開館30周年記念で力の入ったこの特別展。
塚本浩司統括学芸員による展示解説があったので、聴講してきました。

テーマは、近畿における、弥生時代開始時の状況です。
以前から、塚本学芸員の展示は、何か一つの説を提唱しようとするとき、膨大な傍証を上げておられて、強い説得力があると感じています。
だけど学問は、いくらたくさんの傍証があっても「だからこうだったのであ~る」と言い切ることを許しません。
「〇〇だったのかもしれません」と控えめに言わなくちゃいけないから、人はトンデモに走るのでしょう。

膨大な傍証を一つ一つなぞっても仕方ないので、その傍証から何が言えるのかってところを探ってみたいと思います。

今回の企画展で強く表現されているのは、なんといっても、

近畿(影響を受け合う四国も)における多くの遺跡から出土する初期の弥生土器には、東日本の縄文土器に特徴的な突帯文が見られる

ということではないかと思います。
弥生土器が縄文土器と大きく違うのは、甕や壺、高坏など、用途によって形が変わる点です。九州の遠賀川式土器の壺は首がくびれており、後期になるほど細く長くなります。
近畿では遠賀川式土器に酷似した弥生土器がたくさん出土されている……ということはつまり、首のある土器は弥生土器である、と今回の記事では短絡しちゃいましょう。

たとえば縄文時代後期から弥生時代初期に跨がる集落が検出され、近畿最古とされる讃良郡条里遺跡では、他の近畿の遺跡ではほとんど見られない首が太い弥生土器に突帯文がつけられています。
突帯文土器と遠賀川式土器がほとんど重なるように出土したところもあり、普通なら共存していたと判断しても差し支えないのだけれど、土の堆積状況から、時間差がある可能性も考慮されているとのこと。
つくづく、研究者は慎重です。
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これは安満遺跡から出土した弥生土器。
首がキュッとしまっており、同時に突帯もありますね?

あと、石棒も出土する。
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これは、西から遠賀川式土器を弥生文化の担い手たちがやってきて、縄文人と共存した、あるいは弥生人の文化に影響を受けて、縄文人が弥生土器が使うようになったと考えられるわけです。
共存の期間が短いか長いかは、研究者によって考えが違うそうで、縄文人がどのように弥生文化を受容したのか結論は出ていません。

ただ、弥生人が縄文人を侵略したと考える研究者は今はほとんどいないとか。
侵略だけでなく、なんらかの支配があったとされる跡さえないそうです。

弥生人は少人数で日本に渡来し、集落に入り込んでいったイメージだと言います。
なぜ日本にやってきたのかはわかりませんが、当時気候が寒冷化し、北から南へと人々が移動し、その結果、朝鮮半島南部の人々があぶれて日本へやってきたとも。

ただし、弥生時代が進むと、いさかいも生まれます。
後の水田は、複数の水田域が一本の水路でつながっていて、システムが複雑化しており、集落が大きくなったらしいとわかります。
集落が大きくなれば、他の集落との軋轢も生まれる。
たとえば龍川五条遺跡からは古い段階の環濠が発見され、石鏃や石斧などの武器も。
でもこれも、農作をしながら定着するようになり、土地や作物の奪い合いが生じたためで、弥生人だからというわけではないでしょうね。

……でもさ。
縄文文化と弥生文化は肌合いがずいぶん違うでしょう?
縄文人が滅ぼされたからではないのだとしたら、人というものは、環境で大きく変わるってことなんでしょうかねぇ??

弥生時代にお米作りが始まった証拠がたくさん展示されていました。
米が出土し、収穫のための石包丁も出土しているほか、突帯文土器にも、米粒の圧痕が残っています。
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中期には池島・福万寺遺跡など、水田遺構がたくさん見つかるようになります。


二つ目のテーマは、他の地域との関わりでしょう。
興味深いのは、近畿では二上山のサヌカイトがあるにも関わらず、四国は金山産のサヌカイトや、四国の漁民が使っていた管状土錘……つまり、網の錘が出土することです。
特に弥生時代の最初の段階に限れば、金山からとれるサヌカイトが多用されるとか。
四国から多くの人が大阪へやってきたのか、あるいは物流が盛んだったのか、どちらでしょう。
やや新しい田井中遺跡からは、環状土錘が網に付いたままだったと推測される状態で出土していますし、金山産サヌカイトが非常に薄く削られ、貯蔵した状態で見つかりました。これは、打製石器として作る材料を溜めていたのだと考えられます。

東とのつながりもあります。
そもそも今回たくさん展示されていた突帯文は東の縄文土器の特徴です。

大阪のほとんどの遺跡で、長野県が文化の中心であった浮線網状文土器が出土します。
漆できれいに装飾された特別な土器は、現地で作られて大阪に運ばれたと考えられるとか。
大洞A1式土器と呼ばれる東北地方北部を中心に分布する土器も出土しています。
これかな???ちょっと自信がないんですが……。
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赤や黒にの彩色で丁寧に作られており、普段から作り慣れている人が作ったものだと考えられるとか。つまり、文化の中心地である東北の人が作ったらしいのですが、土器の粘土に含まれる鉱物から、どうやら北陸で作られたと考えられるそうです。この時代に、列島を横断するようなダイナミックな人の移動があったということがわかるわけです。

また、表面に鮮やかな模様が描かれるなど、美しい漆塗りの遺物も見つかっており、西日本の縄文時代に高度な漆の技術を使ったものが確認されていないことから、東からの影響を偲ばせます。
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弥生時代前期の終わりになっても、典型的な弥生の壺に、東日本の縄文の特徴を持つ木葉文が残されていたりします。

最後に祭具について。
縄文時代の土偶石棒は、西日本ではあまり盛んに用いられていないのですが、縄文時代から弥生時代の移り変わる時期に限って、使われています。
西日本の縄文遺跡からは、精神文化に関する遺物があまり出土しないとされますが、弥生時代への移行期にはたくさん確認できるとか。
なぜかはわかりませんが、縄文人が弥生文化に対応する中でストレスを感じ、伝統的な祭りを強化したという考え方もあるそうです。
弥生時代が進むと、立体的な人型の土偶も出土しますが、性別がはっきりしていないとか。
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これなんかは縄文時代の土偶とは全然違う表現ですよね。
顔の線は入れ墨、いわゆる鯨面じゃないかとのことでした。
縄文時代の土偶は乳房が表現されているように女性です。
だから、土偶が造られた理由は違うんでしょうね。

祭祀具はスラリと一新し、鳥が穀物霊を運ぶとする信仰から鳥型木製品や、銅鐸も登場します。
銅鐸は朝鮮半島の小型で文様のないものが独自に変化したもので、日本では大型化し、さまざまな絵や文様がつけられるようになります。
東奈良遺跡の銅鐸は丸い模様がついていて、東日本の影響ではないかと考えられるとか。
つまり、弥生らしい遺物にも東日本の伝統が取り入れられているわけですね。

縄文人がどのように弥生文化を受容したのか、さまざまな視点があります。
「すごい」と感じるところは真似するでしょうし、一種の劣等感を感じたかもしれないし、真似しようとしてできなければ悔しいでしょうし。

いろいろ考えてしまった今回の展示ですが、個人的には、縄文人が弥生人に、
「稲作を教えて~」
と頼んで招致したって考えるのが自然なのかなぁと思ったりします。

でもそれで、縄文スピリッツが失われたんなら、ちょっと不本意……。

どうなんでしょうねぇ?