タグ:美術

日本人の芸術観(その1)のつづき。

日本人にとって芸術とは、自ら「する」ことが主体であり、人の作品を「鑑賞する」ことは自分が「する」ことの前提に立っている。つまり、鑑賞者は同時に作家(プロとは限らない)でもあるということになる。

これには一つ大きな利点がある。それは、より深く鑑賞できるということだ。プロ野球の観戦は、野球をやっていた人の方が、やっていなかった人よりも深く楽しめるし、料理をしない人よりはする人の方が深く味わえるのと同じである。

だから、日本古来の芸術は抽象的で難解なものが多い。和歌・能・書などはいずれも抽象的で、何の知識もなければ鑑賞すること自体が難しい。

問題もある。日本人の芸術観では、プロはアマチュアの先生である。そしてそのアマチュアの中からまたプロが生まれる。

芸術は技術と思想でできている。本来、思想は自分で感得すべきものだが、先生は技術だけでなく思想まで教えてしまう。芸術家は教育者ではないのだからこれは仕方がない。しかし、弟子は無批判にそれを受け入れ、素直に受け入れた者だけがまたプロになる。かくて流派が生まれるのである。

それでも師匠の思想が受け継がれているうちはまだいい。代を重ねるにつれて思想が忘れられ、技術だけになってしまう。

もともとは「こうだから(思想)、こうしなければいけない(技術)」だったのが、単に「こうしなければいけない(技術)」となるのである。こうなってくると、同じような作品ばかりになってしまう。あるのは技術的な上手下手だけ。これでは芸術とはいえないだろう。

前に書いた(『正徹物語』を読んだ:2011年06月27日)芸術の発生から衰退へのプロセスは、こういう日本人の芸術観から生まれるのだと考えている。

日本の芸術は、どんなジャンルであれ、おおむね次のように進行すると僕は考えている。
1・単純な表現により始まる。
2・次第にいろいろな技法が編み出され、それがセオリー化する。
3・セオリーの運用方法により、いくつもの流派に分かれ、セオリーが絶対的なルールに変わる。
4・ルールが細分化され厳密になり、いかにルールを守るかだけがテーマとなる。
5・滅亡する、または、革新が起き1に戻る。

欧米では街の芸術家みたいな人がいて、作品を売ることによってのみ生活している人がたくさんいる。

それに対し、日本の芸術家のほとんどは、作品を売ることではなく、作り方を教えることを生業にしている。純粋に作品を売るだけで生活している人は、その分野にもよるが非常に少ない。

書などはその最たるもので、かなり有名な書家でも収入のほとんどは弟子からの月謝や謝礼で、純粋に作品を売って生活している人などほとんどいない。これは何故だろうか。

最も簡単、且ついい加減な答えに、「家が狭くて作品を飾るスペースがない」とか「作品を飾る習慣がない」というのがある。しかし、カレンダーやポスターが貼っていない家なんかほとんどないので、スペースがないというのはおかしい。また、日本の家屋には床の間という作品を飾る専用のスペースがある。今はない家が多いにしても、飾る習慣がないというのもおかしな話だ。

日本人の芸術観の特徴は「鑑賞する芸術」と「する芸術」の二種類がはっきりと分かれていて、「鑑賞する芸術」よりも「する芸術」の方が価値が高いと見られることである。

文学を例に取ると、和歌こそが本当の文学で、物語等の散文は文学としては価値が低いと見られていた。和歌は誰もが詠むものだったが、物語は基本的にできたものを読むだけである。「鑑賞する芸術」の物語よりも「する芸術」である和歌の方が芸術性が高いと見られていたのである。

歌舞伎は「鑑賞する芸術」である。戯れに歌舞伎を演じる人はいるが、素人で舞台に立つ人はいない。歌舞伎はもともとは大衆芸能で、芸術性という点では能の方がはるかに高いとみられていた。この能も「する芸術」で、演じるのは能役者だけではなく、素人である貴族や武士などに演じられた。謡(うたい)も含めれば能は完全に「する芸術」である。

書道も同様である。昔は毛筆しか筆記用具がなかったから、誰もが書を書いた。その一方で能書家と言われる人たちがいた。一方、専門家しかいない絵画や彫刻は書に比較すると低く見られた。ただし、アマチュアでも描ける文人画(南画)や俳画は別である。

「歌詠み」とか「能役者」、「能書家」のようなプロがいる一方で、それを専業にしないアマチュアが存在するのが、日本人にとって高尚な芸術とされるのである。プロはその作品自体が鑑賞の対象になるだけでなく、アマチュアのお手本になるものだった。

今でもこの芸術観は日本人の中に強く残っている。

日本では作品が売れない代わりに、公募展が盛んだ。公募展で賞をもらうとステータスになるが、その評価はプロによるものだ。写真雑誌の月例コンテストや短歌・俳句の投稿も同じことだろう。直木賞や芥川賞の審査員が作家なのも考えてみればおかしな話だ。

プロは作家であり、先生でもあり、批評家でもある。プロの作品は、それ自体が商品ではなく見本にすぎない。これが日本人の芸術観なのである。

昨日、ある人の個展に行ってきた。人物をテーマにした、具象的な油彩と水彩が中心だった。

その先生は、もともとキュビズム(ピカソのアレ)の手法で描いていた。ところが、これを究めれば究めるほど描けなくなってきてしまった。今は具象的な作品になった。別にそうしようと思ったわけではないが、結局ピカソと同じ道をたどることになったのだという。

リスペクトすると、同じような道をたどるというのはよくある話だが、僕はこれを思想の問題だと思った。

芸術には、まず思想がある。この思想は、一見観念的に見えるが、作家にとっては「これはこうだからこう表現しなければならない」という、きわめて論理的な思想なのである。

作品には「これはこうだから」の説明はない。聞いたところで作者にもうまく説明できなかったりする。作者は作品で表現するものだからである。これを言葉で表現するのは評論家の仕事である。だから、享受する側からすると、作者の思想は観念的に見える。

僕が学生時代、書道の先生の言うことが、人によって全然違うことに当惑し、理解できなかった。結局僕は、「先生のいうことなど聞くに値しない」という、とんでもない結論を出したのだが、今考えてみると、これは思想の違いだったのだ。

話をもどすと、芸術の思想は論理的な思想だから、誰かの思想を採用すると、同じ結論にいたりやすい。ピカソの思想で描いたらピカソと同じ道をたどるのは当然なのである。

思想はなんらかの形で表現しなければ芸術ではない。そのために必要なのが、技術である。技術は「上手い」「下手」で語れるものだ。どんな思想でも技術がないと形にならない。逆に技術だけでは、単なる職人である。

もう一つ重要なのはアイディア。簡単にいうと「思いつき」のことである。

これがないと、独自性のある表現にならない。○○派とかいっても、人によって作品が違うのは、それぞれにアイディアがあるからである。そして、アイディアは煮詰めていくと新しい思想になる。

思想・技術・アイディアの三つが揃っているのが、本当の芸術なのである。
このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr

ダサすぎる若手書家たちをクサした勢いで、芸術家とは何かを語ってみる。

1.行動が一貫していること。
理由は「ダサすぎる若手書家たち」に書いた。
ただし、行動を変えるのはかまわない。
例えば、芸術家は貧乏でなきゃいけないと主張していた人が、一転して金儲けできなきゃと主張するようになる。これはいい。考え方が変わっただけである。
一方で金儲け主義を批判して、一方で金儲けに走る・・・

ふざけるな!恥を知れ!
堂々と金儲けせんか!

2.妥協しないこと。
作品のためには絶対に妥協しない。妥協した作品は発表しない。それが芸術家というものだ。
例えば、作品を作るためにどうしても西瓜が必要だったとする。ところが、冬だから手に入らない。冬瓜にマジックで縞々を書いて代用・・・

ふざけるな!恥を知れ!
西瓜を探すか、夏まで待て!

3.自己満足であること。
芸術家は、まず自己満足でなければならない。
例えば、芸術家がヘンな作品を作って満足していると、「それは自己満足じゃないか」と批判されることがある。
仕方なく、人に媚びた作品を作り評価されるが、自分では満足していない、でも評価されたからいいや・・・

ふざけるな!恥を知れ!
まず自己満足、次に他人、順番が逆だ!

4.切り捨てるときはばっさり切り捨てること。
作品にとって不要なものはばっさり切り捨てること
例えば、日本中探して、やっと西瓜を見つけて、作品が完成したとする。
しかし、やっぱりこれ無いほうがよさそうだ。でも、苦労して西瓜買ったし・・・

ふざけるな!恥を知れ!
いらないものはいらない!

そして、芸術家にとってもっとも大事なものはこれだ。

5.笑えること。
芸術なんてものは、本当はこの世に必要のないものなのだ。
そんなものに真剣になる人間は見ているだけで笑える。
真剣であればあるほど笑えるものなのだ。
例えば、冬に作品に使う西瓜を探すのに必死になっているやつは笑える。笑われるのは恥ずかしい。西瓜、やっぱり使わなくてもいいか・・・

ふざけるな!恥を知れ!
笑われない芸術家は芸術家じゃない!

5は思うところがあるので、明日詳しく書く。以上!

やっぱやめた。
このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr

僕の書作品には500万円の値が付いたことがある。はがき大の書でこれほどの値が付いたのは日本広しといえども僕ぐらいなものだろう。

これは、冗談ではない。実際500万円の値札が付いたのだ。もっとも、値札を付けたのは僕である。もちろん売れるはずはない。

ときどき「○○展にも出品している有名な○○先生に習ったのだが、○○先生の作品はいくらで売れるか」と聞かれることがある。どういうわけか、有名なというわりに、聞いたことない作家であることが多い。

こういう場合、「あなたは親愛なる○○センセイの作品を売り飛ばすつもりですか。売るなんて考えずに、大切に持っていればいいじゃないですか」と答えることにしている。

どうも、市場経済というものがわかっていない人が多いようだ。書作品だって商品だから、値段は需要と供給で決まる。

僕の作品を例にとると、500万円の値をつけても需要がないから売れないのである。だが、この時、僕はこの作品を500万円未満で売る気はなかった。だから、この作品に500万円の値が付いたというのはウソではない。

日本人には家に絵(画家が書いた本物の・・・である)を飾る習慣がない。まして、書となれば、せいぜい床の間ぐらいなものである。

絵を飾る壁のない家はないが、床の間のある家は少ない。たとえあったところで、レプリカか、どこかの坊さんの書、もしくは骨董品の書が飾ってあるぐらいで、書家の書が飾ってあるのはまず見ない。

つまり、現代の書家が書いた作品には需要がないのである。だから、○○先生の作品の価値なんてないも同然だ。

それでも、私の作品はいくらで売れるとか自慢する人がいる。そういう場合どうするか。僕の方法では「いくらで売った」とは言えても「いくらで売れた」とはいえない。それでは需要をどうするか。

答えは簡単。弟子に買わせるのである。弟子にとってはお布施みたいなもんだし、尊敬するセンセイの作品だから、喜んで買う(かならずしもそうでもないみたいだが・・・)。これで見事商談成立。センセイの作品に値が付いたわけだ。

こんなわけだから、センセイの書にいくらの値が付いたといっても、センセイから弟子以外にはまず売れない。演歌歌手比喩法でいえば、せいぜい森進一クラスでないと、美術品としては売れないか二束三文である。

もう一つ大事なポイントは、この流通の方法では、センセイが死んだら値が下がるということである。

本来、美術品は一点ものだから、作家が死ねば供給が止まるので値は上がるはずだ。ところが、書の場合(ほかの分野は知らないので)はちょっと違う。

弟子がセンセイの作品を買うのは、純粋にセンセイの作品がほしいからだけではなく、いろいろと下心があるからである。死人に下心はかなえられない。つまり、センセイが死んでしまえば、下心の分だけ安くなるのである。

そもそも、僕の経験では「いくらで売れるのか」という質問をされたことはあっても「いくらで買えるのか」という質問をされたことがない。売り手ばかりで、買い手がいない証拠である。

ちなみに、最初に書いた500万円の作品だが、友達にタダで上げてしまった。500万円相当の作品をタダであげちゃうなんて、なんと気前がいいんだろう、オレ。
このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr

そろそろ年賀状のことを考えなければならないシーズンである。だからといって、参考にしようと思ったわけではないが、『芸術家の年賀状』(小池邦夫編・二玄社)を買った。

ハガキというのは妙に創作意欲がそそられるサイズで、僕もかつては、木版の手刷りで年賀状を作っていた。これはなんとか干支を一回りしたが、どうにも面倒なのと、苦労するわりには自分が思ったほど好評でないことがわかって、ここ数年はレーザープリンタで印刷したつまらないものになっている。

この本は、洋画家、日本画家、版画家、イラストレーター、篆刻家など明治から昭和にかけて活躍した68人の芸術家の年賀状を集めたものである。もちろんすべて手製で、版画が多いが、中には手書きのものもある。いかにも、その作家らしいというのもあれば、いつものスタイルとは違って「へーこんなのもあるんだぁ」というのもある。そこが年賀状らしくっていい。

続編の『続 芸術家の年賀状』もあるんで、これもいずれ買おうと思っているけど、ちょっとお値段が高いんだよなー。
このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr

↑このページのトップヘ