弥生時代に、どんなイメージをもってらっしゃいますか?
稲作が始まり、それによって身分の上下ができた。
そしてそれが戦の原因となり、それが激しくなっていく。
鉄器により武具が作られて、戦でたくさんの人が亡くなった。
身分の高い人物が大型建物を作り、銅鐸で祭りを行う……。
ざっとそんな感じではないでしょうか?
縄文時代は戦がなく、感性の深い人々が暮らしていたという考え、今、なんだか流行ってますよね?
そういう人たちの目に、弥生時代は、「退化」とも感じられるようですね。
日本オリジナルの前方後円墳が誕生した古墳時代と、自然と共生していた縄文時代にはさまれて、弥生時代は、なんだか肩身が狭い感じです。
でも、最新の研究によって、これまでの「弥生時代観」は大きく変化しています。
それがこの展示のテーマでした。
そもそも弥生時代の定義は、稲作が始まった時代と理解して、だいたい良いようです。
稲作流入ルートは、
・韓国の石器農具とそっくりな石器農具が北九州で見つかっていること
・鍬や鋤などの道具が、現在とほぼ同じ、完成した形で見つかっていること
などから、韓国から北九州へ入ったと考えられます。
少し前まで、縄文時代には稲作が始まったという説もありましたが、その根拠となる、縄文土器に残った稲籾の跡は、最新の「土器付着種圧痕」のレプリカ法により、豆類やエゴマ類であることがわかっており、稲作の伝来は、弥生時代の始まりとほぼ同時であると考えられます。

また、調理法は現在のような焚き干し法ではなかったようです。
調理用土器にお湯を斜めにこぼした跡があること、土器の内側に転々と焦げ跡があることから、大量のお湯で茹でたあと、お湯をこぼし、熾火の上で土器を転がす方法だったと考えられます。
これは現在でも東南アジアで使われている米の調理法だそうで、稲作当初の時代はおしなべてこの調理法だったのではないかと。
日本で現在の焚き干し法が始まるのは中世だそうです。

大型掘立柱建物が造られるのは弥生時代中期だとされ、つまり、弥生時代の始まりは紀元前10世紀ごろまで後退するんじゃないかとなった。
ちなみに池上曽根遺跡の掘立柱遺跡が出来た時代、中国では万里の長城がつくられ、イタリアではコロッセオが造られていました。
また、弥生時代が始まったと考えられる西暦前10世紀は、中国でもごく一部でしか鉄器が使われておらず、弥生時代の始まりは、石器が使われていたと考えられます。
鉄器が入ってきたのは弥生時代前期末から中期の始めと考えられ、そのすぐ後には、北九州で製鉄が始まりました。
近畿では製鉄のあとがほとんど見つかっておらず、近畿は製鉄の文化が根付かなかったようなのですが、その理由として、
「石器の交換による交流が頻繁かつ重要だったので、その素晴らしい交流を壊す鉄器を退けたからだ」
という考え方があるそうです。
つまり、関西人は便利さより人づきあいを大事にしたということでしょうか。
う~ん、弥生時代も関西人は、関西人(笑)
また、かつては、弥生人が縄文人を侵略したという考えが主流でしたが、たとえば弥生土器も、縄文土器の名残が見つかっており、縄文人が弥生文化を受け入れていった経緯が見えます。
弥生土器は無文のつるっつるなのが基本で、これは韓国の土器文化の影響だと考えられます。
韓国には土器に模様をつける文化がないそうで。

つまり、縄文人が侵略されて弥生文化に塗り変わったというより、縄文人が弥生文化を受容したと考えるほうが自然なんです。
さらに、弥生時代は戦の時代であるというのも、現在では見直されています。

そもそも弥生時代に激しい戦があったと考えられたのは、体中に10以上の鏃が打ち込まれた骨が出土したことや、鏃が食い込んだ骨、刃物跡がある骨が発見されたことが根拠なのですが、考えてみてください。
戦で、10以上の鏃が打ち込まれるって、不自然じゃありませんか?
だから現在では、これはなんらかの儀式……神への人身御供のような……の跡じゃないかとも考えられているそうです。
それでも残酷ですけどね。
また、鏃が食い込んだ、刃物跡がある骨がどこか調べると背中側だとわかりました。
つまり背後から襲われているわけで、戦というより奇襲にあったと考えるほうが自然です。
などという研究から、「弥生時代にも、さほど大きな戦があったとは言えない」と、現在では結論づけられているそうです。
交流が豊かになったのも弥生時代。
それは、産地から離れた場所で土器が見つかっていることや、分銅が見つかっていることからもわかります。
石粒のセットがなぜ分銅だとわかるかというと、一番小さい石粒の重さを基準とし、その倍、さらにその倍の石粒がひとかたまりになっているからです。

金印が贈られたのも弥生時代。
最後に、弥生時代が始まった時期が、北九州西暦前10世紀、近畿で西暦前6世紀と大きな差があるという問題があるそうです。
これでは弥生時代の始まりがいつとは言えない。
とはいえ、弥生文化が日本を埋め尽くしていく経緯を見ることで、その地域の意識の違いや文化の違いがわかるのは興味深いことです。
たとえば祭りに使われた青銅も、北九州は武具型のものが多いのに対して、近畿では銅鐸が断然多いのだそうで。
関西人は弥生時代から勇ましさよりも楽しさを重視したんでしょうかね。
弥生時代の印象、変わりましたか?
興味をもたれた方はぜひ弥生博へ。
8月30日までです。
そしてできれば土曜日の10時半から開催される、学芸員さんによる展示解説へ。
理解の深まり方が段違いですよ!!
稲作が始まり、それによって身分の上下ができた。
そしてそれが戦の原因となり、それが激しくなっていく。
鉄器により武具が作られて、戦でたくさんの人が亡くなった。
身分の高い人物が大型建物を作り、銅鐸で祭りを行う……。
ざっとそんな感じではないでしょうか?
縄文時代は戦がなく、感性の深い人々が暮らしていたという考え、今、なんだか流行ってますよね?
そういう人たちの目に、弥生時代は、「退化」とも感じられるようですね。
日本オリジナルの前方後円墳が誕生した古墳時代と、自然と共生していた縄文時代にはさまれて、弥生時代は、なんだか肩身が狭い感じです。
でも、最新の研究によって、これまでの「弥生時代観」は大きく変化しています。
それがこの展示のテーマでした。
そもそも弥生時代の定義は、稲作が始まった時代と理解して、だいたい良いようです。
稲作流入ルートは、
・韓国の石器農具とそっくりな石器農具が北九州で見つかっていること
・鍬や鋤などの道具が、現在とほぼ同じ、完成した形で見つかっていること
などから、韓国から北九州へ入ったと考えられます。
少し前まで、縄文時代には稲作が始まったという説もありましたが、その根拠となる、縄文土器に残った稲籾の跡は、最新の「土器付着種圧痕」のレプリカ法により、豆類やエゴマ類であることがわかっており、稲作の伝来は、弥生時代の始まりとほぼ同時であると考えられます。
米の種類は長粒種、短粒種、赤米、黒米など多種多様で、環境に適した米が育てられていたようです。

調理用土器にお湯を斜めにこぼした跡があること、土器の内側に転々と焦げ跡があることから、大量のお湯で茹でたあと、お湯をこぼし、熾火の上で土器を転がす方法だったと考えられます。
これは現在でも東南アジアで使われている米の調理法だそうで、稲作当初の時代はおしなべてこの調理法だったのではないかと。
日本で現在の焚き干し法が始まるのは中世だそうです。
30年ほど前までは、弥生時代の始まりは西暦前3~4世紀とされていたのですが、池上曽根遺跡で大型掘立柱建物が発見され、放射性炭素同位体比年代測定法で、それが西暦前1世紀のものだとわかったんです。

ちなみに池上曽根遺跡の掘立柱遺跡が出来た時代、中国では万里の長城がつくられ、イタリアではコロッセオが造られていました。
また、弥生時代が始まったと考えられる西暦前10世紀は、中国でもごく一部でしか鉄器が使われておらず、弥生時代の始まりは、石器が使われていたと考えられます。
鉄器が入ってきたのは弥生時代前期末から中期の始めと考えられ、そのすぐ後には、北九州で製鉄が始まりました。
近畿では製鉄のあとがほとんど見つかっておらず、近畿は製鉄の文化が根付かなかったようなのですが、その理由として、
「石器の交換による交流が頻繁かつ重要だったので、その素晴らしい交流を壊す鉄器を退けたからだ」
という考え方があるそうです。
つまり、関西人は便利さより人づきあいを大事にしたということでしょうか。
う~ん、弥生時代も関西人は、関西人(笑)
また、かつては、弥生人が縄文人を侵略したという考えが主流でしたが、たとえば弥生土器も、縄文土器の名残が見つかっており、縄文人が弥生文化を受け入れていった経緯が見えます。
弥生土器は無文のつるっつるなのが基本で、これは韓国の土器文化の影響だと考えられます。
韓国には土器に模様をつける文化がないそうで。
でも、日本の弥生土器には木の葉文などがついています。

さらに、弥生時代は戦の時代であるというのも、現在では見直されています。

そもそも弥生時代に激しい戦があったと考えられたのは、体中に10以上の鏃が打ち込まれた骨が出土したことや、鏃が食い込んだ骨、刃物跡がある骨が発見されたことが根拠なのですが、考えてみてください。
戦で、10以上の鏃が打ち込まれるって、不自然じゃありませんか?
だから現在では、これはなんらかの儀式……神への人身御供のような……の跡じゃないかとも考えられているそうです。
それでも残酷ですけどね。
また、鏃が食い込んだ、刃物跡がある骨がどこか調べると背中側だとわかりました。
つまり背後から襲われているわけで、戦というより奇襲にあったと考えるほうが自然です。
などという研究から、「弥生時代にも、さほど大きな戦があったとは言えない」と、現在では結論づけられているそうです。
交流が豊かになったのも弥生時代。
それは、産地から離れた場所で土器が見つかっていることや、分銅が見つかっていることからもわかります。
石粒のセットがなぜ分銅だとわかるかというと、一番小さい石粒の重さを基準とし、その倍、さらにその倍の石粒がひとかたまりになっているからです。

金印が贈られたのも弥生時代。
最後に、弥生時代が始まった時期が、北九州西暦前10世紀、近畿で西暦前6世紀と大きな差があるという問題があるそうです。
これでは弥生時代の始まりがいつとは言えない。
とはいえ、弥生文化が日本を埋め尽くしていく経緯を見ることで、その地域の意識の違いや文化の違いがわかるのは興味深いことです。
たとえば祭りに使われた青銅も、北九州は武具型のものが多いのに対して、近畿では銅鐸が断然多いのだそうで。
関西人は弥生時代から勇ましさよりも楽しさを重視したんでしょうかね。
弥生時代の印象、変わりましたか?
興味をもたれた方はぜひ弥生博へ。
8月30日までです。
そしてできれば土曜日の10時半から開催される、学芸員さんによる展示解説へ。
理解の深まり方が段違いですよ!!