カテゴリ: 個人的な話

現在、あるところで隔月でコラムを連載している。連載だからネタ帳を作った。紙のノートではなく、デジタルのノートである。そこそこネタは集まったが、実際にそのネタを使うことはほとんどない。

たとえば、締め切りの一月前ぐらいにネタ帳にあるネタで文章を書こうとする。しかし、書いているうちに内容がとっ散らかってきたり、どう書いても十分な長さにならなくなったりする。「まあ締め切りまでには日があるし・・・」なんて思っているうちに、締め切りの3日前ぐらいになり、結局全然違う内容の文章を入稿する。これがいつものパターンである。

それで今のところ(現在18回)なんとかなっちゃっているので結果オーライだが、ぎりぎりにならないとできないというのは精神衛生上よろしくない。思えば、夏休みの宿題も、ぎりぎりになって泣きながら仕上げるタイプだった。「三つ子の魂百までも」とはよく言ったものだ。

それに加えて、昔からノートを取るのが苦手だった。正確にいうと取ったノートを見るのが苦手だった。もっと正確にいうと、ノートは後で見るためにあると知らなかった。だからか知らないが、ネタ帳があったことを忘れていることがある。

考えてみると、学校でノートのとり方を指導された記憶はあるが、取ったノートを見る指導はしてくれなかった。教科によっては取ったノートを先生提出してハイOK。だから、ノートとは先生に提出するために取るものだと思っていた。たぶん、賢い子はノートは後で見るためのものだと気付くのだろう。ボンクラなのでつい最近まで気づかなかった。

それはともかく、今日から夏休みになった。時間は十分にある。コラムの原稿を数回ぶん書き溜めて・・・絶対にできないな。できない自信がある。
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昨日の記事もそうだが、最近DIYづいている。このブログでもいくつか書いていて、DIYタグにまとまっているが、実はもっといろいろやっている。もともとDIYが趣味なのではない。そうせざるをえなくなってきたのだ。

僕の父はDIYなんていう言葉が出てくる前からDIYの人だった。家電などが壊れると自分で直していたし、どこからともなく(多くは自分が勤めていた工場)部品や工具を調達してきて、店のチャイムを作ったり、挙句の果てには店の床全体に自分でPタイルを貼った。当時はまだ近所にホームセンターがなく、池袋の東急ハンズができたばかりで、父と二人で手で運んだ。これが想像以上に重かった。

久しぶりに実家に帰ったら、家の色がまるごと変わっていたこともある。ついでに余ったペンキで冷蔵庫まで塗ってしまったから、とても気持ち悪い色の冷蔵庫が鎮座していた。

作ったもので一番最近(といっても二十年ぐらい前だが)の作品は、一昨年僕が壊した畑の小屋である。父はバッテリー式の電動工具を持っていなかったので、ドライバーとトンカチとノコギリでこれを作った。シロートの作ったものだからチャチかと思いきや、逆にオーバスペックぎみに丈夫で、壊すのに難儀した。
小屋(側面)
そんなわけで、母は業者に修理を頼むという意識がない。父が高齢でDIYできなくなると、それが僕の方に来るようになった。

僕も僕で断ればいいのに、○○できないかと言われれば、自分でやってみたくなる。このへんは遺伝なのかもしれない。正直面倒くさいのだが、業者に頼む方が面倒くさい。金がかかるのはともかく、日時を決めて立ち会わなければならないのが面倒くさいのだ。

親が高齢になると、DIYスキルがつくというのは新たな発見である。そこで、さらに高みを目指すべく、新しいスキルを身につけることにした。それが何かは、そのうち書こう。
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「邯鄲の歩み」という諺をご存知だろうか。『荘子』秋水篇にある話である。燕の田舎者が、趙の都邯鄲の人々のカッコイイ歩き方を真似しようとしたら、自分の歩き方を忘れてしまい、這って帰ったという話である。転じて、人の真似をしたため、真似どころか自分のやり方もできなくなってしまうことをいう。ちなみに、ぼくは邯鄲に行ったことがあるが、邯鄲市民が特に変わった歩き方をしていたようには見えなかったし、歩けなくもならなかった。

この話は示唆に富んでいるが、それにしても歩き方を忘れることなんてあるんだろうかと、ずっと思っていた。しかし、最近、歩き方を忘れることがあるということを知った。普通の状態ではない。認知症である。

年をとって歩けなくなるというのは、筋力が弱くなったり、関節や骨に問題がおきたりしてそうなるのだと思っていた。もちろんそういう場合もあるが、認知症で歩き方を忘れることも多いらしい。

実はこれはたいがいの人に経験がある。初めてスキーやスケートをしたときを思い出してほしい(したことなかったらすみません。)。最初は立つのも難しかったはずだ。いったん転ぶと、今度はどこに力を入れていいか分からないから、疲れるばかりでなかなか立ち上がれない。慣れるといとも簡単に立てるようになって、あの苦労は何だったんだろうと思う。

歩き方を忘れるというのは、そういうことである。平地を歩いているときは何の問題もない。坂や階段、デコボコなど、イレギュラーな場所に当たると、とたんにどう足を運んでいいか分からなくなる。なにかの拍子で倒れると、今度はどうすれば起き上がれるか分からないから、ヘンな所に力を入れて、なかなか起き上がれない。さらにひどくなると、平地でも足の運びが分からなくなり、まったく歩けなくなる。

僕たちは当たり前のように二本の足で歩いているが、なかなか複雑なことをしている。ロボットだって、スムーズに二足歩行できるようになったのはつい最近である。認知症になって歩けなくなるのは、それほど不思議なことではないのだ。
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網膜剥離一周年(その3)の続き。

手術の様子や入院生活のことは、去年書いたので繰り返さない。タグ網膜剥離を参照してほしい。

目玉の手術をするのは怖かったが、入院そのものは一週間程度だし、忙しい十二月に合法的にゴロゴロできてよかったなぐらいに思っていた。しかし、実際に入院してみると、これが思った以上に苦痛だった。

短期間だから自分へのお見舞いなんかは来なくても寂しくはない。しかしお見舞いが来ないのは僕だけではない。病棟にいるのは医者か看護師か患者だけだということになる。なんだか外界から切り離された感じがする。

昔と違って(コロナのせいかもしれない)、常にベッド間のカーテンが閉められていて、自分の病室にどんな人がいるのかイマイチ分からない。プライバシーの点ではこちらの方がいいのだが、患者同士しゃべるなんてことはないから、寂しいことこのうえない。

スマホがあるのが唯一の救いだが、片目が見えないので長い文章は目が疲れて読めない。無料WiFiはあるのだが、病室では使えないから動画も見られない。

さらにダメ押しで、病院の窓から自分が住んでいるマンションが見える。近いといっても徒歩で15分ぐらいあるので、普通は見えない距離なのだが、たまたま間に高い建物が一つもなくはっきりと見える。これがよくない。手術が終って3日目ぐらいで、すでに帰りたくなってきた。

たいした日数いたわけでもないのに、退院したときには、「やっぱり、娑婆の空気はうまいぜー」という感じである。入院中は髭が剃れなかったので、こんな感じになっていた。
退院直後
その後、何度か通院し今に至る。今のところとくに問題はない。
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網膜剥離一周年(その2)の続き。

網膜剥離と診断が出た次の日(12月14日)の午前8時ごろ、自宅から徒歩十分ぐらいの昭和大学東病院に向かった。

入院を覚悟して行けと言われていたので覚悟はしていたが、ちょっと覚悟が足りなかった。なんだかんだ言っても目以外は健康そのものだし、その目にしたって左目は何の問題もない。すっかり忘れていた。今がコロナ禍の真っ最中であることを。つい最近まで、祖母や義母のお見舞いに行くのに一苦労していたのに、自分が入院するとなるとどうなるかは考えもしなかったのだ。

まず、入ってから紹介状を渡し診察の手続きをする。診察までの間、PCR検査がある。PCR検査が終ったら退院まで一歩たりとも外には出られないホテル・カリフォルニア状態。せめてタバコ一本吸ってから入ればよかった。

当然入る方にも制限があり、見舞いはもちろんのこと、差し入れも直接患者に渡すことはできず、職員に渡して病室に持ってきてもらう。病院内にコンビニがあってそこでたいがいのものは売っているのだが、パンツだのシャツだの、すでに持っているものを買うのもアホくさい。

そんなこんなで、診察である。視力検査に始まり、様々な目の検査、入院・手術を前提としているので血液検査もある。そのたびに待合室と診察室を何度も何度も往復する。待合室にはこんな額がかかっていた。
養心研学
立派な書で文句なくうまいが、落款にある石原忍が誰だか分からない。スマホで調べてみたら、前橋医学専門学校(現在の群馬大学医学部)の初代校長で、あのつぶつぶで書かれた文字を読む色盲検査を開発した人だった。

石原忍「色盲検査表の話」:青空文庫

ちなみに2003年以降、小学校で色盲検査は行われておらず、「あのつぶつぶで書かれた」とか言っても、若い人には通じない。

それにしても、眼科というものは独特の雰囲気がある。診察室は薄暗く、検査のためのいろいろな機械がある。さすがに目はカメラと同じ構造だというだけあって、CanonだのNiokonだのTOPCONだのLeicaだの、一部の人にはおなじみのブランド名が見える。なぜか内科ではよく見るオリンパスはないようだ。

中でもひときわ目を引くのが、みんな大好きカール・ツァイス。機械の横の面に例のツアイスマークがでかでかと描かれている。
Zeiss_logo
眼科検査の満漢全席だったから、このツアイスの機械も使った。さすがはツアイス、すごかった。

どういう仕組みか知らないが、眼底の様子がカラーで地形図のように立体的に撮影できるのだ。黙って見せられたら、どこかの火山を写した衛星写真だと思うだろう。実際は自分の目玉の奥の地形なのだが、どこに穴があいていてどこが剥がれているか、一目瞭然である。

すべての検査が終わったのは四時過ぎだった。手術は次の日の午前中と決定した。

つづく。
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網膜剥離一周年(その1)の続き。

かくして行きつけの眼科に行った。これが月曜のことである。事前に電話したものの予約していないのと同じなので、診察までにものすごく時間がかかる。診察そのものもやたらと時間がかかる。時間がかかるだけでなく、上を見よ、下を見よ、右を見よ・・・と疲れることこの上ない。すべて終わったときには8時近くになってた。月曜は授業が6時間あるのでクタクタだし腹もへった。

診断は予想通り網膜剥離。写真を見せてもらったら、でかい穴が二箇所もあいている。網膜はカメラでいうとフィルムで、ようするにフィルムに穴があいて剥がれた状態である。レンズを通った光は上下逆さまに結像する。だから僕のように視野の欠損が下に見えるということは、実際の穴は上の方にあるということになる。これがヤバいらしい。

この穴から眼球内の液体が入ってさらに網膜が剥がれるのだが、重力は下にかかるので、上に穴があると網膜が全部剥がれて失明ということになる。眼科医は明日朝イチで入院の準備をして大学病院に行けという。さらに、道中絶対に転ぶなと言われた。

ここからが問題である。まだ二学期の成績を出していなかったのだ。さらに、提出しなければならない原稿もあった。成績の材料は揃っていたが、これを計算して5段階にしなければならない。翌日に授業のある定時制が病院の近くだったので、帰りに直接行き事情を話し、授業を休むこととメールで成績を送ることを了承してもらった。もう一校の方も電話で許可を得た。

家に帰りPCの電源を入れる。検査のために散瞳剤を使っていてるので瞳はガン開き。白い部分が晴天時の雪原を見ているみたいで、眩しいことこの上ない。サングラスをかけてみたが今度は暗すぎる。ディスプレイの輝度を最低に下げても、青みが強く目に刺さる感じがする。

我慢して使っているうちに、ふとディスプレイにブルーライトカットモードなるものがあることを思い出した。青みが強いならブルーライトをカットすればいいんじゃないか。白が赤っぽくなって変な色になるので使っていなかったが、かなり楽になった。

ディスプレイの問題はクリアしたが、計算は自分でしなければならない。成績と原稿をメールで送り、すべての仕事を終えたときには午前3時を回っていた。明日は早起きして大学病院に行かなければならない。ちょうど妻が留守だったので、入院の準備なんざ全くできていない。「まあ、入院になっても、妻になんとかしてもらえばいいか」などと安易に思っていたのだが・・・。

その3へつづく。
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成績を付ける作業をしていて去年の網膜剥離のことを思い出した。幸いその後はとくに問題なく過ごしている。大したことではないのだが、記録しておけば何かの役に立つかもしれないので、一周年を記念して書いておこう。

発端は十二月の始めである。玉ねぎをスライスしようとして、スライサーで右手の親指をスライスしてしまった。ケチった末、玉ねぎとのチキンレースに敗れたのだ。思えばそのひと月前にも、左手を自らバーナーで炙って火傷をする(墓参りの必需品を買って、ぷくー:2021年11月23日参照)という、間抜けなケガをした。どうやら呪われていたらしい。

僕の親指は一ヶ所だけ直線的になり、そこからちょっとびっくりするほど血が流れた。絆創膏ぐらいでは血は止まらない。心臓より上に指を上げれば止まるんじゃないかと思って手を上げたが、すぐにくたびれてしまう。そこで布団に仰向けに寝て手を天井に向かって上げるという画期的な方法を思いついた。

仰向けだから天井の照明が見える。するとなぜか右目に透明なクラゲのようなものがフワーッと浮かんで見えた。きらきら光ってなかなかきれいだ。
網膜剥離直前
網膜に穴があいたのはこのときらしい。しかし、今問題なのは指の出血である。目は痛くも痒くもない。たぶんショックで変なものが見えるのだろうと思って、そのまま放置した。

やがて、指の出血はおさまった。出血以前にナゾのクラゲもすぐに見えなくなった。後で眼科医に聞いたところによると、この時点で病院に行っていれば、入院しなくてもすんだかもしれないという。ちなみに指詰めと網膜剥離は何の関係もないらしい。

二・三日して右目の視界の下の方に黒い影が出現するようになった。フワーッと動く例のクラゲと違い、視界に固定されている感じでとても邪魔くさい。写真を撮るときにレンズに指が入っちゃった感じだと思ってもらえればいい。
網膜剥離発症
最初はすぐに消えることを期待していたが、数日経ってもこの影は消えない。ネットで調べてみると、網膜剥離のときにこんな症状がでるという。

さすがにやばいと思って眼科に電話すると、すぐに来いという。その日は授業があったので、授業が終わり次第眼科に行った。これが、例のクラゲが見えてから一週間ほど経ってからである。

その2へつづく。
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試験が苦手だ。入試や資格試験、ナントカ採用試験など、何度も受けているが、およそまともに合格した試しがない。資格試験で一回で合格したのは普通自動車の運転免許ぐらいである。あとは教員免許だが、これは大学で四年間かけて単位を取って教育実習に行くだけなので、資格試験とは毛色が違う。学位も同じ。

そのほかもろもろ、試験に落ちた経験は枚挙に暇がない。単に勉強が足りなかったということなのだが、われながらひどすぎる。試験は大嫌いなので、この手の試験は受けないことにしている。

しかし、振り返ってみると、落ちたのは勉強する期間が限られたもの、つまり◯月◯日までに受かるように勉強する類のものばかりである。唯一一発で受かった運転免許は、実はダラダラと二年ぐらいかけて取っている。家に自動車がなくて免許を取っても運転できないので、面倒くさくて頻繁に教習所に行かなかったからだ。これが良かったのだろう。僕は時間をかけないと勉強できない人間なのかもしれない。

そんなわけで、実は今、ある資格を取ろうと思っている。専門・職業・趣味のいずれとも関係ない資格である。比較的簡単に取れるとは言われているが、ちょっと勉強してみたら、全然違う世界に住んでいる僕にとってはかなり難しい。今はネット上に教材がゴロゴロ転がっているのが幸いだ。

もっとも、仕事に生かすものではないし、取ったら給料が上がるわけでも、楽しくなるものでもない。そもそも取る必要すらない資格なので、1・2年かけてゆっくり勉強して、絶対に合格する自信がついたら受けることにする。

途中で面倒くさくなってやめちゃうかもしれないので、何かは言わないでおく。やめちゃったらやめちゃったでもいい。ナントカ採用試験と違って、この勉強はムダにはならないと思っているからである。
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先日、埼玉に住んでいる父を病院に連れて行った。家から少し離れているのでちょっと早めに出たら、40分ほど早く病院に着いてしまった。コロナ下で抗体検査が終わるまでは病院の中に入れてもらえない。検査は時間どおり行われるので、ひたすら玄関で待つことになった。いい天気だったので、父と母を置いてちょっと散歩に行くことにした。初めて行く病院だったのだが、すぐ近くにちょっと気になる場所があったのだ。

少年時代、僕はボーイスカウトに入っていた。ボーイスカウトではいろいろな活動をしたが、印象に残っているのは何といってもキャンプである。夏休みなどは遠い所にも行ったが、それよりも自宅から自転車で30分ぐらい行ったところにある雑木林でのキャンプが忘れられない。

なにしろキャンプ場ではなく、単なる雑木林だからトイレなんかない。穴を掘って適当にシートでまわりを囲う青空トイレだ。炊事用の水は近所の工場みたいなところから分けてもらい、そのへんに落ちている木をひろって焚付けにしてメシを作っていた。

夜になると、どこまでも続く真っ暗闇である。どこからともなく犬がギャンギャンと鳴く声が聞こえてくる。野犬だという話だった。もし、夜中にトイレに行かなきゃならなくなったら、懐中電灯一つで闇の中を歩かなければならないのがたまらなく怖かった。

以前からもう一度行きたいと思っていたのだが、なにしろ40年も前のことだから、具体的な場所をよく覚えていない。そもそも、まだ存在するのかも怪しい。今回、病院に行くにあたってgoogle mapで場所を調べたら、この病院の近くによく似た林があるのに気付いたのである。

林は交通の激しい県道に面していて、奥に続く一筋の道がある。県道からちょっと奥に入ってしまうと、不思議なことに県道を走る車の音はほとんど聞こえなくなる。
雑木林の道
この道に入ったときは半信半疑だったのだが、ちょっと開けた場所まで来ると確信がもてた。間違いなく、昔キャンプをした場所だ。水をもらった場所もすぐ近くにあった。
雑木林
天気はいいし風もない。なんといっても、こんな素敵な場所なのに僕以外に誰もいないのがいい。あのころもそうだった。ここでキャンプしていても見ず知らずの人に会ったことがない。青空トイレで警戒しなきゃいけないのは一緒に行った友達だけである。

記憶ではもう少し針葉樹があったと思っていたのだが、あるのは葉の散った広葉樹ばかり。この季節、落ち葉が溜まっていて、歩いていてとても気持ちがいい。
枯れ葉
まさに国木田独歩『武蔵野』の世界である。
昔の武蔵野は萱原のはてなき光景をもって絶類の美を鳴らしていたようにいい伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林はじつに今の武蔵野の特色といってもよい。すなわち木はおもに楢の類で冬はことごとく落葉し、春は滴るばかりの新緑萌え出ずるその変化が秩父嶺以東十数里の野いっせいに行なわれて、春夏秋冬を通じ霞に雨に月に風に霧に時雨に雪に、緑蔭に紅葉に、さまざまの光景を呈するその妙はちょっと西国地方また東北の者には解しかねるのである。元来日本人はこれまで楢の類いの落葉林の美をあまり知らなかったようである。
先ほど犬が吠えていたと書いたが、ここへ来て野犬ではなかったことが判明した。しばらく林の奥へ行くと・・・
ドッグラン
なにやら遊具みたいなものがある。これはどうみても人間用ではない。地図を確認してみると、林の中に警察犬の訓練所があった。夜、犬が吠えている記憶しかなかったが、今来てみると昼間でもギャンギャン吠えている。ここで四十年来のナゾがとけた。

それにしても、こんなところでキャンプしていたとは贅沢な話だ。大人になって僕はインドア派になるのだが、30歳過ぎてお遍路だの熊野古道だの、突然アウトドア派に転向したのはここでキャンプした経験があるからに違いない。そう考えると、ここは僕にとって原点の一つである。

しばらく散歩して病院に戻ると、駐車場にとめてある車の中で抗体検査が始まった。結果は三人とも陰性。めでたしめでたし。
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さて、長々と2000年の中国自転車旅行の話を続けてきたが、実はそのときの日記はやたがらすナビ管理人の小部屋にある。なんだかちょっと恥ずかしいが、リンクをはっておく。

中国自転車旅行記(北京〜上海):やたがらすナビ

とにもかくにも、僕たち三人はほぼ一ヶ月の旅を終え無事帰ってきた。行く前は三人ともどちらかといえば色白だったのが、醤油で煮込んだみたいにずず黒くなっていた。葛的先生は普通の眼鏡をかけていたはずなのに、何故か薄黄色いサングラスになっていた。僕はゲン担ぎで髭をのばしていたのだが、いざ剃ろうと思ったらヒゲの下が白いことに気付いて、そのまま一年髭をのばしっぱなしにした。全裸番長は・・・あんまり変っていなかった。

これが僕にとってちょっと遅い(30代)旅人の季節の始まりだった。その後、祖父が亡くなったのを契機に2001年夏と2002年春に自転車でお遍路をした。2002年の7月にはテントをしょって熊野古道を歩いた。

その年の8月には一人で中国を走ろうと思って計画していたら、葛的先生が電話をかけてきて、「あれまたやらないの〜」と聞いてきた。もともと計画していたことなので、このときは太湖を一周した。

中国自転車旅行記(太湖ぐるっと):やたがらすナビ

この人は2000年の旅が終わったとき、「こんなきついのは二度とやりたくない」と言っていたはずだが、2002年だけでなく2004年(河北省邯鄲で夢を見る計画)、2010年(広東省・福建省)にも「あれまたやらないの〜」と電話をかけてきた。2010年なんかお互い40歳すぎて結婚もしていたのに何やってんだろ。結局、今に至るまで一人で中国を走ったことはない。

なんでこんなに狂ったように旅していたんだろうか。もちろん単純に楽しかったというのもあるが、ある種の逃避みたいなのもあったんだろう。

旅をしていると、している間は日常のことは忘れられる。息抜きとかじゃなくて、それどころではなくなる。そしてそれ自体が日常になる。これが中毒になると行ったっきり帰ってこなくなるらしいが、幸か不幸か僕にはそこまでの根性がなかったということだろう。
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