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保科恵『入門平安文学の読み方』(新典社)を読んだ。「読んだ」とか書いているが、実は読んだのは一年以上前。おそくなってごめんなさい。



文学には普遍性と特殊性がある。普遍性というのは時代・地域を問わず人間に共通のもので、これがあるから、どの時代・どの地域の文学でも、翻訳さえされていれば読める。これがないと、文学は生き残ることはできない。

一方で特殊性とは、時代・地域・作者個人に特有のもので、ただ翻訳されていても、それを知らないと深く理解できない。それを補うために注釈があるのだが、それだけでは不十分だ。そんな平安文学の特殊性を踏まえた読みの方法を解説した本である。

この本は初学者をターゲットにしてるため講義を模してあり、第一講から第五講、そして補講という構成になっている。

第一講「まずは疑ってみること」では、平安文学を読む際の心構えについて書かれている。といっても、ただ概念を並べているのではなく、多くの例文を挙げて説明している。ここに限らず、この本は例文が多く、具体例が示されているのが特徴である。

第二講「昔の暦の話」・第三講「月と干支」は時間の特殊性である。平安時代の人と現代人の一番の違いはここだろう。当時の人は太陰暦を使う。ここまではたいていの人が知っている。太陰暦は月の満ち欠けにリンクしているのだが、電気があって夜も明るい現代とは違い、月の重要度は比較にならない。一日の始まりと終りも、季節の感覚も現代人とは全く違う。そういう違いは当然文学作品にも現われる。

第四講「地名の話」は空間の特殊性である。平安文学は都人によって書かれ読まれていた。そんな彼らが使う地名は、単純に場所を表すだけではない。平安文学は彼らの常識を知ることによってより深く読める。

第五講「本文の話」は、テキストそのものの特殊性である。同じ日本語でも、古典の書き方は現代の書き方とは全く違う。そのままでは読みにくいので普通は校訂された本文で読むが、そこには常に校訂者の解釈が加わっている。そういう例を多く提示し、どう読むべきか指南してくれる。これを読めば、やたナビTEXTに校訂本文と翻刻の二つの本文がある理由も理解できると思う。

さて、僕はここまで読んで、「これは平安文学だけのことではないのではないか」と思った。平安時代の前後に当たる上代も中世も、なんなら近現代文学にだって、形は違えど共通する問題ではないか・・・と思っていたら、

補講「古典だけに留まらないこと」
そこで、本書で古典の文学に対してこれまで述べて来たことが、近・現代の文学にも関わりがあることを述べておきます。
ときた。いやー、こういうの手玉に取られてるみたいですごく悔しいぞ。もちろん、ここでも芥川龍之介・谷崎潤一郎・夏目漱石などの具体的な例を豊富に引用している。

最初に戻ると、文学には普遍性と特殊性がある。すぐれた文学作品ほど普遍性だけで読めるものだが、特殊性を押えておくとより深く、普遍性だけでは見えていなかった部分が見えてくる。この本は、そんな深い読みの方向性を示してくれる解釈の入門書である。

というわけで、文学を愛するすべての人にストロングバイ。
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無料で読める漫画サイトスキマ池沢さとし『サーキットの狼』を読んだ。

『サーキットの狼』はリアルなレース漫画のはしりで、70年代のスーパーカーブームの火付け役でもある。僕もそのまっただ中で小学生をしていたし、実家の文房具屋ではプラモデルや消しゴム、BOXYボールペンでおおいに稼がせてもらった。

そんな思い入れのある作品を45年ぶりぐらいに読んだのだが・・・

アレ?こんなに面白くなかったっけ?

ちょっとびっくりした。

レース漫画なのだから当たり前なのだが、レースばっかりしているのである。主人公がロータスヨーロッパに乗る風吹裕矢で、ライバルがポルシェ911の早瀬佐近、早瀬の妹ミキが風吹の彼女・・・とそのあたりは覚えていた。だから、人間関係だけでも何か起きそうな感じがするが、そのへんはあっさり描かれていて、基本レースに終始している。

連載していた少年ジャンプの標語は「友情・努力・勝利」だが、「努力」に当たるところが全く無い。ただし「友情・勝利」成分はものすごく濃い。バトル物にありがちな特訓みたいなのはなく、問題をかかえても本番のレースの中で解決していく。

読んでいるうちに、これはまとめて読むものではなく、連載で読むものだと気がついた。毎週どんなレースになるか、誰とどんなバトルをするか、それを期待して読めば面白そうだ。それを一度に読もうとしたので、飽きてしまったのだ。

もし『サーキットの狼』を一度でも読んだことがあるのなら、名場面を思い出してほしい。まず、主人公風吹裕矢の乗っていたのは白いロータスヨーロッパだった。弱点はスタビライザーで「スタビライザーをうったか!」というのを覚えている人も多いと思う。
スタビライザーを打ったか
強烈なゴールシーンを覚えている人も多いだろう。
ゴール
優勝は真ん中の風吹裕矢でご覧の通り逆さま、二位は右の沖田だが実は中で死んでいる、三位の早瀬佐近は故障で停止寸前、こんな強烈なゴールはなかなかない。

これらの名場面はすべて最初のレースである公道レースでの場面である。そもそも、『サーキットの狼』というタイトルだが、まだサーキットを走っていない。このあと、ツーリングカーレースでやっとサーキットを走るようになり、最後はF1までいくのだが、僕はほぼ覚えていなかった。どうも子供時代の僕は「レースばっかり」に飽きていたようだ。

なんだかクサしているようなことを書いているが、すでにレースマンガの基本要素が入っているのはすごい。しかも、当時はモータースポーツはまだマイナーで、読者層は自動車の運転ができない子供である。あちこちに説明のコマがあるなど、作者の工夫と熱意には驚かされる。
ウンチク
この作品がなければ、『頭文字D』(それ以外が出てこなくてすみません)なんかはなかっただろう。レースマンガの『蘭亭序』である。
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妻に、「食べてすぐ寝ると牛になるよ」と言われて、突然、子供のころ読んでいた新聞小説のことを思い出した。

覚えているのは断片的で、お母さんから、「食べてすぐ寝るとネコになるよ」と言われて、「ネコになってもいいよ」とか答えると本当にネコになってしまうという話だったことぐらいだ。内容は何一つ覚えていない。

当時僕の家で取っていたのは毎日新聞だった。タイトルも覚えていない。作者は井上ひさしだったと思うが、なにしろ子供だったので自信がない。そもそも、自分が何歳だったか覚えていない。

とりあえず、「猫 井上ひさし 新聞」あたりで検索してみたら、すぐに『百年戦争』というタイトルが出てきた。インターネット万歳!あらすじを読んだらこれで間違いないようだ。amazonで検索すると、Kindle版が上巻だけなら100円である。もはや考える必要はない・・・というわけでポチった。なお下巻は540円。

連載されていたのは毎日新聞夕刊で1977年2月28日〜78年7月15日だそうだ。ということは、僕が8歳から9歳のころということになる。よくこんなの覚えてたな、オレ。作者が「井上ひさし」だから覚えていたが、「幡随院長兵衛」とかだったら絶対に覚えていなかっただろう。

さて、実際に読んでみたら、読んだ理由も、内容をさっぱり覚えていない理由もすぐに分かった。

この小説、登場人物がほとんど小学生(5年生)である。清・良三・秋子の小学生三人がネコになったり、ネズミになったりして銀座を駆け回る。変身の仕方もおもしろいし、ネコとネズミのアクションシーンも多い。出てくるのが小学生とネコ・ネズミだから、そんなに難しい言葉も出てこない。だから小学校3年生の僕は子供向きの小説だと思ったのだろう。

ところが、読み進めていくと、宗教やら当時の社会情勢やらが絡んできて、なかなか難解だ。おまけに銀座の歴史だの哲学だのの薀蓄がやたらと長くて、およそ小学生(しかも低学年)が理解できるものではない。

新聞小説の一回は短いから、連載で読んでいれば、数回に渡って薀蓄が続いたはずだ。薀蓄が終わったときには、何のための薀蓄か、大人でも忘れてしまうのではないか。薀蓄の内容は、ストーリーに絡むものもあるが、ほとんどは関係ない。例えば、銀座の店の歴史的な変遷リストが延々つづくのには驚いた。井上ひさし先生、やりたい放題である。薀蓄は井上ひさし小説の特徴らしいので、これが好きな人にはたまらないだろう。

さて、これでは内容がなんだかさっぱり分からないと思うので、簡単に解説しておく。

ネコやネズミに変身できるようになった小学生三人が、銀座ネコと築地ネズミの抗争を通じて、人類滅亡の危機を救う。読むに従って、なぜ変身できるようになったのか、銀座ネコと築地ネズミの抗争を仕掛けた黒幕は誰か、そして抗争の真の理由が分かるようになっている。この黒幕がまた壮大にもほどがあるほど壮大なのだが、とてつもなくしょぼい理由で倒される。そう、これはセカイ系である。そんな言葉、当時はなかったけど。

現在のセカイ系と違い、清(銀座ネコの首領)と良三(築地ネズミの首領)の男子二人が人類滅亡の危機を救う。ヒロインの秋子は目立ってはいるがあくまで脇役で、ストーリーの展開にはあまり重要な意味を持っていない。このあたり、40年以上前の作品ではあるが、なんだか新鮮な感じがする。
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15年ほど前、掃除をしていたら、スマホぐらいの大きさの小さな線装本が出てきた。僕はコレクションの癖がないので、版本だの印譜だのの煤けた本は持っていない。多分誰かからもらったんだと思うんだけど、いつのことやら、誰からもらったんだか、さっぱり覚えていない。
三村竹清印譜
開けてみると禿筆で序が書いてある。
三村竹清印譜序1
最後まで読んでびっくりした。三村竹清の印譜である。「竹清」の印、人差し指で隠れてしまってすみません。
三村竹清:Wikipedia
三村竹清印譜序2
三村竹清は書誌学者として知られるが、たいそうな粋人で詩書画三絶、篆刻の作品も多い。竹清という号は竹問屋を営んでいたことに由来するが、そのせいだろうか、この印譜は全部竹印(または竹印を模したもの)になっている。書いているうちに、なんだか貴重なもののように思えてきた。

さて、最後は秘宝館にぴったりの品。パッケージはこんな感じ。美人画風の画に「肥後手芸」との文字。それにしても誰からもらったんだろう。
肥後ずいき(パッケージ)
パッケージを開けると、今となっては懐かしいセロファンにくるまれたナゾの物体が。
肥後ずいき(箱を開けたところ)
熊本の伝統工芸品「肥後ずいき」である。郷土玩具、ただし大人用。「ずいき」というだけあって「芋茎(ずいき)」でできており、これを使うと女性(にょしょう)が随喜の涙を流すという逸品だ。

最初はもっと白っぽかったのだが、何十年かで茶色くなってしまった。どう見ても賞味期限切れである。見た感じ硬そうだが、なにしろデリケートなところに使うものだから、とても柔らかい。
肥後ずいき(中身)
説明書がいい味出している。具体的には何も書いていない。
肥後ずいき説明書
というわけで、「先にはめてみた」といきたいところだが、写真を出すと猥褻物陳列罪になってしまうので、イメージ画像を。
dog_tosaken
肥後ずいきは現在通販で買えるらしい。
肥後ずいき専門店
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去年の暮れから、今話題のキャッシュレス支払いPayPayを使っている。実際使ってみると、いろいろ問題点も見えてきて、それはそのうち「PayPayを試してみた」でも書こうと思っているのだが、今日ふと「キャンペーン中に本を買ったらいいんじゃね?」と思った。

PayPayは現在キャンペーン中で、最大20%返ってくる。「最大」というのは返ってくるのが1,000円までだからと、登録したクレジットカード払いだと10%になっちゃうからである。ということは、5000円までの本をチャージして支払うなら、最大の20%返ってくるということになる。数冊買って5000円超えるようなら、何度かに分けて買えばよい。なお、キャンペーンの詳細は下のリンク参照のこと。

第2弾100億円キャンペーン:PayPay

チェーン店系では、LIBROあゆみBOOKSオリオン書房などで使えるらしい。これも詳しくは、下のリンクをご覧いただきたい。

主なご利用可能店舗:PayPay

それでは神保町の古書店などはどうか。PayPayアプリには、PayPayが使える店を検索できる機能があるので、神保町をみてみた。けっこう見つかった。ざっと挙げてみると・・・。

  • ブックハウスカフェ
  • 矢口書店
  • 南海堂書店
  • 夢野書店
  • 原書房
  • 六一書房
  • 通志堂書店
  • 新日本書籍
  • 三多軒
  • アカシヤ書店
  • 荒魂書店
  • 悠久堂書店
  • 東陽堂書店
  • 廣文堂書店
  • 東方書店
  • 内山書店
  • 山吹書房
  • BOOKDASH

なお、実際に行って確認したわけではないので、間違っていたらごめんなさい。
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今日Upした『沙石集』巻7第6話「嫉妬の心無き人の事」は、嫉妬をテーマにした短い12の説話が詰め合わせになっている。テーマがテーマだけに、なかなか面白い説話が多く、おなじみの長くて難解な説教もない。

その中でも、一番面白かったのが、この説話。
遠江国、池田のほとりに、庄官ありけり。かの妻、きはめたる嫉妬心の者にて、男をとりつめて、あからさまにもさし出ださず。所の地頭代、鎌倉より上りて、池田の宿にて遊びけるに、見参のため、宿へ行かんとするを、例の許さず。「地頭代、知音なりければ、いかが見参せざらん。許せ」と言ふに、「さらば、符(しるし)を付けん」と、隠れたる所に摺粉(すりこ)を塗りてけり。

さて、宿へ行きぬ。地頭、みな子細知りて、「いみじく女房に許されておはしたり。遊女呼びて遊び給へ」と言ふに、「人にも似ぬ者にて、むつかしく候ふ。しかも、符付けられて候ふ」と言うて、「しかじか」と語りければ、「冠者ばらに見せて、もとのごとく塗るべし」とて、遊びて後、もとのやうにたがへず摺粉を塗りて、家へ帰りぬ。

妻、「いでいで、見ん」とて、摺粉をこそげて、舐めてみて、「さればこそしてけり。わが摺粉には塩を加へたるに、これは塩がなき」とて、引き伏せて縛りけり。心深さ、あまりにうとましく思えて、やがてうち捨てて、鎌倉へ下りにけり。近きことなり。
池田の庄官(荘官・荘園の管理人)の妻は嫉妬深い女で、庄官一人では外にも出さないほどだった。地頭代が池田に来た時、宿で面会しようとしたが、例によって妻は許可しない。なんとか交渉して、「隠れたる所」≒イチモツに粉を塗ることにより許可がでた。万一浮気したら、粉が落ちるという寸法である。

地頭代は庄官の妻が嫉妬深いことを知っていたから、「よくお許しが出ましたな。では、遊女を呼んでお遊びください」と言った。庄官が「イチモツに粉を塗られていてできない」と言うと、「塗り直せばいいでしょう」と言った。

遊女と遊んで粉を塗りつけてから家に帰ると、さっそくイチモツ検査が始まった。庄官の妻は粉を削り取って舐めると、「私が付けた粉には塩が入っていたのに、これには入ってない!」と言って、庄官を押し倒し縛ってしまった。その後、嫉妬深い妻が嫌になった庄官は、妻を捨てて鎌倉へ下った。

それにしても、塗り直しを予想して粉に塩を入れるとは、なかなかすごいアイディアである。妻が粉を舐めはじめたときの庄官の顔はどんなだっただろう。束縛する女(男)というのは、現代でもよく聞く話だが、鎌倉時代にも強烈なのがいたようだ。

さて、やたナビTEXTの『沙石集』の底本には京都大学図書館蔵元和二年刊古活字本を使っている。岩波文庫『沙石集』(筑土鈴寛校訂)の底本が系統的に近い貞享三年版本なので、本文を作成する際これを参考にしているのだが、ちょっと不思議な記述を見付けた。
岩波文庫沙石集の伏せ字
赤く○を付けた所を見てほしい。同じページに三ヶ所、―――になっているところがある。初めの二つが上で紹介した説話で、最後の一つがさきほどの説話とは逆に、嫉妬深い男が女に印を付ける話である。

岩波文庫の『沙石集』は冒頭から全て読んでいるが、今のところこんな記述はなかった。元和二年本ではちゃんと本文が入っているので、貞享三年版本で―――になっているとも考えにくい(後で確認したところちゃんと入ってました)。これは伏せ字と考えるほかない。

ここに入る言葉は、最初が「隠れたる所に」、次が「こそげて、舐めてみて」、最後が最初と同じ「隠れたる所に」である。こうして並べてみると、たしかになにやら淫靡な感じがするが、わざわざ伏せ字にするほどのものでもないように思える。

「隠れたる所に」は陰部周辺を指すが、無住もちゃんと気を使って遠回しに書いている。「こそげて、舐めてみて」にいたっては、「こそげて」という以上、削り取って舐めたのだから、何もイヤらしいことではない。

岩波文庫『沙石集』(下)の初版は1943年11月なので戦時中である(僕のは1988年4月の2刷)。あるいは検閲を意識したのだろうか。それにしても、ちょっと考えすぎのような気がする。
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今、授業で使っている現代文Aの教科書に死臭が漂っている。気になったので、死者の数をカウントしてみた。
  • 宮沢賢治「永訣の朝」・・・病死1名
  • 河合隼雄「花女房」・・・殺人?1名
  • 夏目漱石「こころ」・・・自殺2名
  • 山田詠美「ひよこの眼」・・・心中2名
  • 米原万里「バグダッドの靴磨き」・・・戦死1名・爆死3名・拷問死1名・射殺7名
人が死ぬのは、26単元のうち5単元で18名。「永訣の朝」の病死をのぞき、すべて壮絶な死因である。死んだわけではないが、井上ひさし「ナイン」で自殺未遂が1名。かの有名なトラになっちゃった人も1名。

動物も死ぬ。しかも、江國香織「デューク」の犬は、ほぼ人間扱いなので、人間の死に含めてもいいぐらいだ。
  • 江國香織「デューク」・・・犬1匹
  • 山田詠美「ひよこの眼」・・・ひよこ1匹
  • 千松信也「クマを変えてしまう人間」・・・クマ・シカなど多数
国語の教科書なので、書いた人がすでに亡くなっているのは珍しくはないが、壮絶な死因の方が二名ほど・・・。
  • 芥川龍之介「鼻」・・・自殺
  • 星野道夫「ワスレナグサ」・・・熊に襲われる
国語教科書、『水滸伝』に負けず劣らず、死屍累々である。
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馬上駿平『重箱の隅から読む名場面』(新典社)を入手したのは、今年の1月。今ごろこれを書いているのは、なかなか読めなかったからである。

新書版で全127ページ。全然長くない。それでも、これを読むのに時間がかかったのは、この本がスルメ本だからである。スルメ本とは、スルメイカのように、噛めば噛むほど味がでる本のことで、こういう本は繰り返し読まないと理解できないし、自然と繰り返し読んでしまう。だから、薄い本でも読むのに時間がかかるのだ。

といっても、文章が難しいわけではない。文章はむしろ平易で読みやすい。しかし、扱っているテーマが「重箱の隅」である。「重箱の隅から読む」とは筆者によると、重箱の隅=「一見何でもなさそうなさりげない言葉」で、それを読む=解釈することだという。だから、この本の読者もざっと読んで分かった気になってはいけない。

対象は近代文学で、向田邦子『思い出トランプ』・志賀直哉『暗夜行路』・夏目漱石『道草』・芥川龍之介『猿』の「さりげない言葉」を題材に、そこに隠された表現・情報を読み取っていく。

重箱の隅に隠された情報は、その読みが合っているかどうかは別にして、古典だとわりと気づきやすい。現代の文章と違うから、おのずと気をつけて読むからである。

近代文学の場合、容易に意味が取れるからついスルーしてしまうものだ。例えば、この本で扱っている『暗夜行路』の「淋しい気がされた」などという言葉は、一瞬「アレ?」とは思うけど、「まあ大正時代はそんな言い方だったんだろう」ぐらいで済ませてしまうだろう。

最初に「スルメ本」などと書いたが、よくよく考えれば、名作と言われる作品はすべてスルメ本である。プロットや名場面だけ理解して読んだつもりになっていたら、もったいないことだ。そういう読み方を、この本は指南してくれる。


こちらも同じ著者による『文法で味わう名文』。こちらは文法なので、さらに読むのに時間がかかって、紹介する機会を逸してしまった。


『文豪たちの「?」な言葉』は、以前このブログで紹介(馬上駿兵『文豪たちの「?」な言葉』を読んだ)した。

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古典文学テキストのレベル:2017年07月18日で、やたナビTEXTでは、『今昔物語集』と『宇治拾遺物語』以外は、レベル1(翻刻)とレベル4(校訂本文)の二つのテキストを掲載していると書いた。

『宇治拾遺物語』の方は、かなり昔に入力したため、これだけ形式が違う。いずれ同じ形式にするつもりだが、『今昔物語集』は最初から現在の形式でいくつもりだった。

やたナビTEXTの『今昔物語集』の底本は、『攷証今昔物語集』(芳賀矢一・冨山房・大正2年〜大正10年)である。これを底本にしたのには理由がある。

『今昔物語集』の注釈書の底本は、多くが鈴鹿本を底本としている。これは、『今昔物語集』の諸本はすべて鈴鹿本をもとにしているという研究結果からである。この鈴鹿本、大変ありがたいことに、京都大学がネット上で公開している。

京都大学附属図書館所蔵 国宝今昔物語集(鈴鹿家旧蔵)

ならばこれを使えばいいかというと、話はそう簡単ではない。鈴鹿本はすべての『今昔物語集』の親本とはいうものの、わずかしか残っていない。そこで、現在のテキストの多くは、不足を他の伝本で補っている。ほとんどは容易に見ることができず、この方法は取れない。

そこで、僕は『攷証今昔物語集』を使用することにした。これなら最初から活字だから、膨大な量の『今昔物語集』でも比較的早く終えることができる。それでも全部打ち終えるまで丸三年かかったのだが。ちなみに『攷証今昔物語集』は朝日古典全書『今昔物語集』の底本になっている。

今から100年も前に刊行された本だが、いまだに大きな価値がある。底本の東京帝国大学所蔵田中頼庸旧蔵本(田中本)が関東大震災によって焼失してしまったので、そのテキストを知るよすがとなるのは『攷証今昔物語集』しかないからだ。この本には一枚だけ田中本の写真版がある。
田中本今昔物語集影印
本文は底本どおり、漢字片仮名交じりの宣命書きで組まれている。頭注は異本注記や本文のおかしなところの指摘である。
攷証今昔物語集の本文
本文の次に「攷証」がある。これがすごい。
攷証今昔物語集の攷証
なんと、すべての説話に、出典と思われる説話や類話のテキストをそのまま挙げている。だから、本文よりも攷証の方が長いものもある。

作品名の上にある○や◎は『今昔物語集』本文との関係を表していて、この場合だと、『日本往生極楽記』を直接の出典と見ており、『経律異相』を類話、『元亨釈書』・『宝物集』を「同一説話で他書に散見したもの(凡例より)」とする。どこからどうみてもとんでもない労作である。

僕が持っているのは昭和43年に復刊されたもの。函に入れて並べるとこんな感じ。大きさの比較のため、タバコを置いてみた。
攷証今昔物語集(函)
背。この、モダンなんだか古臭いのかよくわからないデザインが冨山房風味。
攷証今昔物語集(背)
表紙にはアールデコっぽい模様がエンボス加工されている。ただし、アールデコの流行は昭和に入ってからだから、ちょっとしたオーパーツ。このヘンな模様と右下の赤い「冨山房」ロゴが全く合っていない気がするが、そこがいかにも昔の冨山房っぽくっていい。
攷証今昔物語集(表紙)

この本、いつ買ったかよく覚えていないが、少なくとも20年以上前であることは間違いない。今昔物語集研究の記念碑的な本として買ったのだが、その後、ずっと本棚の肥やしだった。よもや20年を経て〈役に立つ〉日が来るとは思わなかった。本はとりあえず買っておくものである。

なお、中身は国会図書館デジタルコレクション「攷証今昔物語集」で見ることができる。本当に便利な時代になった。
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昨日のエントリ(講談社少年少女日本文学全集:2016年11月20日)を書いていて、芥川龍之介の『三つの宝』を思い出した。

『三つの宝』は昭和3年6月に改造社から刊行された、芥川龍之介による童話集である。芥川の生前に企画され、死の直後に刊行された。芥川の本は、装丁に凝ったものが多いのだが、これは格段に凝っている。その理由は後ほど説明するが、装丁は芥川の本のほとんどを手がけた小穴隆一である。

最初に断っておくと、これはほるぷ出版によるレプリカである。本物だったら相当するらしいが、以前本物を見た時には、ほとんど見分けがつかなかった。

まず、函はこんな感じ。いたってシンプルである。
『三つの宝』函
中身は、手触りのいい布装で、講談社少年少女日本文学全集同様、イラストが貼り付けてある。もちろん小穴隆一の絵。ふと、講談社少年少女日本文学全集は、これを意識したのではないかと思ったのである。

表表紙
『三つの宝』表表紙
裏表紙
『三つの宝』裏表紙
ついでに背。
『三つの宝』背
扉。6色も使っている。
『三つの宝』扉
本文はこんな感じで柄のある枠が印刷され、ところどころに小穴隆一の挿絵がある。これも、直接印刷するのではなく、別の紙に印刷して貼ってある。
『三つの宝』挿絵と本文

その他の挿絵をいくつか。
『三つの宝』挿絵2

『三つの宝』挿絵3

ベッタリと貼るのではなく、すぐにも剥がれそうな感じで貼ってあるのはなぜだろう。こっちの方が手間がかかりそうだが・・・。

さて、この本、長辺が31cmもあり、バカでかい。子供が読むのに、なぜこんなデカい本にしたか。それは、小穴隆一の手になる跋文に書かれている。
あなたがたはあなたがたの 一番仲のいいひと、一番好きな方がたと、御一つしよに、この 三つの宝 を御覧になりませうが、この本は、芥川さんと私がいまから三年前に計画したものであります。
私達は一つの卓子(テエブル)のうへにひろげて 縦からも 横からも みんなが首をつつこんで読める本がこしらへてみたかつたのです。この本の差画のもでるになつて下さつたかたがたばかりではありません。私共の空想 われわれがこの程度の本をこしらへるにもなかなかの努力がいりました。みなさんにこれ以上の贅沢の本は今日の日本ではこしらへてあげることが出来ません。私達の計画を聞いた方がたは みんながよろこんでこの本の出来あがる日をたのしんで下すたものです
著者の、芥川龍之介は、この本が出来あがらないうちに病気のために死にました。これは私にとりましては大変に淋しいことであります。
けれども この本をお読みになる方がたは、はじめ私達が考へてゐましたように、みんな仲よく首をつつこんで御覧になつて下さい。
 私は、みなさんが私共の歳になつてから、この本をお読みになつたあなたがたの時代は、余計にたのしかつたと思はれやあしないか、さう思ふから、三つの宝の出来あがったことは愉快です。
 どうか あなたがたは、三つの宝のなかの王子のやうに お姫様のやうに この世のなかに、信じ合ひ助けあつて行つて下さい。
昭和二年十月廿四日朝
小穴隆一
奥付によると、この本は当時5円。公務員の初任給をもとに現在の価値を計算すると、12000円ぐらいである。誰もが買える値段ではない。おそらく、学校の図書室なんかで読むことを想定しているのだろう。豪華な一冊の本を仲良く数人で読むというアイディアがすばらしい。

なお、序文は佐藤春夫によるもの。これも、追悼文としてちょっと面白いので、転載する。
他界へのハガキ
 芥川君
 君の立派な書物が出来上る。君はこの本の出るのを楽しみにしてゐたといふではないか。君はなぜ、せめては、この本の出るまで待つてはゐなかつたのだ。さうして又なぜ、ここへ君自身のペンで序文を書かなかつたのだ。君が自分で書かないばかりに、僕にこんな気の利かないことを書かれて了ふじやないか。だが、僕だつて困るのだよ。君の遺族や小穴君などがそれを求めるけれど、君の本を飾れるやうなことが僕に書けるものか。でも僕はこの本のためにたつた一つだけは手柄をしたよ。それはね、これの校了の校正刷を読んでゐて誤植を一つ発見して直して置いた事だ。尤もその手柄と、こんなことを巻頭に書いて君の美しい本をきたなくする罪とでは、差引にならないかも知れない。口惜しかつたら出て来て不足を云ひたまへ。それともこの文章を僕は今夜枕もとへ置いて置くから、これで悪かつたら、どう書いたがいいか、来て一つそれを僕に教へてくれたまへ。ヰ゛リヤム・ブレイクの兄弟がヰ゛りやむに対してしたやうに。君はもう我々には用はないかも知れないけれど、僕は一ぺん君に逢ひたいと思つてゐる。逢つて話したい。でも、僕の方からはさう手軽には—君がやつたやうに思ひ切つては君のところへ出かけられない。だから君から一度切てもらい度いと思ふ—夢にでも現にでも。君の嫌だった犬は寝室には入れないで置くから。犬と言へば君は、犬好きの坊ちゃんの名前に僕の名を使つたね。それを君が書きながら一瞬間、君が僕のことを思つてくれた記録があるやうで、僕にはそれがへんにうれしい。ハガキだからけふはこれだけ。そのうち君に宛ててもつと長く書かうよ。
下界では昭和二年十月十日の夜
佐藤春夫
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