カテゴリ: 言葉2

Twitterで次のようなtweetが流れてきた。


ここで、『和名類聚抄』が引用している『宇治拾遺物語』の説話は36話(巻3第5話)「鳥羽僧正、国俊と戯れの事」のことなので、飯間浩明氏は間違って引用している。

それはともかく、46話(巻3第14話) 「伏見修理大夫俊綱の事」に湯船が出てきた記憶がない。ちょっとおかしいなと思ったので、やたナビTEXT『宇治拾遺物語』46話を見ると、次のようになっている。
国司、出会ひ、対面して、人どもを呼びて、「きやつ、たしかに召しこめて、勘当せよ。神官といはんからに、国中にはらまれて、いかに奇怪をばいたす」とて、召し立てて、結ふほどに、こめて勘当す。

「ゆぶねに」が「結ふほどに」になっているのである。こう書くと随分違うようだが、「ゆふねに」と「ゆふ程に」だとするとわずか一文字の誤写となる。しかも、「ね」の字母の「祢」は、くずし方によっては似た形になるので、間違っても何の不思議もない。もちろん意味そのものはどちらでも通じる。

ではどちらが正しいか。この説話は、神威をかたに横柄な態度をとる熱田神宮の神官を、尾張守になった橘俊綱が勘当すると言う話である。神威が効かなかったのは、実は俊綱の前世が・・・ということだが、それは今回の記事とは関係ないので、あとは読んでほしい。

俊綱がいかに怒っていたとしても、さすがに熱田神宮の宮司を湯船に漬けて折檻するのはやりすぎだろう。その可能性もなくはないが、ここは「結ふほどにこめて」つまり、「縛って(どこかに)監禁して」の方が自然である。

この部分の主要な諸本間での異同は次の通り。なお、伊達本の影印は持っていないので、『三本対照宇治拾遺物語』(武蔵野書院)によった。

ゆふ程に・・・陽明文庫本・伊達本
ゆふほとに・・・古活字本
ゆふねに・・・龍門文庫本・書陵部本

上の、tweet画像の本文は古活字本を底本とする新編日本古典全集(小学館)のものだ。ならば「ゆふほどに」のはずだが、なぜか「ゆぶね」になっている。その頭注には、
底本「ゆふほとに」。書陵部本に従って改める。湯船に閉じ込めて懲らしめた。

となっている。つまりそのままで通じるのに、わざわざ書陵部本によって改変していたのである。これは恣意的な校訂と言わざるをえない。

新日本古典文学大系(底本は陽明文庫本)は「ゆふ程に」となっている。新潮日本古典集成(底本は書陵部本)は「ゆふねに」と判断を保留し、頭注に「諸本には「ゆふほとに」とある。「ゆふ」は縛ること。底本のままならば、「湯槽(ゆぶね)に」に当たるか」としている。やはり「湯船」とするには躊躇したのだろう。

やたナビTEXT『宇治拾遺物語』の底本は陽明文庫本である。この説話に湯船が出てこなかったという記憶は間違ってなかった。
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やたナビTEXTの『古今著聞集』のテキストを作っていたら、源顕基がでてきた(『古今著聞集』136)。この説話とは関係ないが、顕基といえば「罪無くして配所の月を見る」という言葉である。

そこで、なんの気なしに検索してみたら、辞書サイトのコトバンクに行き当たった。ところがこの「配所の月」の解釈、どれも僕の考えていたのと違うので驚いた。

罪無くして配所の月を見る:コトバンク

このページでは、『デジタル大辞泉』・『大辞林』第三版・『精選版 日本国語大辞典』の三つの解釈を読むことができる。一番詳しく書かれている、精選版 日本国語大辞典を引用してみよう。
罪を得て遠くわびしい土地に流されるのではなくて、罪のない身でそうした閑寂な片田舎へ行き、そこの月をながめる。すなわち、俗世をはなれて風雅な思いをするということ。わびしさの中にも風流な趣(おもむき)のあること。物のあわれに対する一つの理想を表明したことばであるが、無実の罪により流罪地に流され、そこで悲嘆にくれるとの意に誤って用いられている場合もある。
これによれば、単純に配所みたいな殺風景な場所の月をながめるのが風雅だというのだ。

『デジタル大辞泉』は「流罪の身としてではなく、罪のない身で、配所のような閑寂な土地の月を眺めれば、情趣も深いであろうということ。」、『大辞林』は「流刑地のような辺境の地で、罪人としてではなく普通の人として月を眺められたらさぞ情趣があることだろうの意。 」とあり、いずれも『精選版 日本国語大辞典』と同じく配流されずに配所に行くとしている。

一方、僕は「無実の罪で流されて配所の月を見たい」といっているのだと思っていた。そんなの林冲(水滸伝)や盧俊義(水滸伝)やカルロス・ゴーン(日産)に聞かせたら、「配所なめるな!」と怒るだろう。しかし、僕がそう思っていたのは、古典で読む限りそうとしか読めないからである。

鴨長明『発心集』5-8(55)「中納言顕基、出家籠居の事」
いといみじき数寄人にて、朝夕琵琶を弾きつつ、「罪なくして罪をかうぶりて、配所の月を見ばや」となむ願はれける。

『撰集抄』4-5(30) 顕基卿事
朝に仕へしそのかみより、ただ明け暮れは、「あはれ、罪無くして配所の月を見ばや」とて、涙を流し・・・

兼好法師『徒然草』第5段
不幸に愁へに沈める人の、頭おろしなど、ふつつかに思ひ取りたるにはあらで、あるかなきかに門さしこめて、待つこともなく明かし暮らしたる、さるかたに、あらまほし。顕基中納言の言ひけん、配所の月、罪なくて見んこと、さも思えぬべし。

『発心集』と『徒然草』を読めば、三つの辞書の解釈が本来のものではないことは明瞭である。

『発心集』では「罪をかうぶりて」とあるのだから、無実の罪で流されることだし、『徒然草』は「不幸に愁へに沈める人」に似た例として出しているのだから、これも無実の罪で流される意味として出しているのは間違いない。『撰集抄』の例は定かではないが、やはり同じとみるべきだろう。

そもそも、平安時代には配所じゃなくても配所みたいな殺風景な所はいくらでもあったはずだ。都からちょっと離れただけでもあるだろうし、なんなら旅に出て東下りでもすればいい。

わざわざ「配所の月」と言っているのだから、それは「俗世をはなれて風雅な思い」かもしれないが、『精選版 日本国語大辞典』では誤用とされる「無実の罪により流罪地に流され、そこで悲嘆にくれる」ような心情を加味しないと配所の意味がないのではないか。

さすがに三つの辞書が同じ解釈で、自分の解釈と違うと自信が無くなってくるが、どう考えてもそんな単純な意味だとは思えないのである。
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