前記事で説明された「レッテル貼り」について考えてみました。
★何故?! 自分や他人に『レッテル貼り』をしてしまうのか?!
例えば 『自分にレッテルを貼る』ということは
・ 「私は嫌われている」というレッテルを貼ろうが
・ 「私は好かれている」というレッテルを貼ろうが、
・ 「私は駄目な人間だ」というレッテルを貼ろうが
・ それが自分勝手な思い込み、妄想であろうが、
★レッテルを貼るということとは
「自分が どう 見られているか」という
★『他者の目』を『確認している行為』だと言えます。
また、『他者にレッテルを貼る』というのは
たいがいは、
「あの人は こうだから良くない」というような
批判的なものが多く、それというのは
・ 「だから私の方が正しい」とか
・ 「だから私の方が賢く良い人間だ」とかいうように、
『私が 他人と比べて どう位置づけられるか』を
確認していると言えます。
(↑ほとんどの人がやっている行為ですから、当たり前と言えば当たり前の行為なんですが)
つまり、やはり 『他人にレッテルを貼る』というのも
★『他者の目』を『確認している行為』だと言えます。
レッテル貼りを せずにいられない という理由とは
★『他者の目』がないと
自分が 何をしていいのかわからない とか
『他者の目』がないと、自分がどこに居るのかわからない とか
『他者の目』がないと、自分の存在が 自分で 見つけられない
からだった と 気がついたのです。
それが「自分は嫌われている」という否定的なレッテルを貼ることすら
「他者の目」を確認することであり、自分の存在をやっと確認できるからではないでしょうか?
つまり、
『他者の目』がないと『存在不安』に 陥るから なのです。
他者が居ないと、自分が「からっぽ」である と いうことです。
それを、私は 前々記事に
『自分というものがなくて、
ただ 他者の要求や価値基準に合わせたり、
振り回されて生きてきた』 と 表現したんですね。
それが、『他者基準』 『他者依存』というものであり、
『存在不安』が基である行動なのです。
確かに、哲学者なんかが
「他者が居ないと自分の存在もない」
と表現する人もいるでしょう?多分…?(哲学は全く知らないが)
でも、『他者基準』『他者の目』依存の
その度合いが問題になってくるのだと思います。
その依存の度合いが強いというのは、
★存在不安を 掻き立てることにしかならないのです。
「本来の自分と自分が繋がっていない」
という表現をする人もいます。
他者の目によって自分が存在するというのは
『自分が 自らの欲求に繋がっていない』から、
満足も平穏も訪れませんよね。
(しかし私は、『他者の目をはずした時』今までの過去に酷い徒労感と虚しさを感じました。でも一時期それに襲われるのは仕方のないことです。一時期堪えれば過ぎ去るのです)
これが、私が
「他者依存」「他者基準」を削ぎ落としていきたい
と 目指す 理由なのでした。