カテゴリ: 日本の古典文学3

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何をもって奇妙かっていうのはなかなか難しいけど、奇妙は奇妙。怖い話や不思議な話など、現代の常識でははかり知れない説話を、やたナビTEXTから選んで、三時間おきに自動Tweetします。

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醒睡笑』がまだ終っていないが、駄洒落攻撃にいささか飽きてきたので、『唐鏡(からかがみ)』の電子テキスト化を開始した。

松平文庫本『唐鏡』:藤原茂範


『唐鏡』はその名の通り三皇五帝の時代から東晋までの中国の歴史を、『大鏡』のような歴史物語(鏡物)の様式にまとめたものである。作者は『本朝書籍目録』から藤原茂範とされ、13世紀の成立と考えられている。

鏡物なので大枠となる序があり、『大鏡』でいうと大宅世継と夏山繁樹に当たる人物もちゃんと出てくる。中国の歴史を語るのだから、中国人と通訳みたいな設定になっているのがおもしろい。
『唐鏡』序
この時、二人の高僧あり。転誦の始めより、聴聞の体にて傍らを離れ給はず。今夜近くゐ寄りてもののたまふ。一人は師とおぼしき体なり。そののたまふ言葉は聞き知られず。いま一人の、弟子とおぼしき人にぞ師の言葉を伝へらるる。通事などの儀なり。
今のところ、伏羲から尭まで作ってみたが、文字はややクセがあるものの、それほど読みにくくはない。だが、翻訳・翻案作品独特の難しさがある。

『唐鏡』は中国の歴史なので、やたらと難しい字がでてくる。それ自体は覚悟していたし、漢籍に出典があるので調べればすぐわかるが、作者もしくは筆写者がよく理解しないまま書いている部分があるようで、異体字なのか、誤字なのか、そもそもそんな字があるのか、判断が難しい部分もある。

僕では力の及ばないところもあるので、ぜひとも識者の方のご協力を仰ぎたいところ。よろしくお願いします。

もちろん、『醒睡笑』もまだまだ続くので、こちらもよろしくお願いします。
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『篁物語』の電子テキストを公開しました。

宮内庁書陵部本『篁物語』:やたナビTEXT


底本は、宮内庁書陵部本です。いつもどおり、翻刻部分はパブリックドメインで、校訂本文部分はクリエイティブ・コモンズライセンス 表示 - 継承(CC BY-SA 4.0)で公開します。

一年半ほど前『醒睡笑』を始めた時に読み始めましたが、すぐに面倒くさくなってしまい「準備中」のままサスペンド、今日まで来てしまいました。いつまでも準備中というのもいかがなものかということで、夏休み中に一気にやってしまおうと思った次第。意外と面白くて、すっかりハマってしまいました。

写本は流麗な字でとても読みやすいのですが、一部色付きの紙に書かれていて、モノクロ画像では真っ黒になってしまいます。また、誤写に起因すると思われる意味の分からない言葉がけっこうあります。そのへんでつまづいて、面倒くさくなったというわけです。

さて、主人公は言うまでもなく小野篁です。篁の説話というと、バイトで閻魔大王の補佐官をしていた(『今昔物語集』20-45)とか、嵯峨天皇とトンチ比べで勝った(『宇治拾遺物語』49)とか、その類まれな学才を描く説話で知られ、色気のあるイメージはありません。

ですが『篁物語』は恋愛物で、しかも相手は腹違いの妹です。妹萌えの元祖ですな。

女の親は娘に教育を受けさせるため、腹違いの兄である篁に家庭教師をさせます。勉強しながら歌のやりとりをし、次第に二人はうちとけてゆきます。そうこうしているうちに深い関係になり、女は妊娠してしまいます。

1-9 かく夢のごとある人は孕みにけり・・・
かく夢のごとある人は、孕みにけり。書読む心地もなし。「例のさはりせず」など、うたてある気色を見て、この兄も「いとほし」とおしみて、人々、春のことにやありけん、物も食はで、花柑子・橘をなん願ひける。知らぬほどは、親求めて食はす。兄、大学のあるじするに、「みな取らまほし」と思ひけれど、二・三ばかり畳紙(たたうがみ)に入れて取らす。
「花柑子・橘をなん願ひける」とは妊娠して酸っぱいものを食べたがるという意味です。この時点では親はまだ気づいていませんが、すぐに妊娠はバレて女は母親によって部屋に幽閉されてしまいます。

1-10 かかることを母おとど聞き給ひて・・・
いよいよ鍵の穴に土塗りて、「大学のぬしをば、家の中にな入れそ」とて追ひければ、曹司にこもりゐて泣きけり。
妹のこもりたる所に行きて見れば、壁の穴のいささかありけるをくじりて、「ここもとに寄り給へ」と呼び寄せて、物語して、泣きをりて、出でなまほしく思へども、またいと若うて、ねたりたへき人もなく、わびければ、ともかくもえせで、いといみじく思ひて語らひをるほどに、夜明けぬべし。
「鍵の穴に土塗りて」は鍵穴に土を詰めて開けられないようにしたということですが、どう考えてもナニかの暗喩です。篁が「壁の穴のいささかありけるをくじり」ったというのも同じでしょう。

やがて女は死んでしまいますが、幽霊になって篁のもとに現れます。最初は頻繁に現れていたのが、時が経つのにつれて少なくなっていきます。その間、篁は結婚することはありませんでした。

と、ここまでが、ここまでが物語の主要部、やたナビTEXTでは第一部としました。第二部では篁は「時の右大臣の女」と結婚します。ここからあとは、読んでみてください。二部はあっという間に終わっちゃうけど。
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僕は今までこのブログで、「師匠」とは書いてきたが、それが松本寧至先生だとは(たぶん一度も)書いてこなかった。師匠の名前を出すと、ともすれば師匠自慢になる。自分が師匠を超えるか、せめて師匠と同等ぐらいでなければ、虎の威を借る狐みたいでカッコ悪いと思っていたからだ。

しかし、僕にとっては師匠と言えるのは松本先生だけであることも事実だ。お世話になった先生は他にもたくさんいるが、師弟関係という言い方ができるのは松本先生以外にはいない。

一番感謝していることは、僕みたいな面倒くさい奴を弟子として迎えてくれたことである。あのころは何もできないのに、やたらと生意気だった。教える側になったからよく分かるが、二十代のころの僕みたいな奴は、自分ですら弟子にはしたくない。

それでも弟子としてかわいがってくれたのは、何か通じるものがあったのだと思っている。一つ思い当たる節としては、松本先生は何か一つの研究対象に固執するタイプの研究者ではなかったことだ。

松本先生の業績といえば、角川文庫『とはずがたり』の訳注や、『とはずがたりの研究』(桜楓社)、『中世女流日記文学の研究』(明治書院)に代表される、日記文学の研究が知られている。しかし、僕がゼミに入ったころは、説話文学や近代文学の論文を書いていた。中古・中世文学を軸足にしてはいたが対象の幅は広かった。方法論も同じである。とくに一つの方法論にこだわるのではなく、論を立てるのにはそれに適切な方法論を使っていた。

松本先生は一つの対象をどこまでも掘り下げるタイプの、今でいうオタクタイプではなかった。とはいえ、それぞれが浅いということはない。対象が芋蔓式に変わっていくので、弟子としては着いていくのが大変である。おかげで幅広い知識がついた。

松本先生と僕に共通点があるとすれば、それはオタクではないということだと思う。誤解のないように言っておくが、僕はオタクをクサしているわけではない。むしろオタクを尊敬し、オタクになりたいとすら思っている。しかしなれないのだ。

松本先生も「オタクではない」のではなく「オタクになれない」人だったではないだろうか。院生のころ、「中川はオレの論文全然読んでないけど、オレに一番近いよな」と言われたことがある。これはそういう意味だったと解釈している。

最近は話す機会も少なくなっていたが、機会があれば「今何やってる?(研究しているか?の意)」と聞かれた。僕はいつも答えに窮した。もう20年も、何もやっていないからである。僕は「不肖の弟子」という言葉すら憚られるほどの不肖の弟子である。まだ何の学恩にも報いていない。それだけが悔やまれる。
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最近、むっちゃ◯◯、めっちゃ◯◯という言い回しをよく聞くようになった。たぶん関西芸人の影響だと思うが、若者言葉という印象がある。

ところが、『醒睡笑』の本文を作っていたら、この表現がでてきた。ただし、「とても」のような副詞的な使い方ではなく「滅茶苦茶」の意味である。

『醒睡笑』廃忘 2 神事能のありけるに地下の庄屋の息子に稽古をさせ・・・
神事能のありけるに、地下の庄屋の息子に稽古をさせ、大夫になし、始めて舞台へ出だしける。「自然(しぜん)忘るることもありなめ」と、論議のかしら書きを仮名に書きたり。
「兼平の御最期は、何とかならせ給ふらん」と問ふ時、ちらと手の内を見てあれば、汗に流れ正体なし。肝をつぶし、「兼平の御最期は、むつちやとならせ給ひけり」と。

初めて能舞台に経つ庄屋の息子が、セリフを忘れた時のために、冒頭部分を手に書いておいたところ、いざというときに汗で消えてしまたため、「兼平の御最期は、むつちやとならせ給ひけり」と謡ったという意味である。

ちなみに本来は、
ロンギ地:実に痛はしき物語。兼平の御最期は。何とかならせ給ひける。
シテ:兼平はかくぞとも。知らで戦ふ其隙にも。御最期の御供を。心にかくるばかりなり。(半魚文庫「兼平」による。)
となるはずだった。違うにもほどがある。

それにしても面白いのは「むっちゃ」である。ここではどうも「むちゃくちゃになった」という意味で使っているようだ。「セリフを忘れてむちゃくちゃになった」とも取れるし、「兼平の最期はむちゃくちゃだった」とも取れる。おそらく両方だろう。

もう一つ思いついた。木曽義仲は深田に踏み込んで動けなくなり討たれた。自害した兼平も近くにいたのだから、深田の泥でむっちゃとなった・・・ってのはどうよ。
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「二階から目薬」は二階から一階にいる人に目薬をさそうとしてもなかなか目に入らない、つまり思うようにいかないもどかしいさまをいう言葉で、京都版「いろはかるた」にも入っている。ちなみに、江戸版は「憎まれっ子世にはばかる」、大阪版は「憎まれっ子神直し」である。

ネットでちょっと調べてみたら、西沢一風の浮世草子『風流御前義経記』にあるらしい。「らしい」というのは確認していないからだが、だとすれば江戸時代中期には使われていたということになる。

知ってる?「二階から目薬」の正しい意味と由来:@DIME

しかし、「二階から目薬」ならぬ「二階へ目薬」の話は『醒睡笑』巻2 躻(うつけ)にある。成立としてはこっちの方が古い。

『醒睡笑』巻2 躻「京の町にて人あまた二階に遊びゐけるが目薬は目薬はといふ声を聞き・・・」:やたナビTEXT
京の町にて、人あまた二階に遊びゐけるが、「目薬は、目薬は」といふ声を聞き、その座にありしうつとり、ふと立ち、「目医師殿」と呼び寄せ、「一さし、それがし申しうけう」と、上瞼(うはまぶた)下瞼を、わが手にて開き待ちけり。

目医師、「それまで届く目棒(めぼう)を持たぬ」。時に手を合はせ、「れうじを申した」と。
この時代(戦国時代〜江戸時代初期)は、目医者は行商で来るものだったようだ。「目薬はいかが〜」という声を聞いて、建物の二階にいる人が「一つさしてくれ」といって目を開く。目医者は下にいるから「二階まで届く目棒を持っていない」と言って、合掌し「りょうじいたしました」と言った。

落ちがちょっと分かりにくい。「りょうじ」は「療治」だが実際には治療していない。岩波文庫『醒睡笑』(鈴木棠三校注)によると、「聊爾(失礼)」をかけているという。また二階にいる患者を仏に喩えて、合掌したとする。しかし、いまいちピンとこないので、何か他の意味があるのかもしれない。

「目棒」というのは目薬をさすための棒で、そんなに長い棒ではないから、二階で目玉ひらかれてもさせないよということだろう。当時の目薬は液体ではなく、軟膏状のものが主流だったともいう。液体なら長い短いにかかわらず、上にいる人にはさせない。

ところで、目玉に軟膏を塗るというのはちょっと恐ろしい感じがするが、軟膏状の目薬は今でもあって、僕も去年の12月、網膜剥離で入院中は寝る前に毎晩軟膏を塗られていた。しみたりすることもなく、ひんやりして案外気持ちのいいものだ。で、そのときこの話を思い出して、退院してから書いたのだが、何だか文章に締まりがなくって放置、今ごろになってやむなく開陳した次第。
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『沙石集』にこんな話がある。

ある男が虫歯になって、歯科の技術を持つ唐人のところへ抜いてもらいに行った。唐人は2文で抜くというが、男はケチなので1文にまけろという。ムカっときた唐人、1文では絶対に抜かないと譲らない。男は、「では3文出すから二本抜け」といい合意。虫歯と健康な歯を抜いてもらった。

南都に、歯取る唐人ありき。ある在家人の、慳貪にして、利簡を先とし、ことにふれて商ひ心のみありて、得もありけるが、「虫の食ひたる歯を取らせん」とて、唐人がもとへ行きぬ。

一つ取るには、銭二文に定めたるを、「一文にて取りてたべ」と言ふ。少分のことなれば、ただも取るべけれども、心ざまのにくさに、「ふつと一文にては取らじ」と言ふ。やや久しく論ずるほどに、おほかた取らざりければ、「さらば、三文にては二つ取り給へ」とて、虫も食はぬ、よに良き歯をとりそへて、二つ取らせて、三文取らせつ。心には利分とこそ思ひけれども、傷なき歯を失ひぬる、大きなる損なり。
このあと『沙石集』お約束の、やたらと長い説教がつづく。かいつまんで言えば、歯を抜いた人のように人は目先の利益にとらわれて菩提という後世の宝に気付かないと言う。

人は目の前の得には気付きやすいが、損には気付きにくいものだ。この説話は典型的で、ケチ男はケチゆえに得をしたつもりで損をしている。しかし、歯を失って損したことには全く気づいていない。得だけが見えて、損が見えていないから、これでも案外幸せなのかもしれない。

損には気づきにくい仕組みは簡単である。A店で1000円の物を買ったとしよう。数件先のB店では、全く同じ物が半額の500円で売っている。A店とB店の両方見た人は、間違いなくB店で買うだろう。この場合、B店で買って500円得をしたことにはすぐに気付く。得には気付きやすいのだ。

ところが、先にA店で買った人が、B店を見ることはない。見れば損したと感じるはずだが、普通は買った後で同じものを売る店を見ることはないから、自分が損したことには気付かない。ことほどさように、人は損には気付きにくいものなのだ。

理論上は、毎回A店とB店を比較すれば損しないのだが、実際の買い物で毎回そんなことはできない。比較する時間が無いこともあるし、A店の隣に同じものを売っているB店があること自体を知らないかもしれない。損したと分かると嫌だという心理が働くから、買った後でB店に気付いても、わざわざ見ることもない。

損をしないためには、買い物の際よく考えるしかない。買った後も考えて、次は損をしないようにする。しかし、損に気づかないのは幸せなことでもある。どちらがいいかは難しい問題である。
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『醒睡笑』のテキストを作成していて、有名な落語『平林(ひらばやし)』の元ネタに行き当たった。

落語『平林』の筋は次のようなものである。なお、サゲは噺家によって違う。
 丁稚の定吉は、医師の「平林(ひらばやし)」邸に手紙を届け、その返事をもらって来るよう、店主から頼まれる。物忘れのはげしい定吉は、「ヒラバヤシ、ヒラバヤシ」と繰り返しながら歩くが、結局忘れてしまう。定吉は字が読めないため、通りがかった人に手紙の宛名「平林」の読み方をたずねる。
 最初に尋ねられた人は「それはタイラバヤシだ」と答える。定吉は別の人に「タイラバヤシさんのお宅は知りませんか?」と聞くが、要領を得ないので手紙を見せると、その人は「これはヒラリンだろう」と定吉に教える。また別の人に「ヒラリンさんのお宅は知りませんか?」と聞き、手紙を見せると、「イチハチジュウノモクモク(一八十の木木)と読むのだ」と定吉に教える。さらに別の人が同じように定吉に問われると、「ヒトツトヤッツデトッキッキ(一つと八つで十っ木っ木)だ」と教える。
 困った定吉は、教えられた読み方を全部つなげて、「タイラバヤシかヒラリンか、イチハチジュウノモークモク、ヒトツトヤッツデトッキッキ」と大声で唱えて歩くと、定吉の周りに人だかりができる。そこを通りがかった、顔見知りの職人の男が駆け寄ると、定吉は泣きながら「お使いの行き先がわからなくなった」と訴える。職人が「どこに届けるのだ?」と定吉に聞くと、「はい、ヒラバヤシさんのところです」。
『醒睡笑』の方はずっとシンプルで、「平林」と書いた宛名を通りがかりの僧に読ませたが、いろいろ読むものの、肝心の「ヒラバヤシ」が出てこなかったという話である。

『醒睡笑』巻6推はちがうた「文の上書に平林とあり・・・」:やたナビTEXT

いずれにしても、日本語では漢字の読みがいくつもあり、どの読みとどの読みを組合せるか、固有名詞では分からないことを利用した笑い話である。

ところが、やたナビTEXTの底本、内閣文庫本では・・・
内閣文庫本の「平林」
文の上書に平林とありとをる出家によま
せたれは平林か平林か平林か平林一八十に林か
それにてなくは平林かとこれほとこまかによみ
てあれとも平林といふ名字はよみあたらす
とかく推にはなにもならぬ
なんと全部「平林」!読みがなも無い。これでは、どれがタイラバヤシかヒラリンか分からん。分かるのは落語の「イチハチジュウノモクモク」に当たる「一八十に林」だけだ。筆写した人は、内容が分かっていたのだろうか。

ともかく全部「平林」にしたのでは落語の「平林」を知らない人には何だかわからないので、ここは読みがなを振りたいところだ。幸い手元に寛永版本の影印(古典文庫)があったので確認してみると、こちらにはちゃんと読みがながある。
寛永版本の「平林」
これによると、ヒョウリン・ヘイリン・タイラバヤシ・ヒラリン・イチハチジュウにボクボク・ヒョウバヤシ(現代仮名遣いにした)の順になっている。「一八十に林」の林が「はやし」や「りん」ではなく「ほくほく(ぼくぼく)」となっているのが面白い。

これが正しいという根拠はないが、順番が解釈に影響するものではなさそうなので、とりあえずこれを採用した。思わぬ手間がかかったが一件落着。
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両親と僕と妻の四人で、父の故郷、滋賀県長浜市に行ってきた。滋賀県といえば琵琶湖、琵琶湖といえば淡水魚である。鮒寿司・小鮎やモロコの佃煮・エビ豆など、淡水魚を使った料理がたくさんある。

どれもお土産に最適(鮒寿司は通向きだが)なのだが、土産物屋で買うとけっこうなお値段がする。そこで伯母にいい店を紹介してもらった。スーパーマーケットに隣接していて広大な駐車場もあり、土産物屋よりずっとリーズナブルだ。長浜でお土産を買うならここをオススメする。

マルマン

この店、佃煮や鮒寿司など調理済みの魚が買えるばかりか、琵琶湖や姉川で捕れた生の淡水魚も売っている。地域住民はここで材料を買って、自分で調理するらしい。

例えば鮒。
鮒
モロコ。
もろこ
ほかにもいろいろある。残念ながら小鮎はまだ解禁されていなかったので、すでに佃煮になったものしかなかったのだが、氷魚を見つけた。氷魚は鮎の稚魚である。その名の通り透き通っていて美しい。
氷魚
この魚、以前から本物を見たいと思っていた。というのは、『宇治拾遺物語』79話に出てくる魚だからである。

『宇治拾遺物語』第79話「或僧、人の許にて、氷魚盗み食ひたる事」
ある僧がある人のもとへ行った時、酒の席で氷魚が出た。主人が小用で席を外し、帰ってくると氷魚がずいぶん少なくなっている。主人は不思議に思いつつ僧と話していると、僧の鼻から氷魚が出ている。主人が「お鼻から氷魚がでているのは、どういうことですか?」と聞くと、僧は「このごろの氷魚は目鼻から降ってくるものですよ」と答え、一座爆笑となった。
何かの拍子に米粒が鼻から出たことはあるが、魚が出たことはない。これはどんな魚だろうと以前から思っていたのである。

実際見てみると、透き通った小さな魚で、イワシの稚魚の生しらす(高知でいうドロメ)とよく似ている。しらす同様、釜揚げにして食べるらしい。塩水で茹でるだけだから、おそらく僧が食べたのもこれだろう。

ヒウオの釜揚げ:cookpad

調理された氷魚は写真でみるかぎり生よりは小さく、釜揚げしらすと同じぐらいの大きさのようだ。この大きさなら鼻から出てきても不思議はない・・・と思ったのだが、よくよく考えてみると、何も鼻から出る必要はない。

そもそも、くしゃみでもしない限り、食べたものは鼻からは出てこない。そんな記述はないから、逆に慌てて食べたのが鼻に入り、主人の目から見るとあたかも鼻から出たように見えたと解釈した方が自然だろう。

そう考えると、主人不在時の僧の行動が目に見えるようだ。鼻に入るぐらいだから、手ですくうなどして、自分の鼻に入ったのにも気づかないぐらいの、ものすごい勢いで食べたのだろう。僧侶だから酒も魚もダメなはずだが、人の見ていない間にこの勢いで食べるのが面白いのである。

なんだかドリフのコントで志村けんがやってそうだが、そう解釈すると「このごろの氷魚は、目鼻より降り候ふなるぞ」というヘンな言い訳もよりおかしみを増してくる。
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那須の殺生石が真っ二つにカチ割れたそうだ。

「那須の伝説「殺生石」が真っ二つ 自然に割れたか:NHKweb
「九尾の狐」伝説にゆかりがあり国の名勝にも指定されている那須町の「殺生石」が真っ二つに割れているのが見つかりました。
地元の観光協会によりますと、自然に割れたとみられるということです。(中略)観光協会は、今月4日より前に同様の問い合わせはなかったことから、「4日の夜から5日にかけて自然に割れたとみられる」としています

実は去年の10月、ここを訪れている。もちろん殺生石は健在だった。
殺生石1
左の「殺生石」と書かれた杭の隣りに見える注連縄をはってあるのがカチ割れた殺生石である。今となっては貴重な写真になったが、近くに寄った写真もある。
殺生石2
これを見ると、すでに大きな亀裂が入っているのが分かる(画像をクリックorタップしてください)。おそらくここから割れたのだろう。

この殺生石が有名なのは、松尾芭蕉がここに訪れたからである。『おくのほそ道』には次のようにある。
これより殺生石に行く。館代より馬にて送らる。この口付の男、「短冊得させよ」と乞ふ。やさしき事を望み侍るものかなと、
 野を横に馬ひきむけよほととぎす
殺生石は温泉(いでゆ)の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す。
というわけで、現地には芭蕉の句碑もあった。
芭蕉句碑
いしの香やなつ草あかく露あつし
この句は『曾良旅日記』の「奥の細道随行日記」にある句らしい。

石碑にはカマキリがとまっていた。
カマキリ
実はこの石が殺生石だという確証はどこにもない。簡単に言えば、それっぽい大きな石を殺生石としていただけである。僕は最初もっと上の方にある大きな岩を殺生石だと思い込んで写真を撮っていた。近づいたら単なる岩を撮っていることに気付いたのだ。
ニセ殺生石
殺生石にしてはまわりが青々としているのが少々気になるが、どうせ何の根拠もないのだから、これからはこれを2代目(何代目だかわからないけど)殺生石ってことでいいんじゃないだろうか。
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