依存症の少女達へ (依存症のココロ)

依存症の回復を目指すこととは 『母の娘』からの脱却、自分を取り戻す作業でもありました。その記録です。

2012年02月

前記事【リアリティーとは】からの考察


前記事で説明された「レッテル貼り」について考えてみました。


★何故?! 自分や他人に『レッテル貼り』をしてしまうのか?!


例えば 『自分にレッテルを貼る』ということは


・ 「私は嫌われている」というレッテルを貼ろうが
・ 「私は好かれている」というレッテルを貼ろうが、
・ 「私は駄目な人間だ」というレッテルを貼ろうが
・ それが自分勝手な思い込み、妄想であろうが、


★レッテルを貼るということとは

「自分が どう 見られているか」という



★『他者の目』を『確認している行為』だと言えます。



また、『他者にレッテルを貼る』というのは


たいがいは、
「あの人は こうだから良くない」というような
批判的なものが多く、それというのは

・ 「だから私の方が正しい」とか
・ 「だから私の方が賢く良い人間だ」とかいうように、

『私が 他人と比べて どう位置づけられるか』を
確認していると言えます。

(↑ほとんどの人がやっている行為ですから、当たり前と言えば当たり前の行為なんですが)

つまり、やはり 『他人にレッテルを貼る』というのも



★『他者の目』を『確認している行為』だと言えます。



レッテル貼りを せずにいられない という理由とは


★『他者の目』がないと

 自分が 何をしていいのかわからない とか

 『他者の目』がないと、自分がどこに居るのかわからない とか

 『他者の目』がないと、自分の存在が 自分で 見つけられない

からだった と 気がついたのです。

それが「自分は嫌われている」という否定的なレッテルを貼ることすら
「他者の目」を確認することであり、自分の存在をやっと確認できるからではないでしょうか?


つまり、
『他者の目』がないと『存在不安』に 陥るから なのです。


他者が居ないと、自分が「からっぽ」である と いうことです。


それを、私は 前々記事に

『自分というものがなくて、
 ただ 他者の要求や価値基準に合わせたり、
 振り回されて生きてきた』 と 表現したんですね。


それが、『他者基準』 『他者依存』というものであり、
『存在不安』が基である行動なのです。



確かに、哲学者なんかが
「他者が居ないと自分の存在もない」
と表現する人もいるでしょう?多分…?(哲学は全く知らないが)


でも、『他者基準』『他者の目』依存の

その度合いが問題になってくるのだと思います。

その依存の度合いが強いというのは、


★存在不安を 掻き立てることにしかならないのです。


「本来の自分と自分が繋がっていない」
という表現をする人もいます。


他者の目によって自分が存在するというのは

『自分が 自らの欲求に繋がっていない』から、

満足も平穏も訪れませんよね。

(しかし私は、『他者の目をはずした時』今までの過去に酷い徒労感と虚しさを感じました。でも一時期それに襲われるのは仕方のないことです。一時期堪えれば過ぎ去るのです)


これが、私が
「他者依存」「他者基準」を削ぎ落としていきたい
と 目指す 理由なのでした。



【 リアリティとは 】


カウンセラー中尾さんのブログ記事より、
抜粋 転載させて頂きます。
中尾さん、いつもありがとうございますm(__)m

自律の為には、他者への信頼感を取り戻すことが必要です。
存在不安の軽減に繋がり、依存に走ることがなくなるからです。

その為には、ここに書かれているような
自他への「レッテル貼り」をやめることが必要です。


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【リアリティとは(2) 「レッテル貼り」が不幸を呼ぶ】 2005/10/06より抜粋です
(↑いつものごとくPCでは跳ばないと思います、スミマセン)


……………………………

前回、経験から理解できるようになることがあるという話を書いた。
今回は、経験しても身にならない話を書いてみよう。

自分が思う自分のイメージのことを「自己概念」と言う。

★いわば、自分に対するレッテル貼りである。

レッテル貼りは『解釈を固定化する』作用がある。

たとえば「自分は嫌われ者だ」という自己概念を持つ人は、
いろんなできごとを、
自分が嫌われているから という理由に結びつけて解釈する。

この時、自分が『好かれている事実は』
★無意識の内に外されるか、
★巧妙に嫌われている理由にすりかえられる。

こうして、
★ますます『自己概念を強化していくことになる』が、

これを「自己概念の循環効果」と言う。
簡単に言えば、思い込み。
ABC理論のエリス流に言えば「間違った信念」。

自分はガンだと思い込んだ患者などもその例の一つだ。
あらゆる症状をガンに結び付けて考え、
ガンであること“確信”していく。
そして、医者に行き、医者が違うと言っても
「やっぱりガンだから本当のこと言えないんだ」と、

★それさえも“材料”にして『確信を強化していく。』

そして、「あなたはガンです」と言ってくれる医者に出会うまで医者巡りを続けることになる。



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この「レッテル貼り」は、自分に対してと同様、
他人に対してもいとも簡単にやりがちだ。

「あの人は怪しい」と思い込むと、その人がやることなすこと怪しく見えるようになる。
いわゆる「疑心暗鬼」というやつで、映画のモチーフになりやすい。
「あの人は身勝手だ」と思い込むと、その人がやることなすこと「自己中で身勝手」な行動に思えて、いちいち腹が立つようになる。
「あの人は自分に嫌がらせしている」と思い込むと、その人がやることなすこと自分に対する嫌がらせに思えてしまう。
昨今の近隣住民トラブルは、こういう「思い込み」が根っこにあるのではないかと思う。

狐のゴンは、「イタズラ狐」とレッテルを貼られてしまい撃たれてしまった。
小さい頃、かわいそうでかわいそうで、ボロボロ泣いた。



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結局、レッテル貼りをしがちな人は、
事実の持つ多様な側面を洞察できなくなる。
頑固で平板な人生を歩むことになる。
困るのは、周囲を巻き込んでしまう場合があることだ。
【↑何を言われても悪く取ってしまい、その解釈を人に広めるとか(←私の補足)】


人間は反射する。
こちらが目を大きく開けば、相手も大きく開く。
あくびもよく伝染するよね。
レッテルを貼られた人間は、その人の前ではそのレッテルのとおりに行動するようになる。

そうでなければ、貝になる。
前回、父親の前で口を紡ぐ子どもたちの例を書いた。
何を言っても、一方的な答えしか期待できない場合、
子どもたちは言うのをあきらめる。
この時、父親は子どもたちから逆レッテルを貼られている。

【↑父親が 子に「お前は~だ」というレッテルを貼ることにより、子は 父親に「何を言っても一方的な答えしか返ってこない父親」という 逆レッテル を貼り、コミュニケートしなくなる(←私の補足)】



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人間は成長する。それと共に、関係性は常に変化している。
固定化しているものなどない。
万物は流転する。その真理の中で、

なにかを“固定化”しようとすると、
不幸を呼ぶことになる。
不幸を呼んでいるのは、他ならぬ自分であることに気づいてほしい。

難しいけどね…。
でも、気づかなければゴンが浮かばれない。



(↑以上、抜粋でした。★印、括弧『』、改行を加えています)



逃げていました。


昨年の7月を最後に、この2月まで
私は、カウンセラー中尾さんの記事を取り上げていませんでした。

それは、正直申し上げますと
読んでいなかったからです。
読めなくなったというか……。


はい。ヾ(._.)_


わたくし、逃げておりました。(IPの逆襲期間だった!)


中尾さんのブログを読むということは、

過去の私が
『自分というものがなくて』
ただ 他者の要求や価値基準に合わせたり、
振り回されて生きてきた と いうことを

突き付けられる ということです。

それは、
今までの過去が 全く無駄であったような
酷い徒労感、虚しさに襲われることでもありますから

つい、その事実から逃げたくなるのです。
そして元の生き方(=他者基準の生き方)に戻ってしまったりします。


しかし、それは
見えない迷路の行き先が怖くなって、後戻りするようなものです。
後戻りしても、また迷路の『行き止まり』にどん詰まって
苦しくなるのです。



★何故、どん詰まって苦しくなるのかというと



「自分」というものがなくて、
ただ 他者の要求や価値基準に合わせたり、
振り回されて生きてきたのだけれども


「自分」というものは、
全く なくなっていたわけではなくて


私の中に居る「本来の自分」みたいなものが、
過去の「他者基準な生き方」に対し

『いやだぁぁぁあっっ!』

と言って、
息も絶え絶えになりながらも
 生きているから、
苦しくなるわけなのです。


苦しんでいる人達とは、

「本来の自分」みたいなものが

『生きているから苦しむのです!』

(↑生命力があるってことです。「本来の自分」など殆ど死んでいる人は、あまり苦しまないのです)


元の生き方に戻りたくなるというのは
「後戻りしようぜ」と誘惑するIPが、
息も絶え絶えな「本来の自分」を殺そうと、
留めを刺そうとしているということなのです。
(でも死なないでしょう。だからまた苦しむ)


そんなことで
迷路の行き止まりにどん詰まった私は、
また中尾さんのブログを読み始め

『自分というものがなくて、ただ 他者の要求や価値基準に合わせたり、振り回されて生きてきた』ことを

あえて 突き付けて貰うことにしました。


このようにIPの逆襲=他者依存に戻そうとする力というのは、必ず来ますから
自分が変化するのは、行きつ戻りつ しながら
大変 時間がかかります。

でも、息が絶え絶えでも「本来の自分」が生きている人というのは、

自分のごまかしに向き合って
「他者依存や他者基準」な所を削り落としていくしか

苦しみを終わらせる道はない

と思うわけなのです。



その病気は…

【メモ】です


皆、病気を 理解してくれ と言う。


私の病気は

私自身に

「理解してくれ」と言っている声なのだ。


誰かに理解して貰っても治らない。


私のどこに傷があるのか
何故 傷が ついたのか
どうすれば もう 傷つかずにすむのか
何が辛いのか
何を取り去れば いいのか

私が私の本当の声を聞いてあげなくては治らない。

誰かに理解して貰っても
永遠に治らない。



パートナーとの関わり方 2.


カウンセラー中尾さんのブログ記事より
抜粋させて頂きます。
中尾さん、いつもありがとうございます。

私は恋愛にも結婚にも失敗し続けた人間ですが、
しみじみ反省と共に後悔の念も湧いてくるのですが、
その「失敗のからくり」を理解することは、
過去の相手も自分も許せるような
楽な気持ちにさせてくれるものでありました。


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【「龍馬伝」~龍馬と弥太郎と半平太 2010/05/28】より
(↑例のごとくPCでは跳ばないと思います、スイマセン)


【自由からの逃走】2010/05/20(5)(6)の番外編



■人に求めず、自分を信じる------------------------------------

最近感じるのは、宇宙の法則に則った生き方が最も幸せだということだ。
セーラ元妃が金を要求したスキャンダルが24日報じられたが、
恐らく買い物依存症に陥っているのだろう。求めても求めても足りない。
どんなに莫大なお金があっても、心の空洞は埋められないことを彼女は世界に証明している。


大義で動いて人に認められても、
世の中を動かしても、心を埋めることはできない。

「人に認められたい」は、「親に認められたい」の裏返し。
「人のために」は、「親のために」の裏返し。

しかし、
どんなに努力しても、常に人の評価が気にかかる
どんなに成果を上げても、人の言葉で打ち砕かれる。
仮に評価され褒められても、

★自らが殺した心が晴れることはない

どこまでいっても、空しい世界


★それは、人の評価にすがっているから
★人の評価に左右される人生だから


だから、人に評価されようと無茶をし、
自分を認めない人を攻撃したり、排除したりする

親がこうでありさえすれば、私は救われるのに。
相手がこうでありさえすれば、私は救われるのに。

私も妻も、親に対してもお互いにも、
心の問題をレクチャーしようとしたり、考え方や言葉遣いや言い方など、指摘したりされたりしてきた。
相手に足りない部分を互いに責め合ってきた。

でも、
相手がそうできないのは、出自が関係していることがわかってきた。
相手がそうしてしまうのも、
★トラウマなど本人が大したことないと思ったり、
★忘れているような過去が関係していることがわかってきた。


そういう衝動は理性ではどうにもならないこともわかってきた。
頭でわかっても、体は行動できないのだ。
それは一生かかっても解消されないこともあるだろう。
それもその人生。


だから、相手に求めることはできない。
自分が自分で精一杯であるように、相手は相手で精一杯。

「相手に、自分のことを分かれというのはエゴにしか過ぎない」
ある時、妻が独りごちたように言った言葉。

自分の経緯(個性)を自分と同じようにわかる人間はいない。
妻と私も、互いを知り尽くしているはずもない。
だが、信頼で結ばれている。
なぜなら、自分が自分を信じるしかないことをお互いが知っているから。


自分を認めてくれと、互いが相手に求めている内は諍いが絶えなかった。
が、今は穏やかな日々が訪れている。
なぜなら、人に求めている限り苦しみが続くと知っているから。

★それは、互いを諦めたということではない。
自分のことは自分が受け止めるという境地にともに立ったということ。
相手に求めず、ただ見ているだけということができるようになったから。



人(親)に認めてもらうために生きるのではなく、
人(親)のために生きるのでもなく、


★ただ、自分が自分を認めればよい
★誰に認めてもらう必要もない。
★自分が自分を許せばよい。


そもそも、人生に評価などない。

そこには、命があるだけ。



(↑以上、抜粋でした。★印と改行を加えさせて頂きました)

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前記事で抜粋した文章の中で、中尾さんは

「結婚して私が妻に押しつけたのは“中尾家”モデルでした。一方、実の父を知らぬ妻は理想の夫像、父親像を私に押しつけてきました。」

と表現されていますが、私は

結局 男も女も、
相手に『理想の母親』を求めてしまう

という気がします。

最悪のケース、子供にすら『母親』を求めてしまっている場合もあります。

誰も他者の母親にはなることは出来ない。
不可能なことを追い求めている。
それが「すべての関係性の間違え」に繋がっていると感じます。


ただ唯一
自分だけが自分の母親になることが出来るのですね。
(↑これが難しいのです)



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