先日の休診日は診療以外の仕事もあったので、遠出はせず壬生にちょっとだけ出かけてみました。

東京駅丸の内口を出て丸ビルの裏あたりに、江戸時代の地図が書かれた案内の看板をかつて見たことがあって、江戸城から近いところに当時の下野國壬生藩の屋敷があったとされていたのを覚えていたので、一度壬生の城址に行ってみようと思っていたわけです。
IMG_7629

壬生は鹿沼方面に行くときに通過するだけで、蘭学通りに昔の名残が少しあるなという程度の理解でしたので、大きな城下町でもないのになぜ江戸の真ん中に屋敷があったのかが不思議でした。

それから、かんぴょうは滋賀県あたりから壬生に伝わったといううろ覚えの知識があったので、同じくかんぴょうを多く生産する下野市の市民としては、そのあたりも気になっていたこと、日光西街道が通過しており何らかの重要な役割があったのかなと推測をして、城址公園のなかにある民俗民俗資料館に行ってみました。
IMG_7651


当院周辺や宇都宮市南部などと同様に、壬生も古墳が多い地域でもあり、資料館も大きな埴輪の展示がありましたが、今回は江戸時代が興味の対象なので埴輪は軽く流して、城下町壬生についての展示をじっくり見学しました。

やはり江戸から将軍が日光東照宮に詣でる際に壬生に滞在したようですが、参詣の道程は宇都宮経由のパターンもあり、毎回のように壬生を通るわけでもないようで、しかも毎年のようにあるわけでもなく、その割に立派な建物が用意されていたのは驚きです。壬生が幕府に重要視され、江戸城の近くに江戸屋敷が造れたこととも関係するのかもしれないですね。

小山市喜沢の追分になる地点に「男體山」とか「左日光」と彫られた石碑が立っていますが、一昨年に107年ぶりに元の位置に戻ったというニュースがありました。繰り返し倒されてしまった石碑とのことで、日光に行くのに壬生経由か宇都宮経由かは、江戸時代は大事なことだったのでしょう。


資料館の展示では、かんぴょうと壬生については、1712年に城主になった鳥居忠英の時代にかんぴょうが広まったとありました。滋賀県水口(みなくち)から移ってきた殿様のようです。
現在は滋賀県甲賀市となっている水口は、甲賀市の観光協会のホームページには、水口かんぴょうとして掲載されています。こちらのホームページには、逆に1712年に壬生から新しいかんぴょうの製法が水口に伝わったと記載されています。水口は東海道五十三次の宿場でもあり、安藤広重の絵ではかんぴょうを干している人が描かれているようです。初めて知りました。

壬生の城址公園の北西には神社があって、ここには「干瓢発祥二百五十周年記念碑」と「干瓢伝来三百年記念」のかんぴょうの石像がありました。
IMG_7659

IMG_7662
IMG_7656 (1)

発祥と伝来がどう違うのか現場では考えなかったので、あらためて見に行ってみようかと思った次第で、いずれ甲賀市の水口城にも行ってみたいところですね。

今回は壬生城やかんぴょうについて資料館や神社で学ぶことができました。
2時間程度のプチ旅行ですが、身近なところでも街歩きは楽しめます。