ナショナルテストが今日から始まりました。
次の学級に行けるか、中学校へ上がれるか、高校へ上がれるか、大学へ行けるか。
全てがかかったナショナルテストは、ソロモンの厳しすぎる制度です。
日本と違い、このテストで落ちると、次の受け皿が一切ないソロモン。
「教育が終わる」と言えるかもしれません。
「学ぶこと」は学校以外でも続けられるかもしれませんが、少なくとも質の高い教育は終わります。
どうにでも生きていけることを知っている子どもたち。
教育などなくとも、幸せを見出すことができることを知っている子どもたち。
そんな子どもたちは、底抜けの笑顔を浮かべているのです。
自分が育った文化からすると、テストの前にあんな笑顔ができるのが不思議で仕方ありません。
テストの対象は、小学6年生、中学3年生、高校2年生、3年生です。
話は変わります。
☆テストの対象でない高校1年生での指導。
たまに、気が抜けて、ボケーと遅れてくる時があります。
15分も20分も授業に遅れてくると、当然の指導をします。
日本であれば、ベルが鳴って座ってなければいけないという文化ができていますし、小さい頃からの指導がされていますから、おのずと時間の話も伝わります。
しかし、ソロモンの時間感覚の違いは大きな障壁となるのです。
もちろん、時間の感覚はその地の大切な知恵であり、うまくそこで生きていくための“コツ”であることは理解しています。
現に、この気候、この気温で、日本と同じように“きちきち”働くことは、絶対に不可能だとも思います。
数百倍の精神力が必要になるように思います。一年中真夏・・・・
生活スタイルはおのずと、ゆったり、のんびり、焦らず、無理せず・・・
しかしながら、学校では、教師が教える時間が決まっているのです。
ソロモン政府が、「ソロモンタイム」を計算に入れ、遅れてくることを先読みしてカリキュラムを組んでいるとは思えません。
現に、休まずに時間いっぱい教えても、意外にもなかなか終わらない内容となっているのです。細かいバックグラウンドから教えていると、確実に全ての内容を教えきることはできません。意外に・・・
だから、ソロモンの文化だと言って、のんびりやっていると、質がどんどんと落ちていくのです。
学力が低い大きな原因の一つには「学習時間の確保」ができていないことが挙げられます。
日本人ならば、まずこの時間感覚の違いに気づき、「見直したい」と思いがちです。
どんな日本の方が来ても、必ず欠点として見てしまう点。
1年以上働き、信頼関係を築きながら、「少しずつ」教えたとしても、文化の力の前に手も足も出ない状況が続いていました。
「でも、勝負していかなければ!!」
ここに来た意味を考えたときに、外国から違った感覚を教えなければならない、という使命感が出てきます。
「時間の大切さを考えてほしい・・・・・」
という、時間と教育の関係について話をします。
しかし、『学ぶこと、教育の重要性』についての話に言及した時には、
「何のために学ぶんだ。何のために学校に来ているんだ。もう一度考えてほしい。」
という、世界中の全ての教師、教育者にさえ突きつけられる、永遠の課題を、わかるわけもない子どもたちに“馬鹿みたいに”口にしてしまう自分がいます。
この言葉は、確実に、自分に向けての疑問として尋ねているのです。
学ぶためには時間が不可欠なことは理解できる。
しかし、「なぜ学ぶのか」と考えたときに、
その日の気分、その日の健康状態、その日の思い付きでいつも口走ってしまう、軽い言葉でしか説明できないのです。
何度も何度も、
「何のために、学校に来るんだ。嫌なら来なければいい。でも来るだろ。なぜ来るんだ。」
そんな“バカみたいな”指導をしてしまうのです。
今日は、
「ソロモンには学校はなくてもいいのではないかとも思う。海外の人が勝手に、教育が必要だと言って、お金を寄付し学校を建てているが、本当は、君たちは求めていないのかもしれない。なぜなら、学校なんて行かなくても生きていけることをみんなが一番知っているからだ。」
とまで言ってしまいました・・・
「多くの可能性から一つを選択するのと、少ない可能性から一つを選択するのとでは、あとになってどちらが後悔しやすいか?答えは前者である。たくさんの可能性の中から一つを選択する方が、少ない可能性から一つを選択するより後悔しやすい、という傾向がある。たとえば、もし私の子ども時代に、野球、サッカー、ヴァイオリン、ピアノ、絵画、お茶、お花、勉強すべてが得意で、将棋もその中の一つに過ぎなかったとしたら、のちに将棋の道に進んだことを後悔することもあったかもしれない。」(大局観 自分と闘って負けない心:羽生善治著)
本当は将来の選択肢なんて増やす必要はないのかもしれない・・・・

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