2017年11月07日

おせんころがし

久しぶりに寄ってみました。勝浦市西方の海岸です。
小さな小さな漁港があり、小さい部落があります、大沢地区です。

  Ranking......ありがとう     「土のうた」TOPへ    


tikei

 

osen

 


まずは現在の風景を・・・。

12003

 

12001

 

 

12004

 

 

12005

 

12002

 

 

12006

 

12008

 

 

12010

 

12011

 

この海岸は「おせんころがし」として有名です。
海蝕崖と海食棚が発達した地形で昔は交通の難所であったとか。しかし、明治時代の古地図(迅速測図・明治16年作)を見て驚きました。大昔の街道であったと思っていたのですが、大澤村へ通ずる当時の道は山越えで谷筋に下る一本の道しかありません。おせんころがしの道もありません。

村へ入るのは牛馬か歩きしかなさそうです。

hikaku2

 

そこで、ウィキペディアの記事を見ながら過去と現在のおせんころがしを確認してみます。

***「おせんころがし」ウィキペディア記事
古くは、房総東往還の難所と知られていたが、1929年(昭和4年)、おせんころがしの部分を小湊トンネルなどで結ぶ鉄道(現在の外房線)が開通した。その後、おせんころがしの部分をおせんころがしトンネル、境川トンネルで結ぶ国道128号の新道も完成し、現在は崖の中腹にある小道が残るのみとなっている。なお、現在この小道に通ずる道はバリケードでふさがれており、ガードレール等も存在しない。そのため、滑落等非常に危険であり、踏破は勧められない。***

osenkorogasi

 

 

a8a21e23

 

b2dc16ee

 

***江戸時代までは、房総半島の東側の集落(東條、小湊、興津、勝浦)は千葉より放射状に結ばれ、海岸沿いに進む道は間道程度に過ぎず、主要街道としては整備されなかった。
明治時代に入ると、波の高い太平洋側は海運が発達せず、早くから海岸沿いを結ぶ道が整備された。具体的な開通時期ははっきりとはしないが、おおよそ明治10年代頃であると思われる。***

・・・・ということで、古地図製作前後の頃に崖の道が作られたと推察することが出来ます。迅速測図の現地測量の時はおせんころがしの街道は未だなかったらしい。

hikaku3

 

上の古図を見ると大澤村が陸の孤島のようなたたずまいに見えます。そして、おもしろいことに海食棚のあちらこちらに岩礁や島が見えています。現在の風景では島らしいのは一箇所(雀島)、その他の岩礁もほとんど水没しています。古地図と現在ではほぼ133年の時間経過があります。波浪の浸食作用はものすごいものがあります。

 

 

hikaku


なお、ウィキペディア記事おまけです。
***1952年(昭和27年)に一家3人の殺人事件であるおせんころがし殺人事件(現場は小湊町内)が発生し、被害者がこの崖から投げ落とされた。なおこの時までに、内陸をトンネルで貫き、ショートカットする新道が完成していた。
昭和40年代に、現在の国道である新道が完成し、おせんころがしは交通の難所ではなくなった。***
・・・ということでおせんころがしの道は80数年間使われたことになりそうです。
なお、おせんころがしはこの一帯の「海蝕崖の連続区間」を呼称するという説が有力のようです。

よろしければ、おせんころがし関連の記事です。

http://blog.livedoor.jp/ynakamura1/archives/52941476.html 土のうた
http://blog.livedoor.jp/gijutunohiroba/archives/51899749.html no.437
http://blog.livedoor.jp/gijutunohiroba/archives/51732716.html no.330
http://blog.livedoor.jp/gijutunohiroba/archives/51078047.html no.166
http://yamaiga.com/road/r128_osen/main.html 平沼義之氏記事

 

これより先はプライベートモードに設定されています。閲覧するには許可ユーザーでログインが必要です。


Posted by nakamura at 10:24│Comments(0)