イロモノ書家度チェックでひっかかるのは、

1.経歴に日展・毎日展・読売展のいずれか一つが入っていない。+5

だけである。

他のページも見てみたが、和服姿で書いているのはないし、もちろんパフォーマンスもない。経歴は40年以上。しいて言うなら、「墨以外の色を使った作品」がちらほらあるが、それほど多くないので加算する必要はないだろう。雅号を名乗っていないのも好感がもてる。

ということで、

0〜19pts 素人(残念ながら、あなたはイロモノ的な意味において才能がありません)

あくまでイロモノ書家としての才能なので、誤解なきよう。

「書道団体から離れ、個人で書に親しむようになって二十年」とあるので、あるいはかつて公募展にも出していたのかもしれない。現在、個展で活動しているようなので、公募展の経歴がないのはおかしくない。

作品については写真が小さいので何とも言えないが、それほどヘンなのはないように思える。とりあえずこの人はイロモノ書家ではないと見ていいだろう。
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無料版のLivedoorブログにはアクセス解析が付いていなかったのだが、9月からアクセス解析が見られるようになり、驚愕の事実が判明した。イロモノ書家がらみの検索で来る人が多いのである。

特に武田双雲センセーと森大衛センセー、國重友美センセーは、僕のブログに来る検索結果の上位を独占している。

そこで、今日はご期待に応えて、イロモノ書家と書家がどう違うか、分かりやすく説明しよう。

まず、最初に書道とは何かを簡単に定義すると、〈文字を使った芸術〉ということになる。「文字じゃなくってもいいじゃないか」という前衛書家もいるにはいるが、とりあえず〈文字〉としておいた方が分かりやすい。

この定義にのっとれば、イロモノも何もなく、文字を作品にする人は書道家(書家)ということになる。

しかし、書道には長い歴史がある。その歴史の中で生まれた、セオリーがある。書道家と称する先人たちが築き上げてきたセオリーは、一応それに則れば作品としてまとまるようにできている。これは決して書道だけではなく、美術でも音楽でも演劇でもあらゆる芸術に存在する。

ここで、まずイロモノ書家と書家の違いがある。

1.イロモノ書家はセオリーに則っていない。

こういうと、当然、次のような批判もあるだろう。

古いものを倒し、新しいセオリーを作るのが芸術ではないか。

それはその通り。

実際、先人たちも古いセオリーと戦って新しいセオリーを作ってきた。そして、無数の挑戦者の中から、新しいセオリーが生まれたのである。ではイロモノ書家たちは、挑戦者なのだろうか。ここに二つ目の問題がある。

2.イロモノ書家はセオリーを知らないらしい。

セオリーを知っていて無視するのと、知らないのとでは大きな違いだ。サッカーで手を使ってはいけないというルールを知っていながら、手でゴールすれば「神の手」と言われるが、知らなければタダのバカである。

では、なぜセオリーを知らないと分かるか。それは日ごろの言動でも十分分かるのだが、作品からも分かる。武田双雲先生の出世作「天地人」を見てもらおう。
天地人

この作品、他にも突っ込みどころが多い(例えば、天の一画目が二画目よりも長いのは相当なアレ)のだが、わかりやすい例として、天の左払いと、地の最後のハネに注目してほしい。

どちらも上にハネ上がっている。その上、奇妙にくねっている。

書道のセオリーでは、不自然なのが一番忌むことである。この場合次の画(「天」の右払い・「人」の一画目)につながっていくのが自然なので、このように上に跳ね上がるのは不自然である。

また、このくねりは意図的に出したものである。これが、中風か何かでやむを得ずくねったなら自然である。しかし、どうみてもそういう自然なくねりではない。第一、武田センセーが中風なんて話は聞いたことがない。

セオリーを知っていて無視したなら、無視しなければならない理由がなければならない。この作品からは流れ(筆脈とか気脈という)を断ち切ってまでハネ上げ、くねらせる理由が見えてこない。武田センセーに聞けば、きっと答えてくれるだろうが、作品から見えなければ意味がないのである。

さて、僕が彼らイロモノ書家と呼ぶ一番の理由は、

3.イロモノ書家は書家(書道家)と名乗っている。

ことである。

実は、書道の世界では、書家と名乗らない人には寛容な側面がある。書道家でない人がセオリーを無視しても、かえって評価されたり、逆にそれが書道のセオリーに取り入れられたりすることさえあるのだ。

ところが、イロモノ書家は書家という肩書きを好んでつける。そして、なぜか和服を着て、雅号を名乗り、でかい筆でパフォーマンスをする。たぶん、これが彼らの中での書家像なのだろう。書家と言わなければいいのに、彼らは他に芸がないからそうするしかない。他に芸がないなら「芸術家」と言えばいいのだが、それでも彼らは頑なに「書家(書道家)」と言う。

以上三点が、イロモノ書家が書家でない理由である。ここでは(アクセス数増加を狙って)武田双雲センセーを引き合いにだしたが、國重センセーにも、紫舟センセーにも当てはまる。

ただ、一言だけ付け加えておくと、僕はイロモノ書家を批判するつもりはない。むしろ、どんどんやってほしい。落語家だけが芸人でないのと同じように、面白ければ何だってアリなのだ。続きを読む
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