世界の中には、時間について厳しく指導する文化もあります。
「時間を守ろう」
「環境をきれいにしよう」
「あいさつをしよう」
日本の学校現場ではこのようなスローガンを目にします。(豊富な経験はありませんが)
その時間については赴任当初に少しだけ書かせていただきました。
1年近く過ごしてみて、感じること。
時間感覚は「生きる知恵」です。
泥だらけになる畑仕事に時計はつけないでしょう。
ココナッツの木に登るのにも時計は邪魔になります。
(働き方の違い)
鶏を育てるのに、「12時になったからエサをあげなさい!」という指導をしますか?
鶏の様子を見たり、エサや水の減り方を見て、適切なタイミングであげるのです。
「8時になったから野菜に水をやりなさい!」とはいかないのです。
土の渇きや、天候を見て水をやるのです。
(生活の対象は機械でなく“生命”)
「1時になったから次の授業へ行きなさい!」とはいかないのです。
大雨が降っているので、この教室で雨宿りする間、もう少しだけ問題を解いて待ちましょう、となるのです。
「3時になったから、外で走りなさい!」
太陽がそんなに高い状況で、走らせて生徒を死なせる気ですか?となるのです。
ちょうど曇ってきた3時15分くらいからなら走れるかな、となります。
(時間厳守できない環境がある)
『上手な時間感覚を生み出し、生きておられます。』まさに知恵です。
他の国では、時間感覚を生活の“知恵”として扱っているでしょうか。空気に任せて、「時間厳守=正しい」となっているところもあるかもしれません。
それに関連して、今日の出来事。
いつも通り、少し日が陰ってきた“時間”(数字ではありません)になると、子どもたちがサッカーボールと練習道具を取りに来ます。
大体の選手が集まり、練習を開始して少し時間が経ったときに、一人の選手がやってきました。
一瞬、「んっ」という、遅れた子に対する、日本の感覚が込み上げてきましたが、その子の手を見て考え直したのです。手は泥だらけでした。
「ああ、週末で家の畑仕事を手伝っていたんだ・・・」
1年も生活すれば、こんなことにすぐに気づけるようになります。
去年のように、危うくその子に「遅刻だぞ!」という気持ちを心に抱きながら話しかけるところでした。危ない、危ない。
「なんで遅れた?」とか「何してた?」という“うっとうしい”質問もせずに済みました。
「えらいな。家の手伝い頑張ってるな!家の人も喜んでるだろ!」
こう言えたことに、自分が一番ほっとした気持ちになるのが分かりました。
伝えられてよかった・・・
文化理解、生活理解、子ども理解。
少しずつ、この地の子どもたちが理解できてきているのかもしれません。(遅すぎますが)
この、少しほっとした気持ちが練習の最後のミーティングまで続いていました。
最後のミーティングでは、明日の大会(小学校も含めた大会。ビッグマンが来られます。)のための役割分担などを決めた後、こんなことを言いました。
「みんなの世代は、家での仕事も多いだろう。畑仕事をしたり、薪を集めに行ったり、水を汲みに行ったり、ご飯をつくったり、草を刈ったり。今日みたいな週末は特に家族もみんなの働きを期待していると思う。長くここに生活してみんなのことは少し理解できる。サッカーもみんなにとって大事だけど、家の仕事はもっと大切だと思う。生きていくうえで一番大切なんじゃないかな。だから、サッカーよりも家の仕事があればそちらを優先しよう。家で草を刈ったり、木を運んだりするのも凄いトレーニングだぞ!それで鍛えられるから、心配するな!」
子どもたちは、今までのミーティングの中でも一番良い表情をしていたと思います。
子どもたちの中に無意識に芽生える「本能的ニーズ」がそこにあります。
家庭や家族に不安を抱える状態では、どこの国の子どもも絶対に素直に、思い切って、生きていくことはできません。
なぜもっと早くこういうことを言ってやれなかったのか。
遅すぎる。情けなさと後悔でいっぱいでした。
部活動をもっと教育的価値あるものにしないと申し訳ない。
家の仕事を必死に早く終わらせてやってくる子どもたちに、もっと質の高いものを与えないと。
ただ楽しんで、遊びのようなサッカーをして、汗だけ流していて、家族に何て説明すればよいのか。
もっともっと、質の高い「教育」の機会にしなければ。
☆話は変わります。
最近は、スーパースターの活躍に刺激され、多くの先生や地域のサッカー経験者がグラウンドで子どもたちと一緒に活動してくださいます。
最後のミーティングでは、必ず感謝の気持ちを伝え、一言話をしていただくように心掛けています。
若い先生たちはもちろんのこと、地域のサッカー経験者の方々も、「子どもたちへの関わり方」を熟知されています。
そこからは、常日頃、「異年齢」による関わりが深いことを感じずにはいられません。
「異年齢交流」が希薄であれば、上下関係でしか人を見られなくなったり、同年代での「いじめ」が多発すると言われます。
毎回のミーティングで、子どもたちは先輩の話を尊敬の眼差しで聞いています。
それに答えるように、「優しい表情で厳しい話」をしてくださる先生や地域の方々には心から感謝いたします。一番伝わります。
「学校教育を多様なネットワークと結合させる試みは、多くの学校で着手されている。多くの教室で地域の人々を講師として招く授業が展開されているし、学校の行事や文化活動を教師と親の連帯で推進している学校もあらわれている。さらには、父母がボランティアで教師のアシスタント(助教師)として教室を訪問する動きもあらわれている。教師と親とのティームティーチングが実現しているのである。さらに新しい動向として、教育の方針や実践の在り方を教師の代表と生徒の代表と親の代表の三者で討議して決定する学校も出現してきている。」(ひと誌:学校に出没するヘンなおじさん・おばさんたちより)
地域の人は学校に関わらないでほしい。
親が入ってくると面倒だ。
教師としてのプライドがこちらにはある。
こんな気持ちが日本であったのは事実です。今は、なぜだろう?と疑問を持ちます。
コミュニケーションの欠落、だったのかもしれません。
上手く、親、地域と関わることができずにいたのだと思います。
子どもたちを自分の所有物みたいに囲い込みすぎていたのかもしれません。
日々勉強。
明日はビッグイベント!!
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