カテゴリ: 個人的な話

引っ越しして2ヶ月あまり、なんだか前に住んでいた昭和の住居が貴重なもののように思えてきた。そこで、これまで16年間僕が住んできた昭和のマンションの写真をお目にかける。

まず、スペックから。1980年1月建築の築44年のSRC(鉄骨鉄筋コンクリート)で11階建て。総戸数は39戸。住んでいたのはその9階で、約50平方メートルの3Kである。3Kなんて最近じゃあまり聞かないが、6畳の和室が2部屋と5畳くらいの洋室が1部屋、それに狭いキッチンがある。

こちらがそのキッチン。もういろんなものが昭和。蛇口はひねるやつ。右の空いたスペースに冷蔵庫を置く。居間と違いコンセントは下に付いているのでホコリがたまる。利点は横に長いので意外に使いやすいことと、右側に大きな窓があるので夏でも熱がこもらないことだ。
キッチン
リビングが存在しないので、和室の一部屋をリビングに使っていた。そのリビングからキッチンを見たところ。ガラス戸が泣かせる。左の壁に何やら貼ってあるのは、僕が手をついて穴を開けてしまい、DIYで補修したところ。退去時に唯一弁償したのがこれ。16年も住んでいたのでほかは全部経年劣化ということで済んでしまった。
ガラス戸とキッチン
一時期、弟・従兄弟・妻の姪が別々の場所で同じ9階に住んでいたんだけど、眺めはうちがダントツだった。理由は近くに高い建物がないから。旗竿みたいなのは隣のマンションの避雷針。さすがにここに雷が落ちたことはない。
窓からの景色
ベランダは幅が細いけど角部屋なので回り込んでいて使い勝手が良かった。南に面しているので、夏は洗濯物がものすごい勢いで乾いた。
ベランダ
寝室。居間と同じなんだけど居間がガラス戸なのに対し、なぜかこちらは入口がふすまになっている。
寝室
僕の仕事部屋。机と本棚を出したら意外と広くてびっくりした。西向きなので、夏はむちゃくちゃ暑くて冬は寒い。もちろんエアコンなんてものはない。
仕事部屋

キッチンのところにも写っているが、もともと壁の中に水道の配管があったのだが、2010年の夏に水回りの工事があり水回りが露出配管になった。中国を自転車で走って、帰ってきたらこのありさま。風呂がなんだか現代アートみたいになってた。ユニットバスではないし、もちろん追い焚き機能もない。
露出配管
玄関。鉄扉で扉のスキマや郵便受けから風が入りまくり。そもそも鉄なので内にも外にも熱を通しやすい。
玄関

前にも書いたが(昭和の家から平成の家へ:2024年06月23日参照)、昭和の住居と平成の住居では設計思想が180度違う。風通しをよくする昭和の住居に対して、平成の住居は気密・断熱を宗とする。

今、暑い夏を迎えてその違いに戸惑っている。エアコンの効いた部屋は快適だが、風の通る部屋で昼寝する気持ちよさはもう味わえない。
このエントリーをはてなブックマークに追加

去年の7月って何やってたっけ?と思って、ブログを見返してみたら、22日に第二種電気工事士技能試験の技能試験が終わったと書いてあった。去年の今頃は、必死に電線を切ったりつないだりしていた。そうか、もう一年経つんだな。



無事合格して実際に免状が来たのは10月だった。その後、今日まで3回ほど工事をした。といっても所詮は素人、簡単なものばかりである。

最初にやったのは、実家のコンセントを増設する工事でちょっと難易度が高かく、初めてというのを差っ引いてもちょっと時間がかかってしまった。
増設完了
次にやったのは、妻の実家のコンセント交換。もともと2口アース付きだったのを3口のものにした。これはカンタン。ものの十分程度で終わった。
3連
一番最近はこれ。スイッチの交換。一見ごく普通のスイッチ(パナソニックコスモシリーズ)に見えるが、外すとリモコンになるという機能のあるスイッチである。どんなものかは、また稿を改めて書く。
とったらリモコン
まだ三回しか工事をしていないが、これで一つ分かったことがある。僕がやった工事は、どれも似たような基本的な作業なのだが、かかる手間や時間が全然違うということだ。

なぜそうなるか。

まず、最初に工事する場所のブレーカーを落とさなければならない。しかし、どのブレーカーを落とせばいいか、分かりやすい場合とそうでない場合がある。

和室を工事するとすると、基本的には「和室」と書いてあるブレーカーを落とせばいい。しかし、古い家だと書いてあるのと違ったり、そもそも何も書いていなかったりする。書いてあっても、そこだけ回路が違ったりして、目当ての場所が落ちないこともある。

たとえば、最初の工事は浴室だったが、「浴室」と書かれたブレーカーではなく、「予備」と書かれたブレーカーだった。こうなると、一つ一つ落として確認しなければならない。浴室は二階、ブレーカーは一階だったので、階段を登ったり降りたり、ブレーカーを落とすだけで1時間近くかかってしまった。二回目の工事は書いてある通りの場所で、ブレーカー自体も部屋の隣のトイレにあったので、ものの数分で終わった。

壁にどう取り付けてあるかによっても手間が違う。最初と三回目はハサミ金物という金具で取り付けられていて、はずすのはともかく取り付けるときにちょっと手間がかかった。特に三回目のハサミ金物は、壁の外に引き出せないタイプで手間がかかった。二回目はスイッチボックスなのですぐに終わった。これは外見からは分からないので、開けてびっくり玉手箱である。

実際の電気屋さんの工事では、とんでもないスキマスイッチだとかスキマコンセントとか、前の人が間違った工事をしているとか、客から話を聞いただけでは分からないことがいろいろあるだろう。だから、「電気屋さんにスイッチ交換を頼んだら、数分しかかかっていないのに1万円とられた」みたいなのは慎むべきである。それはたまたま手間がかからなかっただけだ。これは電気だけではなくガス・水道やその他の修理も同じだろう。

電気屋さんからしたら、どのくらい時間がかかるかは現場に行ってみないと分からないわからないので、ある程度の時間は確保しているはず。時間がかからなかったから安くていいはずがない。

そもそも、工事が早く終わるのは客からすれば歓迎すべきことである。それは工事が問題なくスムーズにいった証拠でもある。「早く終わってよかったな」ぐらいに思っておくべきだろう。
このエントリーをはてなブックマークに追加

昭和なマンションから、平成なマンションに引っ越しした。

これまで家というものにあまり興味がなく、そりゃ広いにこしたことはないけど、雨風がしのげればいいやぐらいに思っていたのだが、今回の引っ越しに際して内見を繰り返すうちに、昭和までと平成以降では、家の作りように大きな考え方の違いがあることに気づいた。なお、ここでいう昭和・平成というのはあくまで便宜的な区分である。

昭和までの家はとにかく風通しを重視する。夏に大きな窓を開け放つと、風が通り抜けて、畳の上で昼寝すると気持ちいい。窓を開け放たなくても、ドアやサッシには通風口があって、どの部屋にもある程度の風が入るようにできている。反面、冬はそこから風が入って寒い。暖房を入れるなり、温かい服を着るなりして対処することになる。

日本の家は長くこの考え方が主流だった。兼好法師もこんなふうに言っている。
家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑きころ悪(わろ)き住居(すまひ)は耐へがたきことなり。(『徒然草』55段


前近代の夏は、暑さと湿気を防ぐためには風通しを良くするしかなかった。空調が発明された近代以降も、部屋ごと冷やす今のような空調は高価だったから、その状況は大きく変わらなかった。昭和までの日本人は、そういう意味で前近代の人と感覚を共有している。僕も「家の作りやうは、夏をむねとすべし」という兼好の意見はとてもよく理解できる。

ところが、平成以降の家は高気密・高断熱を指向するようになった。これは機械による換気や空調が発達して、それらを日常的に利用することが前提になっているからである。空調を効率よく入れるためには、外からの熱を遮断し風が入るのを防ぐ必要がある。

空調によって部屋の熱を屋外に放出するから、外はますます暑くなる。外がますます暑くなるから、ますます高気密・高断熱が必要となる。都市部ではすでに窓を開け放って畳で昼寝するなどという快楽を味わうのは難しくなっている。

これでまた一つ、前近代の人との感覚の断絶が進むことになる。都市部に住む若い人は、すでに兼好の言葉を正確に理解することが難しくなっているのではないだろうか。
このエントリーをはてなブックマークに追加

現在、あるところで隔月でコラムを連載している。連載だからネタ帳を作った。紙のノートではなく、デジタルのノートである。そこそこネタは集まったが、実際にそのネタを使うことはほとんどない。

たとえば、締め切りの一月前ぐらいにネタ帳にあるネタで文章を書こうとする。しかし、書いているうちに内容がとっ散らかってきたり、どう書いても十分な長さにならなくなったりする。「まあ締め切りまでには日があるし・・・」なんて思っているうちに、締め切りの3日前ぐらいになり、結局全然違う内容の文章を入稿する。これがいつものパターンである。

それで今のところ(現在18回)なんとかなっちゃっているので結果オーライだが、ぎりぎりにならないとできないというのは精神衛生上よろしくない。思えば、夏休みの宿題も、ぎりぎりになって泣きながら仕上げるタイプだった。「三つ子の魂百までも」とはよく言ったものだ。

それに加えて、昔からノートを取るのが苦手だった。正確にいうと取ったノートを見るのが苦手だった。もっと正確にいうと、ノートは後で見るためにあると知らなかった。だからか知らないが、ネタ帳があったことを忘れていることがある。

考えてみると、学校でノートのとり方を指導された記憶はあるが、取ったノートを見る指導はしてくれなかった。教科によっては取ったノートを先生提出してハイOK。だから、ノートとは先生に提出するために取るものだと思っていた。たぶん、賢い子はノートは後で見るためのものだと気付くのだろう。ボンクラなのでつい最近まで気づかなかった。

それはともかく、今日から夏休みになった。時間は十分にある。コラムの原稿を数回ぶん書き溜めて・・・絶対にできないな。できない自信がある。
このエントリーをはてなブックマークに追加

昨日の記事もそうだが、最近DIYづいている。このブログでもいくつか書いていて、DIYタグにまとまっているが、実はもっといろいろやっている。もともとDIYが趣味なのではない。そうせざるをえなくなってきたのだ。

僕の父はDIYなんていう言葉が出てくる前からDIYの人だった。家電などが壊れると自分で直していたし、どこからともなく(多くは自分が勤めていた工場)部品や工具を調達してきて、店のチャイムを作ったり、挙句の果てには店の床全体に自分でPタイルを貼った。当時はまだ近所にホームセンターがなく、池袋の東急ハンズができたばかりで、父と二人で手で運んだ。これが想像以上に重かった。

久しぶりに実家に帰ったら、家の色がまるごと変わっていたこともある。ついでに余ったペンキで冷蔵庫まで塗ってしまったから、とても気持ち悪い色の冷蔵庫が鎮座していた。

作ったもので一番最近(といっても二十年ぐらい前だが)の作品は、一昨年僕が壊した畑の小屋である。父はバッテリー式の電動工具を持っていなかったので、ドライバーとトンカチとノコギリでこれを作った。シロートの作ったものだからチャチかと思いきや、逆にオーバスペックぎみに丈夫で、壊すのに難儀した。
小屋(側面)
そんなわけで、母は業者に修理を頼むという意識がない。父が高齢でDIYできなくなると、それが僕の方に来るようになった。

僕も僕で断ればいいのに、○○できないかと言われれば、自分でやってみたくなる。このへんは遺伝なのかもしれない。正直面倒くさいのだが、業者に頼む方が面倒くさい。金がかかるのはともかく、日時を決めて立ち会わなければならないのが面倒くさいのだ。

親が高齢になると、DIYスキルがつくというのは新たな発見である。そこで、さらに高みを目指すべく、新しいスキルを身につけることにした。それが何かは、そのうち書こう。
このエントリーをはてなブックマークに追加

「邯鄲の歩み」という諺をご存知だろうか。『荘子』秋水篇にある話である。燕の田舎者が、趙の都邯鄲の人々のカッコイイ歩き方を真似しようとしたら、自分の歩き方を忘れてしまい、這って帰ったという話である。転じて、人の真似をしたため、真似どころか自分のやり方もできなくなってしまうことをいう。ちなみに、ぼくは邯鄲に行ったことがあるが、邯鄲市民が特に変わった歩き方をしていたようには見えなかったし、歩けなくもならなかった。

この話は示唆に富んでいるが、それにしても歩き方を忘れることなんてあるんだろうかと、ずっと思っていた。しかし、最近、歩き方を忘れることがあるということを知った。普通の状態ではない。認知症である。

年をとって歩けなくなるというのは、筋力が弱くなったり、関節や骨に問題がおきたりしてそうなるのだと思っていた。もちろんそういう場合もあるが、認知症で歩き方を忘れることも多いらしい。

実はこれはたいがいの人に経験がある。初めてスキーやスケートをしたときを思い出してほしい(したことなかったらすみません。)。最初は立つのも難しかったはずだ。いったん転ぶと、今度はどこに力を入れていいか分からないから、疲れるばかりでなかなか立ち上がれない。慣れるといとも簡単に立てるようになって、あの苦労は何だったんだろうと思う。

歩き方を忘れるというのは、そういうことである。平地を歩いているときは何の問題もない。坂や階段、デコボコなど、イレギュラーな場所に当たると、とたんにどう足を運んでいいか分からなくなる。なにかの拍子で倒れると、今度はどうすれば起き上がれるか分からないから、ヘンな所に力を入れて、なかなか起き上がれない。さらにひどくなると、平地でも足の運びが分からなくなり、まったく歩けなくなる。

僕たちは当たり前のように二本の足で歩いているが、なかなか複雑なことをしている。ロボットだって、スムーズに二足歩行できるようになったのはつい最近である。認知症になって歩けなくなるのは、それほど不思議なことではないのだ。
このエントリーをはてなブックマークに追加

網膜剥離一周年(その3)の続き。

手術の様子や入院生活のことは、去年書いたので繰り返さない。タグ網膜剥離を参照してほしい。

目玉の手術をするのは怖かったが、入院そのものは一週間程度だし、忙しい十二月に合法的にゴロゴロできてよかったなぐらいに思っていた。しかし、実際に入院してみると、これが思った以上に苦痛だった。

短期間だから自分へのお見舞いなんかは来なくても寂しくはない。しかしお見舞いが来ないのは僕だけではない。病棟にいるのは医者か看護師か患者だけだということになる。なんだか外界から切り離された感じがする。

昔と違って(コロナのせいかもしれない)、常にベッド間のカーテンが閉められていて、自分の病室にどんな人がいるのかイマイチ分からない。プライバシーの点ではこちらの方がいいのだが、患者同士しゃべるなんてことはないから、寂しいことこのうえない。

スマホがあるのが唯一の救いだが、片目が見えないので長い文章は目が疲れて読めない。無料WiFiはあるのだが、病室では使えないから動画も見られない。

さらにダメ押しで、病院の窓から自分が住んでいるマンションが見える。近いといっても徒歩で15分ぐらいあるので、普通は見えない距離なのだが、たまたま間に高い建物が一つもなくはっきりと見える。これがよくない。手術が終って3日目ぐらいで、すでに帰りたくなってきた。

たいした日数いたわけでもないのに、退院したときには、「やっぱり、娑婆の空気はうまいぜー」という感じである。入院中は髭が剃れなかったので、こんな感じになっていた。
退院直後
その後、何度か通院し今に至る。今のところとくに問題はない。
このエントリーをはてなブックマークに追加

網膜剥離一周年(その2)の続き。

網膜剥離と診断が出た次の日(12月14日)の午前8時ごろ、自宅から徒歩十分ぐらいの昭和大学東病院に向かった。

入院を覚悟して行けと言われていたので覚悟はしていたが、ちょっと覚悟が足りなかった。なんだかんだ言っても目以外は健康そのものだし、その目にしたって左目は何の問題もない。すっかり忘れていた。今がコロナ禍の真っ最中であることを。つい最近まで、祖母や義母のお見舞いに行くのに一苦労していたのに、自分が入院するとなるとどうなるかは考えもしなかったのだ。

まず、入ってから紹介状を渡し診察の手続きをする。診察までの間、PCR検査がある。PCR検査が終ったら退院まで一歩たりとも外には出られないホテル・カリフォルニア状態。せめてタバコ一本吸ってから入ればよかった。

当然入る方にも制限があり、見舞いはもちろんのこと、差し入れも直接患者に渡すことはできず、職員に渡して病室に持ってきてもらう。病院内にコンビニがあってそこでたいがいのものは売っているのだが、パンツだのシャツだの、すでに持っているものを買うのもアホくさい。

そんなこんなで、診察である。視力検査に始まり、様々な目の検査、入院・手術を前提としているので血液検査もある。そのたびに待合室と診察室を何度も何度も往復する。待合室にはこんな額がかかっていた。
養心研学
立派な書で文句なくうまいが、落款にある石原忍が誰だか分からない。スマホで調べてみたら、前橋医学専門学校(現在の群馬大学医学部)の初代校長で、あのつぶつぶで書かれた文字を読む色盲検査を開発した人だった。

石原忍「色盲検査表の話」:青空文庫

ちなみに2003年以降、小学校で色盲検査は行われておらず、「あのつぶつぶで書かれた」とか言っても、若い人には通じない。

それにしても、眼科というものは独特の雰囲気がある。診察室は薄暗く、検査のためのいろいろな機械がある。さすがに目はカメラと同じ構造だというだけあって、CanonだのNiokonだのTOPCONだのLeicaだの、一部の人にはおなじみのブランド名が見える。なぜか内科ではよく見るオリンパスはないようだ。

中でもひときわ目を引くのが、みんな大好きカール・ツァイス。機械の横の面に例のツアイスマークがでかでかと描かれている。
Zeiss_logo
眼科検査の満漢全席だったから、このツアイスの機械も使った。さすがはツアイス、すごかった。

どういう仕組みか知らないが、眼底の様子がカラーで地形図のように立体的に撮影できるのだ。黙って見せられたら、どこかの火山を写した衛星写真だと思うだろう。実際は自分の目玉の奥の地形なのだが、どこに穴があいていてどこが剥がれているか、一目瞭然である。

すべての検査が終わったのは四時過ぎだった。手術は次の日の午前中と決定した。

つづく。
このエントリーをはてなブックマークに追加

網膜剥離一周年(その1)の続き。

かくして行きつけの眼科に行った。これが月曜のことである。事前に電話したものの予約していないのと同じなので、診察までにものすごく時間がかかる。診察そのものもやたらと時間がかかる。時間がかかるだけでなく、上を見よ、下を見よ、右を見よ・・・と疲れることこの上ない。すべて終わったときには8時近くになってた。月曜は授業が6時間あるのでクタクタだし腹もへった。

診断は予想通り網膜剥離。写真を見せてもらったら、でかい穴が二箇所もあいている。網膜はカメラでいうとフィルムで、ようするにフィルムに穴があいて剥がれた状態である。レンズを通った光は上下逆さまに結像する。だから僕のように視野の欠損が下に見えるということは、実際の穴は上の方にあるということになる。これがヤバいらしい。

この穴から眼球内の液体が入ってさらに網膜が剥がれるのだが、重力は下にかかるので、上に穴があると網膜が全部剥がれて失明ということになる。眼科医は明日朝イチで入院の準備をして大学病院に行けという。さらに、道中絶対に転ぶなと言われた。

ここからが問題である。まだ二学期の成績を出していなかったのだ。さらに、提出しなければならない原稿もあった。成績の材料は揃っていたが、これを計算して5段階にしなければならない。翌日に授業のある定時制が病院の近くだったので、帰りに直接行き事情を話し、授業を休むこととメールで成績を送ることを了承してもらった。もう一校の方も電話で許可を得た。

家に帰りPCの電源を入れる。検査のために散瞳剤を使っていてるので瞳はガン開き。白い部分が晴天時の雪原を見ているみたいで、眩しいことこの上ない。サングラスをかけてみたが今度は暗すぎる。ディスプレイの輝度を最低に下げても、青みが強く目に刺さる感じがする。

我慢して使っているうちに、ふとディスプレイにブルーライトカットモードなるものがあることを思い出した。青みが強いならブルーライトをカットすればいいんじゃないか。白が赤っぽくなって変な色になるので使っていなかったが、かなり楽になった。

ディスプレイの問題はクリアしたが、計算は自分でしなければならない。成績と原稿をメールで送り、すべての仕事を終えたときには午前3時を回っていた。明日は早起きして大学病院に行かなければならない。ちょうど妻が留守だったので、入院の準備なんざ全くできていない。「まあ、入院になっても、妻になんとかしてもらえばいいか」などと安易に思っていたのだが・・・。

その3へつづく。
このエントリーをはてなブックマークに追加

成績を付ける作業をしていて去年の網膜剥離のことを思い出した。幸いその後はとくに問題なく過ごしている。大したことではないのだが、記録しておけば何かの役に立つかもしれないので、一周年を記念して書いておこう。

発端は十二月の始めである。玉ねぎをスライスしようとして、スライサーで右手の親指をスライスしてしまった。ケチった末、玉ねぎとのチキンレースに敗れたのだ。思えばそのひと月前にも、左手を自らバーナーで炙って火傷をする(墓参りの必需品を買って、ぷくー:2021年11月23日参照)という、間抜けなケガをした。どうやら呪われていたらしい。

僕の親指は一ヶ所だけ直線的になり、そこからちょっとびっくりするほど血が流れた。絆創膏ぐらいでは血は止まらない。心臓より上に指を上げれば止まるんじゃないかと思って手を上げたが、すぐにくたびれてしまう。そこで布団に仰向けに寝て手を天井に向かって上げるという画期的な方法を思いついた。

仰向けだから天井の照明が見える。するとなぜか右目に透明なクラゲのようなものがフワーッと浮かんで見えた。きらきら光ってなかなかきれいだ。
網膜剥離直前
網膜に穴があいたのはこのときらしい。しかし、今問題なのは指の出血である。目は痛くも痒くもない。たぶんショックで変なものが見えるのだろうと思って、そのまま放置した。

やがて、指の出血はおさまった。出血以前にナゾのクラゲもすぐに見えなくなった。後で眼科医に聞いたところによると、この時点で病院に行っていれば、入院しなくてもすんだかもしれないという。ちなみに指詰めと網膜剥離は何の関係もないらしい。

二・三日して右目の視界の下の方に黒い影が出現するようになった。フワーッと動く例のクラゲと違い、視界に固定されている感じでとても邪魔くさい。写真を撮るときにレンズに指が入っちゃった感じだと思ってもらえればいい。
網膜剥離発症
最初はすぐに消えることを期待していたが、数日経ってもこの影は消えない。ネットで調べてみると、網膜剥離のときにこんな症状がでるという。

さすがにやばいと思って眼科に電話すると、すぐに来いという。その日は授業があったので、授業が終わり次第眼科に行った。これが、例のクラゲが見えてから一週間ほど経ってからである。

その2へつづく。
このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ