カテゴリ: 旅3

八月の終わり、僕は北海道で見えない敵と戦っていた。

釧路湿原。岩保木水門(いわぼっきすいもん)のあたりで見えない敵と戦った。
釧路湿原1
同じく、岩保木水門の近く。
釧路湿原2
つかの間の休息。
休息1
阿寒湖
阿寒湖
敗北。
阿寒湖看板
つかの間の休息。
休息2
共闘。
ヒグマ
美瑛の青い池
青い池
和解。
松山千春
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そろそろ中国自転車旅行ネタも飽きてきたが、せっかく時間をかけて昔の写真をスキャンしたので、もう少し紹介する。

まずは江蘇省沛県で見付けた、漢邦肉犬養殖基地。その名のとおり犬の養殖をしていると思われる。壁がカタログになっているのが面白いが、どう見ても肉犬にするのはもったいない犬もいる。なぜか壁には「漢邦肉犬名犬繁育基地」と書いてあるので「肉犬」ではなく「名犬」の方なのだろう。
漢邦肉犬養殖基地
これ、江蘇省沛県というのがミソ。沛県といえば漢の初代皇帝劉邦の出身地だ。劉邦は田舎番長みたいなイメージがあるが、沛県はたしかに田舎だった。その劉邦の右腕になって働いたのが樊噲である。樊噲は沛県の犬の屠殺業だった。

沛県は今でも犬肉が名物らしい。食べてみたが、今となってはどんな味だったかよく覚えていない。ビーフジャーキーみたいなちょっと固い肉で、ビールのおつまみに最適だった記憶がある。

次は北京の「成人保健」。漢字が読めるのはありがたい。中国語ができなくても、何の店かだいたい分かる。当時はどこの町にも成人保健の看板を掲げている店があった。一人っ子政策の関係なのだろうか。
成人保険
もちろん中にも入ってみた。売っているのは御想像の通り。ある種の薬とか、電動のアレとか、まあ成人保健である。なぜか必ずナースのコスプレをしているお姉さんが店番をしている。かえって買いにくいんじゃないかと思うが、どの店にもいたので何か決まりがあるのかもしれない。

で、上の写真とは別の成人保健の店にあったポスター。漢字が読めるのはありがたい。中国語ができなくても何の薬かだいたい分かる。
勃力王
それにしても「勃力王」、名前もすごいが効能もすごい。単に勃力王なだけでなく、性病まで予防してくれて、副作用がない。しかも、効かなかったときは即座に返金してくれるらしい。名前的には下の「我是猛男」も捨てがたい。

そういえば、このころ中国のテレビCMは薬が多かった。それも勃力王なみに効能がすごいのばかり。旅の最中に腹をこわしていくつか中国製の薬を飲んだが、やたらと効くものと、さっぱり効かないのの差が激しかった。強烈に効いたのはいいが、真っ赤な小便がでてきたときには、さすがにビビった。

最後は北京動物園のトキ。
トキ
こんなところで絶滅したトキに会えるとは思ってもみなかた。御覧のとおり、いわゆる鴇色ではなく墨をかぶったように黒い。これは汚れているのではなく繁殖色らしい。なんと自分で色を付けるんだそうだ。
トキは繁殖期の前、1月下旬頃から粉末状の物質を分泌し、これを水浴びの後などに体に擦りつけ、自ら「繁殖羽」の黒色に着色する。着色は2月下旬から3月中旬頃に完了するが、こすり付ける行動は8月に入る頃まで続けられる。トキ:Wikipedia

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ここまで、20年前の中国自転車旅行の話を書いてきたが、中国人民とのからみは何も書かなかった。何しろ自転車旅行だしスマホなんかない時代だから、それなりにからみはあったのだが、いちいち書いていたらきりがない。だいたい田舎の人というのはどこへ行っても親切なもので、おおむね好意的にもてなしてもらえた。

そのころ、中国の田舎でちょっと目立つことをしていると、どこからともなくギャラリーが集まってきた。それほど人のいないところならせいぜい2・3人ですむが、集落が近いところだと数十人集まってくる。面白いことに、人が少ないとなにやら話しかけてくるのだが、多いと遠巻きにして黙って見ている。

「ちょっと目立つこと」といってもたいしたことではない。パンク修理とか、道端でアイスを食っているとか、地図を見ているとか、その程度のことである。困っているときは助けてくれるが、こういう時に道を聞くと大変なことになる。「こう行ったら近い」「いやこっちだ」「そっちは工事している」と議論になって、かえって面倒くさいことになってしまう。

道ばたで休んでいたら、自転車に乗ったオッサンが来て、自転車のハンドルあたりを指差して「これは何だ?(たぶん)」と聞いてきたときは面白かった。普通の自転車には付いていない変速レバーのことを言っているのだろうと思ったが、オッサンの指差しているところをよく見るとブレーキレバーである。

オッサンの自転車を見たら、なんとブレーキが付いていなかった。もちろんペダルを止めると止まるというようなものでもない。どうも足で止めるらしい。たしかにそのあたりは坂がないし、自動車もほとんど走っていなかったので、急に止まる必要はなさそうだが、まさかブレーキを知らない人がいるとは思わなかった。

僕みたいな中国語が不自由な人間には変速機の説明は難しいが、ブレーキの説明なら簡単だ。自転車を押して、ブレーキをかけるところを見せたら、オッサンなんだか感動してたが、たぶんそれ100年以上前からあると思うよ。
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中国は言うまでもなく共産主義を標榜しているが、行っただけではどこが共産主義だかよく分からない。それどころか日本よりも資本主義的なんじゃないかと思うことすらある。それは20年前でも同じだったが、有料トイレで「あっ?これ共産主義?」と気が付いた。

ところで、最近共産主義の意味が理解できていない人が多くなったように思う。僕には詳しく説明する余裕も知識もないが、簡単にいえば共産主義とは労働者が中心の社会をいう。全体主義や独裁主義と区別がついていない人が多いが、それは別の概念である。

話をもどす。前回、中国のトイレの話をしたが、有料トイレも結構ある。当時は5角〜1元ぐらいを入る時に払う。オマケで申し訳程度の紙をくれるところや、大と小で値段が違うところもあって、これまたバラエティに富んでいた。なお、有料だからといってものすごくきれいというわけではない。

有料トイレは銭湯の番台みたいに一つの入口に一箇所集金所があって、中で男女に分かれるというパターンが多いが、男子トイレと女子トイレに一人ずつ集金所がある所もある。そんな有料トイレでお金を払おうとしたら細かいのがない。お釣りをもらおうとして5元札を出したら、別の方向を指さして何か言っている。そこは両替所で、別のおばさんがいた。僕は両替所で5元札を1元札5枚にしてもらい、集金所のおばさんに1元支払った。

このトイレ、男子トイレと女子トイレにそれぞれ二人ずつ働いている。真ん中にはトイレットペーパーだのジュースだの煙草だのを売る店もあるので、一つのトイレに5人働いていることになる。たぶん、掃除の人も別にいるだろう。これが駅とかバスターミナルなど、頻繁に人が入る所ならまだ分かるがそれほどでもない。当時の人件費はかなり安かったが、それでも一人1元ではまかなえそうにない。

これは雇用を確保するために、働かせているのだろう。そういう目でみると、「その仕事いる?」みたいな仕事をしている人がけっこういる。そういう人はだいぶ少なくなったような気がするが、今でも見かける。労働者が主人公の共産主義が建前だから、むりくり雇用を作って失業者を減らしているのだろう。
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20年前、僕が中国を自転車で旅行すると言ったら、いろんな人からアドバイスをもらった。泥棒に気をつけろ、強盗に気をつけろ、ボッタクリに気をつけろ、馬賊が・・・ってそれいつの時代だよ。まあ、およそ役に立たなかった。

僕は四回中国自転車旅行をしているが、強盗の類いにはあったためしがない。泥棒もない。ボッタクリに近いものはないではないが、違法行為(察してくれ)でもなければ、このころの中国では精一杯ボッタクってもたいしたことはない。

そんなものよりも、当時の中国でいちばんビビったのはトイレである。扉がない、仕切りもない、汚いなど、聞いたことがあるかもしれないが、それ以上にあまりにバラエティに富みすぎていて、開けてみるまで分からない。

街の公衆トイレで一番多かったのが、ドブみたいな長い溝が切ってあるタイプだ。深さ50cm幅30cmぐらいの長い溝にいくつかの仕切りがある。この溝にまたがって用を足す。仕切りがあるから前の人は見えないものの、通路側はまる見え。同じ溝が通路の向かいにもあったりするので、最悪の場合、横を見ると他人の尻からブツが出てくる所が見られる。たまに尻隠し用の板が仕切りに付いていることもあるが、そんなの気休めにすぎない。

この方式、一応水洗なのだが、どこかレバーを押すと流れるのではなく、一定の時間ごとに流れる仕組みになっている。もしその時にまたがっていると、上流から下流に向って、股間の下を黄河の濁流のごとく流れることになので、できれば上流側でした方がいい。

田舎町になると、いわゆるニーハオトイレが増える。これはレンガでできた小屋の中に、長方形の穴が掘ってあるだけのもの。一つのトイレにいくつかの穴があいているから、隣に人が来たら、ニーハオというわけだ。

この形式のトイレも何度か入ったが、隣に人が来たことは一度しかない。しかも子供。このタイプ、ブツが一杯になったら誰かが掘り出すはずだが、不思議なことにブツが溜っていなかったためしがない。

で、だいたいここに蠅がたかっている。そこに自分のブツを落すと、ぶわっと蠅が逃げる。これがなかなか壮観だ。一度、その蠅のなかに妙にでかいやつがいた。よく見たらウシアブである。こんなやつに尻を刺されたら洒落にならんので、あわてて尻を拭いて逃げた。

もう一つ印象的だったのが、農家の庭先にあった、名付けて小鳥さんタイプである。庭にいたオッサンにトイレの場所を教えてもらい行ってみると、煉瓦でコの字形に囲った壁があるだけ。屋根は付いていない。「コ」の開いている方にコンクリートの棒が一本置いてある。これでは片足しかかけられない。ハテ、どうしたものか。

よく観察すると、「コ」の閉じた方にブツがある。つまりこのトイレは小鳥が枝にとまるごとく、コンクリートの棒に乗っかって用を足すらしい。上は空、前方は畑である。トイレではあるがほぼノグソだ。やや不安定だったが、人が来る心配はないし、天気はいいし、先人のブツも多くないので、意外と爽快ではあった。

さて、実は今までで一番ビビったのは公衆トイレではない。

3回目の自転車旅行(2004年)の時のこと、一部屋バストイレ付き60元(920円ぐらい)、バストイレ無し30元と言われた。バストイレ無しには何度も泊まっているので、僕が30元の方にしようと言うと、葛的先生がなぜか「嫌な予感がするから60元の方にしよう」と言うので、そっちにした。

僕がバストイレ無しでいいと言ったのは、ケチだからではない。こういう安宿の水回りはどこかが壊れていることが多い。共用のシャワーやトイレが壊れていることはまずないし、あったとしても別のを使えばいいだけだ。それで安いならそっちの方がいいと思ったのだ。

次の日の朝、見物がてら共用のトイレに入ってみて、葛的先生の予感が的中したことを悟った。

共用のトイレは、ちょっと広めの学校のトイレみたいな感じで掃除がいきとどいている。それはいいのだが、目の前には和式便器が5つ程並んでいるだけ。扉どころか壁もない。しかもなぜか満員。中国の和式便器は洋式と同じく扉の方を向いているものなので、全員こっちを向いている。

そのころには、どんなトイレでもできる自信があったが、さすがにこれはムリ。僕の自信はもろくも崩れた。そのまま後ずさりしてトイレを出て、素直に自分の部屋のトイレを使った。

さて、ここまで書いたのはあくまで20年前の話である。最近の中国では、こんなトイレに入ったことはない。それでもたま〜に、「あれ?何で個室に二つも便器があるの?」みたいなこともあるけど。
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20年前の自転車旅行は北京から上海(実際には鎮江までしか行けなかった)までの旅だったから、黄河と長江を渡るという貴重な体験をした。もちろん自転車で漕いで渡ったわけではない。

まず、黄河。その名のごとく黄色い。
黄河
さて、これをどう渡るかだが、写真を撮っている地点の近くに橋があったので、橋で渡った。だが、これがただの橋ではない。

橋のたもとに着くと、小さな小屋がある。いくらだか忘れたが、そこのおっさんに金を払うと橋が渡れる。橋は大きな船が横に何隻も繋げて上に鉄板が乗せてある感じで、いわゆる浮橋である。幅はちょうど自動車道路の二車線ぶんある。ガラガラなら何の問題もないが、たくさんの大型トラックがここを通る。というか、トラック以外でここを渡っているのは僕らだけだった。

前がつまっているので、トラックもそれほどスピードは出せない。ちょうど自転車のスピードと同じぐらいなので、トラックの間に挟まれて走るのだが、トラックのかげに隠れて前は見えないし、後ろからぴったりくっついてくるし、恐しいことこの上ない。

ふと下を見ると、黄河が濁流になって流れている。遠目で見たときはそんなに流れているようには見えなかったが、船状のものの隙間から流れるので、けっこうな急流だ。浮橋の上を重いトラックが通るのだから、フラフラと揺れる。ここでコケたら、トラックに轢かれるか黄河に落ちるか、いずれにしても間違いなくオダブツだ。下なんか見るんじゃなかった。

というわけで、なかなか貴重な体験をしたのだが、命の心配で写真なんか撮っている余裕はない。対岸に着いたら写真を撮ろうと思ったが、しばらくはトラックに挟まれて走行させられた。

黄河より遥かに南の江蘇省宿遷市には古黄河なるものがあった。ここは項羽の出身地というのは今知った。それにしても、黄河、移動しすぎだろ。
古黄河
一方、長江は船で渡った。前後から乗り降りできるようになっている船で、ピストン輸送しているらしい。これまた、僕たち以外は自動車ばかりだった。

例によって料金所があって、葛的先生が払いに行ったと思ったら、すぐに帰ってきて、「なんか自転車はタダらしいよー」と言った。ところが、船が岸に着くやいなや、「来た!走れ!冲啊(チョンアー)!」とか叫んで、ものすごい勢いで船に向って自転車を走らせた。僕らはあわててついて行ったのだが、本当に自転車はタダだったんだろうか。
長江フェリー
葛的先生がかぶっている帽子に注目。スパンコール付き。あまりに怪しいから、「お代は結構ですから早くあっち行ってください」みたいな感じだったんじゃないだろうか。

さて、長江の水だが・・・。
長江
うん、長江も黄色いね。
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7月12日の記事で、中国を北から南へ行くと途中で牛が水牛になるという話を書いた。これだけでなく北京から上海に向けて走った20年前の旅では、北と南の違いをはっきりと感じることができた。

中学・高校の社会科で使う地図帳を見ると、山東省と江蘇省の間あたりで、畑作地帯と稲作地帯が別れているのが分かる。地図帳だからあんなにきれいに分かれているのかと思ったらそうではない。山東省から江蘇省に入るあたりで、本当にがらっと風景が変る。暑いけどからっと乾燥していたのが、急に日本のように蒸し暑くなる。食べ物もレンガの色も家の形も変ってしまう。これは徐々に変わるのではなく、まるで線を引いたように変わった。

主食が饅頭(マントウ)から米のご飯に変わった。饅頭とは肉まんの餡がないやつだと思ってもらえばいい。当時の中国のご飯は決してうまいものではなかったが、しばらく米を食っていなかった僕らは、大盛りのメシを貪るように食べたのを覚えている。

これは、単に流行りのせいかもしれないが、北ではシャリシャリになるまで冷やされていたビールやジュースが、南に入ってからぬるくなった。炎天下で何時間も自転車を漕いだあとのシャリシャリビールやシャリシャリコーラは、この世のものとは思えないぐらいうまい。ところが、南に入って冷たいビールを所望したら、やおら水をはったバケツにビールを漬け始めた。ちょっと殺意がわいた。

この時の旅は大運河(京杭運河)沿いに走ったのだが、北では運河としてはほとんど用いられていないように見えた。船も小船ばかりで、何かを運ぶような大きな船は見なかった。
大運河(北1)
それが南に来ると、運河には舟が行き交い、実際に運河として使われているのが分かる。
大運河(南1)
大運河(南2)

水位の違う運河を結ぶ閘門(こうもん)もいくつか見た。これは江蘇省高郵市の閘門。
閘門1
これは別の閘門(どこだか忘れた)。こんな感じで、みっしりと詰め込む。どうやって微調整するのだろうと思ってしばらく見ていたら、やおらおばちゃんが甲板に出てきて、長い竿を水に突っ込んで船を細かく動かしていた。よくこんなデカい船を動かせるものだ。どうも家族でこの船に住んでいるらしい。
閘門2
南の運河は、運河として生きている。南船北馬とはこのことを言うのだなと合点した。

この旅で学んだことの一つが、中国をひとくくりに考えてはいけないということだった。僕たちが走った距離は南北約1000キロだが、それだけでも街によって文化や習慣、言葉が違う。1000キロといえば長く感じられるが、それでも広大な中国からしたらごく一部である。もっと北も南もあるし、西だってある。その違いは、日本の東西の比ではない。
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20年前の中国には、人だけでなく動物もたくさんいた。ペットも野生動物でもない。牛・馬・ロバ・羊・豚などの家畜である。

人間と違い、動物は写真を撮られても文句は言わない。だからたくさん写真があるだろうと思っていたら、あらためて見るとそれがそうでもない。家畜は文句を言わなくても、たいがいそれを連れている人がいる。それにあまりにたくさん見てしまったので珍しいと思わなかったというのもある。

最初は昨日の記事の滄州市の市にいたロバさん。河北省から山東省にかけては、このように働くロバをよく見かけた。河北省はロバ肉も名物で、働くだけでなく食用にもなる。もちろん食べたのだが、どんな味だったか、さっぱり覚えていない。
ロバ
もちろん馬もいる。なんでこんなわけのわからん所を登らされているのかは、7月7日の記事を参照されたい。
土手の上の道が消えた
放し飼いなのか脱走したのかよく分からないけど野良豚。一心不乱に草を食っている。
野良豚
羊飼いがたくさんの羊や山羊を連れて歩いているのにもよくでくわした。羊飼いといっても真っ黒に日に焼けたオッサンだし、羊や山羊といっても喜羊羊や羊のショーンみたいな可愛らしいのではなく、バカでかくて人を二三人食ってそうなやつである。そんなやつにはからめないので、農家の庭先にいた子ヤギと戯れた。
ヤギと戯れるワシ
実は道中で一番多く見た動物は牛だった。今の日本で牛といえば、白黒のホルスタインか真っ黒な和牛を思い出すが、中国で見た牛は農耕用の牛だった。

このときの旅は北から南へ向う旅だった。北と南では牛の種類が違う。北は黒い牛か黄色いアメ牛が多い。きれいに手入れされていて、いかに牛を大切に扱っているのが分かった。

これが南へ下ると、江蘇省あたりから水牛に変わる。このとき生まれて初めて水牛を見たのだが、こんなにでかいとは思ってもみなかった。

水牛はその名の通り水が大好きで、大雨が降っても涼しい顔をして木に繋がれている。沼の近くで立ち小便したとき、なんだか視線を感じると思ったら、水面に目と鼻と角だけ出した水牛がこっちを見ていた。僕は思わず牛に向かって「対不起」と謝った。

あまりにたくさんいたから、「ああ、また牛か」ってな感じで、写真が全くない。とくに水牛を一枚も撮らなかったことが悔やまれる。
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初めて中国へ行くと、たいがいの人が人の多さに圧倒される。20年前の僕もそうだった。この20年間で中国はびっくりするほど変ったが、これだけはぜんぜん変らない。

ただ人が多いだけではない。子供から年寄りまで、男も女も、身なりのいい人も悪い人も、なんだかみんな混じり合って、てんで勝手なことをやっている。最初はこれに慣れないから、ちょっと歩いているだけで、くたびれてしまう。

大都市の北京や上海などでは、それでもしょうがない。僕の想像を超えていたのは、結構な田舎町でも人がうじゃうじゃいたことだ。そこにレンズを向けるのはなかなか難しい。だからそれほど写真がないのだが、いくつかご覧に入れよう。

まずは滄州市のはずれの市。
滄州市の市
滄州市とは天津市の隣の街で、街そのものはけっこうでかいが、ここはそのはずれの田舎である。露天でいろんな店が開いていて、食材・雑貨・洋服などなんでも売っていた。

次はどこだったかよく覚えていないのだが、山東省のどこかであるのは間違いない。たぶん聊城市あたりだと思う。朝食風景なので時間は7時ごろ。僕たちの食事は基本的にこんなところばっかりだった。
どこかの朝
このとき何食ったんだかよく覚えていないけど、油条(揚げパン)っぽいものと、お粥みたいなものが写っている。
朝食を食う
僕たちの世代だと、中国といえば自転車というイメージがある。このころは、自動車もたくさん走っているが、ちょっと田舎に行くとこのとおり。これはたぶん徐州市。
たぶん徐州
留学していた人から「よく中国で自転車なんか乗る気になるな」と言われたが、慣れれば東京より走りやすかった。ただし、中国と言っても地方によってぜんぜん交通事情が違っていて、広東省や福建省はオートバイが多くて走りにくい。また、最近は電動自転車が多くなったので、自転車は肩身が狭くなった。

最後は上海。大都会にもほどがあるので、表通りに人が多いのは当たり前だが、一歩路地に入ると昔の下町みたいな微笑ましい風景が広がっていた。
上海
最初は圧倒されたが、だんだん身の振る舞い方が分かるようになり、上海に着いたころは人の多さなんか何とも思わなくなった。逆に自分が子供の頃を思い出した。あのころは日本もこんな感じだった。いや、でもやっぱりここまですごくはないな。

旅が終わって東京の自宅に帰ったら、おそろしく寂れた所にきたように感じた。
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昨日の記事で麦わらの道にいる三人が、最初の中国自転車旅行のメンバーである。
麦わらの道
左から僕・葛的先生(仮名)・全裸番長(仮名)で、唯一葛的先生が中国に留学経験があるほかは、僕も全裸番長も中国どころか海外旅行にも行ったことがない。

最初は一人でアメリカでも行こうと思っていたのに、なぜ中国で三人になったか。

ある酒の席で、たまたま葛的先生と僕が隣り合わせになり、海外に自転車旅行をしようと思っているという話をした。そのとき僕が何気なく、「中国もいいですね」と言ったら葛的先生が乗ってきた。その後、後輩の全裸番長がそのことを聞いて、同行したというわけだ。

「中国もいいですね」は何も考えていなかった。酒が言わせたのである。ほとんど冗談で言ったので、たぶん断わられるだろうと思ったら、葛的先生、妙に乗り気になった。葛的先生は小柄なわりには体力があるし中国語もできる。一人でアメリカに行くとか格好つけてたけど、渡りに舟とばかりに宗旨替えしたわけである。

その時はやけに乗り気で、いろいろ提案していたが、後で聞いたら帰ってから後悔したそうだ。これも酒がそうさせたのだ。

計画では北京で自転車を買って、そのまま天津へ行く。現地で自転車を買うのは、中国は自前の自転車を持ちこめないと聞いたからである。前門大街のバカでかい自転車屋で、300元ぐらいで買った。

下の写真の真ん中が僕の自転車で、右が全裸番長のである。葛的先生のは別のところにあるのでこの写真にはない。写真だとよさげに見えるが、これがなかなかのポンコツである。それでもボロボロになりながらも最後まで走りきった。
自転車
ポンコツとはいうものの、日本の自転車とはいろいろ違っていて、なかなか味わいぶかいものだった。パンクしてチューブを引っ張り出したら、コンドームみたいなピンク色だったのには驚いた。ポンコツのくせにラテックスチューブ(天然ゴム製。黒いチューブより高い。)だったらしい。ラテックスチューブはパンクしにくいそうだが、たしかに走行距離が長いわりにはパンクが少なかった。

計画は天津から南下して上海を目指すというものだった。これもたいした理由はない。地図で見ると起伏が少なそうだし、道も分かりやすそうな気がしたというだけだ。せっかくだから大運河(京杭運河)沿いに行こうということになった。

あとから考えてみると、このコース自体は悪くなかったが、「南下」が失敗だった。夏行くのだから、風向きを考えて北上すべきだった。なんとなく南に下る方が言葉的に楽な気がしてしまったのである。
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