2006年07月31日

社会学*カフェ→それから vol.3のお知らせ

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「社会学*カフェ→それから」vol.3

スピーカー:
渡邊 太(社会学者・「大淀南借家太陽2」店主)
山納 洋(大阪21世紀協会・SINGLES PROJECT)
中脇健児(伊丹市文化振興財団 いたみホール事業担当)

お題:個人と組織の公共文化事業

日時:
8月2日(水)19:00〜
※終了後、参加者で懇親会を予定(石窯焼きのピザなどオススメです)

参加料:
各自飲食代のみ(ワンドリンク制)

会場:
カフェ・コモンズ
〒569-0814 高槻市富田町1-13-1 WESTビル5F
TEL(072-694-3607)
http://cafe-commons.com/

お問い合わせ:watanabi●taiyoh.org

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2006年07月21日

社会学*カフェ→それから vol.3

社会学*カフェ→それから vol.3の開催が決まりました。


8/2(水)19:00〜@カフェコモンズ

詳細は追ってお知らせいたします。



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2005年11月11日

社会学*カフェ→それから vol.2記録【4】

社会学*カフェ→それから vol.2記録のつづき。
【4】
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社会学*カフェ→それから vol.2記録【3】

社会学*カフェ→それから vol.2記録のつづき。
【3】
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社会学*カフェ→それから vol.2記録【2】

社会学*カフェ→それから vol.2記録のつづき。
【2】
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2005年10月31日

社会学*カフェ→それから vol.2記録【1】

2005/10/31.Mon.
社会学*カフェ→それから vol.2

「連帯/共同の方法」

スピーカー:
 山納洋(SINGLES PROJECT)
 渡邊太(社会学者/大淀南借家太陽2)


カフェは人が集まる場所であり、人が集まる場所にはそこから何かが起こる可能性が潜在している。不安定な状況のなかで私たちが社会的に生存していくために、社会学とカフェは何を指し示すことができるのか。ここでは、社会学とカフェのそれからについて考えるためのダイアローグを試みています。(大淀南借家太陽2)

以下、当日の記録です。
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2005年10月15日

社会学*カフェ→それからvol.2のお知らせ

「社会学*カフェ→それから」vol.2を開催します。

10/31(月)19:30頃〜(予定)

主題は「連帯」です。


スピーカー:山納洋(SINGLES PROJECT
      渡邊太(大淀南借家太陽2


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2005年08月22日

第15回 ややこし研&扇町Talkin' About共催企画「社会学*カフェ→それから」

扇町Talkin’ About & ややこし研共催企画

社会学*カフェ→それから
2005/08/22 Mon. 19:00〜22:00(大淀南借家太陽2)

スピーカー:
山納洋(SINGLES PROJECT
渡邊太(社会学者・大淀南借家太陽2店主
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2005年08月03日

第15回ややこし研のお知らせ

第15回ややこし研のお知らせです。

第15回ややこし研は、Talkin' Aboutとの共催企画!

「社会学*カフェ→それから」

日時:8月22日(月)19:30〜
場所:大淀南借家太陽2
報告:山納洋(SINGLES PROJECT)&渡邊太(太陽2)




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2005年07月09日

第14回 仮想か現実

第14回ややこし研が開催されました。

日時:7月9日(土)15:00〜
場所:太陽2
参加費:500円(茶菓子代込)


以下、当日の議論の要約的記述。

報告はクボ君。お題は「仮想か現実」ということで、仮想化現実の話。仮想現実/仮想化現実の差異についての話から始まって、しかしそもそも仮想現実(というか仮想空間的な領域というか)なんて存在せず、仮想現実という仮想はつねに現実化されている何らかのモノに着地しているはず、唯物論的に。仮想現実化された仮想は、現実的領域と仮想領域の厳然たる区別を所与とし、侵犯不可能なフレームによって囲い込まれた領域として想像される。しかし、仮想化現実の技術によって明らかになったのは、そのように囲い込まれた仮想領域が現実的領域を含み込んでいるということであり、フレームの内外という区別が意味をなさない。アイボの認識システムが構築するアイボ世界は、仮想化された仮想ではなく仮想化された現実ということか。てかむしろ現実化された仮想か。感覚的には現実化された仮想のニュアンスがつかみ取りやすい気がする。仮想現実化された仮想の背後に、或る種の空間的な広がりを想像してしまう僕らの構想力の在り方というのは、それなりにそうとうに社会文化的に構成されたものだろうけれど、そもそものところ、おそらくこういう話は仮想/現実に関する想像力の働きと無縁のところで理論化することはできず、フレームにフレームを重ねるような(あるいはフレームとフレームが交差するような)ところでの思考が必要になるのだろう。あと、感情移入の話。フレーム(という仮想)のなかの対象と自己の関係。ゴッフマンのオンルッカー/シアターゴーアー概念。わかりつつ入り込むというプロレス的感覚。フレームというのは、フレーム以外の言葉で想像するほうがわかりやすいのかも知れん。いまのところフレームがいちばんよさそうだからフレームという言葉を使っているけれど、選択の余地のない話ではない。他に、「僕はアイボ世界は認めへん」というAの発言など、議論は大いに盛り上がりました。



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2005年06月11日

第13回 「おたく」について

第13回ややこし研の予告です。

日時:6月11日(土)15時〜
場所:「大淀南借家太陽2」
参加費:ワンドリンク付きで500円くらい

報告者:実験哲学カフェでお馴染みの久保さんと中田さん
テーマ:「おたく」について

報告者からは「オタクはなぜキモいか」というテーマでやりたいと連絡がありましたが「キモくないオタクもいるのでは?」と反射的に考えてしまい、そのテーマの意図をうまく察することができなかった経緯から、『「おたく」について』という漠然とした今のテーマに至りました。

個人的には「おたくの精神史-1980年代論」大塚英志を読み終わったところで、楽しみにしています。

では!

 A記
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2005年04月29日

第12回 90年代ブームの先取り?

第12回ややこし研の予告です!

日時:4月29日(金)午後3時〜 午後7時〜 午後3時〜
場所:「大淀南借家太陽2」(旧太陽)

報告:「凡」の津田さん
主題:サインについて
運命はサインとして予兆を示すか、といった不思議な楽しいお話をしてくれるそうです。
*津田さんの報告は諸事情により延期です。

代わって、

報告:ワタナビ
主題:90年代ブームの先取り?

どしどしどしとご参加ください。続きを読む

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2005年02月25日

第11回 ポスト太陽のややこし研

第11回ややこし研の予告です。

場所:太陽
報告:渡邊太

ポスト太陽のややこし研を考える。

ちょうど1周年。カフェ・都市・資本の三題噺的に、「太陽」というカフェを位置付けてみようという試みだったけれど、あまり話はまとまらず。以下、散漫な記録。


サロン(客間)での貴族たちの文学談義・芸術談義・政治談義は、やがて都市へと進出してカフェでの公衆の議論へと開かれていく。そこでの公共性の機能。しかし、都市における資本の論理は、公共性を掘り崩す。



 イギリスでは、17世紀にコーヒーハウス文化が誕生し、コーヒーを飲みながら文化や芸術について議論する公衆があらわれました。18世紀の初頭には、ロンドンに3000軒以上のコーヒーハウスが存在したといわれています。


 一方、フランスでは、文化や芸術についての議論は、宮廷社会のサロンで活発に行なわれていました。18世紀フランスのサロンでは、経済的に枢要な地位を占めていながら国家からは閉め出されていた大ブルジョワジーの市民と、経済的には相対的に大ブルジョワジーの市民層に劣っているものの政治的特権を享受していた貴族とが、対等の立場で出会っていたのでした。当初、優雅な娯楽の場だったサロンは、まもなく活発な討論の場へと発展していきます。


 ドイツの社会学者ユルゲン・ハーバーマスは、サロンとコーヒーハウスについて、「その会衆の範囲や構成において、交際の様式において、議論の雰囲気において、主題的関心において、きわめて異なっていたが、とにかくそれらはすべて、傾向上は私人たちの間の持続的討論を組織化するものである。したがってそれらには、一連の共通な制度的基準がある」(細谷貞雄訳『公共性の構造転換』未来社、1994年、55〜56頁)と指摘しています。共通する基準とは、第1に社会的地位を度外視する社交様式、第2にそれまで当たり前と思われていたことを問題化する態度、そして第3に議論への参加が万人に開放されていることです。ハーバーマスによると、こうした議論の場が、民主主義の政治を可能にする「市民的公共性」の形成において重要な意味をもったのです。


 その後、資本主義経済の発展とともに、19世紀になると公共性も社会的な構造変化を遂げてゆきいます。文化や芸術について公共の場で議論することに代わって、文化を消費するスタイルが一般的になります。開かれた場で社会的地位を度外視した議論をもつ機会は、しだいに失われてゆきます。また、市民が居住する郊外団地の住居からは、客間・応接間が姿を消しました。


 「アンビバレントな太陽」『大淀南借家太陽誌』




さて、そこで、という話。たぶんgrafみたいなお洒落なカフェには、そこで新しい何かを作り出す大きな力をもつだろうし、スターバックス的な戦略もひとつの可能性であるだろう。太陽・ややこし研的な場も、ひとつの場所=拠点の形式として、何らかの可能性になればよい。可能性のヴァリエーションは、できるだけたくさんあった方がよいと思う。


吉田修一の『パーク・ライフ』のなかで、スターバックスに関するちょっとした考察があって、スターバックスにひとりで来ている女性客は、誰一人として窓際の席で通りを眺めるという行為をしていないのだ、という記述がある。



久しぶりにスターバックスに入ったのだが、前日の彼女の話が心に残っていたこともあり、ひとりずつ各テーブルのしゃれた椅子に座り、携帯でメールをチェックしたり、ファッション誌を捲ったり、文庫本を読んだりしている女性客たちの姿に、どこか近寄り難いオーラを感じた。注文したカフェモカが出てくるのを待つあいだ、カウンターの隅に立って彼女たちを観察していると、奇妙な共通点に気がついた。ふつう喫茶店にひとりで入れば、まず窓側の席を探し、飽きることなく通りを眺めるはずだが、誰ひとりとして、店の外へ目を向けている者がいないのだ。外へ目を向けないだけではない。彼女たちは、一様に高価そうな服をセンスよく着こなし、髪型にしろメイクにしろ、テーブルに置かれた小物類にしろ、非の打ちどころがないほど洗練されているというのに、その誰もが「私を見ないで」という雰囲気をからだから発散させていた。


  吉田修一『パーク・ライフ』文春文庫、2004年、44頁




そうか、「洗練」という言葉がしっくりくるのかも知らん。ここで面白いのは、視線の話で、スターバックスでは、「私を見ないで」というふうに他者の視線を拒絶する身振りが可能になるのだ。都市は視線優位である。行き交う人たちの言葉は耳に届かなくても、行き交う人々の姿は否応なく目に入る。


たとえば、そのことは、カフェで徹底的に視線を意識したサルトルの身振りと対称的であるように思える。



ここにいるキャフェのボーイを考えてみよう。彼の敏捷できびきびした身ぶりは、いささか正確すぎるし、いささかすばしこすぎる。彼はいささか敏捷すぎる足どりでお客の方へやってくる。彼はいささか慇懃すぎるくらいお辞儀をする。彼の声や眼は、客の註文に対するいささか注意のあふれすぎた関心をあらわしている。しばらくして、彼は戻ってくる。彼はその歩きかたのなかで、何かしらロボットのようなぎこちない几帳面さをまねようとしながら、軽業師のような身軽さでお盆をはこんでくる。お盆はたえず不安定な、均衡を失った状態になるが、ボーイはそのつど腕と手をかるく動かして、たえずお盆の均衡を回復する。彼のあらゆる行為は、われわれにはまるで遊戯のように見える。彼は自分の運動を、たがいに働らきあって回転するメカニズムのように、つぎからつぎへと結びあわせようとして、一心になっている。彼の表情や声までがメカニズムのように思われる。彼は事物のもつ非常な迅速さと敏捷さを自己に与える。彼は演じている。彼は戯れている。しかし、一たい何を演じているのであろうか? それを理解するには、別に長くボーイを観察する必要はない。彼はキャフェのボーイであることを演じているのである。


  サルトル『存在と無 *』人文書院、1956年、176〜177頁




ここでサルトルは、カフェのボーイの存在様態を記述しているのだけれど、意識と存在の関係はきわめて視覚的に捉えられている。それはたぶん、サルトルがコーヒー1杯で朝から晩までカフェに居座って原稿を書いていたということに大いに依っていて、基本的にカフェが見る/見られる場だったということと関連している。


ひとりになるためにカフェに行く、という行為にはたぶんいろいろな近代的意味があって面白いのだけれど、たとえば多くの人がいるなかでの孤独という逆説。僕らは孤独を得るために山ごもりするのではなく、むしろ都市へと出かけていく。そういう逆説的事態をより詳細にみていくと、おそらくサルトル的な「見る/見られる」関係における孤独と、スターバックス的な「見ないで」関係における孤独の2つが区別できるのだろう。人は、見られることで孤独を感じる(=実存?)こともできるし、見られないことで孤独になることもできる。


仲俣暁生(id:solarさん)は、スターバックスを「『機内食』の端末」として捉える視点を提示している。



 今日的なグローバライゼーションの象徴を都市の風景の中で探そうとするとき、なによりまずスターバックスが私たちの視野に入ってくるのは、そこが航空機が可能にした移動のスピードに見合う「リアルタイム」を提供する空間だからだ。スターバックス・コーヒー・チェーンが生まれたシアトルという都市は、航空機産業の世界最大手であるボーイング社の企業城下町である。スターバックスはいわゆるファストフード店ではない。そうではなく、あれは都市に展開された「機内食」の端末なのだ。『白鯨』の一等航海士スターバックは、いまは荒海を渡る必要さえない。


 人がスターバックスで過ごす時間は、その都市固有の内部時間からも、おそらくは自分自身の体内時間からも切り離された、ひとつのグローバルタイムを刻んでいる。スターバックスという「端末」は、ドメスティックな土地やそこで流れる時間とは別の、世界標準時としてのリアルタイムを提供してくれるという意味で、インターネットのアクセスポイントと似ている。


  仲俣暁生『極西文学論』晶文社、2004年、30頁




スターバックスが「端末」であって、それが所在する場所とは切り離されているのだとすれば、そこに集う人たちが往来を眺めないという行為は自然な振る舞いであることになる。なにしろ、そこはドメスティックな時間・空間とは別の位相であるのだから。


機内食というイメージは、上手いなあと思う。移動中の時空ということは、つまり、「どこでもない場所」を都市のなかで現実化したということで、そのような「どこでもない場所」が居心地よく感じられるような社会空間が現在の都市であるということなのだ。


マクドナルドのような「どこにでもある場所」と、スターバックスのような「どこでもない場所」は、似ているようで異なる。どこにでもあるということは、固有の場所という意味を失っているという意味では、「どこでもない場所」という性質を獲得し得る。しかし、おそらく単にそれだけでは、「どこにでもある場所」は「どこでもない場所」になることができない。そこの飛躍を可能にするのが、洗練であったり世界標準時であったりするのだろうか。あるいは、それとも他の要素が必要なのだろうか。


サルトル的な「まなざしの地獄」から自由になったところに、スターバックス的なカフェが成立したとすれば、それは視線を拒否するというネガティヴなかたちで視覚的な関係性を保持しているということになる。いずれにせよ、問題となるのは視線。


それで、最後。「太陽」は目のカフェ(視線優位)ではなく、耳のカフェだった、というオチをいま思いついたので記しておく。路地の奥にあった「太陽」では、通りを眺めることはできないけれど、人の話に耳を傾けることができる。聴覚的な場としてのカフェ。

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2005年01月28日

第10回 北風と太陽

日時:1月28日(金)19:00〜
場所:太陽
報告:太陽メグさん「北風と太陽」

次回ややこし研の告知です。
いよいよ満を持して社長登場!!
めくるめくファンタジー。


お題は「北風と太陽」で、カフェ「太陽」の2年間の総括。



もともと「空飛ぶパン」というフリーペーパーを作っていた社長は、絵描きをはじめとする作家の人たちに場を提供できるような、そして、サロン的な活動で何か新しい文化をつくり出すような、そういうカフェを自分でやりたいと考えるようになる。それが「太陽」の目指すところだった。


 ・そもそも太陽が目指したもの→箱、サロン(場と、自分の活動)
 ・想像と創造→ここで思ったことを形にする
 ・「場に常に居ること」は→コミュニケーション、「多人数」の関係


個展(絵画・写真など)で作家に場を提供しつつ、「占い」「まわし読み」など独自のイベントも開催(ややこし研もそのひとつ)。基本的に社長のネットワークを基盤として、いろんな人が「太陽」を訪ね、珈琲を飲み、お茶を啜りながら交歓した。

社長がつねにこの場に居る、ということがいろいろな意味で決定的だったのだと思う。そこに社長が居たから多くの人が「太陽」に足を運んだのだろう。ここで、知らない人とも自然に話ができるような、そういう雰囲気が構築されていたのも、いずれ社長の知り合いであるということが信頼の基盤となっていたからだった。ちょうど、プライベートな関係とパブリックな関係の中間のような、そういう感覚があった。

そのことは、多人数の関係の難しさを伴うものでもあった。おそらく、つねに場に居る社長として、自分以外の誰かと誰かの関係を調整することは、ときには負担の大きいことだったかもしれない。しかし、そこで場を閉ざすのではなく、原則として誰でも入れるオープンさを担保していたことで成り立つ状況というのもあったのだと思う。場を囲い込みたいという欲望がある一方で、不確定要素を導入したいという欲望もある。そのきわめて繊細なバランス。

よだかさんとか僕とかは、「太陽」における不確実な均衡に翻弄されるという経験をどこかで楽しんでいたふしがある(或る種の人間関係的な「変態」?)。近付きもせず離れもせず、だけど近付くことも離れることも拒否する理由もなく、主体的なのか従属的なのか、能動的なのか受動的なのか、よくわからないままに、ときには所在なさを感じたりすることがあったとしても、そのよくわからない距離感こそをむしろ積極的に楽しんでいたのかもしれない。そういえば、社長は一回目は人見知りしないけど二回目以降人見知りするという至言を残したが、その人見知りさえ何らかの意味で楽しさに変換する回路が「太陽」にあったということなのかも知れない。

目的合理的でない、というか、目的を志向しない場の自律性みたいなもの。集団形成を目指さないコミュニケーションの気楽さ。そういうところが、なんだろうかなあ、人民的公共性というか。面白さであった。

去年の夏頃に、社長はやりたいことをやりつくし始めた(?)というようなことを云っていた。たぶんそれは、第一期「太陽」のひとつの区切りを意識したということだったのだろうと思う。ひとまずの区切り。社長の第二期「太陽」や第三期「太陽」に期待しつつ、来月のフィナーレを大団円で迎えたいね。(ワタナビ記)

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2004年12月22日

第9回 恐怖の行動学

第9回ややこし研

日時:12月22日(水)19:00〜
場所:太陽

報告:HAGA★さん「恐怖の行動学」


終了後は、太陽主催・風雲!クリスマス城スペシャル&大忘年会を開催します。
クリスマスぶってご参加ください。

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以下、当日の報告内容。


人間は、様々な対象を恐怖する。地震が怖い、テロリストが怖い、蛇が怖い、蜘蛛が怖い、人間関係が怖い、お化けが怖い、幽霊が怖い、まんじゅう怖い……等々。さて、恐怖を抱いたとき、人はどのように反応するだろうか。

ここで、Aの発言。神戸市西部で阪神大震災を経験したAは、地震が起きたとき、地震に気付いてその後に何をしたかというと寝たという。とりあえず外に出て、様子を見て誰も人が出てきていなかったので家に戻って、テレビがつかなくて状況がわからないので、どうしようもないし朝も早いしそれで寝たと。きわめて呑気であるようにも思えるけれど、案外に冷静で的確な判断だったのかも知れない。パニックになっていたずらに体力を消耗するよりも、いったん眠って動くべきときを待つのは後から考えると適切ともいえる。

と、そういうAの発言に戸惑うHAGA★さん。恐怖に直面したときにどうするか、という問いに「寝る」という回答がまさか返ってくるとは思っていなかったらしく、狼狽。そりゃそうだ。想定外の回答だろう。HAGA★さんによると、1)逃げる、2)克服する、3)団結する、という3つくらいの行動パタンがあるという。お化けや山賊に遭ったときは、たぶん逃げる。人間関係が怖い、と思う人はなんとかしてそれを克服しようとするかも知れない。ここで、克服する方法のひとつとしてHAGA★さんがあげたのは、「勉強する」ということ。自分の恐怖の対象について勉強し、知識を蓄えることによって、それを克服することができる。そして、みっつ目の団結するという方法。これは、同じ対象を恐怖する人たちが団結することで、勇気を得る、みたいなイメージ。

しかし、この団結は、恐怖によって駆動された群集心理的な怖さがあって、たとえばテロリストに対する恐怖によって駆動される全体主義化的状況というのがある。恐怖の対象は何でもよいのかもしれない。それが目に見えないものであれば。オウムの場合、外部の社会の穢れたエネルギーが恐怖の対象となっていた。それは目に見えないが、確実に存在する。コスモクリーナーによって清浄化された道場の外は、穢れたエネルギーに満ちた澱んだ世界である、とオウム信者には感じられていた。恐怖の対象が穢れたエネルギーやテロリストのように目に見えないものであるとき、事態は厄介になる。どこにいるかわからない敵は、恐怖する人にとってはどこでもいる存在として感じられる。一見したところの敵の不在は、敵の遍在を意味するようになる。オウムが毒ガスを使ったというのは、きわめてシンボリックなことで、見えない敵に対して見えない武器によって対抗したと考えると論理的に筋が通ってくる。

急進派環境運動にも見えない何かへの恐怖によって駆動されているところがあって、地球危うし的な危機感。しかし、そういうとても大きな話であるのだけれど、日常的に僕らが実感するのはゴミの分別という小さな行為だったりする。その理念と行為の間のスケールのギャップについて違和感を感じる、というAの発言。そこから議論は紛糾しつつも、話をすすめて、恐怖は人類の繁栄に役立つかも知れない、というHAGA★さんの結論へと議論は展開していく。

冷戦後の世界情勢を見渡すと、国家間、民族間の紛争。こんなことをつづけていては、人類の繁栄は覚束ない。人類が一致団結することは可能か。そこでのHAGA★さんの結論は、「エイリアン来襲」(!)というものだった。さすが、「ムー」好き(通称「ムーヲタ)のHAGA★さんらしいトリッキーな結論。人類に外部がいないから人類が一体化できないのであれば、人類の外部に何らかの存在があれば一体化できるのではないか、という話。これは案外にまともな話で、政治的なものの概念は敵/友の区別であるといったシュミットが、人類に敵はいない、といったこととつながる議論。人類というカテゴリーには外部がないから、敵/友の政治が成り立たない。国民国家や民族は外部を前提とするがゆえに、敵/友の政治的区別が必然的に発生する。社会主義のインターナショナルとか、世界市民とか、グローバリゼーションにもつながるアクチュアルな問題。

話をエイリアンに戻すと、しかし、そもそもエイリアンが来襲したら人類の繁栄はありえないんじゃないか、という落ち。いや、でももし地球に優しいエイリアンが来れば、人類はあれでも生態系としての地球は繁栄するか。

議論のなかでは、恐怖と不安の差異についてなど。哲学的伝統では、対象が明確であるときに発生する感情が「恐怖」であり、対象が不明確であるときの感情が「不安」。死の恐怖は死が確実に到来するということに対して発生する感情であり、死の不安は死がどのようなものかわからないことに由来する感情である。というふうに、恐怖と不安を分けて考えるとわかりやすい。

それから、対概念についても議論。不安の反対は安心か。そうすると、恐怖の反対は何だろう? 歓喜? 笑い? 安堵? 恐怖が取り除かれたときに到達する感情は安堵か。ホラー映画なんかは、恐怖を娯楽として享受するものであるけれど、あれは恐怖と安堵の弁証法というか、緊張と弛緩に妙味があるのかも知れない。その意味では恐怖は笑いと通じるか(枝雀師匠の笑い理論を参照)。

現代日本社会における恐怖と不安は何か、という問題も。集合的恐怖/個人的恐怖、集合的不安/個人的不安、といったところを分けて考える必要がありそうだ。とくに、戦後日本社会において、集合的恐怖・不安/個人的恐怖・不安の社会史みたいな記述は必要だなあと思った。これは今後の宿題。

最後にひとつ。HAGA★さんのキーワードは、「人類の繁栄」と「ムー」だった、ということで(本当はもっと「ムー」の話をしたかったらしい)。(ワタナビ記)

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2004年11月05日

第8回 映画と身体感覚について

11月5日(金)19:00前後〜

レクチャー:よだかさん
場所:太陽

お題は「映画と身体感覚について。

遅れてきた貴族、亀岡の哲人、よだかさんによるレクチャー。お題は「映画と身体感覚について」。


映画という虚構に接することによって現実になにかしらの影響はあるのか?

  「映画と身体感覚について」レジュメ


この問いを出発点として、よだかさんは映画を観た後に世界が別様に見えたという私的(神秘的?)体験をふり返る。このとき、何が変化したのか?

映画は「いかに生きるか」を描く、それゆえ、映画を観る人は自分自身の生き方について考えることになる。自分自身の生き方について考えるということは、「私」の存立根拠を問うことでもある。そこから、「〈私〉とは何か?」という問いが導き出される、とよだかさんは云う。

人は、他者とのかかわりのなかで生きている。したがって、必然的に〈私〉について考えることは、他者との関係について考えることを伴う。


つまり、「自分の事を考える」が「他人の事を考える」になる。〈私〉とは何か? を問うとき、必然的に他人との関係を迂回路としなければならない。自己とは他者の要素を含んだ存在であり、「自己とは他者である」とも言える。

「映画と身体感覚について」レジュメ


自己について考えることは、じつは他者について考えることであったのだ。そのような「他者」を迂回路としない「自分探し」には違和を感じるとよだかさんは云う。


違和感のある「自分探し」とは何か? →「自分のことを考える」が「自分のことを考える」に直結している場合。すると、「自分のことだけを考えてくれる他者」を求めてしまう。

  「映画と身体感覚について」レジュメ


自己→他者→自己という回路で「〈私〉とは何か?」を問う形式と、自己→自己→自己という内的に閉鎖した回路で「〈私〉とは何か?」を問う形式がある。

さて、そこで映画である。映画とは、そのような迂回路としての他者である、という結語。

というのが、よだかさんの議論の大筋の内容だった。とても面白い論点がいくつも含まれている。違和感のある「自分探し」/違和感のない「自分探し」の差異は、先日、甲斐さん、櫻田さんたちとの話でも出てきた相田みつを問題や森岡正博的問題にもかかわるだろう。また、よだかさんは、映画を消費するという行為に関して、呑み込みつづけることの不安というか危うさみたいなのもあると云う。だから、はてなで映画評を書くことで、飲み込んだものを吐き出す作業をしている、と。ここは、Aが突っ込んでいたところだけれど、フードファイト、大食い選手権的なものの快楽と不気味さ。まさにバタイユ的な蕩尽であるわけだけれど、それが共同体の連帯的行為として行なわれるのではなく、個人としての消費者の資格において遂行される、という点で、ポトラッチ的な蕩尽とは異なる意味がありそうだ。


あと、映画の作品ごとのクオリティの問題。

よだかさんは、「『デビルマン』は観るべき!」と力説する。その余りのくだらなさ、駄目だめっぷりを観よ、と云う。さっちゃん周辺では「ハッピーバースデイ!」が流行りそうな予感。『マグノリア』を観終わって外に出たとき、世界が別様に見えた経験をしたというよだかさんは、『デビルマン』を観た後、違う意味で世界が別様に見えたかも知れない。


それで問題は、『デビルマン』は他者か? ということなんだけれど、よだかさん曰く「まったき他者です」とのこと。わはは。

しかし、ここも難しい問題かも知れない。まったき他者か、ほどほどの他者か? というような量的な程度問題を越えたところに他者性の問題があらわれるのかも知れない。その意味で、『デビルマン』を「まったき他者」として認識するには、それに見合うだけの自意識の強度が必要なのかも知れん。……なんていうのは考えすぎなような気もするけれど。

議論は、映画館で映画を観ることと、自宅でビデオ再生機を用いて映画を観ることの差異(ジャージャがいればよかった)にも及ぶ。映画館で支払う1500円は他者である、とか。「結局、金かい!」という社長の突っ込み。ケニヤ人が「ラスト・サムライ」を観ながら「シンダ! シンダ!」と云っていたというエピソード。幅の広がる議論。『風、スローダウン』も。

最後。ふたたびAの突っ込みで、「映画についてはわかったけど、身体感覚はどこに行ったん?」。「ええ? もう今日の話は全部忘れて!」とちゃぶ台をひっくり返すよだかさん。それは冗談として、映画を観た後で世界が変わる、という身体感覚的変容の経験は、映画が「〈私〉とは何か?」という身体感覚の核心に触れるものであるから、ということか。ひとつの解釈として、映画が他者であるということもそうだろうけれど、映画を通して世界が他者となる、そして映画評を書くという行為は、そのようにして他者としてあらわれた世界と新たな関わりをもつ行為である、と考えることもできる。そして、おそらく身体感覚の問題はその先で、書くという行為は直接的に身体感覚的行為であるのか、それとも書くという行為から身体感覚に移行するには、もう一段階の飛躍が必要なのか? バタイユは、意思に寄らずに書く、という特殊な書き方(『有罪者』とか特にそうかも)によって、書くことをそのまま身体感覚的な内的体験につなげようとしていたのだと思う。映画とは身体感覚を取り戻すための闘争である、とマルクス主義っぽくまとめる。


今回は、よだかさん経由で、id:nopikoさんたちが初参加。それと、pspリサーチ班メンバーも来てくれて、いつもと違う新鮮な顔触れ。適当な感じで輪が広がっていくとよい感じだなあ。

yayakoshiken at 19:00|PermalinkComments(1)TrackBack(0)定例会 

2004年10月10日

オブスペースの提案

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近況検討ごと提案
人が使いやすいように、バッティングしないための利用予定、
足跡となる利用記録のようなものを用意したい。
webでメーリングリスト?ブログ?掲示板?HP?メールマガジン?
アナログに利用者ノートでも置こうか?
とりあえず、利用希望者はAかセンセーか太陽に打診してみて下さい。
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この内容に関して、このブログをつくった者として、
提案させていただきます。

掲示板がよいと思いますので、さっそくつくってみました。
http://www5.rocketbbs.com/651/8854ken.html

これは携帯電話からも見ることができます。
カスタマイズもできます。
ウクレレよいこ新聞の掲示板と同じ種類のものです。

ライブドアのブログは夜になると
コメント機能がめちゃくちゃ重くなるということと、
参加する人が発言しやすい場所を提案する時期かと
思ったので。とりあえず実験的に←に設置してみますね。

掲示板はひきつづきエース&先生に管理してもらえるように
パスワードを送りますね。(カノ記す)

yayakoshiken at 01:35|PermalinkComments(1)TrackBack(0)

2004年10月09日

オブ・スペースの始まり

10月8日

ブルーシートを剥いで、床をきれいに磨く。細かい溝を磨く神経を使う作業。
部屋の内側を磨く。抜けた天井を画用紙で隠して、開かずの扉をよりミステリアスに布で隠す。

搬入されたもの。
正方形の高さ30?程の大きさの異なるテーブル二つ。手触りや色がまちまちだけど、同じ形をしたコップ6つ。小さな絵一つ。画鋲。プラス、マイナスドライバー。緑の布。

明らかになったこと。
オブスペースは高さ210?、長さ480?、幅260?の立方体。
オブ・スペース運営会のような集まりを第4水曜日の19時〜開こうかと提案がありました。

10月10日

引っ越しをして、処分しようとして置いていたものをいただく。PCだ!ったのだけど、せっかく持ってきてくれたのだけど、起動せず、持ち越しに。

搬入されたもの。
スタンド型掃除機。FAX。モニター。本体においてかれたマウス。

明らかになったこと。
どうも電話線は2階と連動していなくて、新たに契約するか?使える2階から引っぱってくるか?2階から引っぱってくることで考えたいのだけど、今後パソコンも入る予定で、どやって線を別けたらいいのかしら?教えてください。自分でも調べてみます。

・近況検討ごと提案
今は空箱で、色もついていない状態。皆に遊び感覚でも使ってもらって、長年使われなかった畑の土を練って肥沃にしていくというか、そこに漂う空気がだんだん密になる感じが欲しく思う。そういう場を必要とする人が使いやすいように、バッティングしないための利用予定、足跡となる利用記録のようなものを用意したい。
webでメーリングリスト?ブログ?掲示板?HP?メールマガジン?
アナログに利用者ノートでも置こうか?
とりあえず、利用希望者はAかセンセーか太陽に打診してみて下さい。


・利用予定
10月13日(水)19時〜21時
A関連のNSワーカーズのミーティングとして使います。

(A記す)

2004年10月08日

第7回 「少女」・「乙女」のイメージと「私」たち

レクチャー:ノゾミ先生
場所:太陽

少女・乙女のイメージについて。

以下は、ノゾミちゃんによる「宿題」(!)。

★ ★ ★

みなさん「乙女」に関しては一家言ある方ばかりとお見受けします。「乙女」って何か、とか、リスペクトする「乙女」なひとってだれか、とか考えておいてもらえるとうれしいです。

ちなみに「少女」はいわば総称で、さまざまなタイプがあり、「乙女」はそのなかのひとつのケースと(勝手に)位置づけています。

あと「少年」も、「少年のような」とかって何??

ぜひぜひ考えておいてね!宿題!

 ★ ★ ★

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yayakoshiken at 18:30|PermalinkComments(5)TrackBack(1)定例会 

2004年10月06日

オブ・スペース準備会

ニーハオ。

10月1日に、賃貸契約完了しました。

10月8日ややこし研の前に、オブ・スペースの準備会をしましょう。
当日、Aは遅れるかもしれないですが、16時にオブ・スペースか太陽に集合ということ
にしましょう!

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