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というわけで(『三宝絵(三宝絵詞)』の電子テキストを公開しました:2025年02月12日参照)『三宝絵(三宝絵詞)』の電子テキスト化を終えたわけだが、はるか昔に買った『諸本対照三宝絵集成』(小泉弘 高橋信幸・笠間書院・昭和55年6月)がとても役に立った。

この本、20代のころに神保町の古書店で買った。値段は5000円。もちろん値段なんか忘れていたが、鉛筆で本にそう書いてあるから間違いない。

30年も前なので細かいところは記憶が曖昧だが、買った時のことはよく覚えている。古書店の本棚からこの本を見つけ、値段を見てびっくりした。高いのではない、安いのだ。

当時、『諸本対照三宝絵集成』は数万円が相場だった。専門は説話だからほしいことはほしいが、『三宝絵』は現代思潮社の注釈書をすでに持っていたから、ないと困るというようなものでもなかった。しかし、数万円が5000円なら話は別だ。金に困ったら売っちまえばいい。そのころは本さえ買えば賢くなると思っていたから迷わず買った。

買った後、中身を読むことはほとんどなかった。「諸本対照」だから中身は諸本を対照しているに決まっている。こういう本は必要になったら開けるもので読むものではない。それ以来30年余り、この本は僕の書架で眠り続けていた。

今回、『三宝絵』の電子テキストを作るにあたって必要になったので、『諸本対照三宝絵集成』を引っ張り出してきて、ようやくこの本の偉大さに気づいた。これはとんでもない労作である。

諸本対照の「諸本」とは、前田家本・東寺観智院本・東大寺切(関戸本)の三つを指す。これが『三宝絵』の主要な伝本なのだが、それぞれ全く違う特徴を持っている。

前田家本は全巻揃っているが、漢字のみで書かれている。まともな漢文ではないから、それだけで読むのは困難…というよりほぼ不可能だ。あくまで他の本と対照して読める本で、底本にはならない。

東寺観智院本は漢字片仮名交じりで書かれていて読みやすく全巻揃っているが、前田家本や東大寺切と比べると誤脱が散見される。とはいえ、まともに読めて全巻揃っているのはこれだけだから、底本にするにはこれしかない。今まで活字になった本も、やたナビTEXTも底本はこれ。

問題は東大寺切である。これは雲母摺りの美しい料紙に、これまた美しい仮名で書かれている。尊子内親王に献上された本もかくやと思われる美麗なもので、本文もよさげだ。
東大寺切
東大寺切(東京国立博物館蔵):ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

しかし、いかんせん東大寺切は古筆切(こひつぎれ)である。古筆切とは冊子や巻物などの形をしていたものを、観賞用にぶった切ったもののことをいう。切り出された元の関戸本(名古屋市博物館蔵)というのも残っているが、三分の一ぐらいしかない。それ以外はその美しさゆえにバラバラに切られてしまったのだ。

切られた無数の古筆切は、あるものは博物館や美術館、あるものはコレクターの家、あるものは古書店、あるものはオークションと様々な場所にあり、目録や図録、書道の手本など様々な形で世に現れる。それも単独で軸にでもなっていればまだいいが、手鑑(てかがみ・様々な古筆切を集めて冊子にしたアルバム)に貼られていると、古書店やオークションに出ても、開けてみないことには分からない。

『諸本対照三宝絵集成』の東大寺切はそれらを博捜し集めて翻刻したものである。それでも全文にはほど遠いが、とんでもない労力がかかっている。買ったときはなんでこんなに高いのか分からなかったが、なるほどこれはそれだけの価値がある。

探してもいない数万円の本を5000円で買ったのは偶然である。もし、もともと数千円の本だったら、買っていたとしても買った事を忘れていたかもしれない。30年以上前に買った本が、今になって役に立ち、その価値が分かったのも偶然である。こういう偶然の積み重ねが、本を買う醍醐味かもしれない。
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保科恵『言葉で繙く平安文学』(二〇二四年三月・新典社)を読んだ。

言葉で繙く平安文学
保科恵『言葉で繙く平安文学』(新典社):amazon.co.jp


いきなりだが、本書の「はじめに」を引用する。
古典の文章を近代の文章の違いを安易に拡大解釈して、意味が通じないと感じるところを古典の文章の特殊性だと決めつけるべきではありません。言葉としての普遍性を基軸にしたうえで、古典には古典の、近代には近代の文章の特殊性を見て行くのでなければならないのです。

普遍性とはどんな時代・地域でも共通することで、特殊性はその逆である。僕たちは中学・高校で古文を習うが、普遍性は当たり前のことだから授業では扱いが薄くなるしテストにもあまり出ない。かくして、僕たちのノーミソには特殊性ばかりが残ることになる。

しかし、筆者は普遍的な解釈から読んでいくことを提唱する。実は、古典を学習して読む僕たちには、これがなかなか難しいのである。前著『入門平安文学の読み方』(保科恵『入門平安文学の読み方』を読んだ)では特殊性に着目しているのに対し、こちらは普遍性に着目しているといってもよいかもしれない。

例えば「助動詞の表現と効果―「せたまふ」の示す意味―」の章では、副題にあるように「せたまふ」の解釈にスポットライトを当てる。「せたまふ」の意味といえば何を思い出すだろうか。二重敬語の「せたまふ」と、使役の助動詞「す」+補助動詞「たまふ」である。

では最初に思い出したのはどちらか。僕もそうだが、受験勉強なんかで「せたまふ・させたまふは二重敬語」と念仏のように唱えた人が多いだろうから、ほとんどの人が二重敬語の方ではないだろうか。最高敬語は現代ではほぼ使われないから、特殊性の解釈を先に思い出したことになる。

だから天皇や皇后などの行為に「させたまふ」が付くと、二重敬語として解釈することを優先してしまう。場合によっては優先どころか使役の可能性を考えなくなってしまう。しかし、「助動詞の表現と効果」では、従来尊敬で解釈されることが多かったものの中にも、使役として解釈できるものがいくつもあること、その場合どういう解釈になるかを、多くの用例と解釈例を挙げて述べている。

この本は言葉の解釈がテーマだから、他の章でも古典の引用文が多い。読者は引用文を飛ばすことができず、しっかり読み込む必要がある。クソ暑い夏に溶けかかったノーミソで読むのは、これがなかなか辛い。

そういう人には、まずその章の最後の二段落ぐらいを先に読むことをオススメする。そうすると、着地地点が分かって読みやすくなる。

ただし、これはいちばん最初の章「順を追って読むこと」に反することになるけど。
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小学館から『日本国語大辞典』第三版がアナウンスされた。

日本国語大辞典第三版:小学館

『日本国語大辞典』といえば日本最大の国語辞典で、調べ物では「とりあえず日国」といわれるような辞典である。そんな辞典の改訂なので当然注目される。

ニュースの見出しに「第二版から30年ぶりの改訂」とあったので、もうそんなに経つのかとびっくりしたが、第二版は2000年刊行なので現在はまだ24年である。しかも公開予定は2032年なのできっかり30年ではなく32年ぶりとなる。読んでいるうちに何だかよく分からなくなってきたので、重要な情報をまとめてみる。

1. 第三版の公開は2032年を予定
明日にも出そうな勢いだが、公式サイトには「日本国語大辞典はじめます」となっていて、これから制作を始めるという意味である。公式サイトのスケジュールによれば、今年から環境構築に2年、編集・校正に6年、合計8年かけて2032年に完成するとなっている。

2.デジタル版優先
『日本国語大辞典』は会員制の辞書サイトJapanKnowledgeでデジタル版を使うことができるが、第三版はこちらで公開される。

3.紙媒体は未定
紙媒体は公式サイトによると、「書籍版は、2034年からの発売を検討する」となっている。この書きぶりは、まだ検討段階で出すかどうかも未定と考えていいだろう。

4.段階的に公開される
編集委員の近藤泰弘氏(@yhkondo)のポストによると、2032年の完成時に一気に公開されるのではなく、ソフトウェアのバージョンアップのように段階的に公開され、古い版も閲覧できるようになる。

デジタル優先になるのは時代の流れだろう。段階的に公開というのも、古い版も見られるというのも、デジタルの利点を生かしていていてよい。とはいえ、紙媒体には紙媒体の利点があるので、書籍版の刊行にも期待したい。
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Twitterを見ていたら、小学生用の「読書感想文の書き方」なる教材が紹介されていた。一定の文章の空欄を埋めれば読書感想文が成り立つようになっている。

どのようなものか、実際にこれで読書感想文を書いてみよう。まず、この教材が提示している型は次のようなものである。バックを青にした部分を埋めると読書感想文が完成するようになっている。

 わたしは【本の名前】という本を読みました。この本を選んだのは、この本が【選んだ理由】からです。
 この本は、【だれ】が主人公の物語です。【だれ】は、【どのような】人です。そして【だれ】は、【どのような理由】で、【どのような体験】をします。
 わたしがこの本を読んで、いちばん心に残ったところは、【だれ】が【どうした】ところです。わたしはこの部分を読んで、【感想】と思いました。

パターン1
 なぜなら、わたしも【だれ】と同じような体験をしたことがあり、その時に【どのような思い】をしたからです。

パターン2
 なぜなら、もしわたしが【だれ】と同じような立場だったらと考えると、【どのような思い】だろうと思うからです。

 わたしはこの本から、【どのようなこと】を学びました。これから、【どうしたい】と思います。

それでは作文をしてみる。太字は僕が入れた部分である。パターンは1を採用した。

 わたしは『水滸伝』という本を読みました。この本を選んだのは、この本が四大奇書の一つでおもしろそうだからです。
 この本は、宋江が主人公の物語です。宋江は、なぜか好漢に好かれる小役人です。そして宋江は、うっかり妻を殺してしまったので、山賊の仲間に入って梁山泊の首領をします。
 わたしがこの本を読んで、いちばん心に残ったところは、盧俊義呉用に騙されてむりくり宋江一味の副首領にされたところです。わたしはこの部分を読んで、山賊って怖いなと思いました。
 なぜなら、わたしも盧俊義と同じような体験をしたことがあり、その時にあまりの怖さに「あ、ちょっとトイレ」とウソついて逃げることをしたからです。
 わたしはこの本から、山賊と小役人はヤバいということを学びました。これから、山賊と小役人には絶対に関わらないようにしたいと思います。

なるほど、これは書きやすい。読書感想文をどう書いたらいいかさっぱり分からない児童にとっては助けになるだろう。

一方で、型にはめることでどうしても説明不足になってしまうところが出てくる。例えば「同じような体験」は新興宗教に入れられそうになった体験なのだが、このフォーマットではそれは書けない。このままだと僕に山賊に入れられそうになった体験があるということになってしまう。

大事なことは型にとらわれる必要はないという指導をすることである。読書感想文がうまく書けない児童に型を与えるのはいいが、書ける児童までこの型を使うと、かえって文章が上達しなくなるだろう。逆にうまく使えば推敲まで学ぶことができるかもしれない。

この型で一番気になるのが、最後の「わたしはこの本から・・・」の下りである。本から教訓を得るのは悪いことではないが、得なければならないものでもない。面白かった、つまらなかった、怖かった、悲しかった、幸せな気分になったというのが結論でもいいはずである。無理に教訓を得ようとするとおかしなことになる。小役人はともかく、山賊とは関わりたくてもそう簡単には関われないのだ。
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『中国の大盗賊 完全版』(高島俊男『中国の大盗賊 完全版』を読んだ参照。)を読んで、洪秀全に興味がわいた。洪秀全は太平天国の乱の首謀者である。太平天国の乱なんて、高校の世界史でちょっと習ったぐらいだから、キリスト教系の新興宗教による大規模な反乱ぐらいにしか知らなかった。それが高島俊男の筆致も相まってなかなか面白い。

もう少し詳しく知りたくなって、菊池秀明『太平天国 皇帝なき中国の挫折』(岩波新書)を読んだ。

この洪秀全という男、やはりとても面白い。洪秀全は貧しい家庭の生まれだが、勉強ができたため親戚一同の期待を一身に背負って、役人になるべく科挙の試験を受けるも連続して落第、しまいにはショックで高熱を出して寝込み、夢うつつの中神から啓示が下る。

ヤハウェを父、キリストを兄、自らをヤハウェの次男として、キリスト教と儒教の間の子みたいな宗教を始める。三位一体もクソもないが、実は彼は聖書をまともに読んだことがなく、街中でもらった宣教のチラシみたいなものがキリスト教理解のベースになっている。

やがて、楊秀清というシャーマンが仲間に入り、今度はシャーマニズムと悪魔合体。そいつがイタコ芸で「ワシはヤハウェじゃ」とか言い出したものだからもう大変。何しろ、洪秀全はヤハウェの子でキリストの弟だから、言うことを聞かなきゃならない。いいかげんブチ切れた洪秀全は・・・と全部書くわけにはいかないからこのへんにしておく。

そんなどう考えてもマヌケな男が作った国だが、独特の政治システムを持っていたそうだ。命知らずの狂信者たちによって、一時はかなり版図も拡大したという。最終的には、清朝の正規軍では対処できず、曽国藩率いる湘軍という義勇軍により滅亡した。今でいえばプリゴジン率いるワグネルといったところか。これがまたかなりお行儀が悪く略奪などが横行し、首都天京(南京)では莫大な犠牲がでたという。

この本を読むと、太平天国が思った以上に規模が大きく、思っていた以上に独特で、それにも関わらず伝統的だったことが分かる。考えてみると、中国の歴史にはたびたび新興宗教が登場し、時代を変えるきっかけになった。他人事じゃないと思った。
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いい年になって『水滸伝』にハマった。もちろん面白かったからハマったのだが、「あー、そういうことだったのか」ということが多くあったからでもある。

一番目からウロコが落ちたのが山賊(盗賊)の生態である。それまでは、旅人から金銭を巻き上げる強盗団というイメージしかなかった。しかし、それは山賊の一面でしかなく、集団として一つのコミュニティを持っていること、庶民にとっては政府よりも山賊の方がましという事態がありうること、その山賊が朝廷に帰順して朝廷の軍隊になることがあることなど、知らないことばかりだった。

中国の山賊に興味が湧いたので、高島俊男『中国の大盗賊 完全版』(講談社新書)という本を読んでみた。

「大盗賊」として取り上げられるのは、陳勝・劉邦・朱元璋・李自成・洪秀全・毛沢東である。彼らがどのような生い立ちで盗賊の頭領になり、あるいは滅び(陳勝・李自成・洪秀全)、あるいは天下を取ったか(劉邦・朱元璋・毛沢東)が書かれているのだが、文章が軽妙で要点をしぼって書いてあるので、中国の歴史に暗くても理解しやすく読みやすい。

最後が毛沢東で終わっているところがミソである。あとがきによると、この本は1986年に刊行されたが、編集部の依頼により、不本意ながら最後の毛沢東の章を大きく削らざるを得なかったそうだ。「完全版」とあるのは、毛沢東の章を完全にしたという意味である。で、この章が面白い。毛沢東自身、自らを『水滸伝』の晁蓋になぞらえていたそうだが、なるほど盗賊の頭領だ。

この本の面白さは、歴代の大盗賊を紹介するだけではなく、彼らが皇帝の地位を狙ったり、実際に皇帝になって全土を支配する流れが、現代の共産党の成立に繋がっていると論じていることである。

盗賊の打ち立てた政権というと、なんだか批判しているように聞こえるかもしれないが、決してそうではない。一見近代的な革命によって生まれた政権でも、伝統的な政権奪取の方法によっているというのである。

これは現代の中国を知る手がかりにもなるだろう。中国の歴史に興味のある人はもちろん、そうでない人にもストロング・バイ。
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保科恵『入門平安文学の読み方』(新典社)を読んだ。「読んだ」とか書いているが、実は読んだのは一年以上前。おそくなってごめんなさい。



文学には普遍性と特殊性がある。普遍性というのは時代・地域を問わず人間に共通のもので、これがあるから、どの時代・どの地域の文学でも、翻訳さえされていれば読める。これがないと、文学は生き残ることはできない。

一方で特殊性とは、時代・地域・作者個人に特有のもので、ただ翻訳されていても、それを知らないと深く理解できない。それを補うために注釈があるのだが、それだけでは不十分だ。そんな平安文学の特殊性を踏まえた読みの方法を解説した本である。

この本は初学者をターゲットにしてるため講義を模してあり、第一講から第五講、そして補講という構成になっている。

第一講「まずは疑ってみること」では、平安文学を読む際の心構えについて書かれている。といっても、ただ概念を並べているのではなく、多くの例文を挙げて説明している。ここに限らず、この本は例文が多く、具体例が示されているのが特徴である。

第二講「昔の暦の話」・第三講「月と干支」は時間の特殊性である。平安時代の人と現代人の一番の違いはここだろう。当時の人は太陰暦を使う。ここまではたいていの人が知っている。太陰暦は月の満ち欠けにリンクしているのだが、電気があって夜も明るい現代とは違い、月の重要度は比較にならない。一日の始まりと終りも、季節の感覚も現代人とは全く違う。そういう違いは当然文学作品にも現われる。

第四講「地名の話」は空間の特殊性である。平安文学は都人によって書かれ読まれていた。そんな彼らが使う地名は、単純に場所を表すだけではない。平安文学は彼らの常識を知ることによってより深く読める。

第五講「本文の話」は、テキストそのものの特殊性である。同じ日本語でも、古典の書き方は現代の書き方とは全く違う。そのままでは読みにくいので普通は校訂された本文で読むが、そこには常に校訂者の解釈が加わっている。そういう例を多く提示し、どう読むべきか指南してくれる。これを読めば、やたナビTEXTに校訂本文と翻刻の二つの本文がある理由も理解できると思う。

さて、僕はここまで読んで、「これは平安文学だけのことではないのではないか」と思った。平安時代の前後に当たる上代も中世も、なんなら近現代文学にだって、形は違えど共通する問題ではないか・・・と思っていたら、

補講「古典だけに留まらないこと」
そこで、本書で古典の文学に対してこれまで述べて来たことが、近・現代の文学にも関わりがあることを述べておきます。
ときた。いやー、こういうの手玉に取られてるみたいですごく悔しいぞ。もちろん、ここでも芥川龍之介・谷崎潤一郎・夏目漱石などの具体的な例を豊富に引用している。

最初に戻ると、文学には普遍性と特殊性がある。すぐれた文学作品ほど普遍性だけで読めるものだが、特殊性を押えておくとより深く、普遍性だけでは見えていなかった部分が見えてくる。この本は、そんな深い読みの方向性を示してくれる解釈の入門書である。

というわけで、文学を愛するすべての人にストロングバイ。
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無料で読める漫画サイトスキマ池沢さとし『サーキットの狼』を読んだ。

『サーキットの狼』はリアルなレース漫画のはしりで、70年代のスーパーカーブームの火付け役でもある。僕もそのまっただ中で小学生をしていたし、実家の文房具屋ではプラモデルや消しゴム、BOXYボールペンでおおいに稼がせてもらった。

そんな思い入れのある作品を45年ぶりぐらいに読んだのだが・・・

アレ?こんなに面白くなかったっけ?

ちょっとびっくりした。

レース漫画なのだから当たり前なのだが、レースばっかりしているのである。主人公がロータスヨーロッパに乗る風吹裕矢で、ライバルがポルシェ911の早瀬佐近、早瀬の妹ミキが風吹の彼女・・・とそのあたりは覚えていた。だから、人間関係だけでも何か起きそうな感じがするが、そのへんはあっさり描かれていて、基本レースに終始している。

連載していた少年ジャンプの標語は「友情・努力・勝利」だが、「努力」に当たるところが全く無い。ただし「友情・勝利」成分はものすごく濃い。バトル物にありがちな特訓みたいなのはなく、問題をかかえても本番のレースの中で解決していく。

読んでいるうちに、これはまとめて読むものではなく、連載で読むものだと気がついた。毎週どんなレースになるか、誰とどんなバトルをするか、それを期待して読めば面白そうだ。それを一度に読もうとしたので、飽きてしまったのだ。

もし『サーキットの狼』を一度でも読んだことがあるのなら、名場面を思い出してほしい。まず、主人公風吹裕矢の乗っていたのは白いロータスヨーロッパだった。弱点はスタビライザーで「スタビライザーをうったか!」というのを覚えている人も多いと思う。
スタビライザーを打ったか
強烈なゴールシーンを覚えている人も多いだろう。
ゴール
優勝は真ん中の風吹裕矢でご覧の通り逆さま、二位は右の沖田だが実は中で死んでいる、三位の早瀬佐近は故障で停止寸前、こんな強烈なゴールはなかなかない。

これらの名場面はすべて最初のレースである公道レースでの場面である。そもそも、『サーキットの狼』というタイトルだが、まだサーキットを走っていない。このあと、ツーリングカーレースでやっとサーキットを走るようになり、最後はF1までいくのだが、僕はほぼ覚えていなかった。どうも子供時代の僕は「レースばっかり」に飽きていたようだ。

なんだかクサしているようなことを書いているが、すでにレースマンガの基本要素が入っているのはすごい。しかも、当時はモータースポーツはまだマイナーで、読者層は自動車の運転ができない子供である。あちこちに説明のコマがあるなど、作者の工夫と熱意には驚かされる。
ウンチク
この作品がなければ、『頭文字D』(それ以外が出てこなくてすみません)なんかはなかっただろう。レースマンガの『蘭亭序』である。
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妻に、「食べてすぐ寝ると牛になるよ」と言われて、突然、子供のころ読んでいた新聞小説のことを思い出した。

覚えているのは断片的で、お母さんから、「食べてすぐ寝るとネコになるよ」と言われて、「ネコになってもいいよ」とか答えると本当にネコになってしまうという話だったことぐらいだ。内容は何一つ覚えていない。

当時僕の家で取っていたのは毎日新聞だった。タイトルも覚えていない。作者は井上ひさしだったと思うが、なにしろ子供だったので自信がない。そもそも、自分が何歳だったか覚えていない。

とりあえず、「猫 井上ひさし 新聞」あたりで検索してみたら、すぐに『百年戦争』というタイトルが出てきた。インターネット万歳!あらすじを読んだらこれで間違いないようだ。amazonで検索すると、Kindle版が上巻だけなら100円である。もはや考える必要はない・・・というわけでポチった。なお下巻は540円。

連載されていたのは毎日新聞夕刊で1977年2月28日〜78年7月15日だそうだ。ということは、僕が8歳から9歳のころということになる。よくこんなの覚えてたな、オレ。作者が「井上ひさし」だから覚えていたが、「幡随院長兵衛」とかだったら絶対に覚えていなかっただろう。

さて、実際に読んでみたら、読んだ理由も、内容をさっぱり覚えていない理由もすぐに分かった。

この小説、登場人物がほとんど小学生(5年生)である。清・良三・秋子の小学生三人がネコになったり、ネズミになったりして銀座を駆け回る。変身の仕方もおもしろいし、ネコとネズミのアクションシーンも多い。出てくるのが小学生とネコ・ネズミだから、そんなに難しい言葉も出てこない。だから小学校3年生の僕は子供向きの小説だと思ったのだろう。

ところが、読み進めていくと、宗教やら当時の社会情勢やらが絡んできて、なかなか難解だ。おまけに銀座の歴史だの哲学だのの薀蓄がやたらと長くて、およそ小学生(しかも低学年)が理解できるものではない。

新聞小説の一回は短いから、連載で読んでいれば、数回に渡って薀蓄が続いたはずだ。薀蓄が終わったときには、何のための薀蓄か、大人でも忘れてしまうのではないか。薀蓄の内容は、ストーリーに絡むものもあるが、ほとんどは関係ない。例えば、銀座の店の歴史的な変遷リストが延々つづくのには驚いた。井上ひさし先生、やりたい放題である。薀蓄は井上ひさし小説の特徴らしいので、これが好きな人にはたまらないだろう。

さて、これでは内容がなんだかさっぱり分からないと思うので、簡単に解説しておく。

ネコやネズミに変身できるようになった小学生三人が、銀座ネコと築地ネズミの抗争を通じて、人類滅亡の危機を救う。読むに従って、なぜ変身できるようになったのか、銀座ネコと築地ネズミの抗争を仕掛けた黒幕は誰か、そして抗争の真の理由が分かるようになっている。この黒幕がまた壮大にもほどがあるほど壮大なのだが、とてつもなくしょぼい理由で倒される。そう、これはセカイ系である。そんな言葉、当時はなかったけど。

現在のセカイ系と違い、清(銀座ネコの首領)と良三(築地ネズミの首領)の男子二人が人類滅亡の危機を救う。ヒロインの秋子は目立ってはいるがあくまで脇役で、ストーリーの展開にはあまり重要な意味を持っていない。このあたり、40年以上前の作品ではあるが、なんだか新鮮な感じがする。
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15年ほど前、掃除をしていたら、スマホぐらいの大きさの小さな線装本が出てきた。僕はコレクションの癖がないので、版本だの印譜だのの煤けた本は持っていない。多分誰かからもらったんだと思うんだけど、いつのことやら、誰からもらったんだか、さっぱり覚えていない。
三村竹清印譜
開けてみると禿筆で序が書いてある。
三村竹清印譜序1
最後まで読んでびっくりした。三村竹清の印譜である。「竹清」の印、人差し指で隠れてしまってすみません。
三村竹清:Wikipedia
三村竹清印譜序2
三村竹清は書誌学者として知られるが、たいそうな粋人で詩書画三絶、篆刻の作品も多い。竹清という号は竹問屋を営んでいたことに由来するが、そのせいだろうか、この印譜は全部竹印(または竹印を模したもの)になっている。書いているうちに、なんだか貴重なもののように思えてきた。

さて、最後は秘宝館にぴったりの品。パッケージはこんな感じ。美人画風の画に「肥後手芸」との文字。それにしても誰からもらったんだろう。
肥後ずいき(パッケージ)
パッケージを開けると、今となっては懐かしいセロファンにくるまれたナゾの物体が。
肥後ずいき(箱を開けたところ)
熊本の伝統工芸品「肥後ずいき」である。郷土玩具、ただし大人用。「ずいき」というだけあって「芋茎(ずいき)」でできており、これを使うと女性(にょしょう)が随喜の涙を流すという逸品だ。

最初はもっと白っぽかったのだが、何十年かで茶色くなってしまった。どう見ても賞味期限切れである。見た感じ硬そうだが、なにしろデリケートなところに使うものだから、とても柔らかい。
肥後ずいき(中身)
説明書がいい味出している。具体的には何も書いていない。
肥後ずいき説明書
というわけで、「先にはめてみた」といきたいところだが、写真を出すと猥褻物陳列罪になってしまうので、イメージ画像を。
dog_tosaken
肥後ずいきは現在通販で買えるらしい。
肥後ずいき専門店
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