いまのはなんだ?地獄かな 















 花村萬月の『いまのはなんだ?地獄かな』です。萬月が描く子育て小説という感じです。萬月ファンの僕としましてはかなり楽しめました。エッセイ的な話が面白かったです。帯はなかなか良いですね。

 五十八歳にして初めて子を得た小説家・愛葉條司。「家族クソ食らえ」の條司だが、子育ての喜びを知り、のめり込む。娘・愛の無邪気な言動、良き母であり心身とも相性の良い妻・志帆との会話、幸福な日々に次第に丸くなる自らの内面等、克明に記録する條司。しかし、彼は、家族の「闇」に気づいていない。それは、愛が三歳になる直前のこと・・・。

 という感じで流れていきます。子育ての喜びを知った條司が、娘と妻との生活を綴った話に、しっかりエンターテイメント的な要素を織り込んで最後まで楽しめる内容になってます。ただ、この作品を読むには、頭のモヤモヤを取り除いてから読んだ方が良いと思んですね。読み始めると僕みたいな中途半端なファンは、情報不足の為に、頭にモヤモヤ感を感じながら読み進めるという状態に陥ります。簡単に言うと、

 萬月には子供がいるのかな?

という事なんですね。58歳にして初めて子を得た小説家・愛葉條司は、花村萬月自身がモデルになってるのかな?という確証が欲しくて堪らなくなります。読み進めると確証を得るのですが、僕の性格上、然るべき人や媒体から確証を得ないと気がすまないのです。だからまずはこの確証を得てから読もうと思って、一旦読むのを中止しまして、ネット等で検索しまくりました。この作品は、勿論フィクションなんですけど、基本的な軸な部分は、ノンフィクション的な【子育て小説】なんですね。子育てに励む花村萬月の話だと思えばこそ、感情移入して楽しめる訳で、この【子育て】の部分がフィクションだったら、

そんなのワザワザ読んでる時間はねえ!

 って感じなんですね。ネットで色々検索した結果、それを裏付ける情報はなかったのですが(4月の発売したばかりの時の検索です)花村萬月のTwitterにヒントがありました。

 ■6月11日
  小説宝石連載〈いまのはなんだ? 地獄かな〉のある山場を書き終えて、気がぬけてしまった。(俺にとっては)最悪の場面で、書くのがつらかった。こんなに書くのが(内容的に)しんどかったのは初めてだ。私小説の中に潜り込ませた虚構がごく身近な人を傷つけなければよいのだが・・・・・・。

 ■2012年8月31日
  ともあれ、久しぶり。メール等、不義理をしまくっていますが、おいおい返事を書きますね。しかし、ひと月こもっていると、全てがどうでもよくなるね。チビと虫取りにでかけて、でかいオニヤンマその他をつかまえました。

 ■2013年5月4日
  数日前、くしゃみ連発、ハナタレ、涙目の子供がペロペロキャンディを嘗めていて、それを『どうぞ』といって、俺の口に入れようとした。やばいと思ったが、NOとも言えず、ペロペロした。ストロベリー味。美味しゅう御座いました。結果、くしゃみ連発、ハナタレ、涙目・・・・・・・・ま、いいか。

 ■2014年2月6日
  〈いまのはなんだ? 地獄かな〉ゲラもどし。書いていてやや辛かったが、こうして読み直して手を入れるのも辛い。肉ではなく心を切り売りする。小説家は因果な商売だ。こんな因果な娯楽性の欠片もない小説を掲載してくれる小説宝石に感謝。


 上記のTwitterでの萬月の発言と、この作品を読み進めていく中での内容(エッセイ等での言動など)を検討しまして、

 萬月には子供がいて、この「子育て」の内容は萬月自身の体験記である!!

 という確証を得て、それを信じて読み始めました。長々&クドクドと書いてしまい、勘の良い女性には、僕の性向がバレてしまいそうなのですが、ホント、この作品を楽しく読むには、この疑問点はまず最初に解決しないと読み進める事が出来ませんでしたので、長々と説明させて頂きました。ですので、この作品の評価は上記の事が前提となって書いてます。(・∀・)つ

 で、この作品は、エンターテイメントな小説として纏まっているのですが、メインは萬月の「子育て小説」なんですね。Twitterにもある様に、「私小説の中に潜り込ませた虚構が・・・・・・」とありますが、虚構の部分は全くいらないと思えるくらい萬月の「子育て」の様子が面白いんですね。ホント電車の中で読んでいて、声を出して笑ってしまった場面もあるくらい面白かったです。後半がこの虚構部分だと思うのですが、虚構部分の頃は冷静に普通に、
 「お、クロージングに入ったな」
なんて思える展開になっていきまして、そんなには面白くはないのですが、純粋な萬月ファンは必読です( ´∀`)つ

 僕的に面白かった所を一部紹介します。萬月の子供が生まれた時の萬月の心境の変化が描かれてます。それまでの萬月は、子供の写真を載せた年賀状を送る人物を唾棄する程嫌いだったですね。子供が生まれた瞬間にこの思いが変わったんですね子供の写真を載せた年賀状を出したいと。(笑)全文載せたいのですが、かなり長いので省略バージョンで。

 たとえば家族、とりわけ子供の写真を使った年賀状が届けば、胸の裡でその送り主を切り棄てた。他人の子の成長に意味を見いだせる者があるのだろうかと投げ遣りな苦笑を泛べもした。そんな写真仕立ての年賀状を手にして、他人のひねた子供の姿をかわいいと口にする者があれば、それは嫌らしい処世にすぎぬと唾棄した。何よりも赤の他人に己の家族の写真を送りつける者の垢抜けなさ、あるいは繊細さのなさにおぞましささえ覚えていた。×夫、五歳になりました〜などとどうでもいいコメントと共に腐りかけた河豚のように太った小生意気かつ不細工な子供の作り笑いの写真を送りつけてくるのは嫌がらせにすぎず、しかも送りつけた当人がこのような年賀状を送るのはよいことであるという善意らしきもの、あるいはすべての人間は子供というものを無条件に受け入れるという身勝手で薄汚い思い込みを抱いていることが許せなかった。その賀状が妊娠できぬ女性のもとに届くことを考えると、あるいは子作りに必死になっている夫婦のもとに送りつけられることを思い描くと、ときに義憤のようなものにかられさえした。〜省略(まだまだ批判は1ページ程続く)〜

 〜娘が誕生して、生まれたての娘(名は「愛」)を抱いて〜

私は愛を抱いて、そのあまりの軽みに舞いあがった。愛の軽さの先に、賀状があった。年賀状を出したい。愛の画像入りの年賀状だ。とりあえず今年は『愛がうまれました』だろう。いまは生まれた直後で痩せているが、もう少し母乳を含ませてふくよかになったところを念入りに撮影し、それを年賀状に印刷する。『愛が一歳になりました』になると、すっかり髪の毛も落ち着いて、しかも結構太っているのではないか。あるいは母に似て痩せっぽちのままか。とにかく、送りつけたい。愛の画像入り年賀状をあちこちにばらまきたい。知り合いのところにすべて送りつけたい。俺の血を分けた存在が、ほら、こんなにかわいらしい貌をして。


 これはほんの前半部分なんですが最高ですね。この赤裸々に語る心境変化の所で、こんなに面白い文章が萬月自身の事でなく、ただの虚構であったなら逆に、先程にも書いた様に「そんなのワザワザ読んでるヒマねえ!」という心境になってしまって、ネットで調べたんですね。とにかく、これはほんの一部で面白い話ばかりでした。集中力が切れてしまったので、このへんで( ´∀`)つ