2004年12月

2004年12月22日

第9回 恐怖の行動学

第9回ややこし研

日時:12月22日(水)19:00〜
場所:太陽

報告:HAGA★さん「恐怖の行動学」


終了後は、太陽主催・風雲!クリスマス城スペシャル&大忘年会を開催します。
クリスマスぶってご参加ください。

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以下、当日の報告内容。


人間は、様々な対象を恐怖する。地震が怖い、テロリストが怖い、蛇が怖い、蜘蛛が怖い、人間関係が怖い、お化けが怖い、幽霊が怖い、まんじゅう怖い……等々。さて、恐怖を抱いたとき、人はどのように反応するだろうか。

ここで、Aの発言。神戸市西部で阪神大震災を経験したAは、地震が起きたとき、地震に気付いてその後に何をしたかというと寝たという。とりあえず外に出て、様子を見て誰も人が出てきていなかったので家に戻って、テレビがつかなくて状況がわからないので、どうしようもないし朝も早いしそれで寝たと。きわめて呑気であるようにも思えるけれど、案外に冷静で的確な判断だったのかも知れない。パニックになっていたずらに体力を消耗するよりも、いったん眠って動くべきときを待つのは後から考えると適切ともいえる。

と、そういうAの発言に戸惑うHAGA★さん。恐怖に直面したときにどうするか、という問いに「寝る」という回答がまさか返ってくるとは思っていなかったらしく、狼狽。そりゃそうだ。想定外の回答だろう。HAGA★さんによると、1)逃げる、2)克服する、3)団結する、という3つくらいの行動パタンがあるという。お化けや山賊に遭ったときは、たぶん逃げる。人間関係が怖い、と思う人はなんとかしてそれを克服しようとするかも知れない。ここで、克服する方法のひとつとしてHAGA★さんがあげたのは、「勉強する」ということ。自分の恐怖の対象について勉強し、知識を蓄えることによって、それを克服することができる。そして、みっつ目の団結するという方法。これは、同じ対象を恐怖する人たちが団結することで、勇気を得る、みたいなイメージ。

しかし、この団結は、恐怖によって駆動された群集心理的な怖さがあって、たとえばテロリストに対する恐怖によって駆動される全体主義化的状況というのがある。恐怖の対象は何でもよいのかもしれない。それが目に見えないものであれば。オウムの場合、外部の社会の穢れたエネルギーが恐怖の対象となっていた。それは目に見えないが、確実に存在する。コスモクリーナーによって清浄化された道場の外は、穢れたエネルギーに満ちた澱んだ世界である、とオウム信者には感じられていた。恐怖の対象が穢れたエネルギーやテロリストのように目に見えないものであるとき、事態は厄介になる。どこにいるかわからない敵は、恐怖する人にとってはどこでもいる存在として感じられる。一見したところの敵の不在は、敵の遍在を意味するようになる。オウムが毒ガスを使ったというのは、きわめてシンボリックなことで、見えない敵に対して見えない武器によって対抗したと考えると論理的に筋が通ってくる。

急進派環境運動にも見えない何かへの恐怖によって駆動されているところがあって、地球危うし的な危機感。しかし、そういうとても大きな話であるのだけれど、日常的に僕らが実感するのはゴミの分別という小さな行為だったりする。その理念と行為の間のスケールのギャップについて違和感を感じる、というAの発言。そこから議論は紛糾しつつも、話をすすめて、恐怖は人類の繁栄に役立つかも知れない、というHAGA★さんの結論へと議論は展開していく。

冷戦後の世界情勢を見渡すと、国家間、民族間の紛争。こんなことをつづけていては、人類の繁栄は覚束ない。人類が一致団結することは可能か。そこでのHAGA★さんの結論は、「エイリアン来襲」(!)というものだった。さすが、「ムー」好き(通称「ムーヲタ)のHAGA★さんらしいトリッキーな結論。人類に外部がいないから人類が一体化できないのであれば、人類の外部に何らかの存在があれば一体化できるのではないか、という話。これは案外にまともな話で、政治的なものの概念は敵/友の区別であるといったシュミットが、人類に敵はいない、といったこととつながる議論。人類というカテゴリーには外部がないから、敵/友の政治が成り立たない。国民国家や民族は外部を前提とするがゆえに、敵/友の政治的区別が必然的に発生する。社会主義のインターナショナルとか、世界市民とか、グローバリゼーションにもつながるアクチュアルな問題。

話をエイリアンに戻すと、しかし、そもそもエイリアンが来襲したら人類の繁栄はありえないんじゃないか、という落ち。いや、でももし地球に優しいエイリアンが来れば、人類はあれでも生態系としての地球は繁栄するか。

議論のなかでは、恐怖と不安の差異についてなど。哲学的伝統では、対象が明確であるときに発生する感情が「恐怖」であり、対象が不明確であるときの感情が「不安」。死の恐怖は死が確実に到来するということに対して発生する感情であり、死の不安は死がどのようなものかわからないことに由来する感情である。というふうに、恐怖と不安を分けて考えるとわかりやすい。

それから、対概念についても議論。不安の反対は安心か。そうすると、恐怖の反対は何だろう? 歓喜? 笑い? 安堵? 恐怖が取り除かれたときに到達する感情は安堵か。ホラー映画なんかは、恐怖を娯楽として享受するものであるけれど、あれは恐怖と安堵の弁証法というか、緊張と弛緩に妙味があるのかも知れない。その意味では恐怖は笑いと通じるか(枝雀師匠の笑い理論を参照)。

現代日本社会における恐怖と不安は何か、という問題も。集合的恐怖/個人的恐怖、集合的不安/個人的不安、といったところを分けて考える必要がありそうだ。とくに、戦後日本社会において、集合的恐怖・不安/個人的恐怖・不安の社会史みたいな記述は必要だなあと思った。これは今後の宿題。

最後にひとつ。HAGA★さんのキーワードは、「人類の繁栄」と「ムー」だった、ということで(本当はもっと「ムー」の話をしたかったらしい)。(ワタナビ記)

yayakoshiken at 19:00|PermalinkComments(1)TrackBack(0)定例会