梅雨明け間近の夏日の京都を歩いた。
温度は高いが太陽の直射が無く尚且つ時々吹く風が暑さを和らげてくれた。
嵐山、嵯峨は何回も行っているがまだ参詣していない寺社は沢山ある。
今回は近くまで行きながら訪れていなかった寺社と周辺の天皇陵を参観して鳴滝まで歩いた。
鳴滝の地名の由来は、この地に小さな滝があり、ある時、その小滝が、ゴーゴーと凄い轟音を
たてていたという故事による。
村人たちが不思議がって、寺の和尚に相談したところ、和尚も不審に感じ、全員を、高台の寺に
集合させた。
すると、その夜、村は大洪水に襲われ、全壊してしまった。
この出来事により、小滝は「鳴滝」と呼ばれ、村の方も「鳴滝の里」と呼ばれるようになったと云う。
万歩計
22,120歩
14.8km
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9:26 阪急嵐山駅
9:30虚空蔵法輪寺
法輪寺(ほうりんじ)
京都市西京区にある仏教寺院。山号は智福山。宗派は真言宗五智教団に属する。
虚空蔵法輪寺や嵯峨虚空蔵と通称される。
真言宗五智教団は宗派の1つで古義真言宗系で愛知県新城市の鳳来寺を中心とする宗派である。
名勝嵐山の中腹に位置する。本尊の虚空蔵菩薩が、「嵯峨の虚空蔵さん(さがのこくうぞうさん)」
として親しまれている。
奥州会津柳津の円蔵寺、伊勢の朝熊山(あさまやま)の金剛證寺とともに「日本三大虚空蔵」
と称される。
金剛證寺は2017年12月19日神宮の奥の院へで参詣した。
知恵、芸事の上達、また丑寅年生まれの守り本尊として信仰を集める。
また、十三詣りの寺としても著名である。
さらに、境内には、電気・電波を守護する鎮守社である電電宮が祀られている。
寺伝によれば、和銅6年(713年)、行基が元明天皇の勅願により、五穀豊穣、産業の興隆を祈願する
葛井寺(かどのいでら)として建立したとされる。
829年天長6年弘法大師 空海の弟子 道昌僧正(どうしょうそうじょう)が、葛井寺で
虚空蔵求聞持法(ぐもんじほう)による百日間の参篭修行をして感得した虚空蔵菩薩の像を刻み
安置し、真言宗の寺院として再建する。
874年貞観16年伽藍が整えられ、寺名を「法輪寺」に改めたといわれる。
室町時代、応仁の乱により罹災し、江戸時代、後陽成天皇により再建されるが、
幕末、元治元年(1864年)の禁門の変により、再度罹災している。
山門 あおもみじが光っている
電電塔
電気電波の祖神電電宮が祀られている
虚空(こくう)とは「大空(宇宙)」のことで、自然現象を司る虚空蔵の鎮守五社明神の一つ
雷・稲妻の神さんである電電明神が祀られ、電気や電波の安全守護とされる。
幕末維新の兵乱で焼失するが1969年昭和44年電気・電力・電子・電波などを扱う
業界の尊崇する神社として復興される
本堂前にある、狛牛と狛寅の一対の石像
本尊の虚空蔵菩薩が、丑年・寅年生まれの守護であることにちなむ
右側に口を開いた阿形(あぎょう)の寅、
左側は口を閉じている吽形(うんぎょう)の牛
羊の像 羊は、虚空蔵菩薩の使いといわれる
本堂 明治時代以降に再建されたもの
本尊は秘仏の虚空蔵菩薩像である
日本三大虚空蔵(奥州会津柳津の円蔵寺・伊勢の朝熊山(あさまやま)の金剛證寺)の一つ
記憶を増す求聞持法の本尊から、智恵を授かるといわれ、知恵・芸事の上達、丑寅年生まれの
守り本尊として信仰を集めている。
虚空蔵菩薩は、大日如来の脇侍で、「虚空(こくう)」とは「大空(宇宙)」を意味する
その大空(宇宙)の中には日月・星・山川・土地・草木などあらゆる森羅万象、生物をことごとく
包容し、功徳・恵みが納められていることから、虚空の姿を宝蔵になぞらえて「虚空蔵」と称される。
漆の歴史は古く、平安時代前期までさかのぼりる。
文徳天皇の第一皇子の惟喬親王(これたかしんのう)が法輪寺に参籠した時、本尊の虚空蔵菩薩より、うるしの製法と漆塗りの技法を伝授され完成し日本国中に広めたとのこと。
惟喬親王の参籠満願の日が11月13日だと言われていることから、漆業関係者は、この日を
「うるしの日」と定め、毎年、漆業の発展を祈願している。
12月8日に針供養が行われる
針供養法要のときには、皇室から下賜された御針が納められる
法輪寺橋(法輪橋)現在の渡月橋
836年承和3年空海の弟子 道昌僧正が、現在の渡月橋より200mほど上流に橋を架けたのが由来
法輪寺が管理していたことから、「法輪寺橋」「法輪橋」と称された
亀山上皇が、夜空を渡る月の様子を眺めながら、「くまなき月の渡るに似る」と称えられた
ことから、「渡月橋」と称されるようになった。
渡月橋を渡って桂川を上流(西側)へ行く
小型水力発電所を北へ行く
小督塚(こごうつか)
嵐山 渡月橋の近くにある、謡曲「小督」にも登場する旧跡
高倉天皇の寵愛を受けたことで、平家からの迫害を恐れて嵯峨野に身を隠した
小督局の仮住居跡
前回の2018年06月22日歌中山清閑寺~粟田口へ京都トレイルを歩くで訪れた清閑寺縁である。
小督局(こごうのつぼね) 平安時代後期の女官
桜町中納言 藤原成範(ふじわらなりのり)の娘
宮中の中でも美人で、高倉天皇の寵愛を受け、範子内親王(坊門院)を生む。
平清盛の娘 徳子(建礼門院)が中宮のであったため、平家からの迫害を恐れて嵯峨野に身を隠す。
謡曲「小督(こごう)」
天皇の命により、小督局を探しに当地を訪れた源仲国が、秋霧の間に微かに聴こえる琴の調べを
便りに、局の居所を探し得たという物語
琴きき橋
渡月橋の北詰にある車折神社頓宮前の石橋のこと
高倉天皇の命で、小督を探しに訪れた源仲国が、秋霧の中で、
琴の曲「想夫恋」を聞き付けた場所「駒留橋」とも称される。
渡月橋の東側には、石碑が立つ
「一筋に 雲ゐを恋ふる 琴の音に ひかれて来にけん 望月の駒」
仲国は嵐山の法輪寺にほど近い亀山で聞き 覚えのある琴の音「想夫憐」を聞きつける。
小督の居所を突きとめた仲国は急ぎ参内して高倉天皇に奏上すると、後日、高倉帝は小督を
宮中に迎え入れて再び寵愛する。
平安時代に活躍した陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)の墓所とされており、全国に幾つか存在する
晴明の墓所の一つとされている(他は長野県木曽郡や岡山県浅口市など)。
五芒星
長慶天皇陵参道
10:25長慶天皇嵯峨東陵(さがのひがしのみささぎ)
長慶天皇皇子 承明王墓
宮内庁上の形式は円丘。
天皇の晩年の動向を伝える史料がないため、宮内省(当時)が近畿各地の寺社旧家や有力な伝説地
などの調査を行ったが、陵墓関係の資料は発見に至らなかった。
しかし、皇子等が入洛していることから、天皇も晩年は入洛したことが推定される。
また、天皇の別称の慶寿院は皇子の海門承朝(相国寺30世)が止住した天竜寺の塔頭慶寿院に因む
ものであるから、天皇は晩年を当院で過ごし崩後は供養所であったとも考えられる。
臨時陵墓調査委員会で審議の結果、桓武天皇や安徳天皇など埋葬地以外に陵が治定されている
「擬陵」の前例を踏まえ、昭和16年(1941年)慶寿院跡を整備して陵墓参考地に指定したが、
その後の調査でも葬地はなお判明せず、同19年(1944年)2月11日(旧紀元節)現陵号に定めた。
同時に陵域内に皇子海門承朝(承朝王)の墓も治定した。
その他、長慶天皇の御陵と称する墳墓は全国各地に点在しており、青森県青森市・弘前市、
岩手県二戸市、群馬県太田市、山梨県富士吉田市、富山県砺波市、富山県南砺市、奈良県川上村、
和歌山県九度山町、鳥取県鳥取市、愛媛県東温市など、20箇所以上に及ぶとも言われている。
長慶天皇(ちょうけいてんのう)
南北朝時代の第98代天皇にして、南朝の第3代天皇(在位1368年-1383年)諱は寛成(ゆたなり)。
南朝関係史料の少なさから、近世以来諸家の間で天皇の在位・非在位をめぐる議論があり、
明治44年(1911年)3月に明治天皇が南朝を正統とする勅裁を下した際も在位認定されないまま
であったが、大正時代に入って、実証的研究が決定的な在位説として評価され、これを受けて宮内省
の調査が行われ、大正15年(1926年)皇統加列についての詔書発布があり、ようやく長慶天皇の
在位の事実が公認されるに至った。
第97代後村上天皇の第一皇子とされているが生い立ちは不明な点が多い。
正平23年/応安元年(1368年)26歳にして摂津の住吉行宮(大阪市住吉区)で践祚し、間もなく
弟の熙成親王(後亀山天皇)を東宮とした。
南朝は北畠親房らの重鎮を失って弱体化が著しく、天皇の事績に関しても明らかでないことが多い。
また、天皇は北朝に対して強硬派の人物であったと考えられ、先代まで何度となく持ち上がった
和睦交渉がこの代に入ってから全く途絶したことも、史料の少なさと無関係では無い。
践祚後間もなく和平派の楠木正儀が北朝へ降ったため、同年吉野(奈良県吉野町)に後退し、
正平24年/応安2年(1369年)には河内天野の金剛寺(大阪府河内長野市)に移った。
しかし、文中2年/応安6年(1373年)に正儀らの先導で細川・赤松軍から総攻撃を受けて、
再び吉野へ還幸することとなった。
譲位の時期は判然としないが、弘和2年/永徳2年(1382年)に正儀が南朝に帰参したことを受けて
和平派が台頭し、その勢力によって穏健な後亀山を擁立する動きが大勢になった頃とみられる。
元中9年/明徳3年(1392年)南北朝合一が成った際にも後亀山天皇に同行して京都に入った形跡
は見られない。応永元年(1394年)8月1日に崩御。享年52。
晩年の地については、吉野に留まったとする説の他、紀伊玉川里(和歌山県九度山町)とする説、
和泉大雄寺塔頭の長慶院(大阪府高石市)とする説
(これが追号「長慶院」の由来であると考えられる)、あるいは京都に還幸したとみて、
天竜寺塔頭の慶寿院(京都市右京区)とする説など諸説がある。
海門承朝(かいもんじょうちょう)「承朝王墓」
昭和19年(1944年)当地が慶寿院跡であることを考慮して整備されたものに過ぎず、
本来の葬地についてはなお不詳である。
南北朝時代から室町時代にかけての南朝の皇族・禅僧。長慶天皇の皇子だが、母は不詳である。
諱(俗名)は憲明。道号は海門、法諱は承朝。相国寺30世・南禅寺133世。
父天皇の遺命に従って観心寺座主を補任したり、父の菩提を弔って慶寿院を開創したりするなど、
南朝皇胤としての活動が目に付くが、五山で重きをなすと同時に室町幕府との関係を深めたと見られ、
例えば、正長元年(1428年)足利義持の室・日野栄子の落飾に際して戒師を務めたことや、
永享6年(1434年)将軍足利義教が打ち出した南朝皇胤断絶策に則って小倉宮聖承の戒師を務め、
通蔵主(護聖院宮世明の子)を弟子としている。
鹿王院(ろくおういん)
京都市右京区嵯峨北堀町にある臨済宗系の単立寺院。山号は覚雄山。本尊は釈迦如来。
開基(創立者)は足利義満、開山(初代住持)は春屋妙葩(しゅんおくみょう)。
鹿王院は、足利義満が建立した宝幢寺(ほうどうじ)という
寺の塔頭(禅寺等で歴代住持の墓塔を守るために建立される寺院)であった。
宝幢寺は応仁の乱で廃絶し、その後は開山の塔頭であった鹿王院のみが残って寺籍を継いでいる。
宝幢寺の建立経緯
足利義満は康暦元年(1379年)のある夜、
「そなたは今年中に大患をわずらうが、宝幢菩薩を祀る伽藍を建立すれば寿命が延びるであろう」
との夢告を受けた。そのため、義満は自らの帰依する禅僧・春屋妙葩(普明国師)を開山として
一寺を建立することとし、康暦2年(1380年)完成した。
鹿王院は、嘉慶元年(1387年)、開山の春屋妙葩の寿塔(生前に造る墓)を守る塔頭として
創建されたものである。
「鹿王」の名前は、建立中に野鹿の群れが現れたことによる。
宝幢寺は禅寺十刹の第5位に列せられる大寺であったが、応仁の乱で廃絶。塔頭の鹿王院のみが
残った。
鹿王院は寛文年間(1661年 - 1673年)、酒井忠知(徳川四天王の一人である酒井忠次の子)
によって再興され、忠知の子である虎岑玄竹(こしんげんちく)が中興開山となった。
山門
四脚門、切妻造、本瓦葺 棟門式という、本柱が棟まで立ち上がる禅寺門形式
足利義満が24歳のときの墨蹟による扁額「覚雄山」がかかっている
1380年天授6年/康暦2年 唯一の宝幢寺の創建時の建物
山門を入った所に受け付けがあるが誰も居ない。この時期参詣者は少ない様だ。
静かな境内 独り占め
山門から中門まで、銘木や楓樹が植えられている
中門
庫裏から拝観する
庫裡 切妻造、桟瓦葺
宿坊や拝観のための入口にあたる
拝観料400円
沙羅双樹の花が見られるのかな?
正面に韋駄天像
客殿
第24世 峨山昌禎(がざんぜんじ)の再建
枯山水庭園(京都市指定名勝)
創建の頃、足利義教の命により、僧 任庵主により作庭された池泉式庭園があったといわれる
日本で最初の平庭式の枯山水庭園といわれる
本堂 仏殿、開山堂とも云う
桁行5間、梁行4間、正面吹放裳階、寄棟造、桟瓦葺
1676年延宝4年の建立
本尊釈迦如来像、十大弟子像、
本尊 仏師 運慶の作
十大弟子 仏師 運慶の作
足利義満像が祀られている
弥勒菩薩座像
舎利殿(駄都殿)
方三間、四周裳階付、宝形造、桟瓦葺
1763年宝暦13年、現在の場所に移築再建される
内陣中央の須弥壇上の大厨子に、銅製鍍金の宝塔が安置されている
宝塔の中には、鎌倉三代将軍 源実朝により、中国 宋の都臨安(現杭州)の能仁寺から鎌倉に
伝来した釈迦の歯である仏牙舎利(ぶつげしゃり)が納められている。
四方には、仏法護持の四天王像、十六羅漢像なども祀られている。
沙羅双樹の木がわからなかったのでお寺の人に聞く。唐門の側の高い木らしい。
かすかに白い花が見える
但し沙羅双樹 は耐寒性が弱く、日本で育てるには温室が必要である。
日本では温暖な地域の仏教寺院や植物園に植えられている程度である。
かつて本種の代用として、各地の寺院でツバキ科のナツツバキが植えられたことから
「沙羅(シャラ)」と呼ばれることもあるが別種である。
この木はナツツバキ???
唐門を外側から見る
向かって右側の木が沙羅双樹 こちらから花は見えない
三条通を東へ
11:27 車折神社(くるまざきじんじゃ)大鳥居
京都市右京区嵯峨朝日町にある神社である。 社名は「車裂」「車前」とも書いた。
平安時代末期1189年文治5年儒者 清原頼業(きよはらのよりなり)が亡くなり、清原家の領地
であった現在の地に廟が創建されたのが由来
清原頼業は、天武天皇の皇子 舎人親王の子孫にあたり、清原元輔や清少納言らの学問で有名な
清原一族に生まれ、漢学者・儒学者となる。
大外記の職を24年間務め、晩年は、九条兼実の政治顧問となり、
九条兼実から「その才、神といふべく尊ぶべし」と評される。
後に、清原頼業の法名「宝寿院殿」にちなみ「宝寿院」も建立され、後に、天龍寺の末寺となる。
後嵯峨天皇が、嵐山に遊行したときに、車折神社の前で牛車の轅が折れ動かなくなったことで、
門前右側の石を「車折石(くるまざきのいし)」と称されて、
正一位車折大明神(しょういちいくるまざきだいみょうじん)の神階を賜ったといわれる。
この場所にかっては第二鳥居があった。
車折神社碑 富岡鉄斎の筆
第三鳥居から中門まで参道が続き、芸能神社までの左右には石玉垣が連なる
祭神:天宇受賣命(芸能大神)
天宇受賣命は、天照大御神が、天の岩戸に隠れこの世が暗闇になったときに、岩戸の前で演舞し
天照大御神の出現に貢献したとされる。
芸能の神として、芸能・芸術上達を祈願する人に篤い信仰を受けている
1957年昭和32年 第三鳥居から中門の間に創建される
名取式(なとりしき)などが行われる
名前が記された朱塗りの玉垣が2000枚以上奉納されている
筆塚
宮司でもあった近代日本画の巨匠 富岡鉄斎が生前に用いた筆が2,000本以上納められている
中門
茅の輪をくぐって回廊の中へ
人形に名前と年齢を書いて納めると罪けがれが祓われる
拝殿
銅板葺、総檜造 1988年昭和63年 現在の建物が新築される
神紋
拝殿前には、祈念神石で祈願が成就した方が納めたお礼の言葉を記した石が積まれている
本殿
祭神 清原頼業が祀られている
東へ行く
有栖川を渡る
12:08斎宮神社(さいぐうじんじゃ)
天照大神を祭神とする。伊勢神宮に奉仕する斎宮が有栖川の辺に野宮を建て、精進潔斎をした旧跡
と伝わる。
こじんまりとした神社で、厄除け開運・婦女子の血の道の守護などに御利益がある。
指示された通りに3回お参りする。
一つ頂く
本殿 切妻 千木内削ぎ 鰹木4本
更に東へ
12:25嵐電 帷子ノ辻駅
帷子辻(かたびらがつじ)
京都市北西部にあったとされる場所。現在の「帷子ノ辻(かたびらのつじ)駅」付近と言われる。
平安時代初期、嵯峨天皇の皇后であった橘嘉智子(たちばなの かちこ、786年 - 850年)は
仏教の信仰が厚く、檀林寺を建立したことから「檀林皇后」と呼ばれた。
また貴族の子弟教育のために学館院を設けるなど、多くの功績があった。
伝説によると、檀林皇后はすばらしい美貌の持ち主でもあり、恋慕する人々が後を絶たず、
修行中の若い僧侶たちでさえ心を動かされるほどであった。
こうした状況を長く憂いてきた皇后は、自らが深く帰依する仏教の教えに説かれる、
この世は無常であり、すべてのものは移り変わって、永遠なるものは一つも無い、という
「諸行無常」の真理を自らの身をもって示して人々の心に菩提心(覚りを求める心)を
呼び起こそうと、死に臨んで、自分の亡骸は埋葬せず、どこかの辻に打ち棄てよと遺言した。
遺言は守られ、皇后の遺体は辻に遺棄されたが、日に日に腐り、犬やカラスの餌食となって
醜く無残な姿で横たわり、白骨となって朽ち果てた。
人々はその様子を見て世の無常を心に刻み、僧たちも妄念を捨てて修行に打ち込んだという。
皇后の遺体が置かれた場所が、以後「帷子辻」と呼ばれた場所である。
一説には皇后の経帷子(死装束)に因んだ名とされる。
「九相図」(九相詩絵巻)は檀林皇后(または小野小町等)の遺体が朽ち果てる様を九つの絵
で描いたものとされる。
現在の帷子ノ辻から西北西(嵯峨野の北西、奥嵯峨)に位置する化野(あだしの)は、
鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)とともに古来の風葬の地、葬送の地として知られる。
少し北へ歩くと
12:29桓武天皇皇子仲野親王・高畠墓(たかばたけのはか)
仲野親王は桓武天皇と藤原河子の皇子で光孝天皇の皇后・班子女王の父にあたり、
孫には宇多天皇がいる。
更に北へ行く
文徳帝御陵参道
12:51文徳天皇田邑陵(たむらのみささぎ)
宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「太秦三尾古墳」。
中世以降、陵の所在地はまったく不明となっており、江戸時代には天皇の杜古墳
(京都市西京区御陵塚ノ越町)が候補とされていた。
幕末の谷森善臣の比定に従い、現在宮内庁によって京都市右京区太秦三尾町に陵墓が
定められているが、これは横穴式石室を持つ古墳時代後期とみられる円墳であり、
平安時代の陵墓としては不適当と考えられている。
文徳天皇(もんとくてんのう)
平安時代前期の第55代天皇(在位850年- 858年)。諱は道康(みちやす)。田邑帝とも。
仁明天皇の第一皇子。母は左大臣・藤原冬嗣の娘、皇太后・順子。
承和9年(842年)、承和の変で皇太子・恒貞親王(淳和天皇皇子)が廃されると、変の解決に功
のあった伯父・藤原良房にも推されて代わりに立太子し、嘉祥3年(850年)3月19日仁明天皇の
譲位により践祚。
こうした経緯も含め、藤原良房は仁明朝期頃から次第に権勢を強めた。
文徳天皇が東宮の頃に、良房の娘・明子(あきらけいこ)が入内しており、ちょうど天皇即位の年
の3月に第四皇子(惟仁親王、のちの清和天皇)を産んだ。
惟仁親王は11月に、生後8か月で3人の兄を押しのけ立太子した。
天皇は更衣・紀静子所生の第一皇子・惟喬(これたか)親王を鍾愛し期待したが、良房の圧力で
惟仁を皇太子とせざるを得なかった。
しかしその後も天皇と良房の暗闘は続き、良房の圧力の前に一度も内裏正殿を居住の間として生活
を送ることはなかった。
また、天皇自身も病弱で朝廷の会議や節会に出る事も少なかった。
9世紀後半における摂関政治や陣定の成立など、朝廷の政務における「天皇の不在化」の原因を
文徳天皇期の天皇不在が影響しているとする説もある。
やがて天皇は惟喬(こえたか)親王の立太子を条件に惟仁親王への譲位を図るが、惟喬親王の身に
危機が及ぶ事を恐れた左大臣・源信の諫言で取り止めとなった。
かかる状況下で、天安2年(858年)8月に突然の病で急死する。
通説では死因は脳卒中といわれているが、あまりの病状の急変から藤原良房による暗殺説もある。
北東へ
13:28 法輪山 了徳寺(ほうりんざん りょうとくじ)
京都市右京区鳴滝にある真宗大谷派の寺。通称、大根焚寺(だいこだきでら)。
毎年、12月9日10日の大根焚きの行事で知られる。
その由縁は、鎌倉時代の建長4年(1252年)、親鸞が愛宕山中の月輪寺よりの帰途、鳴滝で説法をし、
それに感銘を受けた里人が、他に何ももてなすものがないので、塩炊きの大根を馳走した。
この故事に因んで行なわれる報恩講の通称が、大根焚きである。
13:38円融天皇後村上陵(のちのむらかみのみささぎ)
形式は円丘。遺体は円融寺の北原で火葬に付し、父村上天皇陵の傍らに遺骨が納められた。
今日でも龍安寺裏の朱山に円融院火葬塚が残っている。
円融天皇(えんゆうてんのう)
在位: 969年- 984年は、第64代天皇。諱は守平(もりひら)。村上天皇の第五皇子
兄である冷泉天皇即位後、3か月余りにわたる皇太子不在の後、康保4年(967年)9月1日、9歳
にして、同母兄の為平親王を差し置いて立太子。
これは為平親王が源高明の娘を妃にしていたため、これを警戒した藤原氏の意を受けたものと
考えられている。
安和2年(969年)安和の変で源高明が失脚すると、その5ヶ月後冷泉天皇の譲位を受けて即位する。
幼い円融天皇に代わって政治を担当したのは藤原実頼(さねより)が摂政に就任して政治を行う。
その後、実頼が亡くなると甥の伊尹(これただ)が摂政に就く。
この後天皇は在位期間中、常に藤原氏の権力争いに巻き込まれていく。
藤原兼家が天元元年(978年)に次女・詮子を入内させ、同3年(980年)に女御となった詮子は
天皇の唯一の皇子女である懐仁親王(後の一条天皇)を儲けた。
こうした状況に嫌気をさした天皇は、永観2年(984年)懐仁親王の立太子を条件に花山天皇に
譲位した。
その後は比較的自由な上皇の身で、詩歌管絃の遊楽や石清水八幡宮・石山寺・南都諸寺への御幸
を行った。
一条朝では幼帝を指導して強い発言権を持ち、院政の意図があったともいわれるが、摂政兼家と
意見が対立することもあったことが多く次第に兼家の権力は強大になった。
今度は西へ行く
周山街道へ出る
13:48 鳴滝
下に見えるのが鳴滝
御室川は古来から暴れ川として恐れられ、平時はほとんど水がないのに、一たび大雨となれば
堤防からあふれることが多く、流域の村々からは大変嫌われていた。
鳴滝は落差3メートルの小さな滝で、
周辺もすっかり宅地化され、地元の多くの人々にすらその存在を忘れられている。
しかし、京都の街中に残るほぼ唯一の自然の滝として貴重である。
平安の頃には行者の滝とも呼ばれ不動明王が安置されていたと云う。
藤原俊成が「鳴滝や 西の河原に みそぎせむ 岩越す波も 秋や近きと」と詠み、
この場所は禊の場でもあった。
又西行も「暫しこそ人目慎みに堰かれけれ果ては涙や鳴滝の川」と詠い、この滝に悲恋を想い、
滝の流れで忘れらる。
芭蕉句碑
滝のたもとに、松尾芭蕉の句碑がある。
「梅白し 昨日や鶴を 盗まれし」。
芭蕉は42歳の時、鳴滝にある三井秋風(みついしゅうふう:俳人で商人)の山荘を訪ね、
咲いていた白梅にかけて詠んだ歌である。
白梅が見事に咲いて、宋代の詩人・林和靖(りんなせい)の庵に居るよう心地がするけれど、
しかし(彼と一緒にいるはずの)鶴が見当たらない。昨日にでも盗まれてしまったのだろうか。
といった意味である。
林和靖は、梅を妻に、鶴をわが子に見立てて大切にし、生涯独身で通した。
さて、恐縮した秋風は「杉菜に身擦る牛二ツ馬一ツ」と、脇をつけました。
そんな大層なものはおりません、いるのは杉菜に身をこすりつける二頭の牛と、
一頭の馬ばかりですよ。
14:16村上天皇村上陵(むらかみのみささぎ)
形式は円丘。
村上天皇(むらかみてんのう)
平安時代中期の第62代天皇(在位946年- 967年)諱は成明(なりあきら)。
第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経女中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。
第十四皇子ながら、母が中宮であるため重んじられ、天慶7年(944年)皇太子(皇太弟)となり、
同9年に朱雀天皇の譲位により践祚、同月28日に即位。
先代に続いて天皇の外叔父藤原忠平が関白を務めたが、天暦3年(949年)に忠平が死去すると
それ以後は摂関を置かず、延喜時代とともに親政の典範とされた。
しかし実際には政治の実権は依然摂関家の藤原実頼・師輔兄弟にあり、初期には母の穏子や
兄の朱雀上皇も後見を理由に政治に関与しようとしたため、彼の親政は名目にすぎなかった。
平将門と藤原純友の起こした承平天慶の乱(935–940年)の後、朝廷の財政が逼迫していたので
倹約に努めた。
文治面では、天暦5年(951年)に『後撰和歌集』の編纂を下命したり、天徳4年(960年)3月に
内裏歌合を催行し、歌人としても歌壇の庇護者としても後世に評価される。
また『清涼記』の著者と伝えられ、琴や琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開花させた天皇
といえる。天皇の治績は「天暦の治」として後世景仰された。
しかしその反面、この時代に外戚政治の土台が一段と固められ、吏治にも公正さが失われた。
また天徳4年の内裏焼亡をはじめとする数々の災難もあった。
康保4年(967年)5月25日、在位のまま崩御、宝算42。
なお皇子具平親王の裔は「村上源氏」として、以後の宮廷政治において大きな影響力を
持つようになる。
結構登ったので見晴らしが良いかと思ったが木々に遮られ眺望無し
14:37嵐電 宇多野駅到着
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