カテゴリ: 日本の古典文学3

『醒睡笑』巻二「賢だて」の14話(『醒睡笑』巻二賢だて14 二条院和歌好ませおはしましける時・・・参照。)にある「岡崎の三位」に「藤原俊成」と注を付けたら、Twitterで当の俊成卿(@toshinari_bot)から「岡崎の三位は藤原範兼だ」とクレームを付けられた。

調べてみるとたしかに間違いで、即刻書き換えたうえで、俊成卿には深く非礼をお詫びした。

さて、なぜこんな間違いをしたのか。簡単に言うと、参照していた岩波文庫『醒睡笑』(鈴木棠三校注)のタイトルと注を鵜呑みにしてしまったからである。
醒睡笑注a
「ちゃんと調べないお前が悪い」という批判は甘んじて受けるが、だって稀代の碩学鈴木棠三先生ですよ。その大先生が「俊成の賢だて」なんてタイトル(本来、『醒睡笑』にタイトルはない。)を堂々と付けて、「藤原俊成の通称。『千載和歌集』の選者」なんて注付けてたら、そのままでいいと思うじゃん。いや、もちろん言い訳ですけどね。

この岩波文庫版『醒睡笑』は1986年に刊行(僕の持っているのは1993年の第4刷)されたもので、同じ校注者の角川文庫版『醒睡笑』(1964年刊行)をベースにしたものである。こちらも同じタイトルで、岡崎の三位は俊成という注もある。ということは二十年以上誰も指摘しなかったのかと思って、次のページを見てみると・・・。
醒睡笑注b
何とこちらではちゃんと藤原範兼になっているではないか!う〜ん、直しておいてくださいよ。

それにしても、こんな大家の注釈で、しかも二十年経て改版されたものに、こんなミスがあるとは思わなかった。いや、調べ直さなかった僕が悪いのはもちろんなんだけど・・・。
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このサイト、四年ぐらい前の立ち上げ時から知っていたのだが、なかなか紹介する機会がなかった。こういうと失礼だが、これまでこの手の計画がうまくいったためしがない。なので、ある程度現代語訳の数が増えてから紹介しようと思っていたら、機を逸してしまった。

『今昔物語集』現代語訳


このサイトは、ものすごく簡単にいうと「みんなで『今昔物語集』の現代語訳をして公表しましょう」というサイトである。旗振り役は草野真一さんという編集者の方で、多くの人が参加して現代語訳(のみならず外国語訳も)を作っている。草野さんがこれを企図した経緯は、ほんやくネットを立ち上げた:シミルボンに書かれているので是非読んでほしい。

草野さんは国文学的には素人である。ボランティアで現代語訳をしている人たちも、(たぶん)素人である。現代語訳の方法も、国文学の専門家がいう現代語訳(いわゆる通釈)ではない。

だからダメだというつもりは毛頭ない。むしろ逆で、だからいい。こういう現代語訳は専門家にはなかなかできない。そして、この現代語訳を読む読者も素人である。そういう読者に必要なのは、まずは現代語訳である。

このサイトのテキストには、やたナビTEXTの『今昔物語集』の各説話へリンクが張られている。僕の作ったテキストがその任に堪えられるか、大いに不安ではあるが、興味を持った人が原文にシームレスに当たることができるようになっている。とにかく簡単にテキストが読めること、これは大きな価値である。

このサイトで、もう一つ大事なのは「みんなで」作ろうというコンセプトである。これは想像する以上に難しいことだ。人を集めることも、それをまとめるのも難しい。さらに続けるのはもっと難しい。僕が一人で黙々とテキストを作っているのは、偏屈だからではない。残念ながら僕には人を集める能がないからである。

現代語訳は古典への入口として必要不可欠なものである。次に必要なのは校訂本文と注釈、翻刻、最後が影印だろう。これは研究者が必要とするものの正反対になっている。だから研究者はこういう仕事に目が向かない。

研究者はどこかの研究機関がデータベースを公開したとか、どこかの文庫が古典籍の画像を公開したというのは賞賛する。僕も研究者くずれだからその気持ちもよく分かる。

だが、古典を下支えしているのは、こういう地道な活動である。議論をしている暇があったら、もっと目を向けるべきじゃないだろうか。
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保科恵『入門平安文学の読み方』(新典社)を読んだ。「読んだ」とか書いているが、実は読んだのは一年以上前。おそくなってごめんなさい。



文学には普遍性と特殊性がある。普遍性というのは時代・地域を問わず人間に共通のもので、これがあるから、どの時代・どの地域の文学でも、翻訳さえされていれば読める。これがないと、文学は生き残ることはできない。

一方で特殊性とは、時代・地域・作者個人に特有のもので、ただ翻訳されていても、それを知らないと深く理解できない。それを補うために注釈があるのだが、それだけでは不十分だ。そんな平安文学の特殊性を踏まえた読みの方法を解説した本である。

この本は初学者をターゲットにしてるため講義を模してあり、第一講から第五講、そして補講という構成になっている。

第一講「まずは疑ってみること」では、平安文学を読む際の心構えについて書かれている。といっても、ただ概念を並べているのではなく、多くの例文を挙げて説明している。ここに限らず、この本は例文が多く、具体例が示されているのが特徴である。

第二講「昔の暦の話」・第三講「月と干支」は時間の特殊性である。平安時代の人と現代人の一番の違いはここだろう。当時の人は太陰暦を使う。ここまではたいていの人が知っている。太陰暦は月の満ち欠けにリンクしているのだが、電気があって夜も明るい現代とは違い、月の重要度は比較にならない。一日の始まりと終りも、季節の感覚も現代人とは全く違う。そういう違いは当然文学作品にも現われる。

第四講「地名の話」は空間の特殊性である。平安文学は都人によって書かれ読まれていた。そんな彼らが使う地名は、単純に場所を表すだけではない。平安文学は彼らの常識を知ることによってより深く読める。

第五講「本文の話」は、テキストそのものの特殊性である。同じ日本語でも、古典の書き方は現代の書き方とは全く違う。そのままでは読みにくいので普通は校訂された本文で読むが、そこには常に校訂者の解釈が加わっている。そういう例を多く提示し、どう読むべきか指南してくれる。これを読めば、やたナビTEXTに校訂本文と翻刻の二つの本文がある理由も理解できると思う。

さて、僕はここまで読んで、「これは平安文学だけのことではないのではないか」と思った。平安時代の前後に当たる上代も中世も、なんなら近現代文学にだって、形は違えど共通する問題ではないか・・・と思っていたら、

補講「古典だけに留まらないこと」
そこで、本書で古典の文学に対してこれまで述べて来たことが、近・現代の文学にも関わりがあることを述べておきます。
ときた。いやー、こういうの手玉に取られてるみたいですごく悔しいぞ。もちろん、ここでも芥川龍之介・谷崎潤一郎・夏目漱石などの具体的な例を豊富に引用している。

最初に戻ると、文学には普遍性と特殊性がある。すぐれた文学作品ほど普遍性だけで読めるものだが、特殊性を押えておくとより深く、普遍性だけでは見えていなかった部分が見えてくる。この本は、そんな深い読みの方向性を示してくれる解釈の入門書である。

というわけで、文学を愛するすべての人にストロングバイ。
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これは文学に限らずあらゆる古典について言えることなのだが、多くの日本人は古典の価値が分かっていない。ここでいう価値は、文化的にどうのとか情緒的にどうのとかいう、うすぼんやりしたものではない。狭義の価値、端的にいえば「お金になるか否か」ということである。

古典はちゃんとお金になる。実際、ギリシャだのイタリアだのイギリスだの中国だの、古典から大きな利益を得ている国はたくさんある。

古典の価値は絶対に古びないことである。もう十分に古びているのだから、これから何百年経とうとこれ以上は古びない。だから、何百年何千年という長きに渡って、少ないながら確実に利益を生むのである。

例えば、ある小説が大ヒットを飛ばしたとする。それがヒットした時には爆発的な利益を生むだろう。しかし、それは徐々に(あるいは急に)減って、たいがいの作品は10年もたたずにほぼ利益を生まなくなる。古典は爆発的かつ短期的な利益は生まないが、逆に少ないながらもほぼ永久に確実に利益を出し続ける。

これはどちらがいいとかいう優劣の問題ではない。短期的に大きな利益を出すか、超長期的に少ない利益を出し続けるか、性質の違いである。そして、多くの日本人は後者の長期的な利益に理解がない。ないから古典はいらないなどという輩がでてくる。

重要なことは、出し続ける少ない利益を、少しでも多くすることである。そのためには、古典を普及させること、まずはもっと古典に簡単にアクセスできるようにすることが必要だ。僕はそれが古典の価値を高める第一歩だと思ってやたナビTEXTを作っている。

ちなみに、やたがらすナビは現在月3000円ほどの利益を出している。月数百万円も稼ぐという流行りのYouTuberの足元にも及ばない。だがYouTuberは更新をやめればすぐに利益が下がるが、この3000円は僕が更新しなくても(ライバルが出現しなければ)永久に続く。実際にはこれからも更新し続けるので、少しずつ増えていくだろう。
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「こてほん」とは「古典は本当に必要か」の略である。2019年にはこのテーマでシンポジウムが開かれ、すでに一冊の本にまとめられている。

議論に水をさすのはいかがなものかと思っていたのでいままで黙っていたのだが、どうやら一段落したようなので言わせてもらう。はっきりいって僕はこの議論に全く興味がない。

そう思う理由の一つは、この議論が「古典は(学校教育に)必要である」派の仕掛けたものだからである。

「古典」を「原発」に入れ替えれば分かりやすい。「原発は本当に必要か」という議論を原発推進派が仕掛けるだろうか。原発はすでにあるのだから、その議論は原発不要派が企画するものだ。

もし原発推進派が仕掛けるなら、最初から「原発は必要である」という結論になる。そんな最初から結論が決まっているようなものは議論ではない。仮にやったとしても、端から見れば「なんだプロパガンダか」としか思われないだろう。

もう一つは、不要派の主張が「古典をやっている時間に違うことをやるべきだ」という、稚拙としかいいようがない理由だからである。

もう一度原発の例を出すと、原発反対派は「原発は危険だから不要」という。それなら本当にそれが危険なのかどうか、安全にするにはどうすればいいか、反対派を説得はできなくても議論を深めることができる。

だから、古典不要派が「古典は現代人にとって害悪でしかない」という紅衛兵みたいな主張をするのならまだ分かる。しかし、彼らの主張は「もっと他にやるべきことがあって、いろいろある教科の中で一番いらなさそうなのが古典」というものだ。

「コンピューター教育を充実させよ」とか「英語をもっとやるべきだ」のような、「◯◯をもっとやるべきだ」という主張は検討に値する。しかし、同じ人間が「◯◯のやる代わりに古典はいらん」の「古典はいらん」ということを主張する必要は全くない。

もちろん学校で教える時間は有限だから、何か新しいことを教えるなら何かを削らなければならないのは仕方がない。しかし、「◯◯が必要」を主張する人と「◯◯はいらない」を主張する人が同じである必要はない。

というよりも、それは同じ人であってはならない。それができるのは、今の学校教育がどうなっているか、全ての教科が何をどう教えているか、詳細に把握している人だけである。僕は高校で教える立場(古典ではない)にいるが、その僕でさえ「◯◯はいらない」を語る資格はないと思っている。

「このままでは学校教育から古典が消滅してしまうのではないか」という、関係者(多くは教育関係者)の焦燥があるのは理解できる。だが、それを解決するのに、不要派と議論するのは悪手である。学校教育に古典が必要だと思うなら、ほかにもっとやるべきことがあるんじゃないだろうか。
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生徒に作品を書かせたら、落款(署名)に「〇〇虫」と書いていた。〇〇は自分の名前で、本来は〇〇書と書く。虫になっちゃったのは、「書」の草書体が「虫」という字に見えたからだ。草書を「◯◯みたいな字」だと思って書くと不思議とそうなってしまうものだ。虫になったのは初めて見たが、「出」になってしまうのは今まで何度も見た。

「書」の草書体は次の写真(『新書道字典』二玄社による)を見てほしい。筆順は縦が先。簡体字の「书」はこれをもとにしたものである。
書
筆順は縦が先だという意識がないと、「虫」に見えてしまうかもしれない。こういうことは草書という書体には常につきまとう問題で、現代人だけの話ではない。

『古今著聞集』114話に、大江以言の作った秀句に感動した源為憲が、感動のあまり「土嚢」に頭を突っ込んで涙を流したという話がある。

・・・と作りて、以言すなはち講師にて読み上げたるを、為憲朝臣その座に侍るが、聞きて土嚢に頭を入れて涙を流しけり、見る人、あるいは感じ、あるいは笑ひけり。
「見る人、あるいは感じ、あるいは笑ひけり」とあるが、笑うのはともかく、こんな奇行に感動するやつはいない。そもそも貴族の邸宅に土嚢はないだろう。あったとしても、土が入っているから土嚢であって、入っていなければただの袋。土の入った土嚢に頭(しかも烏帽子をかぶっている)を突っ込むのは奇行を通り越して不可能である。

底本(書陵部本)では、土嚢の部分はこう書かれている。
土嚢
点が付いているが、土に点を付けるのは普通である。筆順は横→縦→横→点に見えるので土の筆順。日本古典文学大系では「土嚢」として頭注に「江談抄は「書(詩イ)嚢」。」とあり、新潮日本古典集成では本文を「書嚢」としている。「書」ならば縦→横→横→点でなければならないので、文字としては「土」である。

しかし、この説話は最後に「かの為憲は、文場ごとに嚢に抄物を入れて随身しけるを、土嚢とは名付けたりけり。」とわざわざ書いてある。「抄物」を入れるのだから「書嚢」で間違いないだろう。ここの「土嚢」も前と同じ字形なので「書」が「土」になるのは筆写者の癖と考えられる。

これで一見落着と思いきや、読み進めてみると、今度は「出」の字がほぼ同じ字形になっているのを見付けた。
古今著聞集122罷出古今著聞集131申出
左は「罷出けるに(122話)」で右は「申出たりけれとも(131話)」である。文脈的には「出」としか思えないが、字形は前出の「書嚢(土嚢)」と全く同じである。ちなみに「出」は一画目を横からかくことも多いので、「書」とは違い「出」と読めないことはない。

おそらく、この筆写者は「書」「出」「土」を同じ字形と認識していたのだろう。現代人は楷書を中心に考えるから、字形のちょっとした違いで文字の違いがでると考えてしまう。しかし、草書や仮名は文脈で読むものだ。この筆写者は、「土嚢」とか「出嚢」とか読まれることなど考えもしなかったのだろう。
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現代人は平仮名の下手な人が多い。原因は横書きが多いことと、手書きの文字を見慣れていないことだろうと思っている。

僕がつねづね気になっているのが「ら」である。「ら」は本来、
本来のら
のように一画目の点が一番上にくる。「ら」の字母は「良」で、一画目が最初の点なのだから、そうでないとおかしい。ところが最近は、
最近のら
のように右に寄っている人が多い。これはおそらく活字(フォント)の字形によるものだろう。活字では四角形に納めるために点が右に置かれている。

さらに、
書き順の間違ったら
ここまで点が下がっている人もいる。こういう人はだいたい筆順が間違っていて、あとから点を打っている。

こんな書き方をするのは現代人ならではだろうと思っていたが、内閣文庫本『醒睡笑』の翻刻をしていたら、この書き方が出てきた。それも一つや二つではない。
人の見るらんそこからは
左は「人の見るん」で右は「そこかは」である。いずれの「ら」にも点があるが、次の字につながっているため、「らん」・「らは」と書いてから最後に点を付けていることが分かる。この形だと「し」や「く」「え」「ゝ」などと間違いやすいので付けたのだろうが、すべてがこうなっているわけではない。
むくふらん(点なし)
これは「むくふらん」で、先ほどと同じく判読しにくい字形だが、点は付いていない。点を付けるか付けないか、明確な基準はないようだ。

「らん」「らは」と書いてから点を付けているのだから、これは文字の一部というよりは記号的なものだろう。いままでいろいろな写本を見てきたが、こういう「ら」の書き方をしたのを見たのは初めてだ。内閣文庫本『醒睡笑』は江戸時代後期の写本らしい。僕はこの時期の写本を多く見ていないので、こういう書き方が普通なのかどうか分からないが、このころすでにこんな書き方があったとは知らなかった。

とはいえ、「ら」は点から書きましょう。
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やたナビTEXTは説話集が多いので、鬼もたくさんでてくる。

「鬼は外国人である」というのをよく聞が、どうも安直で好きではない。説話集に出てくる鬼の姿は多彩で、十把一絡げに外国人というのは間違っていると思う。しかし、あきらかに外国人としか思えないものもある。

『古今著聞集』変化第二十七 599話

承安元年(1171年)7月8日、伊豆国の奥島(現在のどこかは分からない)に船が一艘着いた。漂流してきたのだろうと島民が出迎えると、陸から80メートルほど離れた所に船を停泊させて、六・七尺の棒を持った八人の鬼が海に入って岸に上ってきた。島民は酒食を与えて歓待した。

さて、鬼の姿だが、やたらと具体的に書かれている。
その形、身八・九尺ばかりにて、髪は夜叉のごとし。身の色赤黒にて、眼まろくして猿の目のごとし。みな裸なり。身に毛生ひず、蒲(かま)を組みて腰に巻きたり。身にはやうやうの物形(ものかた)を彫(ゑ)り入れたり。まはりにふくりんをかけたり。おのおの六・七尺ばかりなる杖をぞ持ちたりける。
まとめると、
  1. 身長は8・9尺
  2. 髪はボサボサ。
  3. 上半身裸で腰蓑のようなものを巻いている。
  4. 肌の色は赤黒い。
  5. 目は丸い。
  6. 様々な形の刺青を入れている。
これはどこからどう考えても外国人、それもポリネシア人だ。曙や武蔵丸、オールブラックスの選手みたいなのが棍棒を持って海から上がってきたら、そりゃビビるだろう。

鬼は村人が持っていた弓を欲しがったが、惜しんで渡さなかったところ、弓を持っていた男を棍棒で打ち殺し、続けて村民に襲いかかり5人が殺され4人が怪我をしたという。

恐ろしく凶暴な鬼だが、これも何か習慣があるのかもしれない。
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『醒睡笑』巻一まで完了した。

内閣文庫本『醒睡笑』:やたナビTEXT

今まで中古・中世の作品のテキストを作ってきたが、『醒睡笑』は初の近世。といっても、ごく初期の成立で中身の戦国・安土桃山時代の話である。バリバリの近世文学よりは中世的なんじゃなかろうかと思ったが、思った以上に近世だった。慣れない言葉が多く―といってもむしろ現代語に近いのだが―読みにくい。

さらにいうと、『醒睡笑』という名前のわりにイマイチ笑えない話が多い。

まず作品名がよくない。本来は「醒睡抄」とするところを、ちょっとひねって「笑」にしたのだろう。これが笑いのハードルを上げている。「○○爆笑寄席」みたいなのが「いうほど爆笑でもないな」というのと同じである。素直に「醒睡抄」にしておけば、「眠気醒しにはなかなか面白いじゃん」となったかもしれない。

それはともかく、中世の笑い話と比べて、ネタが洗練されているのがイマイチ笑えない最大の原因だと思う。

笑いは意外性から起こる。意外性を引き起こす要素は二種類しかない。ボケと言葉遊びである。ボケは予想しない言動で、たとえば帽子と間違えて(あるいはわざと)パンツをかぶるというようなものだ。言葉遊びとは、駄洒落やナゾナゾの類いである。もちろん、これらが複合することもある。

中世の笑いはボケに起因するものが多い。帽子と間違えてパンツをかぶれば、誰がどう見ても面白い。ボケの笑いには普遍性があるから、時代が違っても外国人でも笑えるのである。

『醒睡笑』の笑いは言葉遊びによるものが多い。その言葉を知っていないと笑えないのだ。相手はあまり僕が慣れていない17世紀の言葉で、当時の流行語も多いらしい。注釈を読んだり、う〜んと考えてやっと分かるか分からないかなのだが、そもそも考えた時点で意外性がふっとんで、感心はするが笑えないのだ。

また、落語の祖というだけあって、最後にオチがくる話が多いのもイマイチ笑えない理由の一つである。最初に、「笑いは意外性から起こる」と書いたが、オチが最後に来ると最初から分かっているのはそれだけで意外性を損なってしまう。

では、オチが最後に来ると分かっているのに、なぜ落語は笑えるか。そこが話術というものなのだろう。

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『古今著聞集』の電子テキストを公開しました。いつもどおり、翻刻部分はパブリックドメインで、校訂本文部分はクリエイティブ・コモンズライセンス 表示 - 継承(CC BY-SA 4.0)で公開します。

宮内庁書陵部本『古今著聞集』


トップページに2015年1月10日入力開始となっていますが、漢文があったり宣命書きがあったりで面倒くさくなり、すぐに挫折してほっぽってあったのを再開したのが去年の1月19日です(『古今著聞集』リスタートしました:2020年01月19日参照)。『『今昔物語集』に次ぐ大きな説話集ですから二年はかかると予想していましたが、コロナによる長い休みのおかげで一年ちょいで終わることができました。

今回は誤写と判読に悩まされました。底本の宮内庁書陵部本は日本古典文学大系(岩波書店)の底本でもあるのですが、とても誤写が多く、その上文字の判読が難しいものが多かったのです。判読の難しさには大系の校注者(永積安明・島田勇雄)も苦労したらしく、凡例に次のように書かれています。
底本の書写には、筆者の筆癖があり、「る・り・か」「と・に」「も・り」等の如く、そのいずれとも読みとれる曖昧な字体が少なくない、この種の場合には、同系統の学本・九本等の読み方を参照して決定したところがある。また、前後の文脈によって、筆者の意図を汲んで翻字したものもある。

大系の凡例にあるもの以外にも判読しにくいものがあります。
読みにくい字
右の行が「たゝいまうへふしして」で左が「きといひてしはらく」ですが、「ゝ」「し」「て」「ら」「く」が字形だけでは読み分けるのが不可能です。他の箇所では「\/(踊り字)」もこれに含まれます。もちろん文脈で読めますが、これに誤写が入るととたんに読むのが難しくなってきます。

文字そのものは丁寧に書かれているので、それほど読みにくくはありません。何人かで書いているように見えますが、この紛らわしい字の傾向は、最初から最後まで変わりません。

世俗説話集を代表する作品といえば、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』『十訓抄』『古今著聞集』あたりが挙げられますが、これでついに揃いました。これらの全文が全て入っている叢書は(たぶん)ありません。これだけでも十分価値があると自負しています。
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