カテゴリ: 中国ネタ2

このブログの洛陽橋(万安橋)に行ってきた:2010年11月17日という記事のアクセス数が妙に増えている。それもSNSからではなく、Googleなどの検索からの流入だ。何だろうと思って調べてみたら、福建省の万安橋が燃えたらしい。

現存する中国最長の木造アーチ型屋根付き橋で火災、900年の歴史―中国メディア:Record China
中国国営中央テレビによると、中国福建省寧徳市屏南県にある「現存する中国最長の木拱廊橋(木造アーチ型屋根付き橋)」の万安橋で6日夜、火災が起き、橋体が燃えて倒壊した。
火は同日午後10時45分に消し止められた。死傷者は出ていない。
ニュースを読んで一瞬目を疑った。僕が行ったのは石造りで燃えるわけがない。調べてみると、同じ福建省だが寧徳市屏南県という所にある万安橋だった。同じ福建省とはいうものの、省都福州市のさらに北にある、山の中の小さな町らしい。

僕が行ったのは福建省泉州市の万安橋で、一般的には洛陽橋という。だから「洛陽橋に行った」とだけ書いておけばよかったのだが、ここは宋の四大家の一人蔡襄の万安橋記という石碑で有名なので、カッコ付きで万安橋という別名も入れた。それが検索にヒットしたらしい。ちなみに蔡襄は『水滸伝』で梁山泊軍団とは敵役になる蔡京と親戚で、本来宋の四大家は蔡襄ではなく蔡京だったともいわれる。

それにしても、日本の報道はいいかげんである。たとえばこれ。
築900年の中国最長の橋「万安橋」が炎上 “国家級の歴史文化財“指定:Yahoo!News-ABEMA TIMES
「万安橋」は900年前に架けられた、中国で最長となる“98メートル”の橋だ。木造のアーチ橋として知られていて、釘を1本も使わない伝統的な方法で建てられ、中国では「国家級の歴史文化財」に指定されている。
98メートルぐらいで最長なわけがない。現代の橋は除くとしても、泉州の洛陽橋は1200メートル、北京の盧溝橋は266.5メートルである。「木造の橋としては最長」でなければおかしい。また、日本の報道はどれも「福建省」としか書いていない。中国の地名に疎い人が多いとはいえ、面積では北海道の1.5倍ぐらいあるのにいくらなんでも雑すぎる。
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今まで京劇には全く興味がなかった。何しろ何を言っているのかわからないし、ある程度ストーリーを知っていても、うろ覚えだから演技だけで理解できる自信がない。

しかし、京劇には『水滸伝』を元ネタにするものがいくつかあるのを知って、Youtubeで見てみたらなかなか面白かった。ストーリーは知っているので、言葉は相変わらずよく分からないものの、誰が何をしているのかはよく分かる。

魯智深と林冲が暴れる『野猪林』、李逵が母親に会いに行き虎退治をする『李逵探母』、武松の虎退治『武松打虎』などを見たが、一番面白かったのが『時遷盗甲』。


時遷はこそ泥の達人である。宋江から、徐寧を仲間に引き入れるため家宝の鎧を盗めという命令が下り、夜中に徐寧の屋敷に忍び込み、天井の梁にぶら下げられている鎧の入った箱を盗み出す。単純明快なので、『水滸伝』を知らなくても楽しめるだろう。

登場人物はほぼ時遷一人だけ。これがまたヘンな格好をしている。表情も喋り方もしぐさも面白いし、パントマイムありアクロバットありコサックダンスもどきありで見ていて飽きない。京劇というと、やかましくドンドンシャンシャンやっているイメージだが、なにしろ鼓上蚤(太鼓の上ではねても蚤が飛ぶのと同じように音がしない)と渾名されるドロボーなので、ほとんど無音の場面も多い。

それにしても、箱が小さすぎる。書類箱みたいで、とても鎧一式が入っているようには見えないな。
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人生50年もすぎると、「あれ?こんなのいつの間に手に入れたっけ?」というものが出てくる。いつ入手したのか、自分が買ったのか、人からもらったのか、さっぱり覚えていない。たいがいはしょうもない物ばかりだが、中にはなかなかの珍宝もある。というわけで、そんな僕の秘宝を紹介する。

最初は中国編から。みんな大好き毛主席語録 (毛沢東語録)。紅衛兵が振り回していたのでおなじみだが、中国ではよく夜店で売ってたので、これ自体は珍しものではない。
毛主席語録表紙
こんなの、どうせあの人かあの人がくれたんだろうと思って表紙をめくると・・・。アレ?「万国のプロレタリア団結せよ」・・・。
万国のプロレタリア団結せよ

さらにページをめくると毛沢東の肖像、林彪の書につづき・・・。
毛沢東肖像
もう一ページめくると、何と日本語版だった。こんなの中国で売っているわけがないから、この人やあの人のお土産ではない。
前書き
奥付を見ると1968年初版になっている。僕の生まれた年だ。とすれば自分で買ったんだろうか。そんな記憶はないし、古書で買ったにしては本が綺麗すぎる。
奥付
次は中国の免許証入れ。これまた、いつどうやって入手したのか分からない。
免許証入れ
最後はお金。1分紙幣。1分は1元の100分の1で、今のレートで日本円に換算すると0.16円。硬貨と紙幣があったが、2007年に分紙幣は廃止されている。社会主義国らしいデザインがグッとくるが、なんとピン札である。
一分紙幣
裏はこんな感じ。
一分紙幣(裏)
ほとんど価値がないのでやたらと小さい。まるでモノポリーのお金のようだ。
一分紙幣(大きさ)

ヤフオクを見ると、同じ1953年と書かれた一分紙幣のピン札はたくさん出品されているので、珍しいものではなさそうだが、そのへんで買い物をしてもらえる紙幣ではない。仮にもらったとしても、ほとんどゴミクズ同然になっているはずだ。

実はこのお金と同時に、さらに不可解なものが出てきた。それはまた明日お目にかけよう。
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さて、三回にわたって偽満皇宮博物院を紹介したが(偽満皇宮博物院へ行った(その1)その2その3)、かつて新京とよばれ、満州国の首都だった長春の街には、たくさんの満州国時代の建築物が残っている。

まずは、悪名高き関東軍総司令部。かつてはこんな感じ(Wikipediaによる)。
Kwantung_Army_Headquarters
鉄筋コンクリートのビルに和風の屋根をつけたものを帝冠様式といい、この時代(1930年台)に流行した。名古屋城がモデルになっているそうだが、単なる流行の建築様式というだけでなく、宗主国としての権威づけという意味も持っているのだろう。

現在は中国共産党吉林省委員会が使っている。現在では手前の木と塀に遮られて、外からは帝冠の部分だけしか見えない。見えない下半分は脳内で石垣を補ってしまうから、どうみても立派な天守閣である。道を歩いていて突然このお城が目に入ると、不思議な感じを受ける。
旧関東軍総司令部1
旧関東軍総司令部2
近くに満州国国防会館なるものがあった。現在は「吉視伝媒方舟美術館」になっているが、中に入っていないので、何の美術館だかよく分からない。吉視は吉林省テレビ局だろうから、テレビ局の所有の美術館だろうか。
国防会館
長春の中心には大同広場という巨大なロータリーが作られた。現在は人民広場というありがちな名前になっている。
昔の大同広場と満州国電信電話会社
上の絵にある茶色のビルは満州国電信電話会社である。現在は、中国株投資家にはおなじみ、中国聯通(チャイナ・ユニコム)という電話会社が使っている。
満州国電信電話会社
その向かいは、かつて満州国中央銀行だった。現在は中国人民銀行。中国人民銀行は、中国の中央銀行なので、電信電話会社同様、用途は変わっていない。
満州国中央銀行
いかにも中央銀行らしい立派な建物なので、柵越しにスマホで撮影した。一枚撮ってから写真を確認すると、とんでもない物が写っているのに気づいた。
満州国中央銀行の現金輸送車
どうみても現金輸送車。どう見ても現金を搬入中。

よく見ると、手前の自動車に「厳禁靠近」書いてある。工事現場などで「禁止靠近(近づかないでください)」という標識はよく見るが、どう考えても禁止より厳禁の方が重そうに見える。近付いたら問答無用で射殺されそうな勢いだ。近づかなくても、写真を撮ってるのがバレたら捕まっても文句は言えまい。

こういうときはさっさと逃げるに限る。というわけで、ものすごい勢いでトンズラしたので、人民人場の写真はなし。
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偽満皇宮博物院へ行った(その1)
偽満皇宮博物院へ行った(その2)
のつづき。

懐遠楼。
懐遠楼
中には清朝の歴代皇帝を祀る奉先殿がある。
奉先殿
ここにはさるぼぼみたようなのも祀られてた。これもご先祖様だろうか。
奉先殿の何か
溥儀の御料車。今はなき米国のパッカード製。小林旭『自動車ショー歌』の「あの子をペットにしたくってニッサンするのはパッカード」で有名。
御用車
これらの皇帝の御所に隣接して、宮廷行政を行う宮内府がある。

宮内府の門。宮中の事務を行う場所だが、なんだか北京あたりの胡同にある普通の家の入り口みたいだ。
宮内府の門
中もそんな感じ。
宮内府
宮内大臣の執務室。大臣というからには宮内府で一番偉いはずだが、実際には次長のいいなりだったという。
宮内府大臣事務室
で、こちらがその次長執務室。ほぼ同じ作り。日本人が担当し、人事・財務などすべての行政権を持っていた。
宮内府次長事務室
これと会議室以外の部屋は展示室になっていて、傀儡国家満州国の官僚たちを「売国奴」として紹介している。「ご案内」のプレートには、刺激的な文章が書かれていた。
ご案内
まだまだいろいろあるのだが、きりがないので偽満皇宮博物院はこれでおしまい。
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偽満皇宮博物院へ行った(その1)のつづき。

前回の記事で、溥儀・婉容・譚玉齢は緝熙楼に住んだと書いたが、本来はそれよりはるかに巨大な同徳殿に入るはずだった。
同徳殿入口
したがって、同徳殿には溥儀の寝室があるが、これは使用されなかった。溥儀は関東軍の盗聴を恐れたため、同徳殿竣工後も緝熙楼に住んだのである。それだけ不信感が強かったということだろう
溥儀の寝室
謁見室。いうまでもなく、皇帝溥儀が客人や日本の役人と謁見するための部屋だが、使用されることはなかった。
謁見室
同徳殿の一階廊下。寒い土地なので、スチーム暖房があちこちについている。高校生の時、よくこの上に弁当乗せて温めたものだ。懐かしい。
同徳殿の廊下
この廊下の右側はビリヤード室や映画上映室などが並んでいる。下の写真はやたらと広い映画上映室。
映画上映室
スクリーンの反対側には玉座が。寝室や謁見室など、全く使われなかったのに対し、これらの遊びの部屋は実際に使用されたそうだ。傀儡皇帝は遊んでろということだろう。
映画上映室の玉座
同徳殿には和室もある。日本との密接な関係を表すために作られたんだそうだが・・・。
和室
同徳殿の裏手には書画楼(小白楼)という(ここにしては)小さな建物がある。かつては貴重書籍502帙、210冊、書画1353点が所蔵されていた。
書画楼
ここで溥儀は書画を鑑賞し、つれづれをなぐさめていたという。
書画鑑賞中の溥儀
これらの書籍・書画は、ほとんどが溥儀が紫禁城から「盗み出した」物だと、解説に書いてあった。

この「盗み出した」という表現が歴史を物語っている。清朝再興をめざす溥儀にしてみれば、皇帝のものだから盗んだ意識はない。しかし、溥儀を偽の皇帝とする立場からすると、国の宝を盗んだということになるのだ。

偽満皇宮博物院へ行った(その3)につづく。
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京浜急行青物横丁駅からJR・東急大井町駅方面へ行く坂の途中に品川エトワール女子高等学校という高校がある。

僕は以前、定時制高校への通勤にこの学校の前を通っていたのだが、ある日の帰り道、目立たないところに「町田学園」と書いた看板があるのが目に止まった。町田学園は品川エトワールの旧称で、現在も法人名になっている。大きなものではないので、それまで気付かなかったようだ。

夜だったので暗くてよく見えなかったが、妙にクセのある字だ。よく見ると、「溥傑」と書かれた落款がある。ラストエンペラー愛新覚羅溥儀の実弟、溥傑である。溥傑は独特の書風で知られる書家でもあるので、その時は、何かの機会に書いてもらったんだろうぐらいに思っていた。

ところが、前回の記事(偽満皇宮博物院へ行った(その1)参照)を書くためWikipediaを調べていたら、溥傑の妻、嵯峨浩の項に意外なことが書いてあった。
日本に引揚げた後、父・実勝が経営する町田学園の書道教師として生計を立てながら、日吉(神奈川県横浜市港北区)に移転した嵯峨家の実家で、2人の娘たちと生活した。一方、溥傑は、溥儀とともに撫順の労働改造所に収容され、長らく連絡をとることすらできなかった。(Wikipedia:嵯峨浩)
なんと、溥傑の奥さんが品川エトワール(町田学園)の書道教師だったらしい。そりゃ溥傑に看板を頼むなんて容易いことだ。

しかも、Wikipediaの記事によると、父親が経営者だったとある。品川エトワールのサイトを見てみると、現在の理事長は嵯峨実允氏という人で、嵯峨実勝の孫にあたるらしい。

理事長挨拶:品川エトワール女子高等学校

それでは、なぜ嵯峨学園ではなく町田学園なのかという疑問もわいてくるが、これもちゃんとWikipediaに書いてあった。

妹の幾久子が町田学園(現・品川エトワール女子高等学校)の創始者・町田徳之助に嫁いだ縁で、昭和24年(1949年)6月15日、町田学園エトワール幼稚園を開園し初代園長を務めた。(嵯峨実勝:Wikipedia)

ちなみに嵯峨家は、かつての正親町三条家で、藤原北家の流れをくんでいる。由緒正しいなんてもんじゃない。

もうちょっと調べればいろいろ出てきそうだが、とりあえず覚えに書いた次第。
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辛亥革命によって、三百年近く続いた満州族による王朝、清は崩壊したものの、中国最後の皇帝である愛新覚羅溥儀は、しばらくは紫禁城に住み、いずれ別荘の頤和園へと移る予定だった。

ところが、1931年9月18日の柳条湖事件を発端に満州全土を掌握した日本は、1932年3月9日、清朝の再興をはかる溥儀を皇帝として祭り上げ、傀儡国家満州国を築いた。傀儡国家のため、中国では頭に「偽」を付け「偽満州国」という。首都は長春に置かれ、新京と改名された。もともと地方都市にすぎなかった長春は、突然首都になり日本の手で開発が進んだ。

長春が偽満州国の首都たるゆえんが、皇居である。現在は偽満皇宮博物院として公開されている。最寄り駅はこちら。偽皇宮駅。すごい名前だ。
偽皇宮駅
入り口の門扉には巨大な満州国の国章が付いている。実は駅からここまでが長い長い。
偽満皇宮博物院門扉
門をくぐると一番最初に見えるのが、緝熙楼。通称宮殿と言われ、皇帝溥儀、正妻の婉容、側室の譚玉齢はここで生活していた。
緝熙楼
側室譚玉齢の寝室。
譚玉齢臥室
正室の婉容は、ここでアヘンを吸って廃人同然になっていた。満州国崩壊と同時に逃亡先死去したという。
婉容の喫煙室
皇帝専用散髪室。
溥儀専用散髪屋
皇帝専用トイレ。
溥儀専用トイレ
この建物の隣には、東御花園という広大な庭がある。こんな感じで遊歩道に玉石が敷き詰めてあるのだが、雨が降っていてこれがまたよく滑ること滑ること。
東御花園
ここには、建国神廟なる天照大神を祀った神社があった。現在は礎石だけが残っている。
建国神廟礎石
神社には天照大神用の防空壕もある。ピンボケですみません。
天照大神用防空壕
わざわざ神様のための防空壕を作るぐらいだから、よほど大事にしていたのかと思いきや、満州国が崩壊して溥儀が逃亡したとき、この神社は関東軍の手によって放火されたという。天照大神といえば皇祖神だが、そんなものなのだ。

皇帝専用のプールも作られた。しかし、皇帝は人前で体を見せてはいけないので、溥儀自身はプールに入ったことがないそうだ。
皇帝専用プール
さて、ここの(僕が決めた)一番の目玉は、「御用防空壕」である。空襲に備えた皇帝用防空壕で、築山の地下にある。
御用防空壕入口
湿った階段を降りていくと、やたらと頑丈な扉が見える。どういう仕組みになっているのかさっぱり分からないけど、金庫の扉よりも頑丈そうに見えるので、そうとうな衝撃に耐えられそうだ。
御用防空壕の扉
これはポンプ室だろうか。
御用防空壕ポンプ室
ポンプ室以外はいくつかの部屋になっていて、中で繋がっている。
御用防空壕の部屋


【2018/10/09 追記】
当初、この記事で溥儀の寝室として紹介したのは、緝熙楼ではなく同徳殿の寝室だったため削除しました。

偽満皇宮博物院へ行った(その2)につづく。
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かつて、東北地方(旧満州国)には南満州鉄道(満鉄)が経営していたヤマトホテルというホテルチェーンがあった。それらのいくつかは現存し、今でもホテルとして営業している。

ヤマトホテル:Wikipedia

というわけで、ハルビンと長春のヤマトホテルに行ってきた。

まずはハルビン。かつてはこんな感じ。(『最新哈爾濱の展望』より)
昔のハルビンヤマトホテル
現在は龍門貴賓楼酒店になっている。前に張り出した日よけとか、右側の塀とか、昔とほとんど変わっていない。ちなみに、この建物の裏には貴賓でない人が泊まる龍門大厦がある。最初間違えてそっちに入った。
現在のハルビンヤマトホテル
入り口はこんな感じ。なにやら妙な装飾が付いているので真似をしてみた。
現在のハルビンヤマトホテル(入り口の装飾)
ロビー。原型を保っているような気がする。
現在のハルビンヤマトホテル(ロビー)
ロビーの前の階段を上がっていくとステンドグラスが。
現在のハルビンヤマトホテル(ステンドグラス)
客室の廊下。むちゃくちゃ幅が広い。
現在のハルビンヤマトホテル(廊下)
続いて長春。かつてはこんな感じ。(Wikipediaより)
昔の長春ヤマトホテル
現在は春誼賓館という。赤い電光掲示板は中国のお約束。日よけは後付けかと思ったら、昔の写真を見ると同じ形のが付いている。

長春駅の真向かいにあって、ホテルの前に広大な駐車場がある。ハルビンのヤマトホテルとはずいぶん雰囲気が違う。
現在の長春ヤマトホテル(正面)
装飾を見たときはアール・デコだと思ったが、あとで調べたらアール・ヌーヴォーらしい。
現在の長春ヤマトホテル(左)
ロビー。かなり手が入れられているようだ。今回、階段を上がらなかったが、突きあたりの装飾はたしかにアールヌーヴォーである。写真撮っておけばよかった。
現在の長春ヤマトホテル(ロビー)
廊下。ピンボケご容赦。
現在の長春ヤマトホテル(廊下)
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ハルビンの街を歩いていたら、なぜかアルパカを2頭連れて歩くオッサンを発見。左のオバチャンに注目。写真を撮ったときには、アルパカに気を取られて全く気付かなかったが、ニンジンか何かを切っている。
警察アルパカ1
しばらく見ていると、オバチャンがアルパカの前の箱に野菜くずをドバッと入れた。アルパカくん、当たり前のようにむしゃむしゃと食べだした。
警察アルパカ2
写真を撮るために、もうちょっと寄ろうと思ったのだが、オッサンをよく見てびっくり。この人、警察官らしい。
警察アルパカ3
別に悪いことは何もしていないのだが、さすがに警察官と分かると、あまり近寄れない。思いっきりズームして、できる限り近付き、撮り逃げしたのが上の写真である。

それにしても、アルパカと警察官はどういう関係があるのだろう。警察犬みたいなもので、いざというとき犯人に唾でも吐きかけるのだろうか。あまり捜査に協力してくれそうな気がしないが、マイナス20度になるという冬の寒さには強そうだ。

当たり前のようにエサをあげていたオバチャンは何者だろう。近所の食堂のオバチャンだと思いこんでいたが、実は腕利きの潜入捜査官だったりするのかもしれない。
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