依存症の少女達へ (依存症のココロ)

依存症の回復を目指すこととは 『母の娘』からの脱却、自分を取り戻す作業でもありました。その記録です。

久しぶりの更新 ( その後の心境の変化 )


一年以上ぶりの更新になりました。
おかげさまで、断酒は続いております。(約4年半)
ありがとうございます。m(_ _)m


さて、前記事・前々記事では、私が依存症の根源になると考える「寂しさ」というものに焦点をあて、
「依存心を手放す」ことによって「寂しさを受け入れる」という表現をしました。
その後1年の経過によって「その表現はちょっと違うかな?」という心境が出てきました。

その心境の変化を、私の過去記事

飢え

において【追記】という形で書かせて頂きましたので、下に転載いたします。


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【追記】2014 / 10.25


この記事 (「飢え」)では「飢えは 消えない」と断定しておりますが、
3年の月日を経て、今の私は

「飢えは (殆ど) 無くすることができる」という結論に至ることができました。

この後の記事群では、徐々にそこに至る経過、考え方の変遷が現れています。その期間も長い積み重ねの一部であったと思いますが、
更新をストップした後の月日にハッキリとした変化は訪れ始めました。



結論としては、
「飢え」というのは「自分を愛する自分を、自分の中に作る」ことで、どんどん小さくなっていくことが解りました。
でもそれは、小さなことの長い積み重ねであり、かな〜りの月日が必要だったのだな、ということも解りました。

「自分に優しい視点を持ち続ける」
そして過去も含め一旦「自分をまるごと受け入れる (許すとも言う?)」
ということを『意識し続ける』根気が必要なのですね。
徐々に「自分を愛する自分」という、自分の芯が出来てくる感じになります。

自罰的な「他者優先」な共依存タイプな人のほうが、捉え易いかもしれません。
「他者」を気遣い過ぎる思考の癖を「自分」に置き換えればいいのです。
自分に優しく話しかける自分を、自分の中に置く感じです。(これ結構難しいんですよぉ)



しかし、ここで大事な前提になるのが



「愛されたい」を 一旦 脇にどける ということ なんです。



「愛されたい」が強い人ほど、自分を全くといっていい程 愛せていないんです 。


イコール


『愛することなんか、よくわかってない』→『愛されるということも、よくわかってない』
「愛する・愛される」ことなんかよく解っていないまま、適当な幻想で「愛されたい」と言っている状態なんです。



(「愛」を定義するのに、正解はないし、不毛だとも言えますが、ここは私の主観で述べております )



愛というのは『循環する状態』であり、それには基本「自分を愛する自分」が必要です。
「(本当の意味で) 自分を愛する自分」を作らずして「愛されたい」と言うのは、順番が逆なのです。



私はこれに気づくのに何十年もかかりました。



(以上、記事「飢え」からの転載でした)

===============


結局、私は前記事を書いた約1年前の段階では、「自分を愛する自分」を形成する途中の段階にあって、
その曖昧さが「寂しさを受け入れる」という、ちょっと訳のわからないような表現に表れたように感じます。


昨年の今頃、私はやっと意を決し、カウンセラー中尾さん のカウンセリングを受けました。

そのことについてブログ記事を書こうとは思っていたのですが、
なんというか? 非常に「どう書こうか?」という迷いがあり、
そうこうしてる間に約1年が経ってしまいました。

「カウンセリングの詳細を書かない」(他のクライアントに影響があるので) という規約がありますので、大まかな感想になりますが、
私とは違った俯瞰的な視点で?家族の関係性を詳細に読み解いて頂いたことで、
私の家族への見方、過去の捉え方?が大きく変化いたしました。

それによる結果として、私が「自分自身を受け入れることができた」という感じ (←ちょっと無理矢理な表現かもしれません、言葉では上手く表現できない) になれたと思います。

前記事を書いた頃からの心境の変化には、カウンセリングは大きく関わったと思います。


結局、「寂しさ」「飢え」「空洞」といった、色々な言葉で表そうとしていたものとは、
自分の中に「自分を愛する自分」が居なかったというのが真相だったのだと、
今、私は思っています。
自分を認めるというか?そういう自分がないということは、


自分の中に「ブラックホール」がある状態になり、


外側から「承認や好意、愛」を いくら取り込んだとしても、
ブラックホールが『消してしまう』という状態になるのです。(決して満たされないということ)

自分が自分を承認してなかったら、他者からの承認を受けても跳ね返しちゃいますよね?
それなのに…跳ね返しちゃうのに、受け取れないのに、受け取れないからこそ承認欲求が消えないのです。
受け取ることができるのは「自分を承認してる自分」「自分を愛する自分」なんですね。
それが中に居ないのに、外からいくら愛を入れようとしても無駄なあがきです。
それが「飢え」を生み出すのでした。


自分を愛するとは、

なるべく「自己卑下」や「自罰」の心を抑え (その心は奥の方に動いていたりして見過ごし易いので、掘り出してあげることが必要)
自分を励ましたり、なだめたり、慰めたり、許したり、『信じたり』するような、自分に優しい自分を作っていくことです。

それを意識し続けることで、だんだん自分の変化を感じ取れるようになるでしょう。

今の私は、とても平穏です。


あと、ひとつ注意したいと思うことがあります。
現代社会では、Twitter や ライン や Facebook といったツールが蔓延し
情報や 他者の言葉 が入り過ぎ、多くの他者の価値観に、自分が揺れ動かされてしまう人が増えていると感じます。
人の不安定さに大きな影響を与えていると思います。

「自分で情報量を制御する」という意識が ある と ない とでは、
これからの生き方には大きな違いが出てくるのではないでしょうか?



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私の転機=寂しさを宿命として受け入れる

ここ最近、続けて「寂しさ」についての記事を更新しました。



依存症者が必死で あらがおうとする 「寂しさ」。

その「寂しさ」の捉え方が変わったことが、私の転機になりました。そして断酒に至ったのでした。




ある日、あるきっかけで、私はひとりで尋常じゃないぐらい泣いていました。



すると、ふと、降って来たかのように、「諦め」のような「覚悟」のような感覚が訪れたのです。




「ああ、この寂しさを消そうと思うのが、間違えなのだ。これは消えない、背負っていくべき『宿命』なのだ。」と

ストンと、腑に落ちる感じがしたのでした。




寂しさを『受け入れた』とでも言えばいいのでしょうか?




私は 「誰かが寂しさを消してくれる」と 思い込んでいました。

それが幻想であることに気がつき、その幻想を捨てたのです。




「寂しさ」を宿命として受け入れる覚悟を決めた後、

不思議なことに、月日が経つほどに、

あれほど苦しんだ「寂しさ」が、だんだん小さくなっていったのです。

そして私は、





「誰かが寂しさを消してくれるに違いない」という『依存心』こそが、

「寂しさ」というものを肥大させていた ことに気付いたのです。





もがき抜いた先の「底つき」のようなものから、精神的自立の感覚をやっと掴んだのだと思います。

精神的自立をするということは、『依存心』を手放すということは、とーーーっても楽になることだったのです。

この変化を上手く言語化できたとは思えませんが、私はこうして、かなりの心の平穏に至れたのでした。




依存症(共依存も含め)の要因である『寂しさ』を消す方法は、


『私の寂しさは誰か他者が消してくれる』という幻想と『依存心』を捨て去ることだと思います。



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空虚感を見据えて

前記事に続き
愛読させて頂いております、アディクション(嗜癖=依存症)カウンセラーさんのブログをご紹介いたします。

http://love.ap.teacup.com/gamblecouselor/

特に家族の方(=共依存)の治療に力を注いでおられますが、依存症者本人にも大変ためになるブログです。
ひとつの記事を全文転載させて頂きます。ありがとうございます m(_ _)m

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【寂しさと空虚感から抜け出す】

http://love.ap.teacup.com/applet/gamblecouselor/20060524/archive


寂しさや空虚感に出会ったら、それが真のあなたとの出会いかもしれません。

その中には何もないように見えますが、あなたの宝物がたくさん入っております。
じっくりと付き合っているとそれに気が付きます。

新しく生き直すことができるチャンスかもしれません。じっくりと向き合って下さい。
すぐに即効性のあるものに飛びつかないで下さい。


すぐに飛びつくと、また寂しさと空虚感にすぐ襲われます。
そんなことは充分わかっているはずです。


ざわざわとした自分の気持ちときちんと付き合っていくと、真に自分がどうしたいかに気が付いてきます。時間をかけて自分に問いかけてみて下さい。

即効性の男や依存物質に逃げたいでしょうけど、
ここで逃げるといつものパターンの始まりです。
今までそうすることで、どうなってきたかを考えてみて下さい。

世間体とか常識とか世の中の規格品に合わせないで、自分の寂しさと空虚感の中にある自分の本当の欲望に気がついて下さい。きっと宝が見つかります。

寂しさは、人に愛されたことがないから愛されたいのです。愛されたい欲求の現われです。


空虚感は、今までのあなたの子供時代からそう生きるようにしなければ、生きてこれなくて仕方がなかったのです。


どちらも決してあなたが悪いわけではありません。
生きるために仕方なく身に付けてきたものなのです。


身に付けてしまったことを改めるのは自分でやるしかありません。一人で考えず、仲間と一緒にやればきっとできます。


あなたは今でも充分人に愛されてもいます。それに気が付いていないのです。
あなたの空虚感はこれではいけないというあなたの叫びです。


( ↑ 以上、転載でした)




何故、人前で話すことが必要か


愛読させて頂いております、アディクション(嗜癖=依存症)カウンセラーさんのブログをご紹介いたします。

http://love.ap.teacup.com/gamblecouselor/

特に家族の方(=共依存)の治療に力を注いでおられますが、依存症者本人にも大変ためになるブログです。
ひとつの記事を全文転載させて頂きます。ありがとうございます m(_ _)m

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【宝物を探す痛み】 http://love.ap.teacup.com/applet/gamblecouselor/20060530/archive


自分の中の宝物を探そうとして、壁を一つ一つ剥がしていくのは大変辛い作業です。
それは幼い頃に感じないようにしてきた痛みを再体験することだからです。

その痛みに出会うととても耐えられなくなります。専門家や同じ仲間の力を使わずに、一人では乗り越えることができません。最初の壁は特にひどい痛みを感じます。とても耐えられないような痛みです。自分が分裂してしまいそうになります。

その強烈な痛みを乗り越えないと、本物の宝には出会えません。実は一つ乗り越えてもまだまだ壁は続くのです。一つの壁を乗り越えると自信につながり、どう乗り越えたらよいか理解できるようになります。

幼い頃の痛みを再体験して、専門家や仲間の力を借りて大人の自分が治めていくしかありません。自分がきちんと痛みを感じる必要があります。

その痛みを大人の自分がどう感じて、どう理解するか、どう乗り越えるか。それが新しい自分のスタートになります。壁を一つ乗り越えると自分が見えてくるのです。見えてきたものが何にも替えがたい宝物です。

一つの壁を乗り越えると、前述のように乗り越えることを覚えますが、壁は次から次と出てきます。その壁を乗り越えていくことが、自分を形成することになります。新しい自分の物語の始まりです。

それには仲間の中で語らないといけません。
辛いこと、悲しいこと、怒りのことなどを仲間の中で語ることにより、自分の物語を紡いで行く事ができます。この物語を紡いで行くと自分を発見できます。
そして強い自分に出会うことができます。

この物語には終わりがありません。自分の中の壁も終わりがありません。
でもだんだんと壁さえも感じなくなり、本当の自分らしく生きることができるのだと思います。


それは弱い自分も強い自分も、そのまま受け入れた生き方を、身につけた自分を発見するのだと思います。


( ↑ 以上、転載でした)

西原理恵子さん

あるブログ記事に依存症に関しての重要なことが書かれておりましたので、抜粋、転載させて頂きます。
ありがとうございます m(_ _)m

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仲間からの情報で知りましたが、本日20時から教育テレビにて
アルコール依存症家族だった漫画家西原理恵子さんが出演されていました。

…略…

そして、西原さんは、やがて限界を向かえ離婚することになる。
その時、すべてを子供に伝えたそうだ。
だから、離婚後の面会も親子でしたそうだ。

その後夫が底つきを向え、病院で治療することになる。


病院での様子も逐一レクチャーしてくれたそうだ。

そして、夫が同じ入院仲間に対し

「あの人はまたスリップするよ。権力者にしがみつき、
陰で立場の弱い人をいじめているから」というように。


あーやっぱり、正直に生きることが依存症からの回復なんだなーと
思った。


アルコールが抜け、回復した夫とともに西原さんは家族をやり直したそうだ。
それを子供に見せることができたのが一番よかったと。

…略…

そして西原さんは言う。
「離婚が3年だったら違っていただろうな」と。
「私が夫と離れたことで夫は自分の病気に向き合えたのだから
3年で離婚していたらもっと回復が早かったのではないだろうか」と。


この番組を見て感じた。

依存症の対応が認知が低いこと。
そして、やはり同じ立場の人の集まりである
自助グループなどをもっと知って欲しい。

そして、西原さんは
越えた人だなーと思った。

何を越えたかというと、
自分の経験を押し付けていないというか、
過去の自分の対応を悔やみつつも、今現在同じように
してしまっている家族達を暖かく見守っている感じがした。

やめさせようとしてるなんて駄目よ!
離れなきゃ駄目なんだよねー
という目線じゃないのだ。

「うん、わかるよ。そうだよね。みんな必死だよねー」と。
過去の自分に対する許しがあると、今、過去の自分のようなことを
している他人にも寛容になれるような気がする。

つい先輩風ふかして
「あー駄目駄目、それやっちゃ」なんてしちゃうけど、
過去の自分を見るように、見守っていきたいなーと
思うのである。


( ↑ 以上 転載でした。ありがとうございました)

http://happy.ap.teacup.com/applet/maplebeniko/20080625/archive


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依存症の本質 2.

昨日の記事の、依存症のもとが「強い寂しさの感覚」であるということについてもう少し書きたいと思いました。

よく安易に「アルコール依存症は遺伝」なんてことが言われますが、
私は「強い寂しさ」の連鎖、伝播が依存症の連鎖を引き起こすと考えています。

ここで私が付け加えたいのは、一般的に言う、目に見えるわかりやすい依存症者ばかりが依存症者ではない ということです。

私の母はアルコール依存症者の子供、ACでしたが、外面的には普通の人でした。
が、子供である私と姉には、母の「強い寂しさの感覚」が伝わっていました。
母が、子供が離れることにキョーレツな恐怖を感じていることが、呪いのように伝わっていました。
母が子供に(心理的に)しがみつくということは、
子供は「母の寂しさを埋める道具」になってくれと言われているのと同じことなのです。

母は自分の寂しさしか見てなくて、本当は子供のことなど見ていないのです。
それが人依存症者の本質です。
そうしたことは潜在意識で全部子供に伝わり、子供は「強い寂しさ」を常に感じさせられるのです。

こういう形で、一般的には依存症者とは言われてない「人依存症者」も負の連鎖をさせています。
あとこれも依存症者とは言われてないですが、私は、DVや精神的暴力(モラルハラスメント)も依存症の範疇に入ると考えています(これも人依存症ですね)
あれらも「この寂しさの感覚をなんとかしてくれ〜」と暴れる というのが、(本人は気がついてない)深層心理だと思うのです。

誰かがその家系の「寂しさ」の連鎖を止めなければなりません。
その為には、誰かが「自分で自分を満たす」ことを知り「寂しさ」を克服して連鎖を止めることです。

依存症の本質

あるサイトから、依存症の本質のように感じられる記述を見つけましたので抜粋、転載させて頂きます。

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 治療場面で、治療時間が終わっても、なかなか部屋を出たがらない人がいるという…椅子から立ち上がろうとしなかったり、ドアの所に立ち尽くしたまま、部屋を出ようとしなかったりするようだ。
冷静に考えてみれば、治療時間が終わったら帰宅して、また次の治療の時に来ればいいだけのことなのだ。ただそれだけのことなのだが…まるでおぼれている人が必死になって何かにつかまろうとしているかのようだ。……
 
これほど極端でなくても、我々の日常生活の中に似たような出来事がある。
インターネットをやっていると、なかなかパソコンのスイッチを切れなくなる心理がそうだ。
パソコンのスイッチを切ることが、見捨てられるような寂しさと結びついてるからだ。
この寂しさに直面するのが嫌でネットの中をさまよい続けているとインターネット中毒といわれる状態になってしまう。生活に必要なことをすべて放棄して一日中パソコンにしがみついているようなってしまう。

 寂しさを紛らすためにテレビを長時間見続けることもある。スイッチを切った後の寂しさと空虚感に耐えられないのだ。この寂しさはどこから来るのか考えなければならない……
面白い番組がなくても、それなりに見れる番組を探して見続けたりする。いったい何を避けようとしているのだろうか。スイッチを切った後の静けさは、それほど苦痛なんだろうか。
先ほどの患者のように、永遠にテレビが見れなくなるわけではないし、永遠にインターネットが出来なくなるわけではない。スイッチを切って、明日の仕事のために夜更かしせずに寝床に就かなければならない。……その寂しさによって行動が阻害されてはいけない。

 我々は寂しさを紛らわすためにあらゆる物にしがみつく。
知的な優越感、ペット、アルコール、薬物、助けてくれそうな人、同じ悩みを抱えた人。ある人は医者からもらった薬の名前を誇らしげに語り、ある人は手首を切りつけた傷跡を数える。……

 これは、最初に紹介した、部屋を出て行くことの出来ない人と同じだ。見捨てられる恐怖(=寂しさ←私の補足)が解消しない限り、問題は解決しない。……
少しずつ、少しずつ、進んでゆくしかない。……

 泳げない人が水に落ちるとパニックになって必死になってもがく。少しでも泳ぎのわかる人は、なにも恐くないし、あわてることもない。この両者の差はなんだろうか。……
なにもしなくても身体が自然に浮くから、もがく必要はないんだということを、少しずつ、少しずつ学んでゆくしかない。おぼれる心配がないんだということを、そして、恐怖感に囚われる必要はないんだということを。……

 やがて、寂しさ、空虚感、孤独、絶望感、そう言ったものが、お化け屋敷の仮装人形でしかないことに少しずつ気付くようになる。(以上 抜粋 転載でした) http://homepage1.nifty.com/eggs/sikou/sigami.html
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ここでは「見捨てられる恐怖」という言葉が使われています。
精神疾患や心理学的なものに詳しいかたなら、「見捨てられ不安」というと境界性人格障害の専売特許のように思われるでしょう?
でも私は「見捨てられ不安」とは、非常にシンプルに言ってしまえば「寂しさ」の感覚であり「誰もが持つもの」だと思っています。
人によって幅広い強弱があるだけだと思っています。

さて、依存症者というのも、かなりの強さの「寂しさ」の感覚を持つ人だと思います。
例えばアルコール依存症者なら、その歴史の始めの頃、皆で飲み会などの時、
自分だけ朝まで飲んで止まらなかったという経験があるのではないでしょうか?
それが自分の歴史の中で多量飲酒の発端だったという人は多いのではないでしょうか?
何故帰れなかったのか?何故飲むことが止められなかったのか?
「終わらせられない」という、そこに「寂しさの感覚」が張り付いていたことにお気づきでしょうか?
依存症者とは「寂しさの感覚」が非常に強い人です。「寂しさの感覚」から逃げることを止められない人なのです。

「止められない、終わらせられない」ことが「寂しさの感覚」に結びついているということをハッキリ意識上に置いて=つまり「あ〜、やめられないのは寂しい感覚があるからなんだな〜」みたいに自分で気づいてあげて、
さらに そこから その「寂しさ」の感覚に少しずつひとりで対峙していく、慣れていくことでしか依存症の回復はないと思っています。


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依存症を考えて3年


断酒とブログを同時に開始してから3年の月日がたちました。

依存症に関すると思われることを考察してきたブログですが、
急に更新をやめ、ほったらかしにしたことに後悔が消えず、
とりあえずその後を書いておきたいと思いました。

アルコールへの依存はやめても
案の定、他の色々なものに依存しようとする私の依存症体質は簡単に変わるものではありませんでした。
スライド依存ってやつです。それはネット依存であったり、活字中毒であったり、ネット上の人間関係であったり、映画を異常に観つづけるとか…etc…
依存状態であると気づくのは簡単なことでした。やめられないが決して幸せな状態でもない というのが「依存状態」であることをもう知っているからです。
その度に「あ、また依存症だわ…」と引き返すことを短期間に繰り返しました。

それは、ひとつひとつ逃げ場を閉じていくような過程でした。
よくホラー映画なんかで、殺人鬼から逃げている人が行き止まりにぶつかったり、ドアに鍵がかかっていたりして、逃げ場を失っていくシーンがありますよね。
そんな感じで自ら逃げ場を閉じていくのです。

なぜ逃げ場を閉ざすのかというと、「自分が逃げてきたもの」と向き合うしかなくなるようにするためです。
一体何から逃げているのか?それに向き合うこと、それを探す過程が、依存症から抜ける過程だと思います。

「何から逃げているのか?」を考えた時、たいていは「苦痛から逃げている」と判断すると思います。
それも「現在に対する苦痛から逃げている」と簡単に判断してしまいます。

しかし、現在の苦痛というのは、過去の苦痛に繋がって起こっているものなのです。
ですから依存症の自助グループなどでも過去の棚卸しが行なわれます。しかし過去を思い出すだけでは、なんにもなりません。
過去に「何が苦痛だったか」「どんな苦痛から逃げていたのか」を見直すことが本当の目的なのです。
それは 本当に「正直に」苦痛だったことを自分で認めることが必要です。ひとりで行う毒出しのようなものだと思います。

そんなことで、私は過去のことをブログに書きちらしてきました。苦痛だったことを見直してきました。そうすると、過去の苦痛に意識がずっと集中してしまう段階がきます。
それは私の場合「恨み」でした。「恨み」にのめり込んでしまいました。

「恨み」には「罪悪感」が張り付いています。「恨むこと」は苦しいです。そんな感情は消えて欲しいのです。
なんとか抜け出せる方法があるはずだと、色々読んだりしてもがきましたが、もがく程その恨みの感情は湧いてきて手に負えない感じなのでした。
過去を掘り下げて行って、恨み があぶり出されてきて、どん詰まりになったのです。
それが私の長い鬱状態の一面でした。

しかし私は、恨みを見つめた時期が必要な段階だったと思っています。

自分のネガティブな感情(恨み、怒り、不安、悲しみ など)を一旦正直に全部出して、認めてしまわなければ、
自分に嘘をついた状態では、自分が本当に何から逃げたいのかが見つけられないからです。

「恨み」が苦しいのに長く抜け出せないので、
私は ある日、「恨み」というのも依存症みたいなものか?と ふと 思い付きました。
実は 私が「恨み」に しがみついている=執着しているのかも?と 思ったのです。

私の恨みは最終的に「母への恨み」に集約されていました。
この状態を心理学などでは「母親への執着」などと表現するのだろうなぁ…?でも、私はその表現は 違う と思うのです。
私は、母親ではなく「過去に執着している」んじゃないだろうか?

正確に言えば「過去に手に入れられなかったもの」に執着しているんじゃないか?と思いつきました。

私は「どんな時も愛してくれる港のような母親」という「過去に手に入れられなかったもの」に執着していたのではないでしょうか

恨みとは、もうどうにもならない過去を諦められない=執着することではないでしょうか?

そして
私は過去を諦められない苦痛から逃げるための依存症だったのだろうと思い至るようになりました。

私の苦痛が「過去を諦められないせいである」という本質が見えただけで、
私はその執着をもうかなり手放せた感じがしました。


以上が「依存症を考察するブログ」を書きはじめて3年目の私の近況でした。

小児科は「こどもを通して母親(家族)を診る科」


今日もカウンセラー中尾さん http://nakaosodansitu.blog21.fc2.com/ の記事です。

非常に重要なことが書かれていると思いますので、最新の記事ですが全文転載させて頂きます。
中尾さん、いつもありがとうございます。

私は、現代 日本の子供達は非常に危機的な状況にあると感じています。
思春期から深刻な心の病を発症する子供は、益々増えるのではないか と
危惧しております。


***********************************

【小児科は「こどもを通して母親(家族)を診る科」】 2012/10/09


講座の「心のコップ」の項でもお話ししましたが、体の症状は心の状態を表しています。
言葉で表現してくれない“自分”の代わりに、体が感情を表現しているわけですが、まさに「心身一如」であることを相談者の方々のお話を聞いてつくづく実感してきました。

最近、長年小児科で子どもを診ているお医者さんからメールをいただきました。
そこには、医師の目から見た親子の実態が現れていましたので、許可を得て掲載させていただきます。ご参考になればと思います。


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小児科は「こどもを診る科」だと思って、小児科医になったのですが、
「こどもを通して母親あるいは家族を診る科」なんだと、ここ数年思うようになってきました。

とくに、開業して地域に根を張り、同じこどもを年単位で見続けると、
こどもは家族から切り離して考えられないということが、よくわかるようになりました。

結論として、
「こどもの心身の健康における母親の影響は絶大だ」と思います。


いちばん多いのは、「過剰不安タイプ」の母親です。
このタイプの母親は、自分の不安レベルを少しでも下げるべく、こどもを徹底的にコントロールしようとします。
こどもの行動ひとつひとつにチェックを入れ、指示、注意、命令、禁止令、叱責のことばを浴びせ続けており、支配的で過干渉傾向といえます。

こどもは、母親の描く「こども像」の中に無理矢理押し込められ、息苦しさを感じながらも、母親の期待に応えようと頑張っているのだと思います。
もはや、「あるがままの自分」どころか、こどもは操り人形状態ですし、母親は母親で、自分の頭にある「母親像」に束縛されながら生きています。

このような関係の親子がむしろ普通に感じられるくらい、外来でよくみかけます。
そして、これが、将来のいじめ、不登校、引きこもり、心身症につながっていくのだろうと感じています。


ただわかっていても、一日100人から250人も外来で診ている状況では、深く足を突っ込む余裕すらなく、歯がゆいというか、むなしいというか、無力感でいっぱいになります。
今のこどもたちは「自分」を生きていないと思います。
いつしか、自分の感情がどれなのか分からなくなり、周囲に合わせることに一生懸命で疲れ果てていく―そんな印象です。

抑圧された感情は、常にはけ口を探している。
これは先生のサイトのどこかに書いてあったかと思いますが、まさにその通りだと思いました。

アトピー性皮膚炎のこどもの場合は、湿疹がそのはけ口になり、掻くという行動でストレスを放出し、なんとか心のバランスを保っているのではないかと思います。

親からすると、目の前でバリバリ掻かれるとイライラするものです。
ついつい、
「掻くな」「掻くなっていったでしょ」
「もういい加減にして」「ひどくなっても知らないよ」
などと発言してしまいます。

これはいいかえると、
「感じるな」「自分の感情を表現するな」
「いつでも見放す用意はある」というメッセージにもなると思います。

そうすると、ますますかゆくなる、掻きたくなるという悪循環に陥り、難治性の湿疹になるように思います。


どちらかというと、いい意味でいい加減で、こどもの掻くことにあまり干渉せず、湿疹にさほど気を留めないタイプの母親の場合のほうが、湿疹がいつのまにか治っているということも経験します。

このようなタイプの母親は、徹底的に管理したがる医者からすると、悪い患者(母親)になってしまいますが、
ぼくは、適度な「ずぼら感」があったほうが、少なくともアレルギーにはいいように思います。
多くの人が、アレルギーということに「アレルギー(過剰反応)」を起こしているように思うからです。

まとまりがない話をだらだらと書いてしまいました。中尾先生の活動が、多くのひとのこころに光りを与えることを願っています。


★★-------------------------------------------------------------

医師の方が「病気」や「症状」だけを診るのではなく、その背景にある親子関係に眼を向けられていること、
それも世代間連鎖の観点から見ていただいていることがとても嬉しいです。

「子どもは天からの授かり物」
子は親の持ち物ではありません。私たちは、地球を持続させることのできる次世代の人類の養育を託されているだけです。

私たちに託された最も大切な使命は愛を感じてもらうこと。

そのためには、私たち自身が愛あふれる人に変わっていかなければなりません。

それは聖人君子になれと言っているのではなく、
連鎖を断ち切って「あるがままの自分」に戻ること。
自分以外の“誰か”になろうとせずに“自分自身”になることです。

でこぼこがあって、
泣き笑いする、
人間らしい自分にね。(^^)


(↑以上、転載でした)



【「わかってくれない」のは他人ではなく自分】 前記事の続き


カウンセラー中尾さんのブログ http://nakaosodansitu.blog21.fc2.com/ より、

【「わかってくれない」のは他人ではなく自分】 2011/02/11

を転載させて頂きます。中尾さん、いつもありがとうございます。

***********************
「わかってくれない」のは他人ではなく自分 2011/02/11 10:06


●【親への思いを手放すときの心理過程】6


★なぜ、「自分のことをわかってほしい」のがエゴなのか?---------------

「自分のことをわかってほしい」―親へのこの思いはすべての他人に向かいます(自己投影)。

兄弟なんだから、似たような苦労を経験したのだから、同じ病なんだから…と期待し、
しまいには、カウンセラーなんだから、臨床心理士なんだから、○○なんだから“わかれ”、と強要にまでなっていきます。


そして、親に対してそうであったように、期待を失わないためのゲームをし、
わかってくれないと批難し、そして最後は「誰もわかってくれない」と絶望します。


このブログをお読みの方は「○○なのだから、○○するのは当然」という思い方がハラスメントだということをよくご存知だと思います。
根っこにある存在不安が、相手も自分も縛ることで関係を固定化しようとするわけですが、結果は支配と服従の関係になるかチェーンデスマッチのようになるかしかありません。

人は、自分のことを知ってほしいという思いにまみれていますが、その自分は親のことをほとんど知りません。
不安を見たくないがゆえに、自分が自分のことを見捨てたまま、親や他人にわかってほしいと仕掛けています。
その親や他人(相手)のことを知ろうともせずに。

このように見えてくると、自分の行為がいかにエゴなのかがわかってきます。
もしそこに、自分は大変な目に遭ったから一方的に押し付けても当然―そういう思いが隠れ潜んでいれば、その思いに気づくまで自律に向かうことはないでしょう。


★「わかってくれない」のは他人ではなく自分---------------------------

チャイルド(自己)の気持ちを最もわかっていないのは、ほかならぬ“自分自身(自我:エゴ)”なのです。

チャイルドは、自分から逃げ続けて自分を他人に預けようとしている“自分自身(エゴ)”に対して怒っています。

親に「私と向き合え」と言いつつ、
自分はチャイルドから逃げています。

自分が「誰もわかってくれない」と絶望しているとき、
チャイルドが「自分がわかってくれない」と絶望しているのです。


面白いですね。
自己(チャイルド)をわかろうとしないのもエゴ(自我)。
親を含めて自分以外の人に自分をわかってほしいと、願いを押し付けるのもエゴ(自我)です。

自我(エゴ)が、自己(チャイルド)にそっぽを向いて“外”を向いている限り、「自分のことをわかってほしい」というゲーム人生を生きていくことになります。


Iさんが、こう書かれていましたね。
『わたし自身が一番お留守になっていました』
『見ていたものすべてが、わたしの姿でした。わたし自身の姿でした』

そうですね。自分がICを救わない限り、その人の人生のすべてが自己投影で終わってしまいます。

スピリチュアル系では、人間は眠ったまま生きている、ということが言われたりしますが、それはこのようなことを指しているのでしょう。

現実的には、“誰か”や“何か”に執着した人生を送るということです。

人々が自己の救済に向かうのは、すべての逃げ道を封じられたとき。
四面楚歌、万事休す、打つ手なし…で、“外”に向かう万策が尽きた時、Iさんはようやくのこと“内”なるチャイルドにたどり着いたのでした。

そして、ついに到達されました。
『ずっと私のこと誰でもいいからわかってほしいって思っていたけど、
 私がわかりさえすれば、それで満足だったことわかりました。
 私がわかりたかったのです。
 そして、わかったとたん
 誰にもわからなくてもいいことだったとわかりました。
 だって!誰にもわからないことだから』


(↑以上 転載でした)


**********************************

あるある。「わかってくれない」って気持ち。
そして私は「わかって貰えるはずなんかない」と 絶望したりしてましたね。

でもねぇ…、自分が自分をわかってないんですねぇ…

それで 他者が、私のことわかるわけなんかないんですよねぇ…

自分が自分に嘘をついている。
例えば、嫌なのに嫌だと言えない、とかは

嫌だと感じる本当の 自分に 自分が 嘘をついているわけで…

最終的に、私の行動は 一貫しないものになっていくわけで…

つまり、わかりにくい人になっているわけで…、

それを他者に「わかってほしい」なんてのは無理な話しではないでしょーか?

隠れた自分の本当の気持ち(=抑圧したもの)が すっかり解れば、自分に嘘をつくこともなくなり

 ↓

自分の気持ちのまま行動できるようになる

 ↓

「わかってほしい、わかってくれない」と感じることがなくなる


って こと なんですねぇ…。



カウンセラー中尾さんの講座に行ってきました。


9/29 に行われた、カウンセラー中尾さんの講座「あるがままの自分を取り戻す方法」に参加してまいりました。

中尾さんのブログに投稿した私のコメントを抜粋します↓

*******************************

(略)…まず、最もキョーレツな印象は中尾さんの「声」でした。なんとも表現が出来ない「とても良い声」なんです。
講座は感情の抑圧のメカニズム?などについて語られ、カウンセリングとは違うにもかかわらず、
中尾さんの声で語られると、私の閉じ込めた感情が引き出されそうになる(=インナ-チャイルドが暴れる)のを感じました。
また同時にもうひとりの自分(=IP)がそれを抑え込もうとするのもリアルに感じ取れ、非常に驚き困惑している自分が居ました。
その葛藤のせいで頭が少し朦朧としてくる程でした(笑)
「私には抑圧してる感情がある」と頭で解っているだけで、現実は今だ「ガチガチに感情を閉じ込めているんだな…」と気づかせて頂きました。
そして帰ってその夜は、衝撃的に怖い夢を見ました。私の中にこんな「恐怖」が隠れていたのか…と驚いているところです。…(略)

********************************

私はいろいろと理論的に理解しただけであって、
自分が「何を怖れ抑圧しているのか」など
自分のことは全く解っていないことに、実感を持って気づいたのでした。大変衝撃を受けて帰ってまいりました。

私はこのブログに解ったようなことを偉そうに書いてきたのですが m(__)mスミマセン

私は今だ全く、自分の姿は見えていなかったのでした。
自分に向き合ってはいなかったのでした。

そんなことで、講座後 また中尾さんのブログをあちこち読んでおりましたら、
今の私に向けられているかのような、ピッタリな感じの記事を見つけましたので、次の記事に転載したいと思います。

中尾さん、いつもありがとうございます。


依存症は PTSD の合併症


精神科医・うつ病否定のPTSD研究者サイコドクターS先生 のブログ記事転載です。
S先生、いつもありがとうございます m(__)m


***********************************

【大阪市立高校教諭が勤務時間内に校内で飲酒繰り返す】 2012/03/01


これもアルコール依存症であるが、被災地でアルコール依存症が増えていると言う時でも
「PTSDの合併症」とは言わない。

アルコール・薬物・ギャンブル・浪費依存症
全ての治療がまともにできない。


一番ひどいのが「精神科処方薬依存症」


[Wヒュ-ストンの写真](←貼り方不明…)


ソラナックス依存症でとどめを刺されたホイットニー・ヒューストンさん。


(↑以上転載でした)


***********************************

★ここで言う PTSD とは、

災害や大事故や暴力、肉体的虐待によるものだけではなく、

今までは「虐待」とは称されて来なかった、
長期間に渡る精神的苦痛による虐待や、
モラハラ、いじめ、職場のパワハラなどの精神的暴力によるものも含みます。

そういった精神的外傷の

『抑圧』(→それによる葛藤=精神的内圧のようなもの?)=『トラウマ』
によって『発症する症状』が PTSD です。


トラウマに 向き合い 受け入れる 精神医療、依存症治療 を
求める声を発して行きましょう。





前記事【リアリティーとは】からの考察


前記事で説明された「レッテル貼り」について考えてみました。


★何故?! 自分や他人に『レッテル貼り』をしてしまうのか?!


例えば 『自分にレッテルを貼る』ということは


・ 「私は嫌われている」というレッテルを貼ろうが
・ 「私は好かれている」というレッテルを貼ろうが、
・ 「私は駄目な人間だ」というレッテルを貼ろうが
・ それが自分勝手な思い込み、妄想であろうが、


★レッテルを貼るということとは

「自分が どう 見られているか」という



★『他者の目』を『確認している行為』だと言えます。



また、『他者にレッテルを貼る』というのは


たいがいは、
「あの人は こうだから良くない」というような
批判的なものが多く、それというのは

・ 「だから私の方が正しい」とか
・ 「だから私の方が賢く良い人間だ」とかいうように、

『私が 他人と比べて どう位置づけられるか』を
確認していると言えます。

(↑ほとんどの人がやっている行為ですから、当たり前と言えば当たり前の行為なんですが)

つまり、やはり 『他人にレッテルを貼る』というのも



★『他者の目』を『確認している行為』だと言えます。



レッテル貼りを せずにいられない という理由とは


★『他者の目』がないと

 自分が 何をしていいのかわからない とか

 『他者の目』がないと、自分がどこに居るのかわからない とか

 『他者の目』がないと、自分の存在が 自分で 見つけられない

からだった と 気がついたのです。

それが「自分は嫌われている」という否定的なレッテルを貼ることすら
「他者の目」を確認することであり、自分の存在をやっと確認できるからではないでしょうか?


つまり、
『他者の目』がないと『存在不安』に 陥るから なのです。


他者が居ないと、自分が「からっぽ」である と いうことです。


それを、私は 前々記事に

『自分というものがなくて、
 ただ 他者の要求や価値基準に合わせたり、
 振り回されて生きてきた』 と 表現したんですね。


それが、『他者基準』 『他者依存』というものであり、
『存在不安』が基である行動なのです。



確かに、哲学者なんかが
「他者が居ないと自分の存在もない」
と表現する人もいるでしょう?多分…?(哲学は全く知らないが)


でも、『他者基準』『他者の目』依存の

その度合いが問題になってくるのだと思います。

その依存の度合いが強いというのは、


★存在不安を 掻き立てることにしかならないのです。


「本来の自分と自分が繋がっていない」
という表現をする人もいます。


他者の目によって自分が存在するというのは

『自分が 自らの欲求に繋がっていない』から、

満足も平穏も訪れませんよね。

(しかし私は、『他者の目をはずした時』今までの過去に酷い徒労感と虚しさを感じました。でも一時期それに襲われるのは仕方のないことです。一時期堪えれば過ぎ去るのです)


これが、私が
「他者依存」「他者基準」を削ぎ落としていきたい
と 目指す 理由なのでした。



【 リアリティとは 】


カウンセラー中尾さんのブログ記事より、
抜粋 転載させて頂きます。
中尾さん、いつもありがとうございますm(__)m

自律の為には、他者への信頼感を取り戻すことが必要です。
存在不安の軽減に繋がり、依存に走ることがなくなるからです。

その為には、ここに書かれているような
自他への「レッテル貼り」をやめることが必要です。


================

【リアリティとは(2) 「レッテル貼り」が不幸を呼ぶ】 2005/10/06より抜粋です
(↑いつものごとくPCでは跳ばないと思います、スミマセン)


……………………………

前回、経験から理解できるようになることがあるという話を書いた。
今回は、経験しても身にならない話を書いてみよう。

自分が思う自分のイメージのことを「自己概念」と言う。

★いわば、自分に対するレッテル貼りである。

レッテル貼りは『解釈を固定化する』作用がある。

たとえば「自分は嫌われ者だ」という自己概念を持つ人は、
いろんなできごとを、
自分が嫌われているから という理由に結びつけて解釈する。

この時、自分が『好かれている事実は』
★無意識の内に外されるか、
★巧妙に嫌われている理由にすりかえられる。

こうして、
★ますます『自己概念を強化していくことになる』が、

これを「自己概念の循環効果」と言う。
簡単に言えば、思い込み。
ABC理論のエリス流に言えば「間違った信念」。

自分はガンだと思い込んだ患者などもその例の一つだ。
あらゆる症状をガンに結び付けて考え、
ガンであること“確信”していく。
そして、医者に行き、医者が違うと言っても
「やっぱりガンだから本当のこと言えないんだ」と、

★それさえも“材料”にして『確信を強化していく。』

そして、「あなたはガンです」と言ってくれる医者に出会うまで医者巡りを続けることになる。



-------------------------------

この「レッテル貼り」は、自分に対してと同様、
他人に対してもいとも簡単にやりがちだ。

「あの人は怪しい」と思い込むと、その人がやることなすこと怪しく見えるようになる。
いわゆる「疑心暗鬼」というやつで、映画のモチーフになりやすい。
「あの人は身勝手だ」と思い込むと、その人がやることなすこと「自己中で身勝手」な行動に思えて、いちいち腹が立つようになる。
「あの人は自分に嫌がらせしている」と思い込むと、その人がやることなすこと自分に対する嫌がらせに思えてしまう。
昨今の近隣住民トラブルは、こういう「思い込み」が根っこにあるのではないかと思う。

狐のゴンは、「イタズラ狐」とレッテルを貼られてしまい撃たれてしまった。
小さい頃、かわいそうでかわいそうで、ボロボロ泣いた。



-------------------------------
結局、レッテル貼りをしがちな人は、
事実の持つ多様な側面を洞察できなくなる。
頑固で平板な人生を歩むことになる。
困るのは、周囲を巻き込んでしまう場合があることだ。
【↑何を言われても悪く取ってしまい、その解釈を人に広めるとか(←私の補足)】


人間は反射する。
こちらが目を大きく開けば、相手も大きく開く。
あくびもよく伝染するよね。
レッテルを貼られた人間は、その人の前ではそのレッテルのとおりに行動するようになる。

そうでなければ、貝になる。
前回、父親の前で口を紡ぐ子どもたちの例を書いた。
何を言っても、一方的な答えしか期待できない場合、
子どもたちは言うのをあきらめる。
この時、父親は子どもたちから逆レッテルを貼られている。

【↑父親が 子に「お前は~だ」というレッテルを貼ることにより、子は 父親に「何を言っても一方的な答えしか返ってこない父親」という 逆レッテル を貼り、コミュニケートしなくなる(←私の補足)】



-------------------------------
人間は成長する。それと共に、関係性は常に変化している。
固定化しているものなどない。
万物は流転する。その真理の中で、

なにかを“固定化”しようとすると、
不幸を呼ぶことになる。
不幸を呼んでいるのは、他ならぬ自分であることに気づいてほしい。

難しいけどね…。
でも、気づかなければゴンが浮かばれない。



(↑以上、抜粋でした。★印、括弧『』、改行を加えています)



逃げていました。


昨年の7月を最後に、この2月まで
私は、カウンセラー中尾さんの記事を取り上げていませんでした。

それは、正直申し上げますと
読んでいなかったからです。
読めなくなったというか……。


はい。ヾ(._.)_


わたくし、逃げておりました。(IPの逆襲期間だった!)


中尾さんのブログを読むということは、

過去の私が
『自分というものがなくて』
ただ 他者の要求や価値基準に合わせたり、
振り回されて生きてきた と いうことを

突き付けられる ということです。

それは、
今までの過去が 全く無駄であったような
酷い徒労感、虚しさに襲われることでもありますから

つい、その事実から逃げたくなるのです。
そして元の生き方(=他者基準の生き方)に戻ってしまったりします。


しかし、それは
見えない迷路の行き先が怖くなって、後戻りするようなものです。
後戻りしても、また迷路の『行き止まり』にどん詰まって
苦しくなるのです。



★何故、どん詰まって苦しくなるのかというと



「自分」というものがなくて、
ただ 他者の要求や価値基準に合わせたり、
振り回されて生きてきたのだけれども


「自分」というものは、
全く なくなっていたわけではなくて


私の中に居る「本来の自分」みたいなものが、
過去の「他者基準な生き方」に対し

『いやだぁぁぁあっっ!』

と言って、
息も絶え絶えになりながらも
 生きているから、
苦しくなるわけなのです。


苦しんでいる人達とは、

「本来の自分」みたいなものが

『生きているから苦しむのです!』

(↑生命力があるってことです。「本来の自分」など殆ど死んでいる人は、あまり苦しまないのです)


元の生き方に戻りたくなるというのは
「後戻りしようぜ」と誘惑するIPが、
息も絶え絶えな「本来の自分」を殺そうと、
留めを刺そうとしているということなのです。
(でも死なないでしょう。だからまた苦しむ)


そんなことで
迷路の行き止まりにどん詰まった私は、
また中尾さんのブログを読み始め

『自分というものがなくて、ただ 他者の要求や価値基準に合わせたり、振り回されて生きてきた』ことを

あえて 突き付けて貰うことにしました。


このようにIPの逆襲=他者依存に戻そうとする力というのは、必ず来ますから
自分が変化するのは、行きつ戻りつ しながら
大変 時間がかかります。

でも、息が絶え絶えでも「本来の自分」が生きている人というのは、

自分のごまかしに向き合って
「他者依存や他者基準」な所を削り落としていくしか

苦しみを終わらせる道はない

と思うわけなのです。



その病気は…

【メモ】です


皆、病気を 理解してくれ と言う。


私の病気は

私自身に

「理解してくれ」と言っている声なのだ。


誰かに理解して貰っても治らない。


私のどこに傷があるのか
何故 傷が ついたのか
どうすれば もう 傷つかずにすむのか
何が辛いのか
何を取り去れば いいのか

私が私の本当の声を聞いてあげなくては治らない。

誰かに理解して貰っても
永遠に治らない。



パートナーとの関わり方 2.


カウンセラー中尾さんのブログ記事より
抜粋させて頂きます。
中尾さん、いつもありがとうございます。

私は恋愛にも結婚にも失敗し続けた人間ですが、
しみじみ反省と共に後悔の念も湧いてくるのですが、
その「失敗のからくり」を理解することは、
過去の相手も自分も許せるような
楽な気持ちにさせてくれるものでありました。


***********************************

【「龍馬伝」~龍馬と弥太郎と半平太 2010/05/28】より
(↑例のごとくPCでは跳ばないと思います、スイマセン)


【自由からの逃走】2010/05/20(5)(6)の番外編



■人に求めず、自分を信じる------------------------------------

最近感じるのは、宇宙の法則に則った生き方が最も幸せだということだ。
セーラ元妃が金を要求したスキャンダルが24日報じられたが、
恐らく買い物依存症に陥っているのだろう。求めても求めても足りない。
どんなに莫大なお金があっても、心の空洞は埋められないことを彼女は世界に証明している。


大義で動いて人に認められても、
世の中を動かしても、心を埋めることはできない。

「人に認められたい」は、「親に認められたい」の裏返し。
「人のために」は、「親のために」の裏返し。

しかし、
どんなに努力しても、常に人の評価が気にかかる
どんなに成果を上げても、人の言葉で打ち砕かれる。
仮に評価され褒められても、

★自らが殺した心が晴れることはない

どこまでいっても、空しい世界


★それは、人の評価にすがっているから
★人の評価に左右される人生だから


だから、人に評価されようと無茶をし、
自分を認めない人を攻撃したり、排除したりする

親がこうでありさえすれば、私は救われるのに。
相手がこうでありさえすれば、私は救われるのに。

私も妻も、親に対してもお互いにも、
心の問題をレクチャーしようとしたり、考え方や言葉遣いや言い方など、指摘したりされたりしてきた。
相手に足りない部分を互いに責め合ってきた。

でも、
相手がそうできないのは、出自が関係していることがわかってきた。
相手がそうしてしまうのも、
★トラウマなど本人が大したことないと思ったり、
★忘れているような過去が関係していることがわかってきた。


そういう衝動は理性ではどうにもならないこともわかってきた。
頭でわかっても、体は行動できないのだ。
それは一生かかっても解消されないこともあるだろう。
それもその人生。


だから、相手に求めることはできない。
自分が自分で精一杯であるように、相手は相手で精一杯。

「相手に、自分のことを分かれというのはエゴにしか過ぎない」
ある時、妻が独りごちたように言った言葉。

自分の経緯(個性)を自分と同じようにわかる人間はいない。
妻と私も、互いを知り尽くしているはずもない。
だが、信頼で結ばれている。
なぜなら、自分が自分を信じるしかないことをお互いが知っているから。


自分を認めてくれと、互いが相手に求めている内は諍いが絶えなかった。
が、今は穏やかな日々が訪れている。
なぜなら、人に求めている限り苦しみが続くと知っているから。

★それは、互いを諦めたということではない。
自分のことは自分が受け止めるという境地にともに立ったということ。
相手に求めず、ただ見ているだけということができるようになったから。



人(親)に認めてもらうために生きるのではなく、
人(親)のために生きるのでもなく、


★ただ、自分が自分を認めればよい
★誰に認めてもらう必要もない。
★自分が自分を許せばよい。


そもそも、人生に評価などない。

そこには、命があるだけ。



(↑以上、抜粋でした。★印と改行を加えさせて頂きました)

***********************************

前記事で抜粋した文章の中で、中尾さんは

「結婚して私が妻に押しつけたのは“中尾家”モデルでした。一方、実の父を知らぬ妻は理想の夫像、父親像を私に押しつけてきました。」

と表現されていますが、私は

結局 男も女も、
相手に『理想の母親』を求めてしまう

という気がします。

最悪のケース、子供にすら『母親』を求めてしまっている場合もあります。

誰も他者の母親にはなることは出来ない。
不可能なことを追い求めている。
それが「すべての関係性の間違え」に繋がっていると感じます。


ただ唯一
自分だけが自分の母親になることが出来るのですね。
(↑これが難しいのです)



パートナーとの関わり方


カウンセラー中尾さんのブログの記事より抜粋させて頂きます。
中尾さん、いつもありがとうございます。
中尾さんは、ご自分でもブログ記事に書かれていますが、
これは「共依存」からの脱却の話しでもあります。


***********************************

【夫婦再生物語(9)2010/04/21】 より
(↑例のごとくPCでは跳ばないと思います、スイマセン)



■侵入感知センサー------------------------------------------

『二人が積み上げてきた歴史がものを言った』―その歴史を振り返ってみました。

押しつけてくる過干渉な父と心配性の過保護な母。
よく見られる両親の図ですね。
“押しつけ”も“心配性”も、“侵入”というメダルの裏表でした。
その環境の中で生き延びるために、私は“侵入”を徹底排除する侵入感知センサーを身につけました……(略)



■すべては“関係性”の問題-----------------------------------

源家族のあり方に反発はしていても、身体はそのあり方を身につけています。
結婚して私が妻に押しつけたのは“中尾家”モデルでした。
一方、実の父を知らぬ妻は理想の夫像、父親像を私に押しつけてきました。
互いに互いのあるがままを見ておらず、それが相互に苦しめ合うことになったのです。

また、私にとって心配されるということは侵入でしたので、心配することもされることも極端に嫌いました。
おまけに会社三昧となって家庭のことは妻に任せっきりになっていきました。すると、私が心配しない分、妻の心配性は加速していきました。

★すべては個々人固有の問題ではなく「関係性の問題」なのです。

いつしか妻は、私にとって“押しつけてくる父と心配性の母”のような存在になっていました。
その結果、私のセンサーは警戒し続けることになり、妻が少しでも侵入の気配を見せると、とたんに拒絶しました。時に激しく爆発的に。

妻は訳がわからなかったと思います。
どこで地雷を踏むかわからない妻にしてみれば、
私の顔色をうかがうようになっていったのは無理もありませんでした。

ところが、妻がこちらを伺うそぶりを見せると、私の方は痛くもない腹の中を探られるような気持ちになります。
つまり、私にとってそれは“侵入”されていることになるわけです。
だから、怒りが湧く―そういう悪循環に陥っていきました…。



■過敏センサーに動かされたゲーム------------------------------

今思えば、隣人から恋人の関係になった時から、侵入感知センサーにスイッチが入っていました。
恋人時代に一度別れたことがありましたが、それも過敏センサーにより私が重く感じたことが原因だったと思います。

ですから、結婚後も私が意識せずとも24時間勝手にレーダーを回していたのです。
当然妻はセンサーに引っかからないようにビクビクし、そのビクビクがまたセンサーを刺激し、
そのたびに私は「侵入するな!」と拒絶し…。

結局私は、自分のセンサーに踊らされて、親に言いたかったことを妻に言って怒りをはき出す代償行為のゲームをやっていたのです。

その私に妻は「怒りんぼ」とレッテル貼りし、私はその位置に固定されることになりました。
そして妻は、自己防衛からことあるごとに「怒らないで」というフレーズで私を迎撃するようになったわけですが、実はこれもまた代償行為でした。

結局、子供たちから見れば「どっちもどっち」という状況で、お互いに硬直したゲーム(親にいいたいことの吐き出し合い)を続けていたわけです。



■ゲームからの離脱------------------------------------------

しかし、会社を辞めるなどの環境激変の中で互いが足を引っ張り合っていることがわかってきました。

★そして、心の学びの深まりとともに私がゲームを敬遠するようになっていきました。

私がそのセンサーの存在を認知する(=私が“侵入”に対して過敏であると自分でハッキリと口に出して認める)ということは、
★無意識下にあったセンサーが意識上に引き出されるということです。

つまり、私が自覚的にそれを利用することができるようになるわけです。
そして、私はそれを利用しました。
私は、注意深く、妻の言動に侵入の要素がないかを「感視」しており、
安心して近づいたり、敬遠して遠ざかったりしました。

つまり、センサーに踊らされて怒りをはき出すゲームになっていた部分をなくして、
センサーをセンサーとしてのみ活用するようになったわけです。

妻の方からすれば、私から感情をぶつけられることがなくなり、
私が近づいたり離れたりするというフィードバックのみを受けるようになったわけですから
感情のバトルになることはなく、互いに相手を鏡として自分を振り返るということができるようになっていきました。
それが妻の成長を加速させました。

その成長の間も、私の過敏センサーは妻の“安全度”を確認していたのです。そして、安全だというゴーサインを感知して、奥の奥に隠れていたICが出てきたのだと思います。



(↑以上、抜粋でした。★印と改行を加えさせて頂きました)



【自分(人)が信じられない人】


今日も カウンセラー中尾さんのブログ
あなたの子供を加害者にしない為に より転載させて頂きます。

中尾さん、いつもありがとうございます m(__)m

私は、中尾さんのブログ記事を、
少しずつ ランダムに 読み進めているのですが
その時々に「あ、これ忘れないように」と強く感じる中尾さんの記事を、
『画面メモ』的に私のブログに転載している感じです(自分で時々読み返して復習する。自分のブログが自分のノートになってる感じ)

ですから、過去記事と内容が重複するような記事を何度も転載することもありますが、ご了承下さいませ。


=================

【自分(人)が信じられない人】 2009/02/11(←PCでは跳ばないと思います、スミマセン)


統合失調症を作りやすいダブルバインド 2009/02/09の続き


ところで、存在不安の強い親は、ダブルバインドで外から檻に閉じこめるだけではなく、
子どもの内側からも自律の芽を摘み取ります。


■4,『自分を信じるな』という禁止令------------------------

「おまえは暗示にかかりやすいから気をつけろ」
「おまえは思いこみが激しいからなぁ」
「おまえは自分を過信しすぎる」
「あなたはいつもボーッとしているからそういうことになるのよ」
「あなたのやることなすこと心配でしょうがない」
「あんたはそそっかしいんだから注意してね」
「後先考えずに行動するからそうなるんだ。よく考えてから行動しろ」
「もう本当におっちょこちょいなんだから…」
「そんな甘い考えでうまくいくはずがない」
「そんなことじゃあ、絶対に失敗する」
「何をやってもダメだな…」



親からこういうレッテルを貼られて自信を持てる子どもはいません。
まず、「あるがままの自分はダメ」という自分に対する不信と不安が植え付けられます。

自分自身が否定されているのですから、何をやっていても楽しくありません。

それどころか、常に自分の言動がそれでいいのか、正しいのか正しくないのか、
相手に不快を与えていないか、この思いは妥当なのか…、

※際限なく自己チェックを行うようになり、しかもわからないのです。
苦しいですね。

次に、人を信用できなくなります。
自分を信用できない人が他人を信用できるはずもありませんが、

たとえば、「この人は自分を暗示にかけようとしているのではないか」と
常に警戒し、心を許すことができません。

こうして
※『自分が自分を信用できず』

そのため他人をも信用できなくさせられ、
社会から孤絶した疎外感を味わうことになります。
しかし、この疎外は、あなたが悪いわけでも社会が悪いわけでもなく、

『あなたの親がかけた呪文の効果なのです。』


---------------------------------------------------
『なぜ、親がこのような呪文をかけるか』というと、

あなたを一生手元に置いておきたいからです。しかし、それは愛ではありません。
なぜなら、手元に置いてもあなたの気持ちを聴こうとはしませんから。つまり、お人形やペットと同じような扱いで“置かれる”ことになります。

では『なぜ置いておきたいのか?』 

自分の心の空洞を埋めるためと存在不安から逃げるためです。
心の空洞を埋めるために、人は時間をなすべき事で埋め、空間をモノで埋めていきます。
また、存在不安から逃げるために、自分の意識を外に向けさせるものを探し続けます。仕事や趣味がその二大対象でしょうね。

しかし、仕事は定年があり、自分が打ち込める趣味を見つけられるとも限りません。そんな中、

『一生食いっぱぐれがなく、無理なく意識を向けられる存在が“わが子”なのです。』

ですから、

存在不安のある親は無意識に子どもに取り憑きます。

そして、上記のような禁止令を子どもに投げかけて
自信を奪い【細かく言えば、セルフエスティーム(自尊心)やセルフエフィカシー(自己効力感)を奪い】

子どもが自律できないように育てていくのです。


(↑上の文の「親、子ども」を「配偶者」に変えたら 『夫婦間のモラハラ』になる←私の補足文)


---------------------------------------------------
もしあなたが何か行動しようとしたときに、


『頭の中で思考がグルグル回り始めて
 あれこれ考えた挙げ句、結局、や~めた、
 ということになったら』


★あなたの中に棲んでいる親(IP:インナーペアレンツ)の勝利です。
〔↑自律できなくさせる呪文に動かされたわけだから←私の補足〕

なぜなら、自分の思いで行動させないこと―それが、IPの役割だからです。
自分の思いで行動すると背骨ができはじめ、背骨ができると人は自律していきますからね。


★自分を信じることができない人の敵は、
自分の中に棲むIPです。



(↑以上、転載でした。『』←この括弧、私の付け足し&改行を変えています)

=================

たとえ、もう自分は親から自立したと思っていようと
親と離れていようと、親が他界していたとしても

『親の呪文』
(自分を信じられなくする、人を信じられなくする、動こうとするとブレーキをかける などなど)
が かけられています。

↑それに気がつくことで、
楽になっていきます=本来の自分に出会うことになるんですね。

(大変 根気よく「自分の思考を疑う=これ、親の呪文じゃないかい?!」というチェックが必要です)




【人生80年時代に「過去を忘れて前向きに(トラウマを抑圧)」は不可能】


毎度 勉強させて頂いております

精神科医・うつ病否定のPTSD研究者サイコドクターS先生のブログより

また「なるほどー」という お話を見つけましたので、
転載させて頂きます。↓
S先生 ありがとうございます。m(__)m


***********************************

【人生80年時代に「過去を忘れて前向きに(トラウマを抑圧)」は不可能】2012/01/28


今年50歳になることに同級生たちがとまどっている。
それなりに心身にガタがきてはいるが
大半の者がなお30年以上の余命があるという予感と
人類が長く50歳という節目に感じたイメージとのずれがあるからだ。

日露戦争当時でも「働き盛り」とは10~20代で
30代は「中老」と呼ばれたらしい。
30代の「老兵」による後備師団の戦闘力は格段に落ちるとされた。

人生50年時代には「過去を忘れて前向きに(トラウマを無意識に抑圧解離する)」
は有効な戦略だったかもしれない。
しかし人生80年時代においては
無意識のトラウマを意識化して直面しなければ
PTSDを発病する。

最近の「解離」に基づく自殺や
異常行動のピークの一つに
50歳前後があるように思う。


(↑以上、転載でした。改行を加えました)


***********************************

「解離」というのは、
理性が全く ぶっ飛んでしまう
と いう状態です。

気がついたら、人を殴り殺していた とか
痴漢していた とか 酔っ払い運転で事故 とか
各種依存症 も そうでしょう…あと

自殺 とか……


怖いですね。

トラウマに向き合わないと、
抑圧したもの が 大爆発して
ぶっ飛んでしまいます。

(自殺なんて解離してないと出来ません)


精神科や心療内科の「多剤大量処方」は
「解離を誘発する」と言われています。
『毎年の 自殺者3万人以上』 に、大きく関わっているのです。

(酒と薬なんて言語道断、解離へ まっしぐら ですよ)




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