2011年01月20日

やはり立ち止まるべきではないのか?

年収200万円中国人が2億円の家購入

こういうのをバブルという。
ドルインデックス月足を見ると、トライアングル状態になっており、RSIリバーサル状況勘案するといつの日か下限ブレイクして、今までにない信じられないドル安時代となると見ている。ドル安加速=アメリカ輸出増であるわけだから、ひょっとしたらTPPに組み込まれた後のアメリカ輸出増を暗示しているのかもしれない。

しかし、下限ブレイク前にもう一度ドル高がありえる。トライアングルは通常1つの辺を3度は叩く修正があるが、トライアングル状態になってまだ2度しかない。おそらく次のドル高修正局面が、中国発になるのではないかと考える。年収の100倍以上の不動産購入なんて信じられない。こんなおかしな状況はいつか必ず破裂する。

経済というものは、盛り上がって破裂、また盛り上がって破裂、この繰り返しなのだ。日本では、バブル破裂後が長引いているが、その後の盛り上がりはなく、財政破綻に追い込まれると見ている。

少なくとも、現状の中国の状況を勘案すると、中国発のバブル崩壊は容易に考えられるし、経営者はこういうことを見越して次の投資戦略を立てるだろう。民間常識で考えるならば、不動産投資を控えるべきターンに入っているのだ。

ところが、これと真逆になろうとしているのが三鷹市なのである。先日総務委員会で請願が審議されたが継続審議となった。これがどういう結末になるかわからないが、自治体「経営」というならば、市民センター周辺地区整備が「現在」進めなければならない事業かと問われれば、??という市民が多いのではなかろうか。

重要なのは、タイミングを図ることなのである。経営とはそういうものだと思う。少なくとも、中国不動産バブル破裂が秒読みと思える現在、事業を進めるタイミングとは思えないのである。この結末が市民にとって致命傷にならないことを祈るばかりだ。どうなってしまうんだろうか、三鷹市は…。


yeah5266 at 11:12|Permalink 行財政改革 | 議員の役割

2011年01月10日

打って出る情報公開

実に素晴らしい。予算ヒアリングを公開とは。

基本条例ごとに温度差があるということですね。ただ作ればいいやレベルと、基本条例に魂を込めているのと大違いですね。リンクで貼った自治体職員は幸せだなぁ。こそこそせずにすむわけだから。これこそ真の協働ですね。

三鷹市の場合どうなのかって?直接聞いてみたらいかがですか?(笑)先進的自治体のはずの三鷹市だけど、ヒアリングがいつかって私は不勉強?でよく知りませんので。

yeah5266 at 08:21|Permalink 行政と市民の関係 

2010年11月29日

もう10ヶ月近く前の文章ですが、いまだに気持ちはこのままですね。税はなぜ支出されるのか?深いテーマです。

今しばらくおつき合いをいただければと思います。
にじ色のつばさを代表して2010年度施政方針についての代表質疑を行います。
まず、この文章を作成するに当たって、同会派の仲間たちと激しい議論をやりとりし、同一の見解を導くことができたことは大変よかったと思います。議論の大切さを思い知って、なおかつ、そのことを公表して、やはりそれをたたき台にさらに議論を進めていく。議論の大切さを改めて私は勉強させていただいた。そのことを前提として質問をさせていただきます。

市長は、施政方針の中で、「「市民の感覚と視点」に立った自治体経営に努めました」と述べられました。市民の感覚と視点とは何でしょうか。ここで改めて私たちは、何のために税を納めるのか、そして、どのような税の使われ方だと、市民の感覚と視点に立った使い方と評価をしていただけるのか、つまり、税の使い方につき、どのような理念があれば市民の皆様は納得するのかについて考えてみたいと思います。

人は、自分の生活は自分で責任を持って営むことが前提です。働いて給料をもらって、その給料で御飯を食べる。当たり前の話です。こういう人たちは、本来、税を払いたくはないはずです。自分で稼いだお金を自分で使いたいというのは、人間として当然の欲求だからです。そういう人たちから税を強制力をもって徴収をし、その税を使う権限を有しているのが執行機関の責任者である市長なのです。そして市議会は、お金の使い方を認めることができるか、また、お金の使われ方が適正だったと言えるか、これをチェックする機関だということになります。

ここで確認すべきは、人はなぜ税を支払うのかという根本問題だと思います。法律で決まっているから仕方なしに支払うというのが正直なところなのではないでしょうか。はっきり申せば取られ損です。この感覚は、はるか昔から年貢を納めてきたということからも由来をすると思います。殿様が言うからしようがない。このしようがないという精神文化は日本の特徴でもあると思います。余り語られていないことですが、明治維新が実現したのは、実は原動力は民にあったんです。当時、幕府より新政府の方がどうやら年貢が少ないらしいぞ。そういううわさが広まっていき、みんながこぞって新政府に資金を調達した。それが原動力となって維新が成立をしたとのことです。私は、この話を耳にしたときに、税に対する国民の深層心理をかいま見た気がいたしました。取られ損の年貢であるならば、少しでも年貢負担が安い政府を選ぶ。明治維新は民の勝利であり、また、そういう国民の深層心理を見事に見抜いた若き志士たちの勝利でもあったわけです。

この国民の深層心理は今でも通用する部分があります。消費税議論に代表されるように、負担が重い話に国民の皆様は大変敏感です。諸外国に比べ、税負担が安いではないか。そういう論調も確かにございます。しかし、ポイントなのは、そういう論調が国民に響いていないというところにあると思います。なぜなら取られ損の税を好き放題に使ってきたくせにという心理がやはりあるからです。ちなみに北欧における国民負担率の高さに国民が一応納得しているのは、政府と国民の信頼関係が根底にあるからであって、日本の年金問題に象徴されますように、国民が国に託したお金がむだに使われ、勝手に使われ、納付記録の管理すらおろそかにされているような政府を国民は信頼をすることができるでしょうか。自明の問題であります。

こうした中では、国民負担率を上げることを国民に求めることは、もはや不可能と言えるのではないでしょうか。国民と政府は一種の契約関係にあって、マニフェストによる選挙を行って、その実施において内容を切り下げるようでは契約破棄に等しく、国民に信頼してくれと言ってもむなしく響くだけです。角度を変えると、いわゆる公務員バッシングもこの国民の深層心理のあらわれでしょう。国民主権とは名ばかりに、取られ損の税を好きに使う政治家、また、その利権に群がろうとする利害関係者たち、その一方で、取られる側は覚めた目でそういう方々を冷静に見つめている。はっきりと2つの社会ができ上がってしまっているのです。すなわち取られる社会と使う社会です。

地方政府も含め、政府と国民・市民は、一種の契約関係を誠実に履行することが求められていますが、税収をみずからの懐を痛めず、適当な目的のために勝手気ままに使えるお金ぐらいに認識しているようでは、国民・市民を説得・納得させることはできないのです。こうしたことから、税は取られるものであって、払いたくないという感情が醸成されていくのではないでしょうか。右肩上がりの時代は確かにそれでもよかったかもしれない。2つの社会、ともに生存が可能だった時代だったからと言えます。しかし、今はどうでしょうか。2つの社会が接近を始めていると考えられるんです。私は、この現象が最初に始まったのが、いわゆる派遣村問題だったと考えています。2つの社会が接近を始めているという現象は、日本の今までの社会構造を根本的に変えてしまうことすらあり得ます。それが如実に出たのが前回の衆議院選であり、また直近の長崎県知事選であったと見ています。この両者はつながらないようで、実はつながります。答えは簡単。明らかに国民が反乱の意思表示を示し始めている。今までは取られ損だった税金、しかし、今後は言わせてもらうぞ。時代はそう変化していくのではないでしょうか。時代劇でいうなら庄屋の言いなりにはさせないということなのです。また、角度を変えれば、既存の庄屋文化に対し、庄屋らしからぬ為政者を求めている魂の叫びととらえることもできるでしょう。既存の庄屋文化を変えたくて、国民は衆議院選で民主党を選んだ。ところが、民主党も実は大差がない。いや、むしろばらまきを積み上げて財政破綻への速度が増してさえいる。そこに気づいた国民は、長崎県知事選で別の意思表示をした。民主支持者がどうのこうのという次元を既に超えてしまっているわけでございます。今までの庄屋文化の否定が着実に始まっているんです。どの庄屋がよいかという文化から、庄屋そのものを否定する文化が始まっていると思えてならないのです。別の言い方をすれば、お任せ民主主義がその終えんが近づきつつある。そういうふうに言っても過言ではない、私はそのように考えます。

では、このような変化に火をつけた存在は何でしょうか。それは日本国破綻の問題だろうと思います。取られ損の税を好き放題に使う政治家を大目に見てあげていた。しかし、それでも追いつかなくなってきたので、どんどん借金を積み増ししていった。あげくの果てに破綻が近くなっている。私は、個人的に鳩山総理が国債発行についてどのような姿勢で臨むのかにつき関心がございました。忘れもしません。衆議院選前に、これ以上国債を発行し続けたら国がもたない。断言したのはどなたでしょうか。鳩山総理御自身でございます。その当の本人が、選挙が終われば、何と税収を上回る国債発行をしてまで予算を組んでしまっている。既に学者は、財政破綻につき警鐘を鳴らし始めております。近時、例えばエコノミストのようないわゆるマネー雑誌でさえ、こぞって警鐘を鳴らし始めている。学者ならまだしも、大衆誌が財政破綻の警鐘を鳴らし始めたというのは注目すべき点だと私は考えております。

このように、かつて我が国が明治維新を迎えたときと同じように、今、静かな国民の意識改革が始まっていると考えます。明治維新でいうなら、維新が今から始まる、まさに維新前夜状態であると言えるでしょう。当時と異なる点は財政破綻問題があるということです。どの政府が私たちにとって得かという取られ損の精神文化は、どの政府が日本国を生き残らせるだろうかという文化に昇華しつつあるのです。このように、民主党政権になって財政破綻への道をまっしぐらに進む速度が加速しつつある中で、国民は新たな選択肢に飢えていると考えます。この新たな選択肢の背景にあるのは、どの政府が日本国を生き残らせるのだろうかという概念でしょう。すなわち財政再建という選択肢だと思います。

前回の衆議院選は自民党より民主党を選んだのではなく、既存の庄屋文化を完全に否定する国民の意思表示が民主党という選択肢を選んだと言えますし、その民主党により財政破綻に一気に突き進むのであれば、より一層新たな選択肢に対する国民の飢えが如実化されていくでしょう。日本はもはや財政破綻を免れることはできないと考えます。我々にできることは、どのようにしたらソフトランディングをさせられるか、この模索を開始することだと思います。ソフトランディングすらできなかったらどういう事態が待っているでしょうか。それは、テレビに映し出されるギリシャの映像を見れば明らかです。先ほど取られ損の精神文化が昇華しつつあると申し上げましたが、その終着点が現状、テレビに映し出されるギリシャの映像のような状態でないことを強く私は祈りたいと思います。私は、この新たな選択肢は、国政という場面ではなく、自治体が発していくべきではないかと考えております。国のさまざまな補助金メニューに飛びつくのではない。自治体の立場で何が必要で、何が必要でないのか、はっきり意思表示をすることが必要なのです。このような一種の革命とも言えるものが自治体から能動的に発信される、そういう文化が来ることを切に望みます。

今までは霞が関主導で動いてきた我が国日本、地方分権、地域主権と声高に言いつつ霞が関の御機嫌とりをしてきた各地方、このような状況を変えることはだれでしょうか。国会でもありません。霞が関でもありません。やはり最後は自治体しかないのです。自治体の側から要・不要につきはっきりと意思表示をし始めれば、必然的に国の事業は減っていくわけです。財政破綻前夜の日本で、地方から真に我が国日本の将来を考え、将来を真剣に心配する信号を発していく文化が今後創造されていくことを私たちは切に望むものであります。

では、このような流れを地方から仕掛けていく場合に、何が重要なのかを次に考えなければなりません。ここで重要なことは、では、何が必要で、何が必要ではないのかの基準づくりです。ここで立ち返るべきは、我が国の最高法規、すなわち日本国憲法であります。国防、外交は国の専管事項ですから、さて置くことといたしまして、自治体の側で絶対に忘れてはならない条文があります。それは、すなわち憲法14条、法のもとの平等、憲法25条、生存権の保障、憲法26条、教育を受ける権利、そして、それらと同様に重要な条文があることを私たちは忘れてはならない。それは憲法15条2項、すべて公務員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではないという条文です。私たちは個々の事業につき、改めてこれらの条文を再確認しながら、その意義を検証する責任があります。

幾つか例を挙げてみましょう。三鷹むらさき商品券を買いたくても、身体の不自由により外出できない方、また、そもそも商品券を買いたくても買う資力のない方がいるとすれば、この事業は14条、25条に照らして妥当な結論であると言い切れるでしょうか。また、外に向け発信される各文化事業は、市内の皆様の25条、生存権の保障に直結すると言い切れるでしょうか。先ほど2つの社会が接近していると申し上げましたが、このような時代だからこそ、私たちは税の使い道につき責任を持たなければなりません。ここで重要なことは、納得をしていただけるかというキーワードです。予算を使う側は、そのあり方につき市民に説得をしなければならない。市民は納得をしなければならない。

1年前になりますが、前回の予算審査で私は、説得と納得というキーワードを合い言葉に臨みました。この納得というキーワードは大変重要です。この納得という現象の裏側には、官──公ではありません。官の役割とは何かにつき暗黙の了解があり、各事業がその官の役割として当然であるという論理構成があると考えます。払いたくもない税を出し、その税を支出する各事業につき市民が納得をする基準となる官の役割とは一体何でしょうか。それは赤字を覚悟でもやるべき事業ということなのだろうと私は考えます。買い物をしたくてもできない方がいる。その方の生存権の保障のためには、赤字でもやる事業、やるべき事業があるのなら、市民は納得するでしょう。また、働きたくても、保育園が見つからないために働くことすらできない方々の生存権の保障のために、赤字を覚悟で保育園事業を大展開するというのであれば、具体的な方法論は置いといて、市民は納得はするでしょう。その意味で、本来公金の支出に費用対効果を求めるという発想は、よくよく考えると変なのです。費用対効果が成り立つ概念の対象となる事業であれば、民が担当すれば済む話だからです。ここを錯綜させた現象が余りにも多いのではないでしょうか。郵便でしか住民票をとれない方々への手数料を値上げする一方、後ほど述べますように、商品券事業においてまとめ買いをする現象もあるというのは、やはりおかしなことなのではないでしょうか。

また、官の役割につき、赤字を覚悟でもやるべき事業との考えを進めていく場合に、当該事業をやる主体は、だれが、だれがやるべきかが次の議論になっていくわけです。その意味で、やはり事業のあり方そのものにつき考えるのがやはり先であり、事業の主体につき考えるのは2番手の話です。このように考えを進めていくと、お茶の間に映し出された民主党主導の事業仕分けが、いかに理念のない見せかけのものだったか、よくおわかりになると思います。このような視点から、各事業につき、この事業は赤字を覚悟でもやるべき事業なのか否かの視点から私たちは予算審査に臨みたいと考えております。また、この姿勢で臨む場合に、各事業につき再確認すべきが、先ほど申し上げた憲法の各条文だと思っているのです。それらを背景に各事業を説明し、すべての市民が、なるほどねと納得していただけるようなものでなければならないわけです。いわば取られ損の税金、この使い道につき、国民・市民から厳しい目線が新たに注がれている今だからこそ、説得の背景に理念が必要なのです。我が会派は、先ほど申し上げた憲法の各条文を具現化している予算と言えるのかどうか、この視点と、あわせて、やがて来るであろう財政破綻に向けて、いかに自治体レベルでソフトランディングをさせていくべきか、そういう視点から本予算案の審査に臨みたいと考えております。

以上を踏まえまして、まず最初の質問をいたします。
市民の感覚と視点に立った自治体経営とは何を指すのでしょうか。市民の感覚と視点に立った場合に、市民は官に何を求めているとお考えでしょうか。

市政運営の基本的な考え方以降の部分につきましては、詳細につき後刻設置されます予算審査特別委員会における議論にゆだねることといたしまして、この代表質疑の場では、市長が施政方針演説の中で、今年度の市政運営の中核的な施策として掲げられましたセーフティーネット、都市再生、子育て支援、コミュニティ創生の4点につき、大きく考え方をお伺いをしたいと思います。

まず、セーフティーネットでございます。施政方針で幾つか例を出されましたが、国ないし東京都の制度が大半だろうと見られますので、実際は三鷹独自のセーフティーネットとしては、三鷹むらさき商品券事業と認可外保育所利用児童保護者への保育料助成の2者だけと見られます。不足していたら御指摘を下さい。後者は、子育て支援と関係する論点でございますので、後ほど触れますが、ここでは商品券事業について質問をいたします。

質問です。この事業はだれのためになされる事業でしょうか。改めてこの点を確認をしておきたいと思います。一般質問で買い物難民につき議論なされている議員さんがいらっしゃいました。全く同感でございます。買い物をしたくても、身体の不自由などにより動くことのできない方もいらっしゃることでしょう。一方で、商品券をまとめ買いする富裕層もいる。果たしてこの状態はセーフティーネットと言えるのでしょうか。憲法14条、法のもとの平等に適合する事業であると言い切れるのでしょうか。このような現象と、一方でいわゆる買い物難民の方々、また、日々の生活に困っている方に福祉の側面から一定の補助をするというやり方と、どちらの方が市民の皆様は納得をするでしょうか。限られた税財源の中で、自治体独自にセーフティーネットを構築というのは、私は現実的にはかなり困難だろうと思いますが、そのような中でも取り組むべきセーフティーネットとは何か、まさに憲法25条規定の生存権の保障に直結するような事業でなければならないと考えております。また、そのような理念を持つ事業であるならば、市民の皆様は納得をすると思います。この商品券事業につき、抜本的に見直すべきではないかと考えますが、いかがお考えでしょうか。

次に、2つ目の都市再生につき質問いたします。
市長は施政方針の中で、「今できること、すべきことについては、迅速にタイミングを捉えて着実に進めていくべき段階を迎えています」と述べられました。私は、これを聞いてまず思ったのが、できることとすべきことは全く別の次元であるということです。すべきことははっきりしています。各学校などの耐震化事業はまさにその1つ、教育を受ける権利が保障されている場である学校だから、これらはすべきこと。では、多摩青果市場跡地に予定されている防災公園街区整備事業は、できることでしょうか。それとも、すべきことなのでしょうか。これは、ここに集約される施設の性格を考えていく必要があると思います。また、予定されている体育施設の性格も考えていく必要があると思います。総合的な判断で下されることだと思います。対象施設は幾つかありますが、果たしてなければならないものでしょうか。あればいいよねというレベルのものなのでしょうか。ここを私たちはやはりはっきりと確認をしなければならない。あればいいよねレベルであれば、この財政難の折、市民の皆様の納得を得られるのは困難でしょうし、なければならないレベルであれば、市民の皆様は納得をするでしょう。
都市再生といっても、多摩青果跡地の開発が中心で、そのためにかかるお金と三鷹市の財政状況から考えれば、余りにも背伸びし過ぎているものと言わざるを得ません。借金して財政破綻に追い込むような施策が市民のためという名のもとに行われることに、私たちのにじ色のつばさは危機感を感じます。公共施設とは建設すること自体が目的化してしまってはだめなんです。言うまでもないことですが、それら施設の存在意義が市民に納得をしていただけるものでなければなりません。やかたがあるから事業をするのではないのです。事業をする場がなくやかたをつくるという考え方が当然先に来るべきなのです。言うまでもなく、その事業は先ほど述べた憲法の各条文に照らして妥当か否かを当然まず吟味しなければならない。その後に、では、その事業をするのにやかたがなければならないのか、この順番で議論をするべきなのです。この観点から、我が会派は本事業につき検証を始めたいと考えております。
以下、質問をいたします。

まず体育館です。これは、なければならないものでしょうか。健康増進という目標は、そもそも行政がやらなければならないものなのでしょうか。体育館を使わずとも健康増進はできます。もし体育館が必要という全市民的合意がなされたとしても、それは現状の第一、第二体育館レベルだったらわかるけどねというものなのではないでしょうか。予定されている体育施設は、既存の第一、第二体育館レベルなのでしょうか。それともそれ以上のものなのでしょうか。それ以上のものであるならば、それは市民が生きていくために必要不可欠と言えるものなのでしょうか。それとも必要不可欠とは言えないが、あればいいよねレベルなのでしょうか。

社会教育会館もそうです。社会教育施設は市民の生存に直結する必要不可欠の施設と言い切れますか。ハピネスセンターはどうでしょうか。そのほか集約が予定されている施設はどうでしょうか。個々の施設の建てかえ事由が、先ほど述べた憲法各条文に照らし合わせて考えるならば、ハピネスセンターは必要でしょう。ハピネスセンター利用者の生存のために直結する施設と言い切れるからであり、このことは市民の皆さんも納得をすると思います。やかたが古くなった。では、建てかえようではなく、そのやかたで行われている個々の事業につき、個々の事業につきどのような検証がなされたのでしょうか。そして、事業の必要性を論理構成をし、また、その事業を遂行するに必要不可欠な施設であるとの論証を準備なされていらっしゃいますでしょうか。利害関係者は、それはいろいろ言うでしょう。体育施設に関係する方は、過去にあった総合スポーツセンター構想並みのものをつくれと言うでしょう。社会教育会館利用者は、社会教育会館は必要と言うでしょう。それはさまざまな利害関係者がいること、当然の現象です。しかし、だからこそ、私たちは、先ほど申し上げた憲法15条2項、すべて公務員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではないに立ち返らなければならないのです。財政破綻が目の前に迫っている我が国日本、個々の施設が本当に必要なのか、いま一度じっくり議論する必要があるのではないでしょうか。御所見をお聞かせください。

子育て支援について、引き続き質問をいたします。
認可外保育所利用児童保護者への保育料助成につき、我が会派は理解を示します。そもそも武蔵野市で利用助成をもらっている方が、三鷹市にある認可外施設を使う。その一方で三鷹市民はそうではない。これはやはり不平等です。しかし、ここで私たちは、本事業の持つ意味について、一たん立ちどまって考える必要がある。現状は新規の保育園開設はなかなか困難、認証保育所などの設置に助成というのが現状のやり方だろうと、我が会派は一定の理解を示します。とはいえ、例えば三鷹市の設置助成を受けて設立された認証保育所に、武蔵野市の助成を受けた方が通うという現象を考えてみると、では、なぜ当初、三鷹市が設置助成をしたのかとなりませんでしょうか。見方を変えればこういうことも考えられます。毎月の保育料が高い認証保育所が次々に開設されると仮に考える場合、その保育所の設置につき三鷹市が助成をした。設置助成をした。そういうケースであるならば、財政余力のあるほかの市の利用者への助成により、三鷹市の認証保育所に通うほかの市の方がいらっしゃる一方で、金額の高さにより、そもそも申し込み自体をしない三鷹市民もいる。つまり、税の恩恵を受ける方が、税を納めた市内の方ではないという現象が考えられるのではないでしょうか。

以下、質問いたします。認証保育所設置を側面から支えることにより待機児童解消問題に取り組んでいくとするならば、そもそもどこの自治体にあるかの差を超えて、本当は利用料金は一定であるべきではないでしょうか。また、認可ではないのだから、それは無理ということであるならば、このような自治体間格差をなくすのは当該自治体の努力というレベルを既に超えており、そもそも東京都の問題なのではないでしょうか。利用料助成につき踏み出したことは高く評価をさせていただきたいと思いますが、このように自治体間格差により解消すべきは、まずは東京都の責任なのではないでしょうか。利用料助成のあり方につき、東京都に交渉はなされてきたのでしょうか、経過をお聞かせください。

また、待機児解消問題の解決策として、認証保育所設置という手段を取り上げていらっしゃる以上は、いわば市の固有問題を都の制度をかりて解決しようというわけですから、この側面から見ても、本来ならば利用料金は認可レベルと同等であるべきとの考えは否定しがたいものがあります。この待機児解消問題で東京都の制度をかりているという現象と、その結果生じている保育料不平等、この現象につきどのようにお考えなのか、御所見をお聞かせいただきたいと思います。

最後に、コミュニティ創生につき質問いたします。
冒頭、自分のことは自分でする、そのように申し上げました。まさしく自助です。ある日、晩御飯を家族で囲むときに、しょうゆが足りなかったとします。私は、アパート暮らしですが、アパートのお隣さんの部屋に、しょうゆを分けてと頼むのは、これは共助です。アパート全体でごみ処分に困ってしまった。お金を出し合って公的機関にごみ処分をお願いしましょう。これが公助です。今回のコミュニティ創生という言葉に私たちは違和感を感じました。なぜなら、最後に来る概念である公助につかさどる方々が、一歩手前の概念である共助につき創生というのは、いわば晩御飯にしょうゆがないだろうから、しょうゆを配る組織をアパートの中でつくるようにしようねということを公助機関が言っていることになる。この現象に違和感を感じたんですね。アパートの各部屋がしょうゆを持っていたら、それはおせっかい以外何物でもないわけです。官主導のコミュニティ創生というのは、このように論理の構成にかなり飛躍があるのではないでしょうか。だからこそ緻密な議論が必要だと思います。

これは協働の論理にもつながっていきます。高齢者福祉の世界でかなり有名なNPOの経営者の方に、以前、我が会派はお話を聞く機会がございました。その方がおっしゃっていたことを私は今でも忘れません。協働とは民が主導的に動くから協働なのであり、官が協働というからおかしくなっている。まさしくそのとおりだと思います。私はそのとき、返す言葉がございませんでした。

このように考えると、このコミュニティ創生については、一歩見方を変えれば大変厄介な考え方になってしまう可能性がある。御近所づき合いがない。各町会の発展などさまざまな議論がございます。この本会議場でも、こういう観点からの質問が多々繰り返されてきた。皆さん御存じのことと思います。しかし、ここで改めて私たちは考えてみる必要がある。市役所や議員が一生懸命コミュニティと言っても、何度一般質問で取り上げても、何度代表質疑で取り上げても、当該対象エリアの市民の皆様の心に響かなければ全く意味がないわけです。コミュニティ創生ないし再生に向けて各地域の方が頑張っておられることは重々承知をしております。ただ、私たちは、彼らに直接会って、ぜひ聞いてみたい。血税を使ってでもやってみたいかと。恐らくは一瞬、返事に困ってしまうのではないでしょうか。なぜなら、税を使っても人は心を動かさないからです。人の心を動かすのは熱い思いです。当該地域のコミュニティ創生につき、熱い思いを持つ方が積極的に動き始めれば、公助の一歩手前の共助の次元で、自身の力で開拓しようという現象そのものである、そうやって評価できるときが来るのではないでしょうか。つまり、コミュニティ創生とは、そもそも税、公金支出の際の目的にすべきではないのではないか、このように考えるわけでございます。

この考え方は、現状言われている、新しい公共につき疑問を感じるところにもつながります。新しい公共をつくろうと、既存の公共を形成してきた方々が声高に主張すること自体、よくよく考えると本末転倒なんですよ。若干角度を変えてみるならば、今までの政治家が公共につき責任放棄をしているとさえ思えてくる。新しい公共をつくるための直接的な解決策は何か。事は実に簡単です。新しい公共を担う団体に資金提供すれば税額免除するという方法をさっさと採用すればよろしい。私は、政府にはお金使わせたくない。しかし、障がい者福祉に汗をかいている団体にお金を差し出したい。認定NPOだ何だいろいろ議論はあるけど、あそこの団体に金を差し出したい、こういう方が現実に多いんじゃないでしょうか。

一方で、寄附文化が広まらないという声も確かに耳にします。しかし、ここで考えてみるべきではないでしょうか。寄附ではなく、税を支払う対象をそもそも政府に限定する機能をやめてしまえばよろしい。寄附は広がらずとも税の納付先を広げていけば、新しい公共は一瞬で形成され、問題は解決できると言っても言い過ぎではないのではないでしょうか。現政権の方が、いわゆる子ども手当につき、これを通じて寄附文化につき考えていくべきであるというような趣旨の発言をなされた方がいると耳にしましたが、こういう発言をする方がいらっしゃる限り、やはり現政権では新しい公共は広まらないでしょう。寄附しやすくという発想ではなく、税の支払い先を政府に限定しませんとする勇気が現政権にあるか、答えは火を見るより明らかであります。

先ほど高齢者福祉の世界のNPO経営者の話を紹介をいたしましたが、新しい公共をつくっていく主体はあくまで民なのです。コミュニティを再生ないし創生していくのも民なのです。彼らが主張してこない限りは新しい公共は生まれない。ましてや官が新しい公共と主張すること自体おかしな話であることは先ほども指摘をさせていただきました。その一方で、新しい公共をつくろうと日々努力している方々が、公共を形成する税のあり方につき、集約化された税の配分機能をどうするという論法ではなく、つまり、配り方の論法ではなく、そもそも論として税をだれに支払うのかの議論を開始している点は注目すべき点であると私は考えます。町会の加入率もよく話題になります。しかし、それをこの本会議場で議論すること自体、解決の本道を行っているわけではない。そもそも町会の加入率が低いという現象を問題意識すること自体、共助と公助の性質の差異を混同している議論なのではないでしょうか。

以下質問いたします。コミュニティはなぜ創生ないし再生されなければならないのでしょうか。それらは血税を出せば、創生ないし再生されるとお考えなのでしょうか。官がコミュニティ創生と主張することにつき、どのようにお考えなのか、御所見をお聞かせください。

以上で壇上での質問は終わりますが、自席での再質問を留保させていただきます。御答弁のほどよろしくお願い申し上げます。


yeah5266 at 15:43|Permalink

2010年08月17日

西郷南洲翁遺訓第13条

(原文)
租税を薄くして、民を裕(ゆたか)にするは、即ち国力を養成する也。
故に国家多端にして、財用の足らざるを苦しむとも、租税の定制を確守し、上を損じて下を虐たげぬもの也。
能く(よく)古今の事跡を見よ。
道の明かならざる世にして、財用の不足を苦しむときは、必ず曲知小慧(きょくちしょうけい)の俗吏を用ひ、巧みに聚斂(しゅうれん)して、一時の欠乏に給するを、理材に長ぜる良臣となし、手段を以て、苛酷に民を虐たげるゆえ、人民は苦悩に堪へ兼ね、聚斂を逃れんと、自然譎詐狡猾(しぜんきっさこうかつ)に趣き、上下互に欺き、官民敵讐と成り、終に分崩離拆に至るにあらずや。 

(現代語訳)
税金を少なくして国民生活を豊かにすることは、国力を養成する。
だから国のやることが多く、財源不足で苦しむような事があっても、租税の決まった制度を守り、上の人間が損をしてでも、下の人達を、苦しめてはならない。
よく歴史を見よ。
道理が明らかでない世にあって、財源不足で苦しむときは、必ずこざかしい考えの持ち主のレベルの低い官を用いて、その場しのぎをする人を財政が良く分かる立派な官と認め、(そういう官は)手段を選ばず、無理やり国民から税を取り立てるから、人々は苦しみに堪えかねて逃れようと、自然に嘘偽りを言って、上の人間と下の人間がお互いに騙し合い、官と一般国民が敵対して、しまいには、国が分裂して崩壊するようになっているではないか。

yeah5266 at 22:51|Permalink 行政と市民の関係 | 議員の役割

2010年02月26日

2009年度代表質疑全文

今、代表質疑の文章を作り始めている。前回どういうこと聞いたかな?と思い、捜してみた。続きを読む

yeah5266 at 21:30|Permalink

2010年02月17日

官の役割を問い直すべき時期が来ている

前回、「遅くて3月までには暴落第二章が開始されていると想像している」と書いたが、続きを読む

yeah5266 at 00:30|Permalink 国の諸問題 | 三鷹市の財政状況

2009年10月09日

出口戦略は再入り口の合図?

日銀がついにいわゆる出口戦略とも取れる措置を発表した。

ついに来るべきときが来た。景気が回復するぞ!?続きを読む

yeah5266 at 11:52|Permalink 議員の役割 | 国の諸問題

2009年06月09日

嫌な予感

匿名の方から、次のようなメールが届いた。続きを読む

yeah5266 at 01:57|Permalink 雑感 

2009年05月30日

60円のおつまみ

本当にうまい。続きを読む

yeah5266 at 22:29|Permalink 雑感 

2009年05月26日

民主党の言う世襲制限と、庄屋文化について

前回は、民主党は政権交代に固執すべきではないということを書いた。続きを読む

yeah5266 at 05:17|Permalink 政治無関心 

2009年05月24日

世襲制限の議論の根本的な問題

大変滑稽に思えてくる。続きを読む

yeah5266 at 23:27|Permalink 政治無関心 

2009年05月10日

あまりにもタイミングが悪すぎる

先日、ポストに市の広報のゴミ特集号が入っていた。

予算審査で、私はある指摘をさせて頂いた。その心配が現実になりやしないか、今心配している。

もし変化が起こるとしたら、今週後半から来週前半に、その兆しが出てくるだろう。兆しが出てきた場合、最初の嵐は短くても今月一杯まで続くのではないか。

稀有な心配であり、何事もなく、逆に人から笑われるようなら一安心なんだが。。私が心配しすぎなのだろうか。


あまりにも条件が整いすぎているのである。


私達は過去から学ばなくてはならない。大丈夫だろうか?img_388930_21168041_0

yeah5266 at 23:09|Permalink 雑感 

2008年10月27日

超低金利政策のツケ

先週金曜の夕方、ドル円が90円台に突入という速報を知ったとき、「いよいよ来たか!」と実感した。円高の実感?いやいや違う。続きを読む

yeah5266 at 10:52|Permalink 国の諸問題 | 三鷹市の財政状況

2008年08月06日

感謝!

私には、こいつのためなら血を流しても良いという友人が、わずかだが何人かいる。続きを読む

yeah5266 at 23:34|Permalink 雑感 

2008年04月19日

立原正秋という小説家がかつていた。作風の是非はさておき、私の生き方に深い影響を与えた作家である。
彼の随筆「秘すれば花」に次のくだりがある。

「世阿弥は求道者であったが、彼は美、つまり花しか信じなかった。この乱世に信じられるのは美しかない」

ここ数日の出来事で問合せが増えている。ご心配頂くのはありがたいが…。私は既に達観してしまった。そして、このくだりを思い出したのだ。

そういえば、この業界に入って、美と真剣に向き合うことはなかったように思う。ここしばらくは美を正面から見つめていたい。世阿弥についても、もう一度ひも解くことにしよう。

yeah5266 at 23:19|Permalink 雑感 

2008年03月24日

私たちはあなたを忘れない

突然 突きつけられた 厳然たる事実
呑み込めない 無理もない 衝撃が大きすぎる

彼女が選択した方法を聞き 俺は彼女を理解した
彼女は ただただ 飛びたかったのだ
ただ それだけ

俺が事実を受け入れたのは 妻が彼女に会いに行って 帰ってきたとき
親不孝とか そんなこと 考えなくても いいんだって
だって あなたは 飛びたかっただけなんだから
たまたま うまく 飛べなかっただけ

ほんの0.01秒でも あなたは たぶん 飛べたのかもしれないね
美しい羽が 付いていたら よかったのにね

たぶん 飛び立つ瞬間のあなたは 一番満たされていた顔をしていたかもしれないね

世間はいろいろ騒がしいけど 格差とか そんなんじゃないんだよね
ただただ 飛びたかったんだよね
なんとなく なんとなくだけど 俺にはわかる











この週末は、私たち夫婦にとって空虚な時間だったのかもしれないけど
でも
見方を変えれば かなり濃い時間を過ごしたのかもしれない


麻美ちゃん 今頃気持ちよく空を飛んでいるかい?
飛べているはず 私たちはそう信じてる


















若き乙女がなぜ究極の選択をしたのか
俺はたぶん考え続ける












心から


合掌

yeah5266 at 00:42|Permalink

2008年02月27日

JAMBOO SCRAPPYをみんなよろしく!

は?なんだこれ?というそこのあなた。
まずはここ見て。

イケてるあんちゃん達が写っているでしょ?
実はこの中の一人が、俺の友達だったりする。

もう、CDも出ています。こちら
タワレコ、HMVなどで買えるから、渋谷あたりに行けば大丈夫だと思う。


まぁ、俺にだまされたと思って(笑)、聞いてみてください。
こういっちゃぁなんだが、洋楽オタクの俺が完全にノックアウトされたもんね。なんつ〜か、独特の世界観を持っている彼ら。音は決して激しくはない。でも、なんかこう完成された世界があるような感じ。


音的には、スピッツとレミオロメンが重なった感じかなぁ…。いいっすよ、これ。マジ、お勧め。


sweet melonsoda anyboy(「9日目」より)



メロンソーダか…そんなもん飲まなくなったなぁ。
今度買ってみよう。

なんか変わるかもしれない。



yeah5266 at 16:28|Permalink

2008年02月11日

知らなかった。来てたのね。

すまん。趣味の話で。ソースはここ
たまにチェックしているが、ここんとこご無沙汰だった。久々にチェックしたら…んもぅ、びっくり。

もう20年近く前の話だが…NHK FMの深夜番組で、ジミーペイジのソロのライブの音源をそのまま流していて(今では考えられん)、そこで流れていた数々の曲で痺れたのが始まり。せっせとバイト代貯めて、食費減らしてまでzepのCD買いこんで。んで、何度も何度も聞いて…。

解散から30年近く経とうとしているのに、再結成を望まれているバンドってそうはないんじゃないか?
「時代に関係なく、自分たちは、ずっとやりたい音楽をやっていた。」
やりたいことをやる…ここが未だに多くの人をひきつけているんだろうね。in through the out door発表後、今までとは全く違う音作りなのに、またブランクが3年以上あったのに、それでも発表したら一気にビルボードのトップに行くあたり凄いね。
なんつ〜か、ホンモノだよね。ホンモノにはやはり人は付いていくんだね。

解散後にファンになった俺が言うから間違いない。昔からのファンは未だに夢の実現を望んでいるだろう。
んで、また実現しなかったとしても、「あぁ、やっぱりね。らしいよね」となってしまうのだろうね。



カッコ良すぎるね。こういう親父になりたいね。やりたいことをやりながら、好き勝手やりながら、生きていくってやはり憧れだなぁ…。
それにしても、還暦前後の親父たちが頑張るって凄いよね。


yeah5266 at 00:09|Permalink 雑感 

2008年01月30日

与野党攻防は佳境へ 気勢上げる民主党、議長仲裁に自民悲壮感

ソースはここ

減税→地方譲与税削減→自治体ごとに借入
現状維持→地方譲与税そのまま→自治体ごとに借入しない

どっちかしかないと思うんだが…
減税は景気浮揚効果があるといわれているが、今回はそうはならない。必要な分は自治体が借金をすることになるだろうから、そのことを知った国民は景気浮揚行動?に出るとは思えない。

つまり、
税で支払い続けるのか?
それとも、
税という形式を止めて、自治体ごとの責任とすべきなのか?

どちらかしかないのだ。

各自治体の首長ないし財政担当は頭を抱えているんじゃないかなぁ。そりゃそうだよな。歳入が訳わからん状況だと、組みようがないしなぁ。

とどのつまりガソリン売上比例配分にしたらいいんじゃないの?確か16年度の都議会でそういう意見書を採択していたはずだけど。

私はこういう揉め事はかなり覚めた目で分析をするように心がけている。
たぶん、国民には民主頑張れ!とか、自民頑張れ!とかはない。
まず、何が問題なのかがいまいちよくわからんといったところか。

一旦国税として吸い上げたものを地方に分配というのはおかしい、税体系を抜本から見直すべきだとぶち上げて、その一例としてガソリン税を考える…ならまだわかるんだが。
暫定という方法の是非より、この方を主軸において議論した方が、まだ見えやすいんじゃないかなぁ…。

自治体側としては、どうにかしてくれ!というのが本音じゃないの?議論するなら、予算の枠組みが決まる前にして置けばよかったのにね。3/31はどうなるんだろうか?

yeah5266 at 10:51|Permalink 雑感 

2008年01月15日

信じられるものはありますか?

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先週、体調を崩しかけたものの、何とか持ちこたえている。
不思議なもので、年始はやはり昔の知人に会いたくなったりする。お互い様だ。連絡したり連絡が来たり…。
仕事の合間を見ながらちょくちょくと呑みに出かけ、旧交を暖めるようにしている。

先日、とある呑み会に行くためバスに乗った。たまたま男性2人が座っている後ろに座った。
話を聞いていると、どうやら就職活動中らしい。
1人は社会起業をめざしたいと語っている。それに対しもう一人が反論する。
「資本主義のこの世の中で、所詮儲かってなんぼ。社会起業なんて自己満足の世界」というようなことを言っていた。

彼らは両方とも正しい。今、日本の社会はその狭間にようやく入ろうとしている。
バスを降りて、呑み会の会場に着くまで考えていた。彼らは素晴らしかったからだ。

何が?

答えは簡単だ。自己の意思で将来を決めようとしているところがすごいと思った。
私自身、大学のとき就職活動は、なんつ〜か波にのまれていた。やりたいことは漠然とあったけど、結局無難なところに落ち着いた。内定が出たら、ま、こんなもんか、ということで、あまり深く考えない。
親は喜ぶ。私の父は苦労人だ。せめて息子には良い教育、良い学校、良い就職先…行く末は安泰と、絵に描いていた世代だ。彼らの背負ってきた時代背景を考えると、私は親を攻めることは出来ない。

たぶん私の世代はこういう人が多いはず。そもそも20代前半で本当に自分のやりたいことがわかるわけがないと思っている。しかし、先ほどの学生ははっきりと意思表示をしていた。これに衝撃を受けたのだ。

たぶん彼らはそれぞれ希望する次元へ旅立つだろう。

一方…

ある方と面談して、これと逆方向の状況を見ることもあった。その方はいわゆるリストラ組。今、就職活動中。
「俺の悔しさを子どもには継がせない。せめてよい教育を…」
この発言を聞いて、はっとしたのだ。

歴史は繰り返されている…と。

たぶん親父たちの世代はまさに格差社会で、どうしようもなくて、そこから這いつくばっていくことに快感を覚え、子どもにそれを仕込んでいた世代。彼らには夢があっただろう。まだ見ぬ将来の日本は何か…とね。

一方、現在はどうか。決定的に異なるのは、夢を語っていないということだ。悔しさだけが原動力になっているのだ。
片や夢を教えていた世代、片や悔しさだけを伝える世代…。
格差社会というのは今のうちに手を打たないと大変な状況が待っているかもしれないね。


今、わが国の最大の不幸は信じられるものがないということではないだろうか?慶応大学の上山先生が以前どこかで言っていたが…。
この国はやはり本物の宗教が必要な時期に来ているのかもしれない。

yeah5266 at 22:50|Permalink 雑感