2015年10月06日

久しぶりに書きます

4年以上に亘って放置していました.

思い起こせば,滋賀大を出てから研究領域を少しシフトし,早いもので6年半が経つのですね.シフトしたときは,どうなることかと思っていた日々でした.6年前,研究領域を少しシフトしたときに,指導教官から「とにかくいろんなことに興味を持って,ひたすら書いてください.書かないと力はつきません.そして,知識の水たまりをいくつもいくつも作ってください.いつかその水たまりは泉となって,君を助けることになるでしょう.とにかくレポートを年に3回書いてください.しかし,君はこれまで歴史を取り扱ってきたけれども,レポートの読者は歴史に興味はありませんから,現代のことを取り扱ってください.」と言われ,よく分からないなりに,書きながら,調べ.とにかく書く.書くためには調べなければならないから,調べる.こういう日々でした.

4年前,研究所に就職し,それ以来,研究所のノルマ(論文やレポート執筆)に加えて,2ヶ月に1回,証券会社や取引所の経営者の方や金融行政に携わっておられた方々へのオーラルヒストリーの聞き取りを指導教官,大先輩とともに始めました.論文やレポートも書きながら,調べるという自転車操業でこなしていたのですが,そこに新たなお仕事登場です.

当然,ヒアリングをさせて頂くには,事前に入念な下調べが不可欠です.最初は調べる術を模索しながら,苦労して苦労して調べていたものです.そうして,質問事項を作って,インタビューを行わせて頂くわけです.そして,インタビューを終えたら,その内容を公表できるように纏めていきます.しかし,人が自分の記憶を頼りに話してくださることですから,当然,記憶違いということもあります.これもまた,入念に入念に調べて,脚注をつけたりして,読み手がより理解できるよう文章にしていきます.

また,他方で史料集の編集作業も行っていました.校正作業を行いつつ,昭和40年以降の資料発掘を行っていきます.こうした日々をこの4年間過ごしていました.気がついたら,あっという間の4年でした.この4年の間,仕事に恵まれて,研究所の諸先輩は温かくご指導して頂き,また,業界の方からも格別のご支援をいただき,本当に本当に充実した日々を送っていました.なぜこんな感傷に浸った文章を書くのか.

それは,このような天国のような研究所に4年間在籍したわけですが,故あって4月から大学に移籍しました.これからもはや半年.授業の準備,ゼミの準備に自分の仕事もあり,気がついたらあっという間に半年が過ぎていました.というのは,大学では学生たちにはなかなか馴染みのない証券市場論のゼミであるにもかかわらず,来てくれたゼミ生たちが本当にいいゼミ生で,あぁここに来てよかったなと思ってもらえるようなゼミにしなきゃならない,だから敢えて,普段読んでいる本をテキストにするのではなく,普段読まない書籍,レポート,論文をゼミ生たちと読むようにして,学生たちと一緒に勉強していました.このゼミ生たちは,最近の学生だなと思うこともありますが,そのほとんどは本当に熱心に話を聞いてくれますし,最近の大学生には珍しく,自分から発言する学生も多くいます.

こうした自慢のゼミ生たちとの活動記録を残すため,また,どんなゼミをしているのか,学外に公表することを通じて,自分自身にも緊張感を与えるため,ゼミのホームページを開設しました.まだまだコンテンツは充実していませんが,ゼミ生たちと協力して,これから徐々に徐々に増やしていこうと思っています.なかなか書き込む時間はありませんが,近況をご報告いたしました.

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2011年11月17日

マレーシア2日目

今日は,朝5時にモスクからスピーカーにのって,超巨大な音量で流れる祈りで目覚めました.

朝の出発が7時55分だったので,その時間に起きて,身の回りのことをして,朝ごはんを食べていたら,ちょうどいい時間になりました.

コンベンションセンターで学会は開かれてるのですが,すごい立派なホールが会場だったのでビックリしましたが,そのホールが寒い,寒い.聞くと,マレーシアの施設は冷房の設定を22℃にしているようです.どうりでタクシーとかも寒かったはずだ….

午前中は,keynote speaking,午後からはdiscussion sessionでした.

明日は,午前中は報告があり,午後から企業見学,そしてパーティが予定されています.

もう寝ます.では

yf_63 at 22:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2011年11月16日

マレーシア

今日から日曜日までマレーシアでの国際学会に来ています.

空港からホテルまで,電車で行こうとしたのですが,クアラルンプール中央駅までは特急列車でかなり快適に来れたのですが,クアラルンプール中央駅からシャーアラムまでの電車が大混雑.電車が来ても,全員が乗れずに次の電車を待たされるような状況.

こりゃいかんと,駅からホテルまでタクシーに乗りましたが,ホテルの名前を行っても,街までの行き方はわかるが,ホテルは知らないとドライバーに言われる始末.途中,大渋滞の中,1時間30分以上かかって(ガイドブックでは40分と書いてあったが…),何とか到着しました.

ホテルについてからも,部屋でネットが使えるとフロントで教えてもらったが,使えなかったり(フロントの女の子が設定していなかった),何だか波乱万丈な旅行が始まったなと….

ホテルはブルーモスクというかなり有名なモスクのまん前で,部屋からモスクが一望できます.日本に帰ったら,写真をアップしようかなぁ…

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2011年10月23日

学会賞

896da9d3.jpg本日から神戸で平成23年度日本保険学会大会に参加しています。

この大会おいて、昨年9月に発行された「保険学雑誌」に掲載頂いた私の論文が、第1回日本保険学会賞(論文の部)を受賞させて頂きました。

日本保険学会は、前身の保険学会が明治28年に設立され、116年の歴史がある日本でも有数の歴史ある学会で、しかも記念すべき第1回の学会賞を受賞でき、身に余る光栄です。

総会の席でも申し上げたのですが、このような栄誉を頂けたのは滋賀大学の先生方のご指導のおかげであり、また日本生命文研図書館、生命保険協会図書室の皆さまのご協力なしには受賞は有り得ませんでした。皆さまに心より感謝いたします。

歴史学の研究は、地味な研究で、若手研究者の少ない分野です。今回の受賞は、そういう地味な研究にも光を当てようと、また歴史学を専攻する若手研究者をencourageしようという意図で頂けたのだと思います。

これで慢心するのではなく、これまで以上に身を引き締めて、受賞に恥じない研究をしていかねばならないと、改めて思いました。

最初、この話を聞いたときは、まず何のこと?と思いました。学会賞があることすら知らなかったからです。次に、何かの間違いやろと思いました。実証研究が主流の昨今の風潮の中で、歴史論文が学会賞を頂けるはずがないと思ったからです。

しかし、今日、賞状と記念品を頂き、実感が少しずつ湧いてきました。これからも一歩ずつしっかり史料を見つけて、頑張っていきたいと思います。


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2011年10月21日

法要

本日、父の四十九日法要を無事、勤修することができました。

この間、お世話になりました皆さまにまずお礼申し上げます。

9月2日に父が亡くなった。68歳340日の人生であった。我が家は浄土真宗の門徒で、浄土真宗の教えでは、阿弥陀如来に帰依していた人は亡くなれば、阿弥陀如来がその本願力で即得往生させてくれるということだから、今頃はお浄土で念仏三昧の時間を過ごしているのだろうと思う。

6月に大腸の末期ガンがとそれが肝臓に転移しているこてがわかり、7月末に入院。わすが1ヶ月程で帰らぬ人となった。

3月に1週間、我が家に来ていた時は、全く体調が悪い素振りをしなかったが、今から思えば、しんどかったのかもしれない。

父は、痛いの痒いのは一切口に出さず、我慢、我慢、我慢で耐えてきた人だった。子供の頃に、腕に皮膚を移植せねばならないような大やけどを負った時も、苦労して腕が使えるように、かなり無茶な今でいうリハビリをしていたらしい。

ガンは進行すると、物凄い痛みを伴うと聞く。きっと痛かったんだろう。でも、最後まで自分から痛いと言ったことはなかった。

我々家族が「痛い?」と聞いても、入院当初は顔を歪めていても「大丈夫」と答えていた。いよいよ、入院も1ヶ月を越えた頃に、「痛い?」と聞いて、始めて「痛い。こんなに痛いと思わなんだ」と答えた。それまで一度も「痛い」とは言わない我慢強い人だった。

そんな体中に痛みを感じていても、体力がなくなったら、病気に勝てないと、全身注射だらけの体でベットで腹筋をしたり、起きようとしたり、足を動かしたりしていた。「お前の子供を見るまでは死ねない」と言っていた。最後、2日間、瞬きすらしなかったらしい。目を閉じたら死ぬと思ったのだろうか。

いびきのような音を立てて呼吸していた。突然、その音が消えた。白眼をむいた。ビックリした僕は、「何、しとんじゃ」と言って父の肩を思いっきり叩いた。

黒目が戻った。僕の方を見た。そして逆側にいた母親を見た。と同時に、妹が病室に駆け込んできた。家族全員が揃ったのを見届けて、お浄土に旅立った。

父は子供に勉強しろと言ったことがなかった。就職とて、自分の好きなようにせよと言っていた。子供を縛ろうとは全くしなかった。「自分の人生なんだから、好きなようにせよ」と言っていた。好きなようにさせてもらった。

去年の結婚式の2,3日前の晩。「挨拶の原稿、作ったから見てくれへんか」とやって来た。中学しか出ていない父は、1週間図書館に通って、挨拶の本を読み、良さげな文章を繋ぎ合わせた挨拶文を持って来た。さすがにこれは・・・と正直思った。

趣旨が変わらないように直して渡した。何も言わなかった。黙って受け取って行った。披露宴では必死に読んでいた。そんなどんくさく、しかし愛嬌のある父が好きだった。

これから親孝行をしようと嫁さんとも言っていた。その第一弾として、東京の家に1週間来てもらった。途中、草津温泉に行ったりしながら。次は、北海道やなと言っていた。行けなかった。

入院直前に、3家族で子供の頃に毎年連れて行ってもらった城崎に連れて行った。大人になって初めて、ゆっくり話した。「手術が終わったら、また行こう」と言ったら、「おぅ」と言っていた。しかし、それは叶わぬ夢となった。

父の人生は幸せだったんだろうか。それは聞けないから分からない。

父は伝記を書き残してもらえるような偉大な人物でも、自分が書き残した論文や本があるわけでもない。

父の死後、色々な手続きをしていると、どんどん父がこの世に生きた軌跡がなくなっていくように思えた。寂しく思い出した。

うちのお坊さんは、法要の度に、故人を偲びましょうと、父との思い出を聞いたり、そういう時間を作ってくれている。その何十分、数時間かもしれない時間、振り返るだけでも、色々なことが思い出される。我々家族の胸の中では、今後も父は生き続けていく。これは間違いない。そして、僕は自分に子供ができたら、子供に父のことを語り継がねばならないのだろう。

今日、法要をして、そんなことを思った。

最後に、お父さん、本当にありがとう。


yf_63 at 02:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)