2017年3月2日(木)曇り

雨が降るかと思われたが曇りの暖かい早春 東山界隈を歩いた。
幕末・明治維新期の志士を祀る京都霊山護国神社から博物館霊山歴史館を見学した。
更に「京の冬の旅非公開文化財特別公開」で”17年ぶりの公開 大方丈・小方丈・方丈庭園”が
開催されている徳川家の永代菩提寺である知恩院を訪問した。

IMG_1798

万歩計
22,500歩
15.0km

10:00 雨が止んだ 阪急河原町駅
IMG_1680
 北山には雨雲
IMG_1681
 花見小路を南へ
IMG_1684
 4月には都をどり
IMG_1685
八坂の塔(法観寺)
IMG_1687
祇園の雰囲気のある小道
IMG_1688
石塀小路を東へ
IMG_1690
ねねの道
IMG_1691
東へ
IMG_1693

霊山護国神社 鳥居
IMG_1694
IMG_1695
京都霊山護国神社
IMG_1696
IMG_1697
北側には霊山観音
IMG_1699

翠紅館((すいこうかん)跡
IMG_1701
幕末の頃、翠紅館と呼ばれていた屋敷があり、たびたび志士達の会合の場となっていた。.
文久三年(一八六三)正月二十七日には、土佐藩の武市半平太、長州藩の井上聞多、久坂玄瑞
ら多数が集まり、ついで同年六月十七日にも、長州藩の桂小五郎、久留米藩の真木保臣(和泉守)
らが集まった。
この数年前から、攘夷運動は次第に高まり、反幕府の政治勢力となりつつあったが、
これら各藩の志士代表者会議で、攘夷の具体的な方法が検討され、世にこれを翠紅館会議という。
IMG_1700
IMG_1702
 
維新の道 石碑
IMG_1704
明治百年の1968年(昭和43年)に発足した霊山顕彰会の手で付近一帯が再整備され、
1970年、「維新の道」と称されるに至ったと記されています。
IMG_1705
IMG_1706
 
10:30 京都霊山護国神社
IMG_1708

京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)
京都府京都市東山区にある神社である。

1862年(文久2年)、時衆霊山派の正法寺の中の神道葬祭場霊明社において有志者による神葬祭が
行われたのが神社の始め。祭神は菊理媛神・速玉男命・事解男命の
3神(他に相殿3神)。

菊理媛神(くくりひめのかみ)は、白山信仰の神

速玉男命(はやたまおのみこと)事解男命(ことさかのおのみこと)は熊野の神


1868
629日(慶応4510日)、明治天皇から維新を目前にして倒れた志士たち(天誅組など)
の御霊を奉祀するために、京都・東山の霊山の佳域社を創建せよとの詔・御沙汰が発せられた。
それに感激した京都の公家や山口・高知・福井・鳥取・熊本などの諸藩が相計らい京都の霊山の山頂
にそれぞれの祠宇を建立したのが神社創建のはじまりであり、招魂社である。
靖国神社より古い歴史を持つ
招魂社である


当初の社号を霊山官祭招魂社と称し、社格にはとくに「官祭社」に列し国費で営繕されてきた。
1936年(昭和11年)、支那事変(日中戦争)をきっかけとして国難に殉じた京都府出身者の英霊を
手厚く祀ろうという運動がおき、霊山官祭招魂社造営委員会が組織され、境内を拡大して新たに
社殿を造営した。

IMG_1709

入母屋造りの拝殿
IMG_1711
IMG_1712
霊山招魂社
IMG_1713

本殿は流れ造り 千木外削ぎ 鰹木5本
IMG_1716
IMG_1764

 神紋は桜に菊。
IMG_1720

1939年(昭和14年)41日、内務大臣布告によって現在の社号である京都霊山護国神社と改称された。戦後は宗教法人・神社本庁の包括下におかれ、国家の手を離れた。
GHQ占領下においては京都神社に改称していたが、独立後は元の社名に復した。
1970年(昭和45年)、境内に明治維新関係の資料を展示する「霊山歴史館」が開館した。
2002年(平成14年)、神社本庁との包括関係を解消。


祭神の中には京都で暗殺された坂本龍馬も含まれており、境内に銅像が作られている。


龍馬のほかに、木戸孝允、中岡慎太郎、頼三樹三郎、梅田雲浜、吉村寅太郎、平野国臣、久坂玄瑞、
高杉晋作、宮部鼎蔵、田岡俊三郎ら幕末勤王の志士
1,356柱、明治以降の日清戦争、日露戦争、
太平洋戦争などの戦死者を合わせ約
73000柱が祭神として祀られている。 
また、平成244月には特攻勇士の像が建立された。

IMG_1719

「日本で墓参りにお金がいる唯一の場所」と云われている維新の志士の墓
300円で自動入口
龍馬墓入口
沢山の墓が在り 見つけるのが大変
IMG_1722
IMG_1723
隣に霊山歴史館
IMG_1724
京都市内が一望
IMG_1728

坂本龍馬 中岡慎太郎の墓
IMG_1729
IMG_1730

龍馬の墓
IMG_1731

中岡慎太郎の墓
IMG_1732
IMG_1733
誕生日であり命日でもある1115日には、龍馬の遺徳を偲び霊を慰める龍馬祭が行われる。
(誕生日・命日は本来は旧暦
1115日だが、祭は新暦1115日に行われる)
IMG_1734

一番高い所へ登る
IMG_1738

墓地の最高地点に 立派な桂小五郎 幾松 墓所
さすが明治新政府内閣顧問
IMG_1740

木戸孝允(桂小五郎)の墓碑
IMG_1741
IMG_1746

孝允妻松子(幾松)の墓
IMG_1743
IMG_1745

IMG_1747

水戸藩招魂社
IMG_1749
IMG_1748

高杉晋作、来島又兵衛、
久坂玄端、の墓が並んでいる
IMG_1756
高杉晋作 墓
IMG_1757
久坂
玄端 墓
IMG_1758

大村益次郎 墓
IMG_1760

天誅組志士
IMG_1761
IMG_1762

11:09 霊山歴史館
IMG_1771

霊山歴史館(りょうざんれきしかん)

昭和45年(1970)に、全国ではじめて幕末・明治維新期の歴史を総合的にとらえて研究する
専門博物館として京都に開館した。

幕末、京都は政治の中心地でしたが、この時代に活躍した志士、大名、天皇、公家のほか文人、画家
などの遺墨や遺品、書状、各種資料・文献などを収集、調査、研究し、公開展示を行っている。


坂本龍馬、中岡慎太郎、西郷隆盛、木戸孝允、高杉晋作など倒幕派志士の遺品とともに、新選組、
徳川慶喜、松平容保など幕府側に関する資料も数多くあり、倒幕・佐幕両派がともに活躍したこの地
で幕末維新史を双方の視点から見ることができるという特色がある。
 

公開は5000点を超える収集資料から約100点を選んで展覧会を行っている。

当館の運営は明治百年にあたる昭和43年(1968)に創設された霊山顕彰会(現・公益財団法人)
のメイン事業として行われている。

IMG_1772
IMG_1773

幕府側 新撰組の展示もある
IMG_1774

主役はやはり坂本龍馬
IMG_1786

霊山歴史館の創設者は松下幸之助氏である。初代館長でもある。

歴史館が生まれるきっかけとなったのは、京都霊山護国神社の境内に建つ志士たちの墓であった。
明治元年、国づくりに奔走した人々のために明治天皇の命を受けて志士たちの墓が建てられた。
しかし、戦後の高度経済成長の中で人々の記憶からは薄れていき、昭和
30年代には一帯は
すっかり荒れてしまっていた。


それを知った松下氏は、「明治維新の時代に生きた人々は、日本の近代化の基礎を築いた人々である。
そんな人々の墓が荒れていることは嘆かわしい」と心を痛めた。
そこで関西の財界人にも呼びかけ、明治維新から
100年の節目の年であった昭和43年(1968)に
霊山顕彰会(現・公益財団法人)を立ち上げ、墓地の復興事業を行った。
 

同時に、松下氏は神社に祀られている人々が実際はどのように生き、行動したかを伝えていく場が
必要であるとも考えた。その意志の元に昭和
45年(1970)霊山歴史館は誕生したのである。


現在では大河ドラマや歴史の特集番組など幕末・明治をテーマにした番組や映画が放映される際
には、制作協力も積極的に行われている。
関係者や出演者が事前に訪れることも多く、幕末維新専門の歴史博物館として広く知られている。


霊山歴史館の収蔵資料は
5,000点以上にのぼる。その中には坂本龍馬や中岡慎太郎、木戸孝允
(桂小五郎)、高杉晋作、西郷隆盛といった倒幕側の志士たちの遺品をはじめ、近藤勇や土方歳三ら
新選組、江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜など幕府側に関する資料も多数含まれている。
この倒幕側・幕府側双方の資料が揃っているところは、霊山歴史館の大きな特徴である。

館内は撮影禁止なのでネット等から頂く
IMG_20271


IMG_1790
土方歳三 刀 大和守源秀国
IMG_20251
IMG_20301
”梅の花 壱輪咲ても 梅はうめ”と詠んだ梅に思い入れがあった土方
IMG_20291

IMG_20331

展示の目玉 龍馬を切った刀
IMG_20341
龍馬を切った刀
越後守包貞の銘
IMG_20351
慶応3年11月15日、見廻組肝煎桂早之助がこの脇差を持って、京都・近江屋の一室で坂本龍馬を
斬ったといわれている。

当時調査した川田瑞穂(のち早大教授)は
「初より室内の闘争を予期して小太刀の名人のみを二階に闖入(ちんにゅう)せしめたのである。
予は桂早之助の娘婿桂利器の宅にて右に使用せし刀を見せて貰いたり、二尺に足るか足らぬか
脇差程度のものであった」と土佐史談に寄稿している。

桂早之助は西岡是心流を習い、17歳で目録を受け特に小太刀の名手だったといわれている。
慶応4年正月、鳥羽伏見の戦いで撃たれて戦死、行年28歳。

脇差はのちに桂家から霊山歴史館に寄贈された。
IMG_20431
当時のまま 手入れされてないので 刃こぼれしている
IMG_20441

龍馬暗殺の近江屋事件
坂本竜馬暗殺の近江屋事件
暗殺

新撰組
近藤勇の鎖帷子
近藤勇鎖帷子

IMG_20451
船中八策
IMG_20471
IMG_20481
IMG_20561

IMG_20501

IMG_20511
この○○○が誰か 新政府の盟主  龍馬は徳川慶喜を考えていたらしい。
つまり公武合体が龍馬の考えであった。(内戦無しでの維新を思考)
IMG_20541
IMG_20551
しかし龍馬死後 岩倉具視らによる王政復古の大号令→戊申戦争→明治維新と
繋がっていき内戦となった。
IMG_20581
この肖像画を元に500円札が造られたと云われるが左右が逆になっている。
IMG_20601

IMG_1788
IMG_1792
IMG_1794

12:12 霊山歴史館の見学を終わり 昼食へ



13:16 昼食後 知恩院へ向かう

IMG_20811


IMG_1804

円山公園の「祇園の夜桜」として有名な大きなシダレザクラ
IMG_1805


13:24 知恩院西門
IMG_1806

知恩院(ちおんいん)

京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。
詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん
 ちおんきょういん おおたにでら)。
本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然である。
 

浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような
大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。
徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて
「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。

なお他流で門跡に当たる当主住職を、知恩院では浄土門主(もんす)と呼ぶ。

 

知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が東山吉水(よしみず)、現在の知恩院勢至堂付近
に営んだ草庵をその起源とする。


法然
は平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国(岡山県)に生まれた。
13歳で比叡山に上り、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)する。
18歳で比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って
法然房源空と改名した。
法然は唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を
決意して比叡山を下りた。承安
5年(1175年)、43歳の時であった。


「専修念仏」
とは、いかなる者も、一心に弥陀(阿弥陀如来)の名を唱え続ければ極楽往生できる
とする思想である。
この思想は旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となった。法然は建永
2年(1207年)には讃岐国
(香川県)に流罪となり、
4年後の建暦元年(1211年)には許されて都に戻るが、翌年の1月、
80歳で没した。

 

法然の住房は現在の知恩院勢至堂付近にあり、当時の地名を取って「吉水御坊」「大谷禅坊」などと
称されていた。ここでの法然の布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、浄土宗を開宗する
43歳から生涯を閉じた80歳までの長きにわたり、浄土宗の中心地となった。


ここに法然の廟が造られ、弟子が守っていたが、嘉禄
3年(1227年)、延暦寺の衆徒によって破壊
されてしまう。文暦元年(
1234年)、法然の弟子にあたる勢観房源智が再興し、四条天皇から
「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜された。その後も永享
3年(1431年)の火災や応仁の乱
などで焼失するが、その都度再興されている。

応仁・文明の乱の際には、現在の滋賀県大津市にある金蓮寺に避難、その後現在の大津市内に
新知恩院を建立した。


現存の三門、本堂(御影堂)をはじめとする壮大な伽藍が建設されるのは江戸時代に入ってからの
ことである。
浄土宗徒であった徳川家康は慶長
13年(1608年)から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行った。

造営は江戸幕府
2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は元和7年(1621年)に建設された。
寛永
10年(1633年)の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼するが、3代将軍徳川家光の
もとでただちに再建が進められ、寛永
18年(1641年)までにほぼ完成している。
 

徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや知恩院25世超誉存牛
(ちょうよぞんぎゅう)が松平氏第
5代長親の弟であることの他に
二条城とともに京都における徳川家の拠点とすること徳川家の威勢を誇示し、京都御所を
見下ろし朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったと言われている


江戸時代の代々の門主は皇族から任命されたが、さらにその皇子は徳川将軍家の猶子となった。
IMG_1807

知恩院の境内

三門や塔頭寺院のある下段、本堂(御影堂)など中心伽藍のある中段、勢至堂、法然廟などのある
上段の
3つに分かれている。
このうち、上段が開創当初の寺域であり、中段、下段の大伽藍は江戸時代になって徳川幕府の
全面的な援助で新たに造営されたものである。
 
IMG_20691

国宝 三門
IMG_1808
IMG_1811

三門

本堂へ向かう急勾配の石段の途中に西面して建つ。
元和
7年(1621年)の建立(平成の大修理で同年の墨書が発見されている)。
五間三戸の二重門である。
(「五間三戸」は正面柱間が
5つで、うち中央3間が通路になっているもの。
「二重門」は
2階建てで、1階・2階の両方に軒の張りだしがあるものをいう。)
高さ
24メートルの堂々たる門で、東大寺南大門より大きく、現存する日本の寺院の三門(山門)
のなかで最大の二階二重門である。
組物(軒の出を支える構造材)を密に並べるなど、細部の様式は禅宗様であり、禅寺の三門に似た
形式である。
 

元和7(1621)、徳川二代将軍秀忠公の命を受け建立され、平成14年には国宝に指定された。

構造は入母屋造本瓦葺(いりもやづくりほんがわらぶき)で、高さ24メートル、横幅50メートル、
屋根瓦約
7万枚。その構造・規模において、わが国現存の木造建築として最大級の二重門で、
外に掲げられている「華頂山」の額は、大きさは畳二畳以上にもなる。
この扁額は霊元上皇(れいげんじょうこう)による宸筆である。
IMG_1814
一般には寺院の門を称して「山門」と云うに対し、知恩院の門は、「三門」と云う。

これは、「空門(くうもん)」「無相門(むそうもん)」「無願門(むがんもん)」という、
悟りに通ずる三つの解脱の境地を表わす門(三解脱門:さんげだつもん)を意味している。
IMG_1815
三つ葉葵の徳川家の家紋
IMG_1816
三門に続く男坂
IMG_1817
IMG_1818

国宝御影堂(みえいどう)

IMG_1820

御影堂は現在大修理中。
平成23年に法然上人800年大遠忌を迎えるのにあたり、国宝・御影堂の半解体をともなう大修理を
計画、
大修理は8年計画で屋根瓦の全面葺き替えをはじめ腐朽、破損箇所の取り替えと補修、
軒下の修正、耐震診断調査に基づく構造補強などを行う。

本瓦葺きは完成している様子である。

IMG_1970

俗に「大殿(だいでん)」と称するこの建物は、元祖法然上人の御影(みえい)をまつることから、「御影堂(みえいどう)」の名を持ち、知恩院の中心のお堂である。
 

御影堂は寛永10年(1633年)の火災で一度焼失したが、寛永16(1639)江戸幕府第三代将軍
徳川家光公の手によって
6年かけて再建され、平成14年には国宝に指定された。
建築様式は唐様を取り入れた和様、大きさは、奥行
35メートル、間口45メートル。
周囲に幅
3メートルの大外縁をめぐらすというスケールの大きさとなっている。

その壮大な伽藍は、念仏のみ教えの中心としてふさわしく、その後約400年にわたり多くの参拝者
を受け入れてきた。
特に盆会、彼岸会などの法要時、毎年
4月に行われる法然上人の御忌大会(ぎょきだいえ)、
12月の御身拭式(おみぬぐいしき)などでは、広い外陣が参拝の方々で埋めつくされる。
IMG_1822

阿弥陀堂

本堂の向かって左に東面して建ち、本尊阿弥陀如来坐像を安置する。
IMG_1823
明治時代の再建だが、正面に掲げられている「大谷寺」という勅額は、後奈良天皇の宸筆である。
後奈良天皇の宸筆であり、知恩院の寺号をあらわしている。
IMG_1827
御影堂の西側に建つ阿弥陀堂は、明治年間に建てられた唯一の建造物。

その昔、阿弥陀堂は知恩院第二世勢観房源智上人によって勢至堂の前に建立されたが、
宝永
7(1710)に現在の位置に移築。明治にはいって荒廃が進み、いったん取り壊され、
明治
43(1910)に再建され、現在にいたる。
IMG_1824
本尊は阿弥陀如来座像で高さ2.7メートル。
東面して座す阿弥陀如来を礼拝する人は、西を向き西方極楽浄土へ心を通わせる。
IMG_1825

IMG_1831

「法然上人御堂」

総本山知恩院では元祖大師御尊像をおまつりする集会堂を、御影堂修理工事の期間に限り
「法然上人御堂」
(ほうねんしょうにんみどう)と称している。 
御尊像は工事終了まで法然上人御堂にご安置される。御厨子(おずし)は常に開いているので、
近くでご尊顔を拝むことができる。

京の冬

大方丈・小方丈・方丈庭園 特別公開
京の冬1
IMG_1834
IMG_1835
御影堂工事の間 法然上人尊像をこちらにお祀りしている。
IMG_1836
IMG_1839

特別公開の方丈に入る。
撮影禁止なのでネット等から頂く。

方丈

知恩院には、大方丈(おおほうじょう)と小方丈(こほうじょう)の2つの方丈があり、
どちらも寛永
18(1641)の建築、洛中随一の名書院として知られています。
将軍が京へ上った時にすごす為に家光に時代に造られたが、家光は来ていない。
幕末迄に14代家茂、15代慶喜がそれぞれ一度づつ来たのみである。


鶯張りの廊下(知恩院七不思議の一つ

鶯張り
大方丈、小方丈に至る廊下は、全長550メートルもの長さがある。

歩くと鶯の鳴き声に似た音が出て、静かに歩こうとするほど、音が出るので「忍び返し」ともいわれ
曲者の侵入を知るための警報装置の役割を担っているとされている。
鶯張り内部
鶯張りの構造
また鶯の鳴き声が「法(ホー)聞けよ(ケキョ)」とも聞こえることから、不思議な仏様の法を

聞く思いがするともいわれている。


大杓子(七不思議の一つ)

大方丈入口の廊下の梁に置かれている大きな杓子。大きさは長さ2.5メートル、重さ約30キログラム。
大杓子
伝説によると三好清海入道が、大坂夏の陣のときに大杓子をもって暴れまわったとか、
兵士の御飯を「すくい」振る舞ったと云う。

「すくう」すべての人々を救いとるといういわれから知恩院に置かれ、阿弥陀様の慈悲
の深さをあらわしている。


抜け雀(七不思議の一つ)

大方丈の菊の間の襖絵は狩野信政が描いたものである。紅白の菊の上に数羽の雀が描かれていたが、
あまり上手に描かれたので雀が生命を受けて飛び去ったといわれている。
現存する大方丈の襖絵には飛び去った跡しか残っていないが、狩野信政の絵の巧みさを表した話
といえる。
 
抜け雀

大方丈 金碧障壁画(狩野派)

大方丈金碧障壁画

三方正面真向(まむき)の猫 (七不思議の一つ)

大方丈の廊下にある杉戸に描かれた狩野信政筆の猫の絵で、どちらから見ても見る人の方を
正面からにらんでいるので「三方正面真向の猫」と呼ばれている。
 

親猫が子猫を愛む姿が見事に表現されており、親が子を思う心、つまり我々をいつでもどこでも
見守って下さっている仏様の慈悲を表している。

三方正面真向の猫

小方丈
襖には狩野派の絵が描かれているが、大方丈に比べ淡彩で落ち着いた雰囲気に包まれる。
奥の上段の間は将軍が座る 

小方丈水墨画

唐門
IMG_1843
大方丈玄関に通ずる門で、寛永18(1641)造営。江戸初期の建築であるが、桃山時代の彫刻
を生かしている。
牡丹唐草、鯉魚に乗る老人、巻物を持ち鶴に乗る老人および松を配した
細かな彫刻がなされている。

IMG_1844
IMG_1845
 

方丈庭園
IMG_1848
江戸時代初期の寛永10(1633)に作庭が始まる。南庭と北庭で構成される。京都市指定名勝。
IMG_1847
方丈庭園は江戸時代初期に小堀遠州と縁のある僧玉淵によって作庭されたと伝えられる庭園。
IMG_1849
池泉回遊式の庭園で、方丈の華麗な建築と背後に迫る東山の風光とともに、
情緒あふれる美しい風景を醸しだしている。
IMG_1854

大方丈

IMG_1850
IMG_1853
IMG_1854

小方丈
IMG_1858
IMG_1859
IMG_1860

「二十五菩薩の庭」
IMG_1862
阿弥陀如来が西方極楽浄土から25名の菩薩を従えて来迎する様を石と植込みで表現したものである。
IMG_1861
IMG_1865

権現堂
IMG_1869
小方丈のさらに奥に建つ小規模な仏堂。

IMG_1871
内部には知恩院の造営に関わった徳川三代(徳川家康・秀忠・家光)の位牌と肖像画を安置する。
IMG_1870

IMG_1891

大鐘楼

宝仏殿裏の石段を上った小高い場所に建つ。
IMG_1893

この大鐘は、寛永13(1636)、知恩院第32世雄誉霊巌上人のときに鋳造されたもの。

また、大鐘を支える鐘楼は延宝6(1678)、知恩院第38世玄誉万無上人のときに造営されたもので、
国内最大級の大鐘を支える堂々とした佇まいを見せている。

IMG_1896
高さ3.3メートル、直径2.8メートル、重さ約70トン。

知恩院の釣鐘は、京都方広寺(80トン)、奈良東大寺(30トン)と並ぶ大鐘として知られている。
IMG_1894
IMG_1899

この大鐘が鳴らされるのは法然上人の御忌大会(4月)と大晦日の除夜の鐘だけであるが、

とりわけ除夜の鐘は親綱1人・子綱16人の17人で撞き、京都の冬の風物詩となっている。

以下は年末の試し撞きの様子
IMG_20841
IMG_20831

御廟へ上る。
IMG_1910
IMG_1912
IMG_1913
IMG_1915
IMG_1916

勢至堂(本地堂)

境内東側、急な石段を上った先の小高い場所にあり、本地堂とも呼ばれる。
付近は法然の住房のあった地である。入母屋造本瓦葺き。
IMG_1918
寺内の建物では最も古く、室町時代享禄
3年(1530年)の建築。建立当初は本堂(御影堂)であった。
IMG_1920
IMG_1919
勢至堂(せいしどう)の地は、法然上人が終焉を迎えるまで念仏のみ教えを自ら広めた大谷の禅房
の故地であり、知恩院発祥の地でもある。
堂内正面に掲げられている額「知恩教院」は後奈良天皇の宸翰であり、知恩院の名の起源である。
IMG_1922
現在の勢至堂は享禄3年(1530)に再建されたもので、七間四面単層入母屋造本瓦葺、
桁行
21メートル、梁行20メートルの現存する知恩院最古の建造物である。
IMG_1921
内陣厨子内に安置する本尊勢至菩薩坐像は鎌倉時代の作で、2003年に重要文化財に指定されている。
至菩薩を本尊とする堂は他にほとんど例を見ないが、浄土宗では法然を勢至菩薩の生まれ変わり
としており(法然の幼名は「勢至丸」であった)、法然の本地仏として造立されたものと思われる。
IMG_1923
本尊はもともと法然上人のご尊像(御影)であったが、現在の御影堂が建立された時に移されたため、
それ以降は上人の本地身(ほんじしん)とされる勢至菩薩像(重要文化財)をご本尊としてまつって
いる。これが勢至堂といわれる由縁。

IMG_1924
IMG_1925
知恩院境内の中でも、静穏な空気に包まれた、念仏発祥の地にふさわしい聖地である。

紫雲水
IMG_1928
勢至堂の傍ら、御廟の崖下に紫雲水というある小さな池があり、法然上人ご入滅の時、
聖衆が来迎し紫雲が水面に現れ、芳香が漂ったという言い伝えが残っている。
IMG_1927
 

千姫の墓
IMG_1929
二代将軍 徳川秀忠の長女(1598-1664)。幼くして、豊臣秀吉の息子 秀頼の元へ嫁ぐが、
大坂の陣により徳川家の元へ保護された。

その後、姫路城主 本田忠政の嫡男 忠刻のもとへ再嫁したが、忠刻らの病死により、
弟の三代将軍
 徳川家光の元へ戻る。
千姫は出家して天樹院と号し、江戸の竹橋御殿で余生を過ごしたといわれている。享年
70歳。
IMG_1930
 

濡髪大明神

「千姫(徳川秀忠公の長女)の墓」の先に「濡髪(ぬれがみ)祠」と掲げられた鳥居が見える。
IMG_1934
御影堂ができたために住家を追われたキツネが、知恩院第三十二世雄譽霊巌(れいがん)上人に
お願いし、代わりに用意してもらったのが、この「濡髪大明神」である。
IMG_1935
「濡髪」という名前は、童子に化けていたときに髪が濡れていたことに由来する。
 
もともとは火災除けの神様としてお祀りされていたが、「濡髪」が艶やかな女性の姿をイメージ
させることから、祇園町のきれいどころの信仰を集め、今日では縁結びの神様「濡髪さん」として
親しまれている。
IMG_1937
舞妓さんや芸妓さんの名前がずらり
IMG_1938
 

一段上に御廟がある。
IMG_1963
唐門がある。
IMG_1961
御廟

法然上人のご遺骨をご奉安する廟堂。方三間の宝形造本瓦葺で、周囲には唐門のある玉垣が
めぐらされている。
法然上人は建暦
2年(1212)、この地にあった大谷の禅房でご入滅されたが、その後、門弟たち
によって廟堂が建てられ、ご遺骨がご奉安された。

しかしその後嘉禄の法難(かろくのほうなん)により法然の遺骨がさまよう事になる。

それは法然死後に、天台宗の延暦寺衆徒により浄土宗と専修念仏が弾圧された事件である。
嘉禄
3年(1227年)、法然が死去してから十五年がたっていたが、専修念仏は法然が生きていた
時代以上にその広まりを強くしていた。

特に東山の法然廟所(現、知恩院の法然上人御廟)では法然の命日である二十五日になると
専修念仏者によって大規模な法要が行われ、法然を顕彰していた。
そのため、専修念仏を嫌っている比叡山延暦寺の僧たちはそれを苦々しい思いで眺めていた。
延暦寺の衆徒は町で専修念仏者を見かけると黒衣を破くといった行動に出、ついには天台座主が
朝廷に浄土宗の僧たちを流罪に処し、さらに東山にある法然の墓を破壊して法然の遺骸を鴨川に流す
ように訴えでた。
延暦寺の僧兵が動き出した。朝廷の許可など出ていない状態で法然廟所を襲って破壊したのである。

これに驚いた浄土宗の僧たちは、天台宗の僧兵たちが更に法然の遺骸を鴨川に流すつもりでいるのを
聞き、機先を制して法然の遺骸を掘りおこし、嵯峨の二尊院に運ぶことにした。
事は秘密裏に行われるはずだったが、これを聞いた浄土宗の信者である蓮生(宇都宮頼綱)、などの
出家者や、六波羅探題の武士団が
1000名も集まって遺骸移送の護衛についた。
そのため、二尊院に着いた頃には延暦寺側に動きがばれてしまい、今度は証空が中心となって太秦の
広隆寺境内にある来迎院(現、西光寺)に移し、一旦改葬を行った。
安貞
2年(1228年)更に法然の遺骸を西山の念仏三昧院(現、光明寺)に運び込んで丁度法然の
十七回忌でもある為、火葬して荼毘に付した。
この後、遺骨は念仏三昧院や知恩院など各地に分骨された。



現在の知恩院の御廟は、慶長
18年(1613)、常陸国土浦藩主 松平伊豆守信一の寄進を得て改築された
ものとなっている。


廟堂の周囲には「雲に龍」「桐に鳳凰」「梅に鶯」「雲に麒麟」「松に鶴」「桜に鳥」「牡丹に鳳凰」
など、桃山様式の華麗な彫刻が施されており、法然上人のご生涯を偲ぶにふさわしい静粛さと
格調のある建物である。


また御廟の手前には、法然上人の御廟にお参りするための拝殿がある。
宝永
7年(1710)に建て添えられた檜皮葺のお堂で、法然上人を間近に拝することができることから、
全国から訪れた檀信徒によりお念仏の声が絶え間ない。
また拝殿では、毎月、法然上人のご命日である
25日に別時念仏会が行われる。


広大な知恩院境内の最上段に位置する御廟は、専修念仏の本拠であり、法然上人入寂の
聖跡である。
800年大遠忌では、御遺骨をお祀りする「御廟堂」前面の「唐門」、そして参拝のための「拝殿」
のすべてが修復された。
IMG_1960
IMG_1944
IMG_1945
IMG_1946

拝殿
IMG_1947

唐門の奥が御廟堂

IMG_1948
IMG_20741

IMG_1952
IMG_1953
IMG_20751
IMG_20761
細かい彫刻が施されている
IMG_20731
IMG_20722

IMG_1965
梅の開花時期に柑橘類の実がなっている。
IMG_1966

池の水が藻で変色している
IMG_1968

やっと見つけた 浄土宗の宗紋 月影杏葉 (つきかげぎょうよう)
IMG_1969

女坂を下りる
IMG_1972
IMG_1977
北側の黒門へ行く。

黒門
IMG_1980

黒門の構え、そして知恩院への道は高い石垣が組まれ、お城の様である。
IMG_1982
IMG_1983
IMG_1984
IMG_1985
二条城から東に位置する知恩院は古くから「二条城の出城」伝説がある。
二条城を造営した徳川家康が、二条城に万が一のことが起こった場合は、知恩院を城として
使うことを考えていたと云われている。

瓜生石(うりゅうせき)(七不思議の一つ)
IMG_1989
黒門への登り口の路上にある大きな石は、知恩院が建立される前からあるといわれ、周囲に
石柵をめぐらしてある。

IMG_1990
この石には、誰も植えたおぼえがないのに瓜のつるが伸び、花が咲いて瓜が青々と実ったという説と、
八坂神社の牛頭天王が瓜生山に降臨し、後再びこの石に来現し一夜のうちに瓜が生え実ったと
いう説
が伝えられてる。
 

また石を掘ると、二条城まで続く抜け道がある、隕石が落ちた場所である等、さまざまな話が
言い伝えられている不思議な石である。
IMG_1991

知恩院の七不思議の5つを確認したが後2つは
忘れ傘、白木の棺であるが忘れ傘は御影堂白木の棺は三門楼上に安置されていて今回は
見る事が出来なかった。

知恩院新門より境内を出る。 
IMG_2007

IMG_2004
IMG_2008
レンタル和服の女性が多い

IMG_2012
白川に沿って西へ
IMG_2013
IMG_2014
結婚式 の撮影
IMG_2016
四条大橋
IMG_2020
朝と違い人出が多い
IMG_2021
IMG_2023
16:19 河原町駅到着
IMG_2024